ちりりん――と音を立てて風が動いた。
気怠さを押して、首だけで庭を見遣る。塀際にならんだ低木の葉はぴくりともしていない。相変わらずの凪だった。ようやくあの馬鹿が到着したのだろうか。弥生は意を決して大の字に寝転んでいた身体を起こし、縁側の廊下から玄関に向かう。
「ごめんくださーい」
折れ曲がった通路の向こうから元気の良い少年の声が聞こえた。間違いない。
弥生は念のため突き当たりの壁に掛かった鏡で髪とワンピースの乱れを確認してから、そそくさと来客を出迎える。
「よ。おひさ」
榛名健太は、Tシャツに草色のカッター、黒のジーパン姿で引き戸の脇に立っていた。
白いキャップを脱ぐと、真っ黒に日焼けした顔にはいつもどおり満面の笑み。リュックを背負い、右手には白いビニル袋をぶら下げていた。
「暑いよな、まったく」
「遅いじゃない、馬鹿」40分も遅刻したというのにちっとも悪びれていないその態度に呆れ、弥生は腕を腰に当てて睨み付けた。
「悪い悪い。ちょっと近所のガキの世話しててさ」
「なにそれ。子守り?」
「町内のラジオ体操の監督と草野球チームのコーチ。お陰で朝の6時からずっと近所の公園だよ。もう2試合もこなしてきたんだぜ」
「ちょっと。泥とかでうち汚さないでよ。お婆ちゃん怒るんだから」
「なに、婆ちゃんいるの?」
「今は誰もいないけど。うち、そういうのにうるさいんだよ」
「大丈夫だって。シャワー浴びて着替えてきたから。大体コーチじゃ汚れねえし」
「いつも部室とか汚すじゃない。まいいわ。上がって」
「お邪魔しまっす」
勢いよく靴を脱ぎ捨てて上がり込みかけ、弥生に睨まれて怖じ怖じと靴を揃える健太。
「あ、ほら。これ」と、持っていたビニル袋を差し出す。中には俵型をした謎の黄色い野菜が2つ入っていた。「どうぞ」
「なに、メロン?」
「んにゃ。瓜だよ瓜。うまいぞ。もらいもんだけど」
「瓜って……漬け物にするの?」
「なに言ってんだ。そのまま切って食べるんだよ」
「瓜を?」
「え」驚いた顔になる健太。「知らねえのお前。メロンなんかよりもずっとうまいんだぜ」
「だって、そんな風に食べたことないもの」
「しょうがねえな。台所どこ? 切ってやるよ」
「ちょ、いいって。ありがと。あたしやるから、あちこち覗かないで」
弥生は勝手に奥に入っていこうとする健太を押し止め、縁側伝いに自分の部屋へ連れて行く。
「それにしても、お前んち、でっかいな。中も外も。門構え見たときちょっと躊躇したよ、俺」
「別に。古いだけよ。平屋だし」
「風格あるよな。旅館みたいだ」
きょろきょろと落ち着きのない同級生の少年を先程まで寝転がっていた畳部屋に追いやると、弥生は引き返して台所で麦茶のタッパーとコップを用意する。それらをお盆に乗せて部屋に戻ると、彼はすっかり寛いでいた。羽織っていたカッターは脱いでTシャツ姿になり、車箪笥の上に置いてあった団扇を目聡く見付けてきてばたばたさせている。
「あれ、瓜は?」
「冷蔵庫」
「なんだよ独り占めかよ」
「あんたがくれたんじゃない。どっちみちそんなのあと。まずはさっさと片付けるもの片付けないと」
「へいへい」
健太は渋々といった様子で、座卓の上にリュックから取り出した夏の課題を広げ出す。
弥生は脱ぎ捨ててあった彼のシャツをハンガーに掛け、鴨居に挟んである金具に吊した。「で、どこまで進んでるの」
「いやぁ、それがなぁ」
団扇の柄で頭を掻く彼の肩越しに座卓を覗くと、そこには白紙状態の各科目のプリントが並んでいた。
「呆れた。全然手付けてないんじゃない」
「なんだよ、お前だってまだ終わってないって言ってたじゃん」
「それでも半分以上は終わってます。もう信じらんない。今日中に片付けるのなんて無理なんじゃない?」
「やってみなきゃわかんないだろ」
「あっそ。言っとくけどあたし今日、夕方から友達と花火見に行くんだから、それまでに終わらせて帰ってよね」
息巻く健太に冷徹な言葉を投げかけ、弥生は自分の分の課題を隅の筆耕台から取り出してきて、彼の向かいに座った。
「よっし。じゃあ前半のプリント見せてくれよ」
はあ?「……もしかしてあんた、あたしのプリント丸写しする気?」
「そりゃそうだろ。じゃなきゃこんな勉強会なんてやる意味ねえじゃん」
「馬っ鹿じゃないの。そういうズルばっかしてるから、いつまで経っても頭良くなんないのよ、馬鹿」
「馬鹿馬鹿って、俺はお前が教えてくれるっていうから来たんだぜ」
「わからないところがあったら解き方教えてあげるって言ったの。自分でできるところは自分でやらなきゃ」
「けぇっ。これだから学級委員とかやってる奴は嫌なんだよな」頬杖を突き、そっぽを向く健太。「あーあ。こんなことならやっぱ
優香(さんが帰ってきてから頼めばよかった」
「うるさいな。部長は優しいからあんたみたいな馬鹿の頼みも無下にできないんだろうけど、そんなんじゃ自分の為にならないのよ。ほら、つべこべ言わず黙ってやる!」
不満そうな彼の顔を睨み付け、座卓をバンと叩くと、ようやく健太は姿勢を正す。
溜め息を漏らし、のろのろした動作で筆記具を使い始めた。
やれやれと思いながら弥生は自分のプリントに目を落とす。馬鹿にばかり構っていられない。もう夏休みも後半だし、今日中に全て終わらせておかなくては。
数学。幸いにも、学校の数学はまだ弥生にとってそんなに難しいものではなかった。方程式をちょっと目で追えば、すんなりと解き方が頭に浮かんでくる。それを清書するように書き出していくだけだ。惰性的に散歩したり電話中に落書きしたりするようなもので、この行為に思考能力は必要ない。
テンポ良く計算問題をこなせていることに気をよくして、弥生は空いた意識を前方に傾けてみる。往生際が悪いというかなんというか、健太はまだぶつぶつと口小言を呟いているようだった。
呟いている内容を聞き取ろうとしていると、そちらに集中しすぎたのか、計算式を書き間違えた。なにをやっているのだろう。弥生は意識を手元に向け直す。今は余計なことは考えなくてもいい。数学のことだけを考えよう。
数字と計算記号が目の前で踊る。記号という触媒を経て、脳裏で有機的に増減する数、変容する数字。この紙の上にあるもの自体は、みな現実には存在しないものだ。それなのに脳内で意味は生成される。それが、記号。頭の中だけで、息づくもの。
良い感じだ。健太のぼやきも裏山の蝉の合唱も、どこか遠くへ離れていく。肌にむんとした熱気。
蝉。大きな木。疎らに草の生えた空き地。
――あれ?
雨音。古ぼけた蔵。噎せ返るような土の臭い。
ああ……あの感覚が来た、のか。
脳の使われていない部分が、とうとう暇をもてあまして、勝手になにかを始めている。いつの間にか、無意識の整理場を作って……記憶の中から何かを引き出し、頭の余白に再構築しだしている。
脳裏の白いスクリーンに次々とスライドが掛け替えられる。普段はパスを開くことのない、忘れ去られた情景が――今日に限って、ごく浅い意識にまで浮上してくる。暑さのせいもあるのだろうか。歯止めが効いていない。蜃気楼のようにゆらゆらと、それでいて鮮明な映像がなにかを訴えかけてくる。
あれは――
蝉だ。あの蝉はどの辺りで鳴いているのだろう。大木に留まって。草の生えた、小さな空き地。瓦礫。雨が。蔵。土の臭いが、むんと漂い出す。汗が目に入ったときの痛み。そして、
声。薄暗い蔵の中。蜘蛛の巣の張り付いた塗り壁。瓦礫。床に投げ出されたジーンズの裾から突き出した運動靴。裏面の幾何学模様。じっと、息を潜めて――
ちりん、と風鈴が鳴った。
ふっと我に返る。手はちゃんと数式を解いている。見るまでもなく、庭に風が吹いている様子はない。きっと気まぐれなつむじ風かなにかだったのだ。
朝から縁側のガラス戸を全開にしているのに、まだ数えるほどしかあの音を聞いていない。午後ということもあってか直射日光は殆ど入ってこないものの、この無風状態は暑がりの弥生には少しきつかった。シャーペンを持った右手を上げると、汗でふにゃふにゃになったプリントがくっついてくる。
健太がどうなったか気になり、麦茶を手に取る振りをして様子を窺ってみる。彼も暑さに辟易している様子でTシャツの襟元をぱたぱたさせながらも、一応は集中してペンを動かせているようだ。
一見馬鹿っぽくてその実馬鹿丸出しの行動ばかり取っている目の前のこの少年が、実際にはそれほど頭の回転が鈍いわけではないことを弥生は知っている。それどころか、危機に直面した際のインスピレーションとレスポンス――いわばサバイバル力のようなものに関しては、あの学内随一の天才少女、
山際(優香(でさえも目を見張らざるを得ない部分があるのは確かだ。もちろん、優香は健太の能力を過大評価し過ぎているきらいがあると思うが、取るに足らない馬鹿、で済ますのは少し惜しくもある。弥生としては、彼への評価はとても複雑だった。
運動神経は抜群で、顔の造作は悪いというほどでもなく、リーダーシップを取れる甲斐性もある。あのやたら図々しい性格と、デリカシーの欠如がなんとかなれば、結構もてる男になるのだろうと思う。
……いけない。なにを考えているのだ。
何故か最近、彼に気を取られすぎてしまっている気がした。大体、彼の課題がどうなろうと知ったことではないというのに、今日の会合を持ち掛けたのも、やりすぎだったんじゃないだろうか。いくら彼女を守るためとはいえ――
守る、か。
閃光のようなフラッシュバックに目を閉じる。今日はどうもおかしい。こんなこと、さっさと切り上げよう。
弥生は汗ばんだ額をハンカチで押さえ、問題に戻る。
油蝉が一匹、庭木で喧しい鳴き声を上げ始めた。
「なあ」
「ん」突然声を掛けられて、少し焦る。ひょっとしてこっそり観察していたのがばれたのだろうか。「なに。わかんない?」
「いや。わからないところは後でまとめて聞くけど。えとさ、優香さんて」
「部長?」
「どこ行ったんだって」
「スコットランド」
「ス――外国かよ。2週間も。さすがお嬢様は違うね」
「それがなに」
「なにって、すげえなぁって」
「ふぅん」絡めた指の上に顎を乗せ、半目気味に彼を見る。暑い。「そう」
「なんだよ」
「別に」ぷい、と弥生はそっぽを向いた。
「気になるだろ」
「いいじゃん」
「良くないって。言えよ」
「じゃ言う。あんたさ、正直、あらゆる意味で全然似合わないよ部長と」
そのことか、と文句を言いたげに弥生を一瞥し、健太は答える。「わかってるよ、んなこた」
「あの子のあれはさ、同情みたいなものなんだから。なんていうか、捨てられた犬に向ける眼差しっていうか」
「犬でもいいかなぁ」
「ちょっ――」思わず目を見張る。「……そんなに好きなんだ」
「好きっていうか、憧れだな」指の上で器用にシャーペンを回しながら、健太が呟く。「あんなに頭が良くてスポーツや芸術の才能があっておまけに美人なのに、俺みたいな奴とも分け隔てなく接してくれるんだぜ」
「馬鹿じゃないの。能力や容姿と性格なんて、全然関係ないじゃない」
「まあお前にゃわかんねえだろうな」
「ふん」弥生は鼻を鳴らし、視線をプリントに戻す。「下らない。さっさと集中しなさいよ」
「元々はお前から思わせぶりに振ってきたんだろ。変な奴」
「ああもう喧しい。話しかけないで」
「へいへい」
座卓を挟んで押し黙る弥生と健太。その間に徐々に熱気が孕んでいくようで暑苦しかった。
もちろん、風鈴は舌をだらりと下げたままだ。
「なあ」
「……なに」
「暑くねえ?」
「暑いよ。夏だもん」
「クーラーとかないの、ここ」
「悪かったね」
「扇風機とか」
「…………」
「瓜食おうぜ瓜」
ばん、と音を立てて座卓を叩き、反動で立ち上がる弥生。その途端、蝉が泣きやんで、妙な静寂が流れる。
「……なんだよ」
「切ってくる」溜め息混じりに言って、そのままお盆を手に取り、部屋を出た。
失敗した。あんな事を切り出すんじゃなかった。
台所でメロンの要領で瓜を捌きながら、少し反省する。
確かにさっきの言葉は親切心から口にしたのだ。部長の山際優香は健太のことを恋愛対象としてなんかには絶対にみていない。それは彼女と長い付き合いの自分には良くわかる。でも、だからといって健太本人の気持ちには関係がないことだろう。大きなお世話というやつだ。
このまま気まずい雰囲気でいても仕方がない。どう謝ろうかと考えを巡らせながら部屋に戻ると、ちりりん、ちりりんと廊下で風鈴が元気よく揺れている。庭を見たが風が出てきたわけではない。障子から顔を覗かせると、健太が団扇で風鈴を仰いでいた。
「悪かったよ」横風に煽られて風鈴の短冊がくるくる回転している。「俺鈍いから、お前がなんで怒ってるかよくわかんないけどさ。謝るから、機嫌直せよ」
「別に……怒ってなんかない」座卓はプリントで一杯なので、お盆を縁側に置き、部屋を背にして座った。「ほら。食べよ」
「お。来た来た。これだよこれ」
嬉しそうに四つん這いで縁側に出てくると、自分の分の皿を引き寄せて添えてあるスプーンには目もくれずにかぶりつく健太。犬っぽい。
毒気もなにもすっかり抜けてしまった。この変わり身の早さも少しは見習うべきかもしれない。
そう思いながら、弥生も瓜を一口食べてみる。メロンよりも実が固めだが、瑞々しくさっぱりした甘みが口の中に広がった。
「おいしい。こんなのあるんだ」
「だろ? メロンのべたべたした甘さよりも絶対こっちの方がいけるって」得意気に言いながら、彼は4分の1切れをあっという間に平らげてしまう。
「まだ食べる?」
「いや。親御さんと婆ちゃんに残しとけよ」
ごちそうさま、と手を合わせ、彼は縁側のへりに脚を投げ出す。
「ふあぁ。ちっとはましになったけど、それにしても本当に暑いな。よくクーラーとかなしで過ごせるよ」
「でも、クーラー使うから余計暑くなるって知ってる?」
「なんだそれ」
「クーラーって、二酸化炭素がたくさん出るのよ」
「それがどうしたんだ」
「地球温暖化って、習ったでしょ。二酸化炭素の量が増えると、だんだん地球の熱が宇宙に逃げて行かなくなって、平均気温がどんどん上がっちゃうの」
「だからって、お前んちがクーラー使わなきゃ温暖化を食い止められるってことでもないだろ」
「屁理屈」
「どっちが。逆にいえば、たとえ温暖化したって、クーラーがありゃ平気なんだよ」
「暑さは良くても、北極とか南極の氷が溶けて海面が上昇したら、この辺は水浸しになるじゃない」
「南極の氷の温度って、どれくらいなんだ」
「え。零下30度くらいかな」
「なら気温が20度上がっても溶けないじゃん」
「はあ?」
「それに北極ってあのコップの氷みたいに海に浮かんでるんだろ」と、座卓を顎でしゃくる健太。「だったらいくら溶けても海面は上昇しないんじゃないのか」
「屁理屈」
「どっちが。って、やめやめ。また喧嘩んなるし。大体これ、中学生の会話じゃないぜ」
「じゃあさ」弥生はちょっと良いことを思い付く。「少し涼しくなる話でもする?」
「涼しくって」
「怪談。それに、ちょっとした謎もあるんだ。ミス研にとっては持って来いのお話でしょ」
謎という言葉を聞いた途端、健太は苦虫を噛み潰したような顔になる。行動パターンの読みやすい性格だ。
「あのな。知ってんだろ、俺が推理とか苦手なの」
「あんたね。部長に好かれようと思うんだったら、少しは推理力も鍛えないと」
「そりゃあ……」
不満げな健太に人差し指を突き付け、弥生は笑みを浮かべる。
「いいよ。じゃあ、賭けようか。あんたが勝ったら、数学のプリントは写させてあげる。その代わり、あたしが勝ったら、なんでも言うことを聞いてもらうってのは?」
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