| 3:ラナルド・マクドナルド |
| フェートン事件から40年経った1848年、ある男が漂流民を装って北海道・利尻島に上陸した。それが、インディアン系アメリカ人、ラナルド・マクドナルドである。彼は、インディアンの遠い故郷は日本であると信じ、日本を自ら訪れようと、当時、ハワイを基地に、年々増加していた太平洋上の捕鯨船に乗り込んで、日本近海でボートをおろしてもらって、漂流者になりすましたのだった。上陸後、彼は、当時の慣例に従って、長崎に護送され、そこで奉行所の取り調べを受けることになった。その時の通訳にあたったのが、少しだけ英語が話せたオランダ語通詞、森山栄之助であった。森山については、次の章で書くとする。 日本語にも興味のあったマクドナルドは禁制を犯して入国した犯罪者であるため、森山栄之助とその通詞仲間達の計14名との間で行われた日本語と英語の交換授業は、牢の格子を通して行われたのであった。これが、日本人が直接アメリカ人教師から生きた英語を学んだ最初であった。先ほども述べたが、ブロムホフはネイティブではなかったから、このマクドナルドは、日本初の、真のネイティブスピーカー英語教師だったのである。その交換授業では、生徒達が英単語を発音し、マクドナルドが正しい発音かどうかをうなずいたり、首を振ったりして伝えるという方法だった。 しかし、この様な有意義な交流もわずか半年でおわる。それは、翌年4月、漂流者引き取りに来航したアメリカ軍艦プレブルに引き渡されることになったからである。日本にとどまり英語を教えたいと語っていたマクドナルドは、日本で覚えた「Soinara」(さよなら)という言葉を残して日本を去った。 <一口メモ3> 古賀十二郎の『長崎洋学史』によれば、マクドナルドから英語を学んだ14名とは「本木昌左衛門、西与一郎、植村作七郎、森山栄之助、西慶太郎、中山兵馬、名村常之助、小川慶十郎、猪俣伝之助、志筑辰一郎、岩瀬弥四郎、茂鷹之助、塩谷種三郎、Inderego Horu(不明、綴字正しからず)」であるという。 <一口メモ4> マクドナルドは、アメリカに帰国後、「日本回想記」を記し、1849年にこの世を去る。ラナルド・マクドナルドについては、永い間、一部の専門家以外にはあまり知られていなかったが、昭和54年に富田虎男訳訂の「日本回想記」が出版されてから次第に知られるようになり、昭和63年の吉村昭「海の祭礼」の出版によってさらに注目されるに至った。そして、昭和63年に利尻ロータリークラブによって野塚の展望台に彼の顕彰の碑「ラナルド・マクノナルド渡島の地」が建てられた。 現在オレゴン州アストリアにマクドナルド友の会(1988年設立)の事務局があり、その日本支部も組織されて、日米両地域において、マクドナルドに関する教育普及と調査研究活動がすすめられている。 |
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