明帝国は、完全に復活した。

復活した明帝国は、遼寧の清帝国と、雲南の呉帝国と兄弟の関係≠ナ和睦した。

だが清帝国は、翌一六五二年、松花江で南下政策をとるアレクセイ三世のロシア帝国と戦う。ロシア帝国は、ネルチンスクの地に城塞を築いて長期戦の構えを見せた。

雲南、貴州で猛威を振るった呉帝国の方も、結局は基礎となる人口が少ないため伸び悩んだ。最近の清帝国と呉帝国は、復興著しい明帝国と叔父甥の関係≠結んで、明皇帝の使節を遜って迎えていた。

日本でも大きな変革があった。

 すなわち明国大入りの成功を受けて、牢人政策の大転換が始まったのだ。これは、武断政治から文治政治への必然的な変革でもある。

 だが、四代将軍家綱の治世に行われた『末期養子の許可、殉死の禁止、大名証人(人質)の廃止』の三大美事と、むやみな取り潰しをしないという幕府の政策変更は、真の太平への道を開き、庶民文化を開花させた。

 朱子学の林羅山、陽明学の中江藤樹、熊沢蕃山。古学と山鹿流軍学の山鹿素行。古文辞学派の萩生徂徠、新井白石。文芸芸能の松尾芭蕉、近松門左衛門。

手に職こそないが真の高級武士たちは、兵馬の術はもとより、算用、簡単な医術、連歌、包丁、謡、笛、小鼓、能、蹴鞠、細工、書、礼法と極めて多岐にわたる教養を身にしているのだ。江戸時代に七百余の諸流を立てて武芸、軍学の発展させた武士は、知識階級として文の道でも大きく貢献した。

 実際に牢人が各地に作った寺小屋は、世界に誇りうる識字率を実現することになる。

また鎖国制度の例外として、長崎と寧波間に定期航路が開設され、寧波には巨大な日本人町が出来て大いに賑わったという。

この後、明と日本の関係が良好に推移し、環シナ海経済圏の創立と相まって、東アジアの歴史に巨大な足跡を残すことになる。

 

その後、明国での諸氏はどうしたであろうか。

まずは朱舜水のおてんば娘、高と結ばれた鄭成功である。

私生活では、恵まれ過ぎるくらい恵まれたようだ。鄭成功は、艶福家として両手でも数えきれない子を成した。

だが、公の立場は違っていた。すぐに父親の喪礼に服さなかったという「奮情起復」の問題をしつこく責められたのだ。中央政界に嫌気がさした鄭成功は、問題に決着をつけるべく潮王≠辞し、望んで実体のない台湾王≠フ名を受けた。

義侠心あふれる鄭成功は、

「台湾島へ入植した浙江福建の民が、暴虐なオランダ人の支配に苦しんでおります。ぜひ、私めに、王化をお命じください」

と、永暦帝に申し出て、圧政に苦しむ台湾移民を救い、海外へ討って出ようと考えたのだ。この試みは、オランダ共和国が一六五一年から始まった『英蘭戦争』で東南アジアへ砲艦を送る余裕ないのが幸いし、大成功を納めた。

鄭成功は、鉄人隊、そして牢人軍の有志を率いて、台湾島南部の安平にあるオランダ共和国のゼーランジャ城塞を陥落させたのだ。国姓爺%A成功は、台湾開発と海外経営に尽力を注ぐ一方、西欧人が支配力を強める東南アジア全体に睨みをきかせ、コクシンガ≠フ名前で大いに恐れられた。

また、この台湾島における武勇と善政によって鄭成功は、後に猛々しい狩猟の神コシヤ≠ニして、台湾島の山岳民族アミ族の神代系譜に名を連ねることになる。

 次は光圀が賓師、師友として遇した陽明学の大儒、朱舜水である。朱舜水は、儒者たらんと欲し、文化事業に熱中した光圀のたっての願いで「大日本史」の編纂に協力することになった。朱舜水は、「尊王攘夷」をもって「大日本史」の根本理念として編纂作業に協力した。

 この朱舜水の決定は、後に水戸学や日本の文教学術に多大な影響を与えることになった。

山鹿素行は、しばらく寧波で中国兵法、思想の研究を行ってから、本朝へ帰国した。

「俗に武≠フ文字を、矛を止めるとする解釈は、腐儒者の戯れ事にすぎぬ。本来の止≠ヘ足を現し、侵略することを意味する正≠フ文字に通じる。これが、より強調されて征≠ヨ発展したのだ。すなわち武≠フ真の意味は、侵略に赴く矛を持った兵士、と解釈するべきなのだ」

と、師匠の北条氏長と真っ向から対立し、純粋な戦闘技術としての兵法を指向していた山鹿素行であった。

 だが、帰朝する時には、

「大陸の奴らばが、己を中華を称すならば、我は神州日本の士として、中朝の国体美を現さん」

と、大いに国学へ傾倒していた。

兵法が、天下統一後の武士の教養として教学性を高め、海外との関係が問題になると、どうしても国体思想を取り入れなくてはならなかったのだ。

 帰国した山鹿素行は、師匠の北条氏長の北条流と中国兵法の影響を色濃く受けた、新山鹿流兵法を現し、武士道の亀鑑となった。

最後に光圀である。

 陰謀騒ぎの終結後、光圀は改めて北京の紫禁城で紹興、寧波平野を領地とする越王≠ノ封地された。その場で光圀は、皇帝の姓である朱姓を賜り、禁色の黄服、竜文を許されるという破格の待遇を受けた。

 人臣位を極め、並ぶものなき富貴を得た光圀は、紹興に王府を置き、牢人軍に加わった者たちに、惜しみなく恩賞、領地を分け与えた。十兵衛三厳は十万石、由比正雪は二万石、お冴えと結ばれることになった兵四郎も、光圀の旗本衆の一人として五千石を賜った。

だが、それから半年もしない内であった。

 

 池に突き出た東屋から、笙の音が静かに流れた。

炬火に照らし出された、物珍しい奇岩が目に付く広い庭園だ。太湖石を筆頭に、大陸各地の名石が惜しげもなく使われているのだ。杭州でも指折りの豪商の庭園である。美しい笙の音色は、数万の兵士が余裕で整列できるであろう、庭園の闇の中に静かに流れていく。

その東屋から池を挟んで、開け放たれた大広間があった。大広間から見ると、炬火の明かりで照らされた東屋が笙を奏でる楽士と共に、まるで池に浮かぶかのようである。

だが大広間に集う人々は、まったくと言っていいほど、この幻想的で絵画のような光景に関心がない。彼らは、綾錦を身にした女性の供応に鼻の下をのばし、八珍を尽くす食膳と銘酒の数々をむさぼっていたからだ。

それは服装から察するに、杭州の役人たちである。

「料理も酒も、まだまだ尽きませぬぞ」

と、幇間よろしく酌して回るのは、この豪邸の主だ。無茶な値上げを繰り返して「糸鬼」と呼ばれている生糸問屋の主人である。

「さあさあ、お気に召された女性がおれば、どうぞご遠慮なく。奥に、別室が設けてありますぞ。まあ、ここでも一向にかまいませぬが……」

と、下卑た高笑いをするのは、高利貸しも営み、「殺荘」とまで呼ばれている綿布問屋の主人である。

「いや、有り難いことよ。まことに結構な清談の場ですな」

と、したり顔でヌケヌケと言い放って追従笑いを取っているのは、この場の役人の不正を取り締まるべく、中央から派遣された巡察吏の役人である。科挙のような制度化された社会移動があると、西洋ような強固な身分社会にはない平等の気風が存在する反面、そこには弊害として縁故、癒着が発生しやすいのだ。

その時である。

 唐突に、庭園の東屋で異変が発生した。

「おい、お前たち。どこから入った。うわっ」

炬火に薪をくべていた使用人が、何者かに打ち倒されたのだ。続いて笙の奏者が、悲鳴を上げて逃げ出した。

「なにを騒がしい」

この場の貴賓である巡察吏が、酔眼で闇の中を見透かすと、次から次へと天秤棒や竹竿を持った野良着姿の男たちが現れた。

「民変だ、民衆の暴動だ!」

巡察吏は、酒杯を取り落とすと、這いずるように大広間の奥へ身を引いた。

「無礼な。杭州のお役人さまと、中央から派遣された帝の巡察吏の御前だぞ」

館の主人が、闖入者たちを怒鳴りつける。

「うるせぃ。ガタガタ抜かすな、糸鬼め」

だが、乗り込んできた男たちは、臆する様子はない。

「本当は免租免役のお願いに来たんだが、お前たちにゃ、もう心底から愛想が尽きたわ。これでは、いかに杭州が「天に天堂、地に蘇杭」と、富貴をたたえられても虚しいだけだ」

他の民衆も同調した。

「そうだ。こんな腐れ役人や悪徳商人にいいように絞られたら、我らがいかに真面目に働いても、この杭州は煉獄と一緒だ」

「この先、いかに貿易で巨利を計上しようが、好天にめぐまれて津々浦々にわたって豊作だろうが、我らには何の恩恵もないぞ」

野良着姿の男たちは、手にした天秤棒や竹竿を握り直して、大広間に殺到した。

「うむむ……、お上を恐れぬ暴徒め。近づけるな。叩き出せ」

屋敷の主は、護衛を兼ねている使用人たちをけしかけた。

「やったれや」

 忍び込んだ五十人あまりの民衆は、屋敷の使用人たちと激しくもみ合う。

だが、数で劣る使用人たちは、何とか民衆が大広間へ乱入するのを防いだ。屋敷へ侵入した民衆が、民変の常として能う限り血を流さないよう、けが人を出さないようもみ合うだけで積極的に攻撃しないからだ。

しかし相手には、流血を避けようという意志がなかったようだ。

「ギャー」

「助けてくれ」

突如として悲鳴が上がる。わっ、と民衆が身を引いた。後には、手足を切断された数人の男たちが、涙を流しながら転げている。

「お前たち、命が要らぬようだな」

三人の男たちが、笑いながら血の滴る刃をちらつかせている。巡察吏の衛士、とは名ばかりの用心棒たちだ。

 それでも扱いの難しい双刀や護手鈎、日月乾坤圏まで使っているところを見ると、それなりの使い手である。武林(武術界)を放逐されたはぐれ武術家であろうか。

 だが彼らは、血を見ることに気後れも戸惑いもないようだ。

「ほれ、ほれ」

用心棒たちは、手足を失って転げる男たちを刃の先でなぶる。助けようとする仲間を、次々と血祭にするためだ。

「ひゃ、ひゃ、ひゃ、ひゃ……」

「残念だったな。もう一歩だったぞ。おっと、もう足はないか」

 まさに用事棒たちは、まさ殺戮を楽しんでいた。

「待て、待て、待てー」

と、その虐殺の現場に向かって、一艘の遊覧船が池の水面を滑るように接近した。大きく弓なりになった石橋をくぐって現れた遊覧船の中には、四人の男たちがいた。

 櫓を漕ぐ、渋柿色の忍び装束を身にした男。たおやかに扇を使う、胸まで届く美しい総髪をなびかせた儒服姿の男。黒鋼の鎧も物々しい、鬼神も逃げ出す怒顔の武人。

 そして船首には、巨大な日傘を片手にすっくと立つ、若い面長の貴公子の姿があった。

「なんと……」

その場で戦っていた皆は、思わず絶句して動きを止めた。

貴公子は、禁色である黄色の戦袍と陣羽織を身にしていたからだ。さらにご丁寧にも、手にした日傘も黄色である。

だが驚くことは、それだけではない。

「……五爪の黒竜紋……」

誰かが、やっとの思いでつぶやいた。

黒貂の縁取りを付けた陣羽織と日傘を飾る文様は、明らかに皇帝の勅紋である竜紋であったからだ。

 人々が、唖然として見守る中、遊覧船は大広間の前に乗り付けた。

「おのれ、何という不敬。大逆罪だ! 何者か」

残虐な用心棒たちの戦いを、手をうって観覧していた巡察吏はいだけだかに叫んだ。

だが糾弾された当の貴公子は、玉を握った黒竜の顔が金銀玉璧で大きく象嵌された南蛮鎧の胸を張って、とんと臆する風もない。

「慮外者め。このお方を、どなたと心得る」

 変わって、扇を使う総髪の儒者が、堂々と答えた。

「先の北夷との戦いで、国姓を頂いた越王、朱光圀さまにあらせられるぞ」

由比正雪の答えに、巡察吏も杭州の役人たちも愕然とした。

「……そんな」

「何故、このようなところへ」

とりあえず皆は、大広間から飛び出し、池の畔に立つ光圀の足下へ身を投げた。

「詩人としても著名な北宋の大宰相、王安石は民の信頼をして、『百年養うも足らず、一日毀いて余り有り』と評したという」

光圀は、ひれ伏した皆を激しく糾弾した。

「汝らの無道、厚顔な振る舞いの数々。これから再び信頼を回復するのに、どれだけの年月を必要とするか……。考えるだけで、そら恐ろしいことよ」

十兵衛三厳も言った。

「まったくよ。一日で失うものを、お前たちはかくも念入りに損なったのだからな」

「……ちぃ。もはや、これまで。やれ、やってしまえ」

巡察吏は、配下の用心棒たちをけしかけた。

だが、今回は勝手が違っていた。相手になったのが、十兵衛三厳であったからだ。双刀や護手鈎の使い手も、十兵衛三厳の剛剣の前にあえなく切り倒された。

 日月乾坤圏を、懐から取り出した飛爪(革ひもに鉄爪を付けた武器)に引っかけて振り回した男は、しばらく抵抗を続けた。

 だが兵四郎に、トウガラシで煮詰めた金剛砂と火薬入りの鶏卵を投げられて視力を奪われると、由比正雪に呆気なく討ち取られた。

「おのれー」

自棄になった巡察吏は、足下に落ちた双刀の一本を握って、光圀に斬りかかった。だが、あまりに稚拙な動きである。光圀は、簡単によける。派手な水音が上がった。

 巡察吏が、勢い余って池に転がり込んだのだ。

「大人しく縛につけ」

光圀は、振り向きもせずに警告を発した。

 それでも濡れネズミとなった巡察吏は、刀を握って池から出てこようとする。

「はっ」

光圀は、気合い一閃、腰の剣を抜き放った。振り向きざまの居合いの一撃だ。

縁に片足をかけていた巡察吏は、たいしてなかった身長を、肩の高さにまで縮めると再び池に戻った。

その最中である。光圀の視界の隅で、コソコソと動く者がいる。

杭州の役人たちと、これと結んだ豪商の面々だ。

「何処に逃げるか」

光圀は一喝した。

すくみ上がった役人や豪商らは、いかにも情けない表情で互いに顔を見合わせた。

「へへっー」

「恐れ入りました」

 一同は、半べそをかきながら、その場で再び平伏した。

 

 結局、たちまち紹興の宮廷ぐらしに飽いた光圀は、お忍びの諸国漫遊へ旅だったのだ。

「目を離したら、糸の切れた凧同然のお方でございますからな」

と、悟りを開いた由比正雪、十兵衛三厳、兵四郎の三人がお供となった。

 旅立ちに際して光圀は、己の名前の『国』の字を、正式に唯一の女帝である則天武后の定めた『圀』の異字体に改め、国家を改革するという決意を新たにした。光圀の脳裏には、「新しき治世を信じたい」と、潔く自害した宇喜多秀家と、「民が苦しむことあれば再び現れる」と明言し、行方をくらました修羅の剣士、金井半兵衛の姿があったのだろうか。

道中の光圀は、各地で庶民の不平、不満に耳を傾け、過ぎる非や不正があれば十兵衛三厳の振るう降魔の剣、そして由比正雪の鮮やかな知略をもって、必ずこれを正したという。

光圀の人情にあふれ、権勢家に対する秋霜烈日の仕置きの数々は、

「官吏や権門は、私腹を肥やすのが仕事さ」

 と、はなからあきらめていた庶民の間で大評判となった。

やがて光圀の破邪顕正の旅行記録は、お供の由比正雪の手によって物語となる。

 その痛快無比な冒険談は、発表のたびに洛陽のみならず大陸全土の紙価を数年に渡って高らしめ……すなわち、空前絶後の大ベストセラーとなって、いつの世でも権力者の横暴に泣かされる庶民に、こよなく愛されたという。