小説
幻想小曲集より
第一小曲
幻夢秋月
……冴え冴えとした下弦の月の明るい夜でした。叔母に連れられて、叔母の嫁ぎ先の屋敷を出て、小一時間も歩きましたろうか。城南運河にかかる木橋の上にさしかかりました。音羽橋という小さなアーチ形の橋で、欄干に凭れて水面を見下ろしながら、一休みしました。
叔母は見合い相手に嫁いで一年半、二十七歳でした。わたしは中学二年生です。
獰猛な生き物がうつ伏せに眠っているような深い運河の水面は、どろりとして、月光の下で黒光りしています。土手の草むらから虫の音が聞こえるだけで、とても静かでした。
――おまえはよく、死んだうさぎの耳を持って振り回して、あたしを脅かしたわねえ。
と叔母が小さな溜息をついていいました。
叔母の実家(わたしの母方の祖父の家)は兼業農家で、庭の小屋に常時十匹ほどのうさぎが飼われていました。死んだうさぎはわたしの恰好の遊び道具で、叔母が異常に怖れるものですから、かえっておもしろがって、うさぎの真っ赤な目を叔母に押し付けるようにしては、家の中を追いかけ回したものです。
――映画にもよく連れていった。おぼえているかい。
――ええ、おぼえていますとも。
――おまえはまだ五、六歳のころだから、映画の中身まではおぼえてはいないだろうけど……
場末の暗い映画館の座席で、酢こんぶをしゃぶりながら、わけもわからずおとなのれんあい物語を見ていました。叔母は美しいけれども地味な女で、縫製会社で縫い子として働きながら、日曜日にはわたしを連れて映画を見に行くのが常でした。
――あたしほど、おまえをかわいがった女はいないよ。おまえは大きくなっても、そのことだけはわすれちゃだめだよ。
わたしの手を引きながらそういうのが、そのころの叔母の口癖でした。
叔母は三人姉妹の末娘で、わたしの母が長女です。もうひとりの叔母(次女)が婿を取って、子供が生れたものですから、わたしは遠慮をして、小学校へ上がるのと同時に、叔母たちの家から遠ざかりました。
その後、わたしが中学生になったときに、母が再生不良性貧血という病気で亡くなって、父とふたりきりになったものですから、ちょうどそのころ嫁入った叔母は、ときどき、嫁ぎ先へわたしを呼び寄せて、ご馳走をしてくれたり、お小遣いをくれたり、何かと面倒を見てくれるようになったのです。
――いまはもうだれもいないけれど、夏の夜は、この運河の土手は恋人たちで一杯になるんだよ。おまえももうすぐ、若い女を連れて、こんな草むらに隠れるようになるんだろ。
橋の欄干に両肘を突いて、ふいに叔母はなじるようにいいました。細面の暗い顔が、じっとわたしを睨んでいます。
――そんなこと……
返答に困ってわたしは口ごもりました。
――ひでゆき、わたしは好きでもない男と結婚させられて、こわいこわい赤ん坊を死産したんだ。おまえが振り回したウサギと同じだ。死の塊だ。そんなものが、わたしの身体から出てきたんだ。こわい、こわい、こわい思いをしたんだよ。
そうでした。ほんの三月前に叔母は死産をしたのです。死んだウサギを見ただけで、異常なぐらいに震え上がり、絶叫して、あやうく卒倒しかけた叔母です。とても神経が細く、もしも胎児の死体を見せられたりしたら、まちがいなく気がふれたことでしょう。
――もうやだ。二度と赤ん坊など産むものか。だれがなんといっても、いやなんだよ。
叔母は欄干に顔を伏せて、しのび泣くようにいいました。わたしは心配になって、蒼ざめた叔母の横顔を覗き込むようにしました。
――叔母さん、だいじょうぶ……
――ふふ、平気だよ。ひでゆき、ちょっとここを触ってごらん。
叔母はわたしの正面に向き直ると、やにわに右手を伸ばしてわたしの左手首を取り、ブラウスの胸元に持っていきました。あっというまの出来事で、わたしの左の掌が叔母の温かな柔らかな乳房のふくらみに触れていました。
――ほら、大きいだろう。まだお乳がでるんだよ。しぼって出さないと、苦しくなるんだ。ひでゆき、飲んでみるかい。
わたしは慌てて手を引こうとしました。でも叔母の細い腕の力は思ったより強く、わたしの掌を乳房に押し付けて離しません。
――ほら、遠慮はいらないよ。おまえとあたしの仲だ。あたしはおまえがほんの子供のころから、心に決めていたことがあるんだ。
そういいながら、叔母は左手でブラウスのボタンをもどかしそうに外し、ブラジャーを下にずらせて白い豊かな乳房を露出しました。上向いた大きな乳首でした。叔母の左手は太綱のようにわたしの首に巻きつくと、またも強い力でわたしの顔を自分の胸元に引き寄せました。わたしはかろうじて乳首を避けて、横顔を叔母の乳房に埋めました。甘い、やわらかい、乳くさい、でも、陶然たる匂いに包まれました。
ああ、この人はなつかしい母のいもうとなのだ。血を失って死んだ母の姉妹なのだ。わたしは思わず母の匂いを探し求めて、みずから叔母の乳房に顔を押しつけました。叔母は満足そうな大きな吐息をつきました。
――おまえはわたしのこどものようなものだ。こどもはおまえひとりでいいんだ。ひでゆき、わたしのおとこはおまえだけだ。わたしはおまえひとりでいいんだ。おまえはずっとわたしのおとこでいるんだよ。
叔母はそういうと、しっかりと両腕でわたしをだきしめました。
――おかあさん……
わたしは甘美な大波にのみ込まれて、わけもわからずそうつぶやくと、きゅうに涙が湧き上がってきました。わたしは叔母の胸元をぐちゃぐちゃに濡らしながら、ついにおんおんと大泣きしました。母が死んだときも、あまりに父が悲しむものですから、わたしの哀しみはそんな父に奪われてしまって、一滴の涙も流すことができなかったのでした。そのとき流せなかった涙が、いま母のような叔母の匂いに包まれて、たまらず噴き上がってきたようです。
――ひでゆき、いいんだよ。もっとお泣き。これからはわたしがおかあさんだ。
叔母はやさしくそういうと、冷たい手でわたしの背中を撫でさすってくれました。
――おまえはわたしのお腹から出てきた子供だよ。だから、また、わたしのお腹の中へ戻るんだ。わたしはむかしからずっと、きめていたんだ。おまえはだれにも渡さないよ。おまえはわたしの男になるんだ。
叔母の呼吸が荒くなって、真っ赤な唇がわたしの口に迫ってきました。
――あっ!
叔母の唇に触れる寸前で、わたしはわれに返りました。両肘を張って叔母を突きのけ、二三歩退って立ちすくみました。
――どうしたんだ。ひでゆき。なぜ逃げるんだ。もうおまえは男になっているのだろ。だれも見てやしないよ。この明るいお月さまの下で、わたしとひとつになろう。さあ、ここへくるんだ。ほら、見てごらん。
叔母はスカートをまくり上げて、白い両股を月光にさらしました。下着はつけていませんでした。黒い豊かなヘアーが見えました。細身なのに、胸も太股も豊潤なししおきでした。でも、顔は狂気を湛えて、弓形の細い眉と切れ長の一重眼のあわいに、殺気のようなものが漲っています。
――叔母さん、しっかりしてください。
わたしは涙も鼻汁も一気に乾ききって、どうしていいかわからず、ただそこに突っ立っていました。そのまま長い時間が経ったように感じましたが、でも、ほんの一瞬だったのかもしれません。
――わかったよ、ひでゆき……
叔母はそういうと、スカートを下ろし、ブラジャーを元通りに着けて乳房を隠し、ブラウスのボタンを下から順に嵌めはじめました。そうしながら二、三度また小さな吐息をついて、そのたんびに徐々に正気が戻ってくるようなのでした。
――おまえはあたしが叔母だから、そうして逃げ回るのだろう。
叔母はすっかり身なりを整えると、声も平常に戻って、いつものように静かな語り口に返ったようでした。また欄干に凭れて川面を見下ろしながら、
――それならほんとうのことを話して聞かせよう。
といいました。
――ほんとうのことって……
――おまえの死んだ母さんは、おまえの実の母さんじゃないんだよ。だからあたしは、おまえの叔母でもなんでもない。赤の他人なんだ。
――ええっ、そんなことは…… 嘘でしょう。
はじめて聞く話で、突拍子もないホラ話だと思いました。
――嘘じゃないよ。よく考えてごらん。おまえにだって思い当たることがあるはずだ。おまえはお父さんの愛人の子だよ。戦争中におまえを産んだ女は、おまえをお父さんに手渡して去った。
――……
――あたしの姉は、子供ができない体質だったから、おまえを実の子として大事に育てたんだよ。四、五歳になったおまえは、だれにも似ない顔つきの子供になった。おまえのお父さんは、自分の子ではないのではないかと、おまえを疑うようになった。
――……
――そのころから、お父さんの意地悪がはじまった。おぼえているだろう。おまえの身体には小さなアザが絶えなかったはずだ。あたしの姉が必死に庇ったから、あの程度で済んでいたのだよ。おまえがしょっちゅう、あたしの実家へ連れられてきていたのは、お父さんから避難させる意味もあった。
――……
――おまえはかわいそうな子だ。遊び相手になるうちに、あたしも情が移ってしまった。あたしとおまえはいくらも年がちがわない。おまえが男になったときには、あたしは女としておまえを抱き締めようと、あのころ心に誓ったんだ。
――そんなこと、とても信じられないよ。
――小学校へ上がる前に、おまえをお寺へ小僧に出そうとお父さんがいい出した。おまえは泣いて厭がったよね。おぼえているだろ。お父さんは、おまえを見るのも嫌だったのだよ。他人の子を押しつけられたのだと、思っていたからね。
――……
――もういまは、おまえを庇う者はだれもいなくなった。おまえはお父さんとふたりきりだ。姉は死に、あたしは嫁に行った。おまえはどうする。もういつまでも子供ではいられないよ。ひでゆき、早くおとなになるんだ。そうして自分の身を自分で守るんだ。このまま子供でいれば、必ずひどい眼に合う。一日も早くおとなになって、お父さんから離れなさい。あたしを抱いて、おとなになりなさい。ひでゆき、わかったかい。何も怖がることはない。自然にまかせればいいんだ。
叔母はまた一歩踏み出してわたしの左手首を握りました。さらに冷たい、凍えるような手でした。
――さあ、こっちへおいで。
そういうとウムをいわさぬ力でわたしを引きずって、橋の袂から土手へと降りていきました。虫の音がぴたりと止みました。
運河の土手は、丈高いススキや虎の尾の茂みを分けて、細々と伸びていく一本道で、おぼろに見える次の橋のかなたまで、月明かりの下で白々しく光っているのでした。虎の尾の黄色い花やススキの白い穂先が、僅かな風にもかすかに揺れています。土手の両斜面とも草薮ですが、夏の名残でしょうか、運河のコンクリート製の堤防へと降りる斜面には、人が草を踏みつけて、ひとりが楽に通れるほどの小径らしいものになったところが、あちらこちらにあるようでした。
叔母はわたしの手を引いて、そんな小径のひとつを降りていこうとするのです。夜露に濡れてわたしのズック靴とズボンの裾が重くなりました。
だめだだめだ、こんなことをしてはだめだ。たとえ血が繋がっていなくても、叔母は叔母だ。
という内心の声が激しい動悸とともに響いてきます。と、同時に、叔母への愛慕の念が急激にせり上がって、もう一度、さきほど触れたあのあたたかい乳房に顔を埋めたいという欲望が、熱く全身の細胞に沁みわたるようなのも感じていました。
ふたりもつれて転がるように斜面の土手を降りると、高さ一メートル、幅二十センチほどのコンクリート堤防に背を凭たせて、叔母は大きく両腕を開き、わたしを迎え入れて強く抱き締めました。
それから何をどうしたか、ほとんどおぼえていません。かがんだ叔母の手がわたしの濡れたズボンとパンツを下ろし、叔母の口がわたしの熱く漲った力に触れるのを感じたとたんに、たちまちにしてわたしが放射したこと、叔母がわたしをそのまま飲み干し、立ち上がってふたたび堤防に背中を凭たせると、左足を大きく持ち上げ、屹立したままのわたしを右手で導びき、やわらかい、灼熱の、特別な感覚の未知のものへと誘ったこと、わたしの首に巻きついた叔母の両腕に強い力が入ったこと、わたしの液体が、ふたたび叔母の躯の中へ、おびただしく流れ込むのを感じたこと……
すべてはほんの一瞬のできごとのように思えます。
――あああああ〜っ!
叔母は夜空に向って吼えるように、かつまた、長く尾を引く流星のように叫びました。わたしは荒い息を吐いて、そのまま叔母の足元に崩れるように座り込みました。慙愧の念が雷雲のように持ち上がってきました。なんということをしたのか! なんということをしてしまったのか!
でもそれは、こんなにも重い慙愧の念に反比例して、なんとあっけない、単純な行為であったことでしょう。これが、こんな簡単なことが、日頃あんなに重大に考えていた、〃性交〃というものだったのか。
――ひでゆき、これでいいんだ。これであたしも気がすんだ。
叔母は肩を落し、いぜんとして堤防に凭れたまま、顔中の皮膚が斜め上へ引き攣れたような形相でわたしを見下ろしていました。
――これであたしも安心して姉さんのところへ行ける。おまえはしっかり生きていくんだ。ひでゆき、さよならだ。
そういうと堤防に両手をかけてひょっと飛び越え、叔母はプールにでも入るようにざぶりんと暗い運河に飛び込みました。
わたしは起き上がることもできず、そのまんま仰向けに濡れた草むらに倒れこみました。わたしはまったく無力で、何もできません。深い、深い、深い落胆に似た感覚があるだけで、ほかには何も感じることができませんでした。
静まっていた虫の音がまた一斉に鳴き起こりました。下弦の月がすぐ眼の先にありました。いまわたしを抱いたのが、叔母であったのか、はたまた母であったのか、それすらもはやわたしにはさだかではないのでした。
…………五十年後のわたしの記憶の裏底には、はじめての子を死産した叔母の予後が悪く、そのまま失血死したという出来事が、かすかな滓のようにわだかまっています。叔母の死に顔の、その眼が、死んだ兎と同じようなまっ赤な色をしていたこと、それが通夜の席で話題になったことなども、やがてしみじみと思い出されてくるのです。