新選組!

ここの発言集は、主に「誠部屋」にアップされたものを採録したものです。




アメリカへ渡った新選組隊士

ちょっと本を読み返していたら、“アメリカに渡った新選組隊士がいた”と書かれていました。今までこんな事が書かれているのに気付かなかったので、私にとっては初耳だったのですが、もしかしたら・・・有名な話で・・・ご存じの方もいらっしゃるかもしれません。そんな場合は、お許し下さいませ。m(__)m

彼の名前は、高木貞作。嘉永元年11月23日に、桑名で生まれた桑名藩士です。彼の父は、桑名藩家老服部半蔵正緩の弟でした。つまり、彼は・・・戊辰戦争時に桑名藩家老だった服部半蔵正義と酒井孫八郎朝雄兄弟の従兄弟にあたるそうです。

高木貞作は、戊辰戦争を北越で戦い抜き、降伏後は謹慎所に於いて謹慎していましたが、桑名藩士全員が東京へ送還される際に、蝦夷にいる定敬公への使者として蝦夷へ向かう様に命じられて謹慎所を抜け出しました。
しかし、彼が蝦夷に上陸する2日前に定敬公は蝦夷を発っていました。そこで、彼は変名の神戸四郎で新選組に加盟して戦い続けます。しかし、土方歳三も戦死し、5月18日に蝦夷共和国も降伏しました。

高木は、他の新選組隊士と共に箱館の称名寺等で謹慎した後、東京に護送されて芝の増上寺で謹慎生活を過ごします。そして、謹慎が解けた後に多くの元桑名藩士が生国の桑名に戻ったにも関わらず、横浜からアメリカに向かったそうです。サンフランシスコで税関事務を学び、明治8年に帰国。薩摩の森有礼と共に商法講習所(一橋大の前身)の開設に参加し、助教授として教壇にも立ち、商業簿記を教えたそうです。又、第十五国立銀行や横浜正金銀行の発展にも力を尽くし、昭和8年に86歳で亡くなりました。

箱館新選組に加盟した人が、サンフランシスコで税関事務を学んだなんて、すご〜〜く異色じゃないでしょうか?!(^^;

【参考・『決定版「新選組・彰義隊・白虎隊」のすべて』/新人物往来社】
(99/11/16)



米庵流

先日、本を見て(読んでいた訳じゃ有りません(^^;)いたら、
『土方さんの書には、“幕末の三筆”の一人といわれた市河米庵流の痕跡が 伺える。これは、米庵の弟子で土方家とも古くから親戚関係にあった本田 覚庵か、覚庵に学んだ人から書を習った為である』
・・・と、いう様な事が書かれていました。

市河米庵と聞いて思い出したのが、伊庭八郎でした。
伊庭も市河米庵に書を習い、彼の弟子でもあった様です。
そんな事から、伊庭と土方さんが米庵宅なんかで出会っていたとしたら、どんな風だったろう・・・等と思い描き、空想したりしていたのでした。(^^;
でも、土方さんの場合は、弟子or弟子の弟子だったみたいですから、米庵さんに会う事は無かったのかしら?
あり得ないだろうな・・・と思っても、土方さんと伊庭が並んで、神妙な顔付きで書を習ってる姿を想像してしまいます。

ところで、当時・・・書を習いに行く時には、今の書道を習いに行く時の様に道具を持って行ったのでしょうか?それとも、お師匠さまに借りたのかな?

【参考・『新選組の舞台裏』/菊池 明】
(99/11/18)



三好 胖−17歳の戦死−

いつもの事ですが、ぼ〜〜っと本を読んでいたら“三好胖(ゆたか)という名前が目に付きました。
三好胖・・・本名小笠原胖之助(はんのすけ)は、老中で唐津藩世子小笠原長行の甥です。嘉永5年(1852年)に唐津藩二代藩主の末子として江戸屋敷に生まれ、学問にも武芸にも秀でていたそうです。

小笠原長行が藩から亡命して江戸を脱出した際に胖之助も合流し、転戦しながら仙台に到着、そして、榎本艦隊と共に蝦夷地に渡る事を決意します。榎本武揚は、仙台にいた長行・元老中板倉勝静・桑名藩主松平定敬一行の随行者を制限しましたが、土方歳三が新選組に入る事を条件に蝦夷地への渡海を請け負ったので、胖之助も新選組に加入して蝦夷へ渡ります。新選組に入った胖之助は、三好胖と名乗り指図役となりました。

小笠原長行は甥の胖をとても可愛がり、部下にも「絶対に危険な所へは出さない様に」と命じていたそうです。蝦夷地に渡った後、七重村での戦いの時にも胖の身を案じ戦列から遠ざけていました。しかし、味方の苦戦を目の当たりにした17歳の血気盛んな少年は黙って見ていられなかったのでしょう。外套、胴衣、長沓等を脱ぎ捨てると抜刀して敵の中に斬り込んで行きました。
激戦の後に、胖の姿が見えない事に気付いた家臣達が慌てて探した時には、既に胖は戦死していたそうです。

三好胖は、中島登の描いた絵姿にも描かれています。
彼は、フランス式軍服を着て革の長沓を履くといったおしゃれな一面もあったそうです。こういう事を読むと、「ああ、17歳らしいなあ」って思うのですが、“17歳”という年齢と、“戦死”という文字は全然似合わないなあ・・・なんて思ってしまいます。時代とはいえ、悲しい事ですね。

【参考・『戊辰戦争全史(下)』/菊池 明・伊東成郎 編・『別冊歴史読本
    決定版「新選組・彰義隊・白虎隊」のすべて』/新人物往来社】
(99/11/25)



永倉さんは、体育会系!

先日、CS放送のチャンネルを回していたら・・・新選組の番組をやっていました。“幕末疾駆 新選組”という番組名だった様な・・・(^^;
その日は、永倉新八の事をやっていました。(もしかしたら、副長助勤クラスまでの人を、一人一人取り上げているのかな・・・と思ったのですが)

再現ドラマみたいなものとか、西本願寺、八木邸などが出てきたり、木村幸比古氏が色々お話されたりとなかなか盛り沢山な内容でした。
その木村氏のお話の中で印象に残ったのは、

*永倉新八は体育会系で、ねちっこい性格では無く、常にあっけらかんとして いた。
*他人に頼まれると嫌とは言えない性格だった

・・・までは、「そーか、そーか」と思って聞いていたのですが・・・

*剣と女が有れば良いという人だった
*隊士が激論を戦わせている時も、女の事を考えていた
*晩年も息子を連れて女郎屋通いをした

・・・を聞いたら、「何か、ヒドイ言われ様だなあ(^^;;;」と笑いたくなってしまいました。
でも、

*永倉新八の人生は、バラ色だったのでは無いか・・・?

・・・という事なので、自分の思い通りに生きた良い人生だったんでしょうね、きっと。

(99/11/29)



近藤さんのお目こぼし?

ぱらぱらと本を見ていたら、『近藤勇のお目こぼし』という文字が目に入りました。それは、『8・18の政変の後にも桂小五郎が京に残れたのは、幾松が手助けしていたからでは無く、近藤さんがお目こぼしをしていたからだ』というものでした。

江戸で試衛館を開いている時に道場破りが来ると、近藤さんは、近所の九段にあった斉藤弥九郎道場に応援を頼んだそうです。斉藤道場からやって来るのは、塾頭の桂小五郎や渡辺昇でした。そして、来てくれたお陰で道場破りを撃退できた近藤さんは、桂や渡辺に恩義を感じた・・・という事です。

そして、京に上って新選組局長になってからも、その時に受けた恩義を忘れず、隊士達に「桂さんや渡辺さんには、絶対に手出しはしない様に!」ときつく命じていたのだそうです。

何か、とっても近藤さんらしい話ですよね。(^_^

【参考・『“サムライ講座” 幕末人間学』/童門冬二】 
(99/12/08)



大食い競争

今日、本屋で『新選組余話』という本を見付けて来ました。
試衛館時代から新選組時代の小島資料館に伝わる話と、史料編として『両雄士伝』などが載っています。

お話の方に、「とろめし競争」というタイトルのものが有りました。
試衛館時代の話の様ですが、近藤さんが相模国高座郡上溝町(今の神奈川県相模原市上溝ですが)の佐藤為彦さんちを訪問した時の事だそうです。

その佐藤さんちには先客がいました。
佐久間象山の門人で奇人として名高い鷹取胖斉という上溝の人です。彼も近藤さんに負けず劣らずの大男だったそうです。(でも、近藤さんって大男だったんですか?(ーー;)

夕食の時間になった時に、佐藤さんが提案します。「お二人の大食家が揃うのは珍しい事だから、とろめしをどちらが多く食べられるか競争したら如何でしょう?」
二人は負けじ・・・とガバガバ食べ、結局、近藤さんは19杯、鷹取さんは20杯平らげました。さすがの近藤さんも、鷹取さんの食欲には兜を脱いだそうです。

ところで、この“とろめし”ってどんなご飯なんでしょう?近藤さんも大好きだったそうなんですけど・・・。“とろ”で思いつくのは、鮪のトロか山芋のとろろ・・・位なんですけど。(^^;;;

【参考・『新選組余話』/小島政孝】
(99/12/09)



薬の行商

『新選組余話』という本を読んでいたら、土方さんの薬の行商の話が書かれていました。土方さんと薬…というと、どうしても“石田散薬”しか思い浮かばず、あの行商の箱の中には石田散薬しか入ってない様なイメージが有りました。(^^;

でも、小野路村の小島鹿之助のお母さんが風邪をひいた時に、“風邪薬を置いてきたので、それを飲んで様子が良ければ、また、届けます”…と手紙を書いているそうです。…って事は、石田散薬以外の薬も行商していたんだぁと目からウロコでした。

思い込みって怖いなあ…と思ったのですが、皆さんは…土方さんは石田散薬以外の薬も持っていたと思っていました?(^^;;

(00/06/09




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