| 4:森山栄之助 |
| 1820年6月1日生まれ。森山の家計は代々通詞(つうじ)の家計で、父・源左衛門は通詞としては最高位の大通詞になったことからも分かるように、幼いころよりオランダ語を学ぶことが当たり前のように育てられた。その結果、オランダ人よりも正しいオランダ語を話すと言われていた。その反面、英語に関しては、英蘭辞典を片手にやっと通訳ができる程度だった。1843年3月には、24才という若さで、長崎から浦賀奉行所に派遣された。 その2年後の1845年3月、鳥島に漂着していた『幸宝丸』の水主(かこ)11人と、小笠原周辺を漂流していた『千寿丸』の水主11人を送り届けるという目的のために、クーパー船長以下28人の乗組員が乗船している米国の捕鯨船マンハッタン号がたくさんの小舟に曳航されて浦賀に入ってきた時、浦賀奉行所で対応に当たったのが、奉行・土岐頼旨、与力・中島清司、通詞・森栄之助だったのだ。しかし、マンハッタン号には、オランダ語ができる者がおらず、森山は、簡単な辞書「諳厄利亜語林大成」に頼らざるを得なかった。それでも、クーパー船長の手記には「彼は蘭語に通じ、英語も少々わかるが、もっとも長ずるのは手ざまであった」とあったとおり、あまり優れた通訳を行えなかった。その経験から、彼は英語の必要性を感じることになった。 その後、森山はラナルド・マクドナルドというアメリカ人が日本に漂流者として日本に来て、長崎に収監されていることを知る。その男が、北海道にいるときから日本語の習得に興味を持ち、耳にした単語を1つ1つ紙に書き留める熱心さを持っているような男だと知った森山は、日本語と英語の交換授業をすることを思いつき、他のオランダ通詞たちと一緒に、マクドナルドから英語を学ぶことになる。学び方は、マクドナルドの章でも書いたとおりで、発音主体であった。さらに、森山は、35年前に日本人の手で作られた英和辞典「諳厄利亜語林大成」の写本をマクドナルドのところに持ち込み、そこに出ている単語を1語ずつ発音してもらって訂正していった。こうした有意義な交流は、アメリカ軍艦プレブル号へのマクドナルド引き渡しで幕を閉じる。そのとき、プレブル号との折衝にあたり、マクドナルドに学んだ森山達の英語が大いに役に立ったのである。 その後、1853年7月のペリー来航では、オランダ語通詞・堀達之助は英語で一言「I talk Dutch.(私はオランダ語を話す)」とだけ伝えた。アメリカも承知の上だったらしく、オランダ語と中国語の通訳を連れてきていたのである。翌年3月、アメリカ艦隊が再び現れたときに、「立派な英語を話す人物がいるから、他の通訳は不要。」とまで言われた通詞が、森山栄之助であった。しかし、結局は森山の英語は外交交渉に役に立つほどのものではなく、談判は、日本語←→オランダ語←→英語という3段階で行われた。実は、このとき、隣室に控えていて影で協力していたのが、次の章で出てくる中浜万次郎である。彼は、アメリカで教育を受けたと言うことで公式の場に出ることを許されなかったのだ。さらに、1858年の日米修好通商条約が結ばれたときの交渉の通訳も森山栄之助が務めたのであった。 <一口メモ5> ここでは扱っていないが、1853年のペリー来航時のオランダ語通詞・堀達之助についての疑問がある。彼は、長崎でラナルド・マクドナルドから英語を学んだ14人の1人とする先行研究があるが、古賀十二郎の『長崎洋学史』によれば、堀達之助はマクドナルドから英語を習っていない、ということである。 |