■商売人の住宅、もの造りの住宅……戸数を追う徒労(4)


  自分の過去の失敗を書くのは気が重い。
しかし、明確な目的もなく戸数を追う商売人の住宅の悲劇的な側面を、苦い実体験を通して知っていただくのも一興。

 ツーバィフォー工法のオープン化を勝ちとり、全国のビルダー仲間に主として商品化をメインにコンサルタントをしていた私が、各社の反応のスローさ、隔靴掻痒のもどかしさからビルダー業に乗りだしたのが24年前。
  幸いスポンサーが得られ、杉並の総合展示場へモデルハウスを出展した。だが、モデルオープン後5ヶ月たってやっと4戸の契約が取れた時点で運転資金が底をついた。
 いきなり総合展示場へ出展したのは、どだい無茶な計画。

 やむを得ずモデルハウスを買ってくれるよう地場の有力木材店に依願。木材店は新規事業参入のチャンスとその気になったが、得意先のビルダーが同じ展示場に出展していた。了解をとるために話をしたら得意先ビルダーが買収に名乗りをあげてきた。だだし「私が一緒に付いてくること」という条件付で…。
 かくて、人身御供として4人の顧客を連れてT社という中小企業へ単身で舞い降りた。

 当時のT社は在来木軸で注文住宅の分野に進出したばかり。年商は6億円程度の名もないビルダー。会社は態をなしておらず、商品力も技術力も低かった。もちろん営業力も社会的な信用も、信じられないくらい低い。大手の「あの会社は危ない…」という風評に脅かされていた。

 当然、ツーバィフォーが分かる人間は一人もいない。
 若い技術者を集めて特訓したが、いきなりプランや構造図が書けるわけがない。4人の顧客の家を順に深夜まで訪問し、プランを煮詰め、展開図を書き、実行予算を組み、構造図を書くという仕事を一人でこなさねばならなかった。
 そして、現場が始まれば在来の大工さんを現場で教育しなければならない。墨出しから始まってオートネイラー、コンプレッサーの購入、図面の読み方、作業や工程の手順、新しい造作材の開発と指導など一時たりとも気が抜けない。

 そればかりではない。
 展示場へ新規の見込み客が来訪しても、年配の営業マンはまともに対応出来ない。見込み客に対して営業マンと夜訪同行、プラン造り、概算の予算提出、契約の立ち会い。
 一人三役どころか四役も五役もの仕事が追いかけてくる。

 T社へ移って、最初の二年間は休んだのは元旦の2日だけ。
 ともかく年間の走行距離は6万キロを超えた。まさにベンチャーそのもの。ベンチャーというのは、軌道に乗るまではどの企業も昼夜の区別がない。徹底的にトップがフル回転しないとテーク・オフ出来ない。
 絶対にテーク・オフさせるという意欲、注文住宅の実務失敗者という烙印を捺されたくないという意地、それと新しい事業を立ち上げてゆく楽しさが私を走らせた。

 ただ、有難かったのは、若い優秀な技術者がそれなりに揃っていたこと。このため、次第にツーバィフォーの技術体系を体得して育ってくれた。二年目にはツーバィフォーが売上げの過半を占めるようになった。
 このため、新しいモデルと新商品の開発に弾みがついた。

 とくにファサードに210のスタッドを使い石造のような立体感を演出した新百合ヶ丘のモデル。本格的なアーリー・アメリカンの美しさを現出した町田のモデルは三井ホームをはじめ同業他社からも注目を集め、参観者はひきもきらなかった。
 また、モダンなアパートの新商品は受注を一気に加速させた。

 かくて、年商6億円にすぎなかった中小企業が7年目には年商100億円を突破して、西東京地域では押しも押されもしない地場No.1ビルダーになった。そして、ツーバィフォー協会の理事会社にも抜擢された。
 
  私は若い技術者に「ここまできたからには店頭市場へ上場を狙う」とハッパをかけて引っ張った。社長もそれまでの実績から私の言動に反対しなかった。証券会社が何社か社長を訪ねてくるようになった。

 上場計画と同時に狙ったのは太陽電池搭載住宅であり、超高気密のR2000住宅の技術開発だった。
  中堅住宅業者は技術面で大手に先行しなくてはならない。
  大手が苦手としている分野に特化してゆけば、もの造り企業としての存在価値が高まり、揺るぎない基盤が出来る。

 かくて、今から15年も前に「電気代がタダの家」を売り出し、新聞各紙やNHKが取り上げてくれた。また13年前に現在の次世代省エネ基準の性能を上回るSEA(Save Energy-Amenity) を売り出し、年間200棟の実績をあげた。
  高気密高断熱の省エネ住宅ではトップを走った。

 ところが、好事魔多し。
 この辺りから社長が地を出してきて大きく変身。同時に富士銀行の不可解な経営介入が始まった。富士銀行から専務と副社長が派遣されてきた。そして二人は茶坊主のようにもっぱら社長のご機嫌とり、社長の個人資産の囲い込みに励んだ。
  8億円を融資して800坪の宅地を買い1.5億円を投じて豪邸を建て社長に住まわせた。名義は会社の展示場として一切の維持費は会社が払った。さらにて4億円融資して小金井カントリーの会員券を買い、15億円融資して本社ビルの建設を計画しはじめた。富士銀行小金井支店の成績は格段にあがった。

 つまり、伸び盛りの企業を、社長と富士銀行がグルになって私物化しはじめた。企業は社会的な存在であり、施主のためにも社員のためにも上場してゆこうという私の構想は、茶坊主によって完全に捨て去られた。ベンチャーの成果を一方的に社長と富士銀行が横取りした。茶坊主の甘言に慣れた社長は、もはや私の正論を聞く耳を持っていなかった。

 それだけではない。
 注文住宅業界の実務が分からないくせに、社長の歓心を買ったという驕りから茶坊主は「売上げ倍増。3年間で売上げ200億円突破」というとんでもないスローガンを掲げた。バブル景気に浮かれてはしゃぎまくった。当時の銀行屋の常套的な悪習慣で幹部社員をノーパンしゃぶしゃぶ店へ連れていって懐柔したりもした。

 そして、生産性向上を名目に現場監督の持ち棟数を一気に年間25棟にしてしまった。さらに新入社員を一気に数十人も採用するという暴挙におよんだ。

 この意味のない戸数追求の結果はどうだったか。
 茶坊主の目に余るヨイショと社長の欲の深さに社員が呆れ、目的意識とやる気が急速に薄れていった。そして監督の激務がクレームを倍増させ、優良企業の経営内容は急速に悪化。

 各エリア担当の事業部長の仕事の60%はクレーム処理になってしまった。そして、部長が処理出来ないクレームは営業担当の茶坊主の方へもってゆくのが筋だが、ラチがあかないのが分かっているので開発担当の私に回ってきた。
  私の時間の60%が、後ろ向きの仕事に費やされた。
  この後ろ向きの仕事がどれほど辛いものであるか。どれほどストレスを蓄積させるものであるか…。

 商売人は、なんとか口先でお客を丸めこもうとする。それが出来ないと分かると逃げる。お鉢がこちらへ回ってくる。
  もの造りの人間は絶対に逃げられない。
  時には、横暴な客に殴られ、前歯が折れ、警察騒ぎになったこともある。それまで頑張っているのに、謙虚さと好奇心を失った社長と茶坊主は態度を改めようとはしない。

 腹の底からの怒りと幻滅から同社を辞した。そして2年後、同社は当然の結果として倒産。多くの施主には申し訳なかったが、もの造りを忘れた会社を救う手段は私にはなかった。