| 宇和 ボランティアガイドの会 | |||
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| 現在、宇和ボランティアガイドの会は8名で活動を行っております。 宇和の住民に住んでいる所の素晴らしさを再認識していただくための サポートになればと思い活動を行っております。 ガイドの申し込みやお問い合わせはは民具館(0894-62-1334)にお願い致します。 町並みガイド 無料 明治の授業体験 テキスト代200円 |
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| で、このページはしんちゃんがガイドの会を通して、日々勉強しながら 作っていこうかと思っております。故に、当面は書きなぐり状態です^^;。 |
| さて、手始めにしんちゃんは昭和56年3月に発行された「宇和文化の里あんない」という 冊子を引用しながら勉強していきます。お付き合いのほどよろしくお願い致します。 |
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| 参考文献:「宇和文化の里あんない」 編集:「宇和文化の里あんない」編集委員会 発行者:宇和町教育委員会 |
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| 表紙 | 表紙は、こんな感じです。表紙の題字は萩森鳳仙先生の字でございます。 写真は、天保時代(天保2年 [1831年])の卯之町の全景図です。 (近世末期の卯之町の面影を伝える貴重な絵図で、天保2年に新四国創基を記念して宇和島藩絵師に書かせたもの。町指定文化財。開明学校に展示しています。)(「宇和文化の里あんない」発行者:宇和町教育委員会より抜粋) しんちゃん:この頃に新四国88ヵ所ができたんですね。四国88ヶ所がまわれない住民が、周れるように卯之町の山に88個のお地蔵さんを配置したんですね。また、この道は毎年1回卯之町の住民が総出でお掃除をしております。スタートの1番は光教寺内にある大師堂にあります。 1831年頃というと、清沢邸、本多邸、大氣邸は絵の中に入っているのでしょう。鳥居門は1834年に建築されたから、まだ絵の中には書かれていないのかなぁ? |
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| はじめに | 宇和町教育委員会よりの御挨拶文抜粋 (「宇和文化の里あんない」発行者:宇和町教育委員会) 予讃線の卯之町駅。春になると、田園風景が明るい陽射しの下南予の旅情を誘うかのように、れんげの緋もうせんが映え、行きかう人々の表情にものどかな親しみを覚えます。宇和の町には古く豊かな歴史が流れております。ここに紹介します宇和文化の里は明治15年に建築された開明学校を中心とした付近一帯を教育的資料としての価値を認め愛媛県教育委員会から昭和48年6月に選定を得てきたものです・・・・・(以下省略)。 その昔宇和地方は西園寺氏の派遣した宇和の荘官も在地武士層を統制するためには居館をつくりこれを守る城を築かねばなりませんでした。宇和旧記や歯長寺縁起に「・・永和2年御下向松葉に住み給うこと年久し・・」と記してありますし、約600年前の築城であったのでした。・・・・・(以下省略)。 なまずがゆ、とろろ汁など新鮮な味をそのまま生かす工夫をした宇和の郷土料理には素朴で味わいの深いものが多くあります。宇和地方の人々の暖かな響きの言葉を耳にするたびに穏やかな人情と古い歴史で支えられてきた宇和町の姿が浮かんできます。宇和町は歴史と人とのふれあいの町です。ここに発刊する「宇和文化の里あんない」を見学者の手引きとして広く活用をいただき昔をしのび今日的な宇和に接していただければ望外の喜びです。 平成3年3月1日 宇和町教育委員会 しんちゃん:西園寺氏文化は宇和町に長く根付いております。松葉城は永和2年に築城されたんでしょうかね?おそらくそうなのでしょう。おいおい、資料を調べていきます。その城の城下町が松葉町(現卯之町)と名づけられたんでしょう。1770年前後に大火が2度ほど松葉町であって、町名が松の葉だから良く燃えるんだろうと改名しようという動きがあって現在の卯之町になったと聞いております。郷土料理にひゅうが飯が入ってないなと思ったらこれは南予地方の郷土料理だからはずされたのかな?と思うしんちゃんでした。とりあえず、この手引きを使って宇和町の歴史のいろはを勉強しているしんちゃんでした(し⌒∇⌒ん)ノ"あぃ |
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| 宇和の移り変わり |
宇和町の歴史は遠く原始の昔にはじまり、原始古代の遺跡遺物が豊かで、正に南予路における飛鳥の里といえます。大化の改新で国勢が大きく改革され、地方は国・郡・里に分けられ、宇和町は伊予国宇和郡に属し、郡の中心である郡衛は本町におかれました。それ以来、当町は南予の中心として近世初期まで続くこととなります。 [しんちゃん:たしか、町内から白鳳期時代の瓦が出土していることから郡衛があったと類推されているらしい。] 平安時代中ごろ、瀬戸内海に猛威を振るった藤原純友の乱では、警国使橘遠保は純友親子を捕らえて功をたてました。その後、宇和郡における橘氏の勢力が強まり、前後をあわせますと約300年近く続くことになります。 鎌倉時代の中ごろ、京都の公家西園寺氏が橘氏に代わって宇和郡領主となり、郡を支配すること約350年に及びました。西園寺氏ははじめ代官を本町に派遣して治めましたが、南北朝期に一族が下向、松葉城を居城に自ら当郡を統治し、城下には松葉町も形成されました。戦国期になると、厳しい乱世に対処するため、城を国鉄(現JR)卯之町駅裏の黒瀬山に移しました。このときの松葉町を黒瀬城下に強制移転させ、松葉町と呼びました。これが、今の卯之町の起源となったわけです。 [しんちゃん:松葉城時代の松葉町はどの範囲なんでしょう?中町は入ってないのでしょうか?調べないといけんなぁ?さて、黒瀬城時代の松葉町の範囲は現卯之町と一緒なんでしょうか?たしかに、卯之町の両脇には下松葉と上松葉の地名が残っているから、その範囲全部が松葉町という城下町やったんでしょうね。かなりひろいなぁ〜。。。] 戦国大名西園寺氏は土佐勢、九州勢を相手に善戦したのですが、天正12年(1584年)まず土佐の長宗我部氏に下り、翌年秀吉の四国平定で降伏して下城しました。宇和郡は小早川隆景、戸田勝隆、藤堂高虎、富田知勝と統治者が代わり、元和元年(1615年)正月伊達秀宗が宇和島城に入城しました。これから、藩政時代に入り、宇和町は宇和島藩第一の穀倉地帯となりました。宇和町は宇和島藩領でありますが、卯之町は必需品を売る在郷町、唯一の宿場町としてかつての名残を留めてきました。 |
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| 宇和町民へのガイド勉強会 |
ちょっと一息。。 本日は、私のというか宇和町民にとっての大先生(かなり多くの人が生徒だから^^;)の米子先生に、有史前の時代の講義と国の重要文化財開明学校にて明治の授業体験を受けてきました。 さすがは大先生、私若輩者は足元にも及ばないどころか、足元も見ることのできない雲の上のような素敵な講義でございました。(し⌒∇⌒ん)ノ"あぃ いつまでもお元気で、また授業をしてくださいね。お願い致します。しんちゃんより。 豆知識:宇和町の日本一の所@開明学校の掛け軸、A明治大正昭和平成の4世代の学校群が残っている所です。 |
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| 2. 文化のあけぼの 町名が松葉町から卯之町に移りましたが、それは江戸時代はじめのことです。町名変更には興味深い伝承、町には土地整備の地割り跡、史跡や文化財をはじめ、中町には古い家並みも残っております。家並みには文化元年(1804年)、天保5年(1834年)、嘉永(1848年)に建築された家など江戸時代のものが30数軒あって正に生きた歴史といえましょう。 [しんちゃん:町名変更の時期は私も勉強不足で知りませんが、お話によると1780年ごろの大火事があって松の葉だから良く燃えるんだろうと町名変更をしたと聞いております。町名変更は江戸中期か末期ごろなのでは?中町どおりで今、わかっているのは末光邸1770年築が一番古いです♪この本が出版されたときは、まだ、調査が全てできていなかったですし、後から出てきた文献もあるので多少の間違いがあるんでしょうね^^;。けっして本の批判じゃないですm(_ _)m。私自身勉強になっている次第です。]今日のところは、このあたりで。。 |
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| 2007年5月12日更新分 | この辺地の商業町に、近代文化の花がいち早く咲きました。それは日本蘭学の祖ともいわれるフォン・シーボルトの高弟二宮敬作が卯之町で医業を開いたことに端を発したといえそうです。先生はシーボルト事件で江戸にも長崎にも住めなくなり、宇和島藩命もあって当地に来たのでした。先生は進んだ医学で治療に当たり、進取の考えを若者に教え、また敬作を頼って歴史的人物も多く卯之町を訪れましたが、これは後述を見ていただくことにしましょう。 敬作は天保4年(1833)から22年間滞在中、二宮塾を開いて蘭学、蘭方医学の指導にも当たりました。一方、安政5年(1852)には儒学者左氏珠山も、卯之町坪ヶ谷の大師堂を借り受け私塾を開き近代教育の素地を育みました。それが、大師堂、申義堂、郷校教育と変遷し、学制によって明治5年11月開明学校が誕生したわけです。そして、現在の宇和町小学校へ連なっていくのですが、近世から近代に移る当地の教育の流れ、郷人の努力など、その発展過程がしのばれて興味を引きます。 [しんちゃん:文化、教育の礎は敬作先生によって作られたといっても過言ではありませんね。宇和町の自慢の一つは、明治時代の申義堂と開明学校、大正時代の講堂に第2校舎、昭和時代の第1校舎、そして平成の小学校が全て残っている所です。] |
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| 2007年5月15日更新分 文化の里選定 |
文化の里とは、白石知事が愛媛の心と、国を豊かにする計画の方法として、次の実態調査要領に基づく専門家の調査により選定された地区であります。 「県内の文化財、史跡、民俗資料、歴史などについて、全国視野から特に優れているもの、あるいは特異なものを持つ一定の地域を選定し、それらの保存活用を図り、かつこれらを広く県内外に周知し、もって地域住民の文化意識の高揚と本県文化の振興に寄与する」かくして、昭和48年6月7日付けで次の3ヶ所が原始・中世・近代の遺跡として選定されました。 宇和文化の里(東宇和郡宇和町卯之町) 岩陰文化の里(上浮穴郡美川村上黒岩) 能島水軍の里(越智郡宮窪町能島) 後日、石垣の家文化の里(南宇和郡西海町外泊)が追加されました。 |
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| 2007年5月20日更新分 申義堂 |
申義堂の誕生 八幡浜舌間の儒学者左氏珠山は安政5年(1858)坪ヶ谷の大師堂を借り受け、子弟の教育に当たった。幕末から明治維新にかけ急速に発達した私塾の一つで本町における近代教育の下地となった。宇和町小学校沿革史には文久3年建設。男47名女2名と記載してある。 宇和島藩校の刷新により、明治2年正月珠山は藩校に招かれるようになった。郷人はこれを嘆き、今後の教育を如何にすればよいかと訴えた。珠山は師を迎えるためには、まず学舎を設けよと説いた。これに答えて郷人は相計って坪ヶ谷に堂舎を建てた。これが、申義堂木造建築105平mである。申義堂記には「堂舎は月余にしてなる」と記され、当時郷人の意気がしのばれる。堂舎名も珠山が孟子から申義の語を選んでつけた。 [しんちゃん:坪ヶ谷は、今の聾学校校庭付近になります。そこに申義堂跡地の石碑が建っています。この話はよくガイドでもするお話です。一つには、敬作先生の私塾が始まりと我々は思っております。その生徒達が、珠山先生に出会い、傾倒して行き勉学に励みます。あるとき、珠山先生は宇和島藩校の先生としてこの地を去らなければいけなくなったとき、生徒達は行かないでください。どうやって勉強していけば良いのですかと嘆きます。そこで、珠山先生は私の先生にここに来てもらえるようにしてあげましょう。そのためには学校を作らなければいけません。学校があれば君達は先生を呼ぶこともできますし、勉強もすることができます。そこで、生徒の者たちはわれさきにと資金を出し、山に行って木を切り学校建設に取り組みました。若い者がこんなに頑張っているのにと町の者達も次から次へと手伝いに来て1月余りで申義堂は建設されたのでした。学制発布の後、この申義堂が開明学校と名を変えるのです。そして、宇和町の教育の始まり原点といっても良いと思います。] |
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| 2007年5月22日更新分 開明学校 |
開明学校の創立 明治5年の小学校教則に「村に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」とうたっている。明治5年(1872)8月学制公布に基づき、同年11月に開明学校が創立され、名実ともに近代教育のスタートとなった。校舎は坪ヶ谷の申義堂を襲用し、教員数は2名であった。 新校舎建設 有志の中から校舎建築の問題がもちあがり、明治15年開明学校が卯之町大念寺の現在地に新築された。洋風のアーチ窓、白壁、四本の丸い通しの大柱など、当時ハイカラな学校として見学者もたえなかった。時の文部大書記官西村茂樹も視察に訪れ、雄渾な筆跡で「開明学校」の扁額を残していった。同16年1月から授業を開始した。学級数4、男生徒74名、女生徒63名。棟札には世話役、費用その他が記され建築当時の模様がしのばれる。 [しんちゃん:最初は申義堂が開明学校と名が変わったのです。どんどん、生徒が増えていき手狭になったので、またまた学業に志の高いものたちが声を上げ、今度は町の人たちが協力して開明学校を作ることになるのです。最先端の技術を用い子供の教育環境を最上のもにとの思いからか、大変立派な校舎が出来上がりました。窓ガラスには当時、日本には透明な板ガラスを作る技術がなかったので、ドイツから輸入した高価な板ガラスを使用したそうです。お寺に良く使われる唐破風様式で玄関の屋根を作り、しっかりした大黒柱の和風建築でありながら、西洋の屋敷を思わせる半アーチ窓。擬洋風建築といって、当時も多くの人が見に来たそうです。ちなみに、坪ヶ谷にあった申義堂は、解体して開明学校の横に移築して校舎として使用していたそうです。] |
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| 2007年6月17日更新分 |
開明学校左側に鍵の手に建つアーチ型を配した建物で、大正時代に取り壊されたものを昭和50年に復元したものです。面積100平方メートル 館内には、宇和盆地の各遺跡から出土している約8000点にのぼる遺物が保管されております。そのうちの約300点を縄文時代、弥生時代、奈良平安時代とほぼ時代区分に従い展示しているが、ここでは特に古墳時代に中心をおいて展示している。 なお盆地には現在20数基の遺跡と160基以上に及ぶ古墳の存在が確認されている。これら遺跡からは多少にかかわらず各種遺物が採集されているが、今後も多種の遺物が出土するものと期待されている。 |
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