
10時の特急で松山へ行こうと決めていたので、その前に駅のうどん屋で朝食を取ろうとしたら開店前だった。しかたなく、特急の一本前の各駅停車に乗ることにする。松山まで特急で50分、各停で1時間ちょっとだから大して変わらない。駅ごとに入れ替わるさまざまな人々を観察しながらその約1時間もすぐに過ぎる。もうすっかりこのペースが心地よい。ある駅では10分以上も停車していたりする。そういったことが楽しめるようになってきた。

松山に着いて遅い朝飯をホームの立ち食いうどん屋で済ませる。宇和島のジャコ天が乗ったうどん、四国のうどんはうす味だと聞いていたけれど汁の色が薄いだけで割りとしょっぱい。街の中心部までは市電で5分ほどなので歩いていくことにする。松山市は街の真ん中にお城があるのだが、大きな山の上に天守閣があるらしく、遠目に見ると街の真ん中にただ山があるだけにしか見えない。それでも近づいていくとお堀があるので、やっとお城だなと気づく。漱石が英語教師をしていた松山中学があった官庁街を抜け、街の向こう側にある今夜の宿“ホテルキング”に向かう。インターネットで見つけた70年代風(?)なデザインの古いホテルだ。宿泊料が安いこともさることながらその外観に惹かれて選んだ。

まだチェックイン時間前なので荷物をホテルに預け、街に出る。まずはお城に登ることにする。ケーブルカーやリフトもあるが歩いて上る。缶ビール代くらい節約できるし、汗をかいたほうがビールもうまい。残念ながら、江戸時代に建てられたという天守閣は修復中で見学できなかった。今まで見てきた広島城も今治城も最近になって再建されたコンクリート構造物で味気ないものだったからぜひ見てみたかった。
残念ながら天守閣ではない

次は山の麓にある“愚陀仏庵”。夏目漱石が松山時代に住んでいた下宿を復元したものだ。正確には二軒目に下宿した建物を一軒目の跡地に復元したもの、というちょっとわかりづらい話だが、「愚陀仏」とは漱石が当時使っていた雅号だ。当時すでに結核を発病していた正岡子規が療養のために帰省したときに52日間一階の部屋を間借りしたという、いわば日本文学史上で一番ポピュラーな史跡といえるかもしれない。ここで漱石と子規の関係を復習すると、ふたりは東京大学で同窓であり、漱石は大学時代から夏休みに子規の実家を訪ねたりしている。その実家でのある夕食に、子規と同郷の、当時まだ十代だった高浜虚子が同席したりと以後、三人は三つ巴の関係で日本文学のうねりを作り出していく。俳句の革新運動を起こしたものの、病から自分の将来がそう長くはないと自覚していた子規は虚子を後継者とするがそれを重荷に感じた虚子は拒絶する。漱石が英国留学中に志半ばにしてこの世を去る子規。子規なき後虚子は、英語教師という職業に自分を見出せないでいた漱石に、自分が主宰する文芸誌『ほととぎす』になにか書いてみてはと誘う。この軽い誘いに応じて漱石が書いたものが『我輩は猫である』であり、漱石は瞬く間に人気作家の道を歩み始める。

そんな歴史を作り出すことになる漱石と子規が、月並みな言い方をすると志を抱きながらも未来を描ききれないでいた若き頃の52日間を共に過ごしたのがこの愚陀仏庵といえよう。ここでは子規が中心となって毎夜のように句会が開かれ、時には漱石も二階から降りてきて参加したという。でも虚子に言わせると漱石の句には特に際立ったものはなかったとか。

城山の麓からちょっと上ったこの場所は鬱蒼とした樹木に囲まれていて、漱石が「骨董屋の主人があれこれ売り込みに来るのと蚊の多さに閉口して」二件目の下宿に移ったということがよく想像できる。
二階は漱石
一階に子規

「大街道」と呼ばれるアーケードのある繁華街を歩き市電のターミナル駅がある松山市駅へ。市電の一日券を買うつもりで来たのだけれど、ちょうどあと2分で道後温泉行きの「坊っちゃん列車」が出るという。時刻表を見ると1時間に1本しかない。坊っちゃん列車とは小説『坊っちゃん』にも出てくる日本最初の市電を復元したものだ。ちょっと作り物っぽいので乗るつもりはなかったのだが、一日券としても使えるチケットがそんなに高くないと知り思い切って乗ってみる。
坊っちゃん列車

ひとりで旅行をしていて初めての町で右往左往しているときに、ふとその土地に馴染めたなと思える瞬間がある。今回の松山の場合、この坊っちゃん列車が動き出したときがその時だった。理由は分からない。ニセの煙を吐きながらガラガラと大きな音をたてて走る「マッチ箱のような」三両連結の車両が、まったく現代的な街の中、例えば全日空ホテルの前を通り過ぎて行くウソくささに「もう開き直って楽しむしかない」と思ったのか、それとも漱石や「坊っちゃん」が乗ったというそのこと自体にミーハー的に感動したのか・・・。

約15分ほどで終点道後温泉駅に到着する。温泉まではアーケードの商店街を歩いて約5分ほどだが、まだ風呂には早いので近くにある子規記念博物館を訪れる。ちょうど「子規の青春」という特別企画が開催中で漱石の展示があったりもする。

子規記念博物館でゆっくり時間を過ごしたあと、ついに念願の道後温泉本館を訪れる。館内には「神の湯」と「霊の湯(タマノユ)」のふたつの浴室があってそれぞれ大広間と個室の休憩室を組み合わせた四つのコースが400円〜1500円まである。もちろん選ぶのは、漱石や「坊っちゃん」も利用した一番高いコース、ふたつの浴室と三階の個室休憩付きだ。

「・・・。温泉は三階の新築で上等は浴衣をかして、流しをつけて八銭で済む。その上に女が天目へ茶を載せて出す。おれはいつでも上等に這入った。・・・」(『坊っちゃん』夏目漱石)
道後温泉

入り組んだ館内を歩いて三階で小さな和室に案内される。ここで浴衣に着替えてさて入浴。まずは坊っちゃんが利用した「霊の湯」へ。小説では坊っちゃんが誰もいないはずの浴槽で泳いだのに次に来たときには壁に「泳ぐべからず」という札が下がったり、生徒たちの噂になったりと田舎町の偏狭さを大げさに語ったエピソードがあったが、その霊の湯に行ってみるとなんと幸運なことに誰もいない。慌てて浴衣を脱ぎ浴室に入り、誰かが来る前にとドキドキしながら縦約7メートルくらいの浴槽を平泳ぎで2往復ほどする。壁には観光用に「泳ぐべからず」の札がかかっている。この浴槽は当時のものとは違うらしいがもうそんなことは気にならない。

三人連れを皮切りにすぐに混み出した霊の湯を出て神の湯へ。こちらは大浴場で、小ぶりの銭湯くらいの浴室がふたつある。どちらも一昔前の雰囲気が満ち溢れていて楽しい。地元の常連さんもずいぶんいるようだ。この風呂だけなら400円だから通常の銭湯とかわらない。なんともぜいたくなことで羨ましい。

温泉を堪能した後、三階の個室に戻る。入浴時間を含めて利用時間は80分。十分な時間だと思う。しばらくするとお茶と「坊っちゃん団子」が出てくる。この団子も小説に出てきたものでまったく坊っちゃんづくしだが、この時ばかりはビールと枝豆だったらなあと残念に思う。ちなみに他の飲みものもあるのだがアルコール類はなかった。まあ風紀が乱れなくていいのかもしれないけど・・・。
これが枝豆とビールだったら・・・

漱石が愛用したという部屋は「坊っちゃんの部屋」と名づけられ見学できるようになっている。角部屋だから風が通って、なるほど一番いい部屋なのだろう。

自分の部屋に戻りゆっくりする。部屋からの眺めは、鉄筋コンクリートの旅館や飲食店ばかりだが、軒下にツバメの巣があって頻繁に行き来するのがせめてもの風情か。
貸切の個室から

1ヶ月程前に東中野のホルモン焼屋である知り合いから「道後温泉の裏のほうに昔遊郭があって、そこが今でもいかがわしい店が並んでいてすごいんだけど、そのはずれにお寺があって子規の句碑があるからぜひ行ってみるといい」と、うろ覚えのその句とともに教えてくれたので、探してみることにする。小説のなかにも次のようにある。

「・・・。風呂を出てみるといい月だ。町内の両側に柳が植って、柳の枝が丸るい影を往来の中へ落している。少し散歩でもしよう。北へ登って町のはずれへ出ると、左に大きな門があって、門の突き当りが御寺で、左右が妓楼である。山門のなかに遊郭があるなんて、前代未聞の現象だ。一寸這入ってみたいが、又狸から会議の時にやられるかも知れないから、やめて素通りした。・・・」(『坊っちゃん』夏目漱石)

当てずっぽうに歩いていくと左側に坂道があって飲食店が並んでいる。まだ日が明るいから看板も出ていなくてよく分からないがどれもスナック程度の店が並んでいるようだ。たぶんこの通りだなあと思って見ると、入り口には山門ではなくアーチがあり「ネオン坂歓楽街」とある。よりによって「ネオン坂」か。これこそ運命的出会いとでも言うのだろうか。
その名もネオン坂

坂を上っていくと確かにどの店もいわくありげに見えるが、坂道のうえのほうでは子供たちがサッカーをやっていて、傾いた日差しの中でのどかにさえ思える。坂道の突き当たりは確かにお寺で、階段を上ると小さな境内があり、植木の陰に句碑がある。

色里や 十歩離れて 秋の風

あの知り合いのうろ覚えはほぼ合っていた。ホルモン焼屋で聞いたときもいい句だなあと思ったけれど、こうしてその句が生まれた場所で詠んでみるとまた趣が違ってくる。きっと子規や漱石もこの遊郭をひやかしに来て、このお寺の境内でふと秋の風を感じたりしたんだろうなあ。
子規の句碑

帰りは普通の市電に乗ってホテルに戻る。部屋はゆったりしていて古めかしいソファが置いてあったりする。外見も70年代だし、部屋は東京の古い商店街に昔からあるような喫茶店のようだ。悪くない。

ホテルのカウンターにおいてあった「グルメクーポン」なる小冊子を見ながら晩飯の作戦を練る。どの店もこの冊子を持って行くと生ビールが一杯ただになったり一品ついたりするしくみになっている。ボールペンで気になった店に丸をつけていくと五つ丸がついた。焼き鳥、串揚げ、餃子、瀬戸内の新鮮な魚介類、創作居酒屋。中でも注目は主なメニュに「瀬戸の鯛わた塩辛」とある創作居酒屋。あるグルメ好きな知人に瀬戸内のお勧めイチオシにされた一品だ。各店の位置を地図に印を付けて歩くコースを決め早速出かける。

長年の酒飲み経験から、実際に店の前に行ってみるとあたりはつけられる。「瀬戸内の新鮮な魚介類」はなんてことのない居酒屋だし、一番気になった「創作居酒屋」はカウンターだけの店なので馴染めるかどうかちょっと迷う。そして3軒目、串揚げ屋の店のメニュに「瀬戸内コース(旬の小魚と野菜の盛り合わせ)生ビールと小鉢付1000円」とあるのに惹かれてとりあえず入ってみる。ここはクーポンがあれば10%OFFとなるはずだ。店内には「おすすめ坊っちゃんコース」なるものもあるが、なぜか赤シャツが一番になっているのが解せない。
串揚げ屋のメニュ

店はいかにも職人風のマスターとちょっときれいな東アジア系らしき女の子のふたりでやっている。瀬戸内コースは小いわし、ベラ、ふぐなど。なかなかおいしい。大阪で修行して地元に戻ったというマスターが言うには瀬戸内は小魚の食文化だということだ。四国でも太平洋側になるとカツオやマグロの大物になるとのこと。面白かったのはこのマスター腕はいいのだが実に商売下手というか、控えめな人で、それにくらべて女の子のほうはとてもしっかりしていて私の焼酎がなくなりかけるとマスターに目配せして「おかわりはいかがですか」などと言わせようとするのだが、マスターはそれに気づきながらなかなかできない。逆にこっちがそれを気づかって「おかわりください」と言う。

そんなことが二、三度あったころに初老の男性がひとりで入ってきて横に座る。例によって会話が始まる。どんな順番だか忘れたが、松山の沖に位置する中島にも水軍がいたとか、ちょうど今日、松山が空襲で焼けた日だということや、ターナー島の松の木は一度枯れてしまったが地元の小学校の先生が植え直したというような貴重な話が聞けた。おかげで予定以上に長居してしまった。その男性が帰ったのを潮に店を出て、酔いに乗じてさっき入りずらかった「創作居酒屋」に向かう。

この晩はどういうわけだか飲み屋で知らない人と話がはずむ夜となる。「創作居酒屋」は30代くらいのマスターと同い年くらいのお上でやりくりする10席程度のカウンターだけの細長い店だ。ちょうど一番奥に座った女の子の隣がひとつだけ空いていてそこに案内される。女の子は店の常連らしい。話は「鯛わた塩辛」から始まる。それを目当てに来たと言うと大阪出身のマスターは嬉しがって作り方やらなんやら話し始める。そしていつの間にか隣の女の子とお上も交え4人で話している。お上は今治出身、隣の子は地元松山。電車が1時間に1本しかないのに驚いたと言うと、3分毎に電車がくる東京のほうが信じられないという。言葉の話になると、松山っ子、今治っ子によればこの辺の言葉は同じ四国の高知よりは瀬戸内海の向こうの広島なんかのほうが近いそうだ。やはり海つながりなのだろうか。「海の民」の子孫たち。でも松山はおっとりで、広島は荒っぽく怒られているようだとか。ただ口をそろえて言うには関東の言葉が一番きついとのこと。旅ももう4日目で「東京風」を吹かせないのが賢明と気づいている私の丁寧な話し振りに「東京の人とは思えない」とお上から言われたのには喜ぶべきかどうか・・・。

閉店時間を大幅に過ぎているのに気づきあわてて店を出る。なんだか松山はいいところだなどと少々浮かれつつ帰途につく。暑い中一日動き回ったせいもあり急に眠気が襲ってくるが、ホテルに戻るとなんとフロアのエアコンが故障したから部屋を移ってくれという。眠いのを我慢しながら荷物をまとめ階下の部屋へ。70年代的雰囲気もいいけれど、最後の夜くらいもう少しお金を出して全日空ホテルにでも泊まればよかったと後悔しながらシャワーを浴びて寝る。明日はターナー島だ。
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