戦後日本が失ったよきもの、よきことばをここに記した。

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 附幼・附小時代

年長組のとき幼稚園が奈良から学園前に移転しました。すべり台やスコップなど、いっぱい用意されてありましたので、自由に遊び放題でした。リウマチ熱にかかり、高熱と立てないくらい激しい関節痛のため、国立奈良病院に1ヶ月間入院しました。主治医の島川先生のようになりたいと、小児科医を志しました。
 小学校も西大寺の自宅から学園前まで電車通学でした。東大安保闘争に深い感動をおぼえ、学園前駅プラットホームを走り回ったり、電車のつり革にぶら下がったり、少々問題児でした。担任教師からの執拗ないじめを経験したおかげで、おとな社会の汚さを思春期前に認識できていました。当時は今と違って大手受験塾がなく、小さな塾が群雄割拠していた時代でした。毎週日曜日だけテストを受けるだけという受験生活でした。自己流のやり方で灘中一本で受験し中の上の成績で合格しました。


 灘中・灘高時代

国道2号線にはまだ路面電車が走っており、ほのぼのした生活環境でした。東大京大へ合格した無数の先輩方が座っておられたかと思うと、穴ぼこの机いすでもありがたく感じられたものです。野依教授のノーベル賞受賞記念講演を後日拝聴させていただいたのですが、真ん中の席を陣取るPTA父兄も灘高の特徴だと思います。主役が誰かもわからないような親の自己満足のための高校になりさがってしまいました。教育内容といえば旧制中学の名残で、個性あふれる教師の口述をノートにひたすら書き写す毎日でした。休み時間と体育が唯一の息抜きで、ボール遊びや缶蹴りをして過ごしていました。先の見えないトンネルの六年間でした。入学試験にはない社会科には学校が力を入れており、日本史・世界史・地理・政経・倫社はすべて学びました。世界史未履修のニュースを最近見聞きしたとき、灘高も変わったものだと思いました。高校に入るとピンクレディと増進会(Z会)の通信添削の全盛期で、成績優秀者欄に名前を載せたい一心で、せっせと問題を解いていました。ペンネームはExcelsior!(さらに高く) 二畳庵主人(加地伸行教授)の名著「漢文法基礎」とF科旬報は私の宝物です。私の国語担任の橋本武先生が動機で著されたとか。漢文につきましては誠にご説ごもっともなのですが、今では翁となられた橋本先生の名著「表解徒然草(精講徒然草)」には陰ながら尊敬申し上げているんですがねぇ。灘高の教育が他校よりすぐれているのではなく、頭の構造が全く異なるスーパー天才を近畿一円から集めただけであって、結局私のような凡才は、何から何まで自分で勉強努力しなければ難関大学難関学部へは現役合格できないというカラクリに気づくのが遅すぎたようです。
 
 旧制東京高等師範学校をご卒業になり特攻隊で終戦を迎えられた藤原一馬先生(地理)とは卒業後もお付き合いが続き、よく飲みに連れていただきました。戦後どさくさに無試験でつくった即席教員を、教員不足の新制中学に多数配置し、安っぽい共産主義を振り回したことがそもそもの教育荒廃の原因であると教えていただきました。戦後半世紀も経って、いまさら公立が中高一貫教育を見直しても勝負あった。高給で買収され続ける塾予備校のプロ講師に勝るプロ教師が公務員には存在しません。誇り高き有名私立進学校はただ旧制中学を守りつづけた、言い換えれば文部科学省に半世紀間逆らってきただけのことです。主要教科担任は6年間持ち上がり制で凌ぎを削り、週休2日はどこ吹く風、音楽・美術・生徒集会などはやらず、体育は春ソフト、雨卓球たまにバレー、冬サッカーという具合に息抜きで、中学授業科目からして代数・平面幾何・立体幾何・解析幾何・三角関数・東洋史・西洋史・幾何光学と戦前さながら、英語数学国語は毎日授業が当たり前、主要3教科を最小限授業して宿題を課し1時半〜2時までに下校させる。旧制一中打倒のための実に単純明快な戦略。

ここで一句詠める

 あれこれと 制度いじれば ひどくなり 平成江戸へと 戻りにけるかな
 
中学で教わった徒然草からも一節

 いにしへのひじりの御代の政をも忘れ、民の愁へ、国のそこなはるるをも知らず、萬にきよらを尽くしていみじと思ひ、所せきさましたる人こそ、うたて思ふところなく見ゆれ

 「美しい国日本」のいう「美」が庁舎の建築美や天下り官僚の有終美であるとするなら、吉田兼好から痛烈な批判を浴びることになるでしょう。

 「個性を大切に」という呼びかけが誇張されているが、基礎のない個性は実ることがない。学びて思わざるは則ちくらし。思うて学ばざれば則ちあやうし。基礎とは日本人たらしめる国語力、中国に対抗すべく漢文的素養、欧米に対抗すべく論理力錬成の3点に尽きる。いま私たちの頭で思考している現代文という言語は、民族闘争によって練られた欧米語・漢語(逆接論理)の影響を多大に受けており、海に守られた島国の順接論理に基づく古語とは様相が異なっている。「AはBである。しかし(Aは)anti-Bである。」が現代文で、「Aがanti-Bである。」が筆者のイイタイコトとされる。しかし古文では「AはBである。そして(Aは)anti-Bである。」となり、決してAがBであったことを後悔したり妬んだりはしていない。「いじめ」や「自殺」もこの思考回路からは生じ得ないのである。精神が満ち足りて、白に始まり赤・青・黄・紫・緑・橙・・・多種雑多な色が混じり合い再び白と変ずるとき、「AはBでもあり、anti-Bでもある。」言い換えれば「Aはすべてである。」の境地に達し、これを「無」とも称される。

 「ゆとり教育」と称して、職業実地見学を強いられる現状は目に余る。元来、生徒・学生とは就業納税を免除され、自由に勉学に励むことのできる特権階級ではなかったか。勉学の自由すら教師たちに奪われていることに早く気づかなければならない。

「花鏡」より
 上手は、はや、年来、心も身も十分に習ひ至り過ぎて、さて、動七分身に身を惜しみて、安くする所を、初心のひと、習ひもせで似すれば、心も身も七分になるなり。さるほどに詰まるなり。

 ゆとり教育見直しに反対する輩が、「知識偏重ではダメ、道徳教育が大事だ。」と言っているが、知識が人格を損なうのではなく、名誉欲が人格を損なうのではないか?知識人が道徳心をなくすのは名誉欲が原因ではないか?愛情をもって知識教育をとことんやっていれば自然と克己心が身につくはずである。古文漢文を通して昔の人の話を聞けば自然と道徳は身につくものである。自然破壊極まりない日本で「愛国心」が育つはずがない。

 人に勝らん事を思はば、ただ学問して、その智を人に勝らんと思ふべし。道を学ぶとならば、善に伐らず、友がらに争ふべからずといふ事を知るべき故なり。

 小学校から受験競争まみれで疲弊しきった人材ばかりを輩出する新制高校が、GHQから「封建的」というレッテルを貼られた旧制高校より果たしてすぐれているのか?日本の教育再生改革は多くの人が論評しているが、日本の高等教育現代史について詳細に論じられていない。
 思えばナンバースクールだけの時代は寝てても無試験で入れた帝大。大正末にネームスクール、とくに四修現役軍団(東京高等学校、府立高等学校、武蔵高等学校)ができて以来、昭和初期には定員オーバーとなり帝大入試が急に難化。1クラス定員を40人から30人に制限して卒業生の数を減らそうとするが、旺文社添削など受験産業誕生が高校入試難化を更に煽った。土屋祝郎氏の「紅萌ゆる」に描かれているとおり、このころ共産主義に走る学生が急増し、特高警察による弾圧が激化した。(風紀景観を損なう教室内のビラ撒きはこのとき始まったものである。)こどもが「アカ」に走るくらいなら、酒に浸って廓通いしてくれたほうがましだとまで囁かれるほどであった。戦時中は英語使用禁止と学徒動員のため中学生の英語力が低下。反対に高校生は国策に批判的であった。敗色濃き昭和20年の高校入試は内申書重視の簡単な共通テストであった。昭和21年、飢餓と学力不足を緩和するため中学高校就学年数が1年延期になり、外国語をがっちり学んだ浪人有利の中で、旧軍人、女子学生が初の帝大受験。また学力低下による留年者が半数近く出たため(空襲だけじゃなく内申重視選抜も原因か?)、昭和21年の新たな旧制高校合格者は非常に少なく翌年から浪人があふれ出た。戦時中の理科偏重政策、徴兵逃れの理科志願者増大、軍関係校からの編入が影響して、戦後理科入学定員が倍増。それに対応すべく新人教授の相次ぐ臨時増員採用。さらに勉強どころではない空腹感、校舎が焼けて青空授業、街頭全寮ストームに対するシラケムード、あげくには薫り高き教養の授業から受験準備対策の授業への転換下落。これではGHQのご裁定を待つまでもなく、空中分解したと評してもいいだろう。戦後文科は最後まで原型を留めたが理科は戦時中から完全に崩壊した。(ここに大学教養マスプロ教育の原型が生まれた)理乙(ドイツ語専攻)しか医学部受験資格がなかったのに理甲(英語専攻)、さらに旧制高専卒までにも受験資格が与えられたため、昭和22年から医学部受験者激増。
 元来、医学部に入るための受験勉強はしないというのが、七年制一貫校(ジュラルミン高校)を除き、大方の流儀・伝統であったが、出し抜けに受験勉強をして入学する学生が続出するようになった。この辺の事情は北杜夫氏の「どくとるマンボウ青春記」に詳しい。京大新聞社「學園新聞」によれば、昭和23年3月京大医学科入試で348人受験98人合格。ちなみに三高15人、松山高11人、姫路高10人、四高8人、六高7人の順であったようである。英語100、独語100、化学100、動植物100、物理50、数学50の500点満点で最高416点(83%)、合格最低点280点(56%)。受験者平均点が35〜40%と、まだまだのんびりしていた。今の医学科入試なら受験者平均点60%はあるはず。「相対性理論でE=mc2であることを証明せよ」という物理の問題、「1+1=2とはいえないことを証明せよ」という数学の問題は語り草になっている。「傾向と対策」をたてるとすれば、化学、生物を満点近くとって語学で逃げ切るのがよかろう。
 新制に移行するとさらに人文社会2科目が加わり、入試状況は一変した。落第こそ旧制高校の華だったものが、新制高校では落ちこぼれと見下されるようになった。経済事情もあって大人物や猛者や人格者が帝大や医大進学をあきらめざるを得なかった。エリートが尊敬されなくなった原因は、小手先で合格した小ざかしい人間が増えたためである。生徒が理解しようがしまいがお構いなしの信念に基づく授業、幅広い学科の徹底した系統講義が現在の小中高に全く存在しない。進学校に存在するのは大学受験のための選択科目限定の合理的な授業のみ。この辺の事情は水野潤一氏の「旧制高校めし炊き青春譜」に詳しい。自炊は自治制度の一環であり、寮食は選ばれた学生自身が自炊しており、味がまずいとストーム(賄い征伐)を浴びることとなった。賄い征伐の寮歌は数多い。昔から厳しい家庭科学習は存在していた。この書ではじめて紹介されたのであるが、姫路高(英語担当)の多田教授が留年退学学生に諭した「liberty(自由)」の精神は、映画「ダウンタウンヒーローズ」で高らかに謳われている。
 帝大行きの切符を手にできたはずの旧制高校に入るメリットが一気に薄れ昭和24年、新制大学文理学部の見切り発車で実質的崩壊。入試まみれの混乱の中、ここでゆとり教育が完全に喪失した。研数学館を筆頭に予備校産業が栄える。出席点呼も落第もなかった末っ子世代(花の25年卒)が最後に大きな壁に突き当たって白線浪人が10,000人を超えた。旧制高校理科乙類が新制大学理学部乙類に移行し、医学部入試だけは旧制のまま存続した。新制大学のどこかに学籍だけ置いて、鮭が川を上るように東大京大受験を繰り返すのが本流であったようだ。10倍にも及ぶ競争率に耐えかねて文転する学生も多数出た。6.3.3.4制の絶対的拘束下で、医学部教育だけはこれでは足りないというGHQの判断があり、苦肉の策として登場したのが6.3.3.2.4制であった。
 他学部進学予定者が医学部に流れ大混乱を与えたため医進課程を設置。戦時中の医専増設によって医師数が増加したため新制医学部入学定員数を130人から60人へ削減。医進課程の学生は2年で退学扱いになったため新制多浪生が激増。国会へ問題提起され、法改定により昭和31年医学部入試を廃止。
 かわって教養部発足すれどセミナー導入などの努力も虚しくレジャー化のため崩壊。あとは教養無視、第二外国語不要論が横行。英語だけでいいという意見は誤っている。アメリカによる情報操作の罠にはまることになる。入試準備に追われ系統講義をする時間的ゆとりもなく、暗記中心の受験勉強が小学生、幼児にまで波及。進学適性検査が失策に終わったにもかかわらず、アメリカの圧力で高価なマークシート読み取り機を買わされて再び始まった共通一次試験の煽りで、マイナー予備校は合併倒産。教育の荒廃はひとえに官僚の失策が原因であり続けている。とくに最近の教育医療政策は行き当たりばったりで何をしたいのか目標がさっぱりわからない。入試を簡単にして卒業を厳しくしたらよいという意見には反対だ。基礎力がつかないし、ゆとり自由がなくなるし、卒業をエサに教師から生徒へのいじめやセクハラが横行するだけ。

 いまの教育で最も欠けているのは「感謝の心」である。言い古されているが、I was born.の英語表現のように人間は自然(神々と表現してもよい)によって生かされている。親、年上、目上、教師、お百姓さんに対する感謝は言うに及ばず、昨今はコンビニがはびこって、食べ物に対する感謝もみられない。給食費滞納も恥ではなくなった。

 医者をコテンパンに攻撃して逮捕に追いやるマスコミは記事盗作やでっちあげ番組には寛大だ。医療崩壊が加速している。紙が乏しく一字一句魂を込めて記した昔の人の話を聞いてみるとはたと思い知らされることが多い。古典は簡潔にして経済的な言語なのだ。プログ、掲示板、インターネットメールのような無責任な発言は一切なく、一言一言に実践が伴っていた。

「紫式部日記」より
 明けたてばうちながめて、水鳥どもの思ふことなげに遊びあへるを見る。
 水鳥を水のうへとやよそに見む われも浮きたる世をすぐしつつ
 かれも、さこそ心をやりて遊ぶと見ゆれど、身はいとくるしかんなりと、思ひよそへらる。

 他分野のプロフェッショナルには敬意を払う態度を忘れてはいけない。


 駿台予備学校時代

縁あって、お茶の水校舎と市ヶ谷校舎に通いました。入学してまず驚いたのは坂間勇先生(物理)の講義でした。「君ら高校で学んだ物理は物理じゃないんだ。」とわめき散らしながら、チョークをポキポキ折りながら黒板に数式を殴り書きされたのにはあっけにとられました。私は坂間先生の授業についていけなかったので、幸い物理の世界に寄り道せずに済みましたが。平均2.5浪という異様な環境のもと、英文解釈の理論武装を説かれた伊藤和夫先生(英語)「左から右、上から下へ一度目を動かせば英文は読めているのです。」「君たち受験生が1時間かけて解く問題は、ぼくなら10分で解かなくちゃ、君たちに申し訳ないだろ。」、英文より美しく日本語訳された奥井潔先生(英語)「いいですか。さぁ、こうも訳せますね。」、微分方程式から機械的に解答を導かれた山本義隆先生(物理)「これで方程式が立ったやん。ここまでが物理、この先は数学にやらせといたらええんよ。」、理三から数学科へ進学された伝説の長岡亮介先生(数学)「えーっ諸君はこの問題をどう解いただろうか。」、「君たちはこの問題をここまでやって終わりなんだろうが、一般にnのときはどうなるか考えてみよう。」と数学の世界へいざなってくれた秋山仁先生(数学)の講義には欠かさず出席しました。「前から順に訳せ、後文にどんな語・句・節がくるか予感せよ。」と説かれた伊藤和夫先生は、フランス語、ドイツ語の観点からそう説かれていたのだと、恥ずかしながら最近になってようやくわかりました。とくに中世日本の崇高な精神性とメーテルリンク作「青い鳥」を例にとり、西田哲学を基調とし、自らの実体験のない哲学世界にのめりこんだ旧制高校の風潮を批判し、「自分が成長すれば、同じものの見え方が変わる。ものの善悪を論じるときは成長が止まっている。いろんな経験を積んで自分を成長させてみよ。」と説かれた高橋正治先生(古文)には心酔しました。公家が武家を異物と認識否定し、やがて武家を容認し、異物と認識しなくなるまでの精神成長過程をわかりやすく解説いただきました。「一年浪人すれば一年長生きすればいいんです。二年浪人すれば二年長生きすればいいんです。えー三年浪人すれば三年長生きすればいいんです。受かるまで何年でも浪人すればいいんです。」という桑原岩雄先生(古文)のお言葉はどれだけ心の励みになったことか。
 理科三類一本で真っ向勝負を挑んで連敗して2浪。「理三くずれ」猛者との激戦を回避し慶応医を入学辞退して理科一類で仮面浪人し、翌年やっとこさ理科三類に猛者[Onkel]として合格できました。数学だけが大得意で、あとはみんな不得意科目だらけ。数学は大数「新作問題演習2」「理系新作問題演習」の2冊に大学教養の「線形代数」「解析」をやって充分(5完)でしたが、反対に東大現国はちんぷんかんぷんで、堀木博禮先生(現国)の代ゼミ「東大現国ゼミ」を聴講しても未完成に終わりました。苦手科目をいかに克服するかで明け暮れた20歳でした。2年通った当時の駿台予備学校には優秀な先生が多く、河合塾との仁義なき戦いの真っ只中、今となっては珠玉の名講義を聴けただけ幸せです。どれも入試受験準備というより大学教養と呼ぶにふさわしい授業内容でした。後日談になりますが、内野博之先生の名著「ライジング現代文」を拝読でき、長年抱き続けてきた疑問がやっと今頃になって氷解して喜んでおります。石川巧氏の力作「国語」入試の近現代史は、大正末〜昭和初期に発生した「現代文」高校・帝大入試問題が、語句解釈主義を脱却して、長文化傍線部説明問題の登場となり、更に作文問題を課すことにより受験者人物評価にまで採点基準を踏み込んで、国家がそれを利用したという下りは大変勉強になりました。センター試験を文部科学省が施行したがる理由のひとつに、大学紛争に懲りて、大学生の規格製品化があるんじゃないかと思いました。


 東大時代    vivat academia ! vivant professores !

まずは「東京大学新聞」に掲載された23歳当時の自作の歌から。

東京ジュニアカレッジ 春風寮・別離の歌
作詞 中邨弘重(昭和60年)

1.送る唄

結びし夢は露と消え 銀杏悲しき学舎(まなびや)よ
期待背負ひて闊歩する 見よ、そは君の雄姿なり
青春の日は暮れやすく 別離(わかれ)は旅の宿命(さだめ)かな
友よ忘るな踏みきたる 戦の庭に散る涙

2.答ふる唄

噴き上げ止まぬ血潮ゆえ 高歌せし夜も懐しき
友の情に酔ひしれし わが世の春の三年(みとせ)かな
夜半(よは)に盃、月に挙げ 生くる悲しみ身に滲みて
心よ、せめて清かれと 聖母(はは)への誓ひ忘れめや

3.和する唄

都の宴(えん)に咲くといふ 花の薫に誘はれて
春風(はるかぜ)に乗り飛びきたる 二匹の蜂か、わが友よ
清らな花の蜜を吸ひ 自治と自由に育(はぐく)まれ
都を出づる、その日こそ 永遠(とわ)の微笑(ほほえみ)返さなむ

 教養学部に3年間通い、昼はアルバイト、サークルに熱中し、夜は他学部生と天下国家を議論していました。戦後学制改革の際、東大に接収され雑用下請け通り抜け学校となり下がることに最後まで抵抗した「ジュニアカレッジ」だけあって、教養主義を謳い文句として独立自治を旗印としていました。自治なくんば自由なし。自由なくんば自治なし。入学前から教養の授業をたしなんでおり、ドイツ語以外、特にこれといって名物教師に出会いませんでした。教養学部は医師免許取得のための単なる通過点であってはならないという思いだけは人一倍ありました。時代とともに変わるところと変わらないところを併せ持つ、哲学・倫理学・歴史学・言語学といった最重要科目の習得ができていないことが、人生にとってあとあとどれだけ痛いことか!「ドラゴン桜」で、「東大」と呼んでいる目黒区駒場・教養学部は「東大」ではない。全国に散らばって存在した旧制高校をひとつにまとめた高等教育機関というのが正式であろう。否、ひとつというのは言い過ぎかもしれない。一高のライバルであった二高は東北大に、三高は京大に、八高は名大にと独自に接収されていったからである。そして独自の考えで教養部が近年廃止され、先を急ぐかのように専門教育に重心が置かれた。東京目黒に存在しつづける「ジュニアカレッジ」こそ最後まで唯一残された誇るべき学び舎である。「東大」は文京区本郷にあるのであって、「これくらい勉強してからおいで。」と2年間門前払いを食らっているにすぎないのです。どんなに優秀な新制高校に対しても、「東大」が全く信頼していない証拠です。同様に「大学」が「大学院大学」に昇格したのは「東大」が研究機関であって、「学部」は専門教育機関にすぎないと考えているからです。
 旧制高知高等学校、江部淳夫初代校長の「若人よ感激あれ。感激無き人生は空虚なり。汝等理想を高く高く掲げよ。さすれば道は坦々として汝等が前に拓けん。」という訓示を知ったとき眼が開かれた思いでした。難関の入試を突破すれば、感激という大義名分のもと、厳しい落第放校制度があったにせよ、酒も許可され校則に縛られることもなく落第すれすれで卒業も可能だったわけです。当時、坂本龍馬先生に憧れていた私のせめてもの望みは、まず高知大学文理学部に国内留学して南溟寮に入寮し、1年留年延長の3年学び遊んでから東大医学部に戻りたかった。大学教養部間の遊学をぜひ提案したい。
 学校組織体制によって与えられた校歌なんて糞喰らえ、自分たちの手で作った寮歌にこそ、古き日本の学生の魂が宿っているのだ。真の自由な学校には校歌は存在しない。
 「南の国よ詩よ歌よ。現に夢にさまよいぬ。理想の郷に現身の久遠の光投げうちて甘き歴史をつづらばや。」
(この南国に詩と歌ありき。酒に酔えば夢をみて醒めれば現実をみる。ついつい酒を飲み過ぎていったいどこからどこまでが夢なのか現実なのかわからない。土佐という、この理想的な桃源郷に自分の魂を漂わせ、甘く芳しき思い出の歴史を綴りたい。酒はもちろん土佐鶴と司牡丹。)
 「四つとせ、善し悪し騒ぐは野暮な奴、飲めや歌えや跳ね回れ。そいつぁ豪気だね。」
(何がいいとか悪いとか、とかく世間はうるさいもんだ。そんな屁理屈こねる野暮な奴はほっといて、酒を飲んで豪気節を歌って輪になって跳ね回ろうぜ。坂本龍馬先生もみたというこの桂浜で。)
 「夕されば遠近人(おちこちびと)、ゆかしの友慕ひて。よもやまの話賑はひ、幾夜(いくよ)さかくて経にけり。」
(毎晩夕闇が差し迫ると、日中授業に出たりバイトしたり散歩したりしていた友人たちがどこからともなく湧いてきて三々五々寮友の部屋をたずねては、真剣な論議やくだらない話に花咲かせたものだなぁ。)
 「見よソロモンの栄耀も、野の白百合に及かざるを。路傍の花にゆき暮れて、はてなき夢の姿かな。」
(いかなる人智も限りあり、野にひっそりと咲く純潔な白百合の美にも劣るものだ。才能の無さを思い知って夢破れた己の姿をふと振り返ったとき、道端の小さな花をみると傷ついた心が癒されるのだ。)
 「神秘の闇のおとづれに、いつしか寮の灯火は、瞬きそめてわれを待つ。地上の夢よいざさらば。」
(放課後酒を一杯ひっかけて寮歌を歌って逍遙から帰途に着くと、いつの間やらついた旧制八高瑞寮の灯火が俺たちを暖かく待ってくれていたものだ。)
 「それ京洛の岸に散る、三歳の秋の初紅葉。それ京洛の山に咲く、三歳の春の花嵐。」
(京都はなんといっても桜と紅葉に尽きる。このすばらしい古都で三年過ごした我が青春に悔いなし。秋の紅葉が春の桜より前に来るのは、大正中期まで9月入学であった名残。ヘェボタンよろしく。)
 「見よ洛陽の花がすみ。櫻のもとの健児らが今、逍遙に月白く静かに照れり、吉田山。」
(この自然深き古都で、われら日本男児が逍遙から旧制三高自由寮に帰ると、いつもきまって吉田山に月が白くかかっていたものだなぁ。)
 「静かに来たれなつかしき、友よ憂いの手をとらん。くもりてひかる汝(な)が瞳(まみ)に、消えゆく若き日はなげく。」
(静かに集まれ、懐かしいなぁ。友よ、老いてなお憂い多き日々だけど手をとりあって生きていこう。涙で曇って濡れた君の瞳から、若き思い出の日々が薄れて消えてゆく。二十歳はもう帰り来ないのだ。寂しいことだなぁ。なつかしきは連体中止法。Alles schweige! Jeder neige ernsten Toenen nun sein Ohr!に通じる気がします。)
 「花咲き花はうつろひて、露おき露のひるがごと。星霜移り人は去り、梶とる舟師(かこ)は變るとも、我のる船は常へに 理想の自治に進むなり。」
(私の精神的back boneとなる歌。命短き花や露が消えてはまた生まれるように、はかなく時がたち命短き人間は去っても次々と後継者が生まれ出で、俺たちがいま乗る船、すなわち旧制一高精神は、万難を排して永遠に理想の自治の海を航海し続けるのだ。)
 「み星飛びみ星落ちぬる、この丘に擧ぐる杯。杜の火に盡きぬなごりの、ほのほ燃ゆ酒ほせやほせ。離りがたき友になげきはありやなし。瞳にやどす露なきも。あふるる玉の露なきも。」
(啓示の流星が飛んで落ちた。憧れのスター旧制一高も60年前に生まれて一時代をリードしてまもなく消滅するのだ。星を見上げながらファイヤーストームを前に、この駒場の丘で幾度となく酒を酌み交わしたものだなぁ。新制大学に行けと言われても、どうしても懐かしき旧制一高を去りがたいのだ。悲しき運命とは知りながら、涙が頬をつたってやまない。死に別れ駒場の丘に帰還した学徒戦友の御霊に対して申し訳が立たないのだ。)
 戦後日本が失ったユートピア「旧制高校」に憧れて痕跡を探したのですが、みつけたのは駒場寮、時計台、煉瓦造りの語学校舎、銀杏並木、そして旧制一高を出た教授たちでした。駒場・教養学部の中は人口密度が高く、旧制高校がないんなら勝手にさせてもらうわという気概をもって、出席の厳しい語学と体育実技以外は全く出席しませんでした。坂井栄八郎教授(ライオン丸)に手ほどきを受けたドイツ語は真剣に勉強しましたが、英語は高校の勉強の繰り返しでうんざりしていました。
 「霞立つ紫の丘、公孫樹(いてふ)道(みち)黄葉(もみ)づる下を、彷徨(さまよ)ひし嘆きの胸に、久遠(とことは)の思索(おもひ)はひそむ。失はじ我らが矜持(ほこり)、譲(まも)り来し傅統(つたへ)の法火(ともし)、浄(きよ)らかに燃え盛る時、継ぎゆかな來ん若人に。」
(霞に浮かぶ神聖なる丘、銀杏の道が黄色く染まる中を、真理を求めていまだ答えを得ない嘆きを抱きつつさまよい歩く。その若人の胸に永遠とは何かという思索がひそむ。永遠なるものがひとつある、それは失ってはならない我らの誇り。すなわち先輩から受け継いできた伝統の火なのだ。ファイヤーストームの神聖なる炎が燃え盛るときこそ、一高の伝統を継いでもらおう、日本国中から丘に集った若人に。)
 教養学部理科三類はいまだに旧制高校理科乙類を募集しているかして、他大学を巻き込んだ共通1次試験(4回も受けさせられた、うち9割以上3回)を低く評価して論述2次試験を重視しつづけ、入試出題範囲も新制高校レベルを平気で逸脱し(数学は重積分を用い物理は微分方程式を用いて解いた)、ドイツ語既習者に有利で(難解な英語から易しいドイツ語へ解答変更可能)、理系なのに古文漢文(国漢)の記述試験があり、科目担当教授の出た旧制高校の寮歌を覚えれば、なんの抵抗もなく定期試験をパスできました。
 旧制高校とはラテン語・ギリシャ語は勿論のこと、ドイツ語、フランス語、英語といった主要な欧州言語を自在に操る、独立自由で優秀な語学教授に囲まれて語学を習得し、親や教師の既成価値観をぶち壊して、白紙から自力でオレ流を作り上げていく重要な教育課程であった。「天才的なバカになれ。」Aller Anfang ist schwer.(すべて最初がむずかしい) 最初の教育ほど最高の教育者から手ほどきを受けなければならない。いい苗床に育った稲ほどよく実る。酒の醸造に例えられる教養課程は、人間くさい医者にとって必要不可欠な医学教育であり、教養主義の復権が、医療不信を脱却するための確かな道である。休閑期をおいてじっくり有機農法すれば常に豊かな実りが得られる。化学肥料を撒く促成栽培では土地がやせ衰える。目先の実用性ばかりを追求して歩道を足幅に狭くするとうまく歩けないように、人間の教育には多くの無駄が必要である。長い歴史を通して自由のために闘い、自由を求め続けてきたヒトは、画一的な目的意思で管理されるべきではない。
 教養学部は進プリ(進学振り分け)がないので、のんびり過ごせました。前後期で授業テーマが変わり、数学は線形代数、解析(微積分など)。コンパクト、ジョルダン標準形、テンソル、ラグランジェ、ハミルトン、ガンマ関数あたりになりますと新たに試験勉強を要しました。物理は3次元古典力学、電磁気学、熱力学。物理学科志願者も多くいましたので一切手抜きはありませんでした。これらは難なくパスできました。化学は物理化学、有機化学それに量子化学。生物は生化学、動物発生学、植物生理学。これらは一からのスタートでした。2年後期は本郷(専門課程)へ行ってからラテン語、電気回路、遺伝学、発生学、免疫学を一から勉強しました。(医学英語は院試受験準備を兼ねて独学で単語帳作りました)人文社会は哲学、人文地理学、社会学、法学を選択しましたが、フリーパス状態でした。今思えば貧弱な教養でした。
 かわって本郷・医学部での専門講義の出席は一切自由。出席名簿をとることは、講師に自信がないからだと私は思います。養老孟司教授の骨学実習、山内昭雄教授の解剖実習を本郷で受けてはじめて、医学部に来たんだなという実感が持てました。黒板いっぱいに並ぶラテン語には日々感動を覚えました。M1の解剖実習を終えてから半年近く、異国情緒豊かな長崎でバイトの旅(青果市場卸業、土建業、販売営業、蕎麦屋出前など)をして、完全にサボった生化学実習が理由で留年が非常に危うかったことがありました。教授に頼み込んで、1学年下と一緒に実験させていただくことで、なんとか留年は免れましたが、これが刺激になってM2では基礎講義には一切出ず、臨床講義は1学年上の授業にもぐって聴講し、その合間に図書館や自宅で基礎医学(解剖学、発生学、組織学、病理学、薬理学、細菌ウィルス学、寄生虫学、生化学、生理学、薬理学、免疫学、遺伝学)を独学するようにしました。当時読破した名著を紹介しましょう。実験片手間の授業よりはるかにわかりやすいものでした。
Liebman 「Neuroanatomy Made Easy And Understandable」 神経解剖学
Sadler 「Langman's medical embryology」 胎児発生学
Narahashi 「Ion channels」 生理学(神経)・薬理学
Koeppen & Stanton 「Renal physiology」 生理学(腎)
West 「Respiratory physiology」 生理学(呼吸器)
Levitzky 「Pulmonary physiology」 生理学(呼吸器)
Mohrman & Heller 「Cardiovascular physiology」 生理学(循環器)
生化学はHarperやStreyerのが流行でしたが挫折しました。アンチョコ日本語本でお茶を濁しましたが、後日、南江堂「生化学ガイドブック」という名著が出て、院試準備ではお世話になりました。
 自分の都合でカリキュラムをarrangeできたのも、京大に負けない「自由」がまだ当時の東大にも存在していたからでしょう。私の学年からM3,M4カリキュラムが変わり、ベッドサイド実習(BST)コマ数が増え、病院医局の受け入れ態勢が不十分で、実習に出席すべくいそいそと集まった友人と医局に行かず、まず東天紅で腹ごしらえ、東大の隣にあるいきつけの店でボーリング、ちょいと上野に足を伸ばせばビリヤード、ついでに酒を飲んだら深夜になっていたことも少なからずありました。どんなに遊んでいる学生でもやればできるはずだと、当時の医学部教授陣が学生を全面的に信頼してくれたことにも感謝しています。試験に落ちると、「もうそろそろいい加減勉強する気になってくれないかな?」と言われる試験官たちの笑顔をみるのが快感でした。M2終わりには怒涛のように試験の波が押し寄せ、合格者発表で本試・追試(ビーコン)・再追試(トリコン)あちこちで自分の名前を見つけては、嬉し恥ずかしのガッツポーズをとっていました。最後の1年間は中央図書館で司法試験受験の面々と並んで国家試験向けの勉強に明け暮れました。その甲斐あって8割得点でビシッと締めました。


 阪大時代

生まれてきた乳児たちに、心から生きる喜びを感じ、笑ってもらうために小児科を選び、父の看病と、適塾への強いあこがれから、小児科研修の地を大阪大学医学部に選びました。適塾の教育方法は他から教わる受身的なエリート教育ではなく、試験さえできれば途中経過は個人の自由に任せる、自分の力で這い上がってこさせるという実力主義でした。小中高校、専門学校、塾、予備校で既知の知識を教わる勉強とはちがい、学問とは未知の分野を切り開くための叡智なのです。大学の若き教授と学生が学問の種をたくさん持っているのです。適塾は日本に最初に学問を根付かせたオランダ語塾(蘭学塾)なのです。大阪の適塾が阪大医学部の基盤となり、緒方洪庵先生が江戸幕府に招来されて、東大医学部の基盤ともなりました。
 東大を辞めた理由はなにより旧制高校卒の教授が定年退職すること(平成3年が最後)。理三から旧制高校を取り去ったら、なにも良さが残らないと思いましたので。
 日本語の医学書はデータが古く、えてして誤りを多く含むため、研修は英語文献片手に患者さんという生きた教科書から自分で学んでいくしかなく、朝7時の採血にはじまって、夜は11時すぎまで病棟にはりつく毎日でした。「セブンイレブンいい気分。」睡眠不足も慢性化しますと気持ちよくなるものだなあと思ったものです。倉橋浩樹先生には北新地によく飲みに連れられて、夜の研修も若さで乗り切りました。2年やそこらの研修では何も悟れず、東大小児科諸先輩のコネで東京、神戸と病院勤務を経験してはじめて、新生児、循環器、アレルギー、神経と多分野にわたり、小児プライマリケア医として知っておくべき臨床経験を積むことができました。小林登院長が創設された国立小児病院時代、「当直ができなくなったらぼくはいつでもここを辞めるよ。」と、目を真っ赤にしながら言われた河野寿夫先生には、臨床医として頭が下がる思いでした。ダイアナ王妃が国立小児病院に来院したとき、間近に美貌を拝見できたのも、医者の役得でした。
 卒後8年間、小児科臨床一筋に打ち込みましたが、難治性遺伝病を多く眼にするにつれ、臨床に限界を感じ、奈良先端科学技術大学院大学で一から研究の基礎を勉強しなおしました。翌年、父が急逝し倉橋浩樹先生を頼って阪大大学院臨床遺伝学に首尾よく入学しましたが、N教授が東大医科研に栄転のため1年で教室が閉鎖。おかげで王将で深夜の夕食を食べながら進めたトリプレットリピート病(神経遺伝病)の研究は頓挫する羽目になり、PhD若手研究者の悲哀も垣間見ることができました。
 草創期から4年間在籍した阪大大学院遺伝子治療学という教室は、日本初の遺伝子治療学教室であると同時に、日本初の大学バイオベンチャー企業を備えており、日本全国から大学院生や研究生が集まりました。いわば鉱脈を掘り当てにきた野望家たちが切磋琢磨しており、私はいい意味での刺激を受け、世界初のアトピー遺伝子治療軟膏の開発研究に孤軍奮闘してまいりました。いま思えば、3人の指導教授がひとつの研究室におられ、恵まれた研究費とご指導の下に研究できたことがラッキーでした。大学院での研究成果を発表すべく、アメリカニューヨークで開催された米国アレルギー学会(AAAAI)へ単身乗り込んだのですが、時差ボケでいきなり寝坊してしまいました。マンマミーアなど生演劇は毎晩欠かさず観ていたのですが。リンリンというホテルの電話に起こされ、早口英語で何を言われているかわからず、最後に「OK!」でガチャっと電話を切られ、何事かと時計を見たら口演時間を数分オーバー。急いで会場まで徒歩で行き、そこらじゅうの外人をつかまえてパンフレット片手に片言英会話。親切なドイツ人の女医さんに連れられてやっとの思いで会場入り。私の顔を見るなり、座長から手招きされ早速口演しろと言われ、ゆっくりとした英語で口演開始。なんなく口演を終えたとたん、座長と聴衆がスタンディングオベーションをはじめ、拍手鳴り止まず、研究をやってよかったなと心からそのとき思いました。この自由で研究費豊富な研究室には、奇しくも全国から酒豪が集まっており、寿し由で幾度となく催された酒宴(狂宴?)がいまとなってはとても懐かしい思い出です。ただひとりの大阪大学大学院遺伝子治療学第1回卒業生(満40歳)として名を汚すことのなきよう、これからも頑張ってまいります。

 平成19年5月9日、「医師確保法」が自由民主党・公明党共同一致して立案され、安倍国会で承認される見込みになった。これでドミノ倒し式医療崩壊がさらに加速されることになった。現場無視の戦前の「国家総動員法」を連想させる政策である。命令者は常に安全地帯にいる。「順番待ち」かかりつけ医制度が原因でヨーロッパ諸国が医療焦土と化しているのに、日本はまねようとしている。マスコミはヨーロッパの現状を報道規制している。

 平成19年6月17日、映画「北辰斜めにさすところ」奈良特別試写会を観てきました。時は戦前〜戦時中、舞台は、西郷南洲先生を師と仰ぎ、日本一蛮カラの呼び声高き旧制第七高等学校造士館。(七高だけが校名に造士館と付いています。その思い入れや推して知るべし。) 緒方直人氏、いい味出していました。いまの政治腐敗堕落は、ひとえに新制東大(新東さん)の個人主義が元凶である。相次ぐ大臣の厚顔無恥には驚かされる。政治も医療も教育も旧制世代から新制世代に権力が移ってから、どうも調子がひどくなってきている。私利私欲を捨て自らを天命に託す真のエリートが消滅してしまったからだ。親、学校、とくに進学塾とやらに後押しされたガリ勉君が国家の指揮をとるとこうなる。この反省の上に立って、日本古来の藩校と郷中教育にならって、朱子「小学」を手本とし、礼節をわきまえ恥を知る武士道精神を土台とし、古典・外国語・哲学・倫理学・歴史学・法学・経済学・数学・図学・物理学・化学・分子生物学・医学・武道・(一流の)芸術を、国立の安い学費ですべて必修で学んできた旧制教育を見直す必要があろう。
 たとえば九大教養部を福岡修猷館、鹿児島造士館、宮崎明倫堂、熊本時習館、佐賀弘道館などに数分割して、さむらい日本に範たる九州武士教育文化圏ができたらよか。都会に対抗できる教育機関を誘致すれば、地方が活性化される。宮崎県に道路を誘致して隣の県と同レベルの経済発展を遂げたとして、たかだかone of themだろう。ワクワクさせるほど魅力あふれた宮崎県になれるだろうか?ヒトが集まれば自然と太い道路ができるし、地元卒業生に世界的な特許取得者でも出れば寄付もしてもらえるだろう。読売巨人軍キャンプを誘致したように、ここはあらゆる分野の優秀な教師を高給待遇で誘致し、独自の学制とカリキュラムを導入すべきだろう。たとえば学校の職員室に国語、外国語、数学、自然、人文社会、体育などの教師に混じって、新進気鋭の美術家、書道家、楽器奏者、武道師範、能狂言師、弁護士、歯科医師、医師、哲学者なども常勤教師として並列配置したらどうだろうか。いい自然科学系研究テーマを選択してすばらしい論文を書くためには、美しい芸術を審美する心をもつことが必要だからである。また外国人語学講師のみならず、IBMやMBAから外国人講師を招聘することもすばらしいことだと思う。とにかく少数精鋭で多額の教育費をかけ、選抜された十代の若い青年たちに「一流」に触れる機会を与える必要があろう。万民平等教育というが、優れた教師は数少ないはずだ。いまの大学教育を譬えると、やる気のない料理人がバイトしながら料理を作っていて、数少ない名人が作ったうまい料理も大量の水にぶちまけて各人に配るようなもので、そんな料理は食えたものではない。食べる客も客で、仕事の予定があるから早く作って早く食べさせてとせがんでいるようなものだ。学力試験だけの選抜方法ではダメだという人がいるが誤っている。てんこ盛りのカリキュラムをこなすには学力第一だからだ。とはいえ昔からドロップアウトする人間は必ずいるものだが、そういった猛者こそ長い目で見ると社会に功績を残している。
 教育崩壊の解決なくして、医療崩壊はぜったい解決しない。森口朗氏「戦後教育で失われたもの」の指摘する「青少年用保育園」化が教育の致命傷になるやもしれない。プロの高校教師から私の世代に向けて警鐘を鳴らしていただき、大変勉強になった。
 平等主義にがんじがらめに縛られている東大や京大はわかっていてもやれないのだから、土地柄と伝統を生かし九大がやるしかない。鹿児島大がいま熱い。九州じゅうの大学が一致して教育を盛り上げれば、九州から有能な人材がたくさん生まれるだろう。
 明治政府は旧士族の反乱を恐れて、武士道教育を破壊し、まんまと軍国主義教育にすり変えた。(藩校を私立とし、ほどなく公立小学校によって駆逐された)「武士道は死ぬことなりと見つけたり。」といわれるが、決して国体のためにではなく、己の本分のためにである。自らの判断と自己責任で主義や主君を選択する自由が本来伴っているべきである。自由平等を謳った官僚主導型新制教育が自己判断力を鈍らせ、エリートだの封建的だのと蔑まれた志士主導型旧制教育が自己判断力を錬成する。「鉄は熱いうちに打て」のことわざが真だとすれば、社会人教育とくにメディカルスクール構想がどれだけの成果を収めるというのか。人気を得ようと信念を曲げたり嘘をつく政治家と、マスコミ扇動の流行や世論に飲み込まれ自ら判断するすべをなくした国民が、アメリカなど諸外国の思惑によって、金銭・知的財産搾取や戦争や植民地化へと再び誘われることがないことを祈っている。明治維新を切り開いた野太刀自顕流の使い手のような、爽やかに澄んだ心のさむらいが現れ、混濁の世の舵取りをしてほしい。
「九つとせ この浜寄する大波は カリフォルニアの岸を打つ そいつぁ豪気だね」
 空襲・原爆・制空権剥奪のみならず家族・社会・経済・精神構造の伝統破壊という、アメリカから受けた大打撃をいつの日か、そっくりそのままお返ししたいと思う。日本で研究したNF-κBデコイ軟膏をそんな気持ちで世に送り出した。墨で全文塗りつぶされた哲学以前の日本思想は、アメリカによって虐待されるべきではない。彼らが敬意を払う、同じ敗戦国のドイツ哲学に決してひけをとらないと信じている。

 平成16年7月奈良の地で開業したとき、心に誓ったことがひとつあります。それは毎年11月木曜休診日に正倉院展を観に行くこと。1300年変わらぬ「古都の美」を日常の中で観られるという、奈良市民としてのささやかな特権を生かすべく。今年もそれは果たせました。昨年は光明皇后自筆の写経、今年は墨絵弾弓が最も印象に残りました。


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