| 皆さんより一足早く一泊旅行に行ってきました。 震災後半年たった川口町、小千谷市、十日町市を訪ね、帰りは赤城高原の新緑を楽しんできました。 新潟地震のその後については改めて書きます。 関越トンネルを抜けると、山肌や田圃には未だに雪が残っています。そして、ところどころで淡い満開の桜を見かけましたが、広葉樹はつぼみのまま。 中越はまだ墨絵の世界。しかし、山村の風景は心をなごませてくれました。なぜなら、南九州や東海地方で嫌というほど目撃した竹林を、ほとんど見かけなかったから…。竹林が控え目で目立たない風景は、魂の隅から隅までを綺麗に洗浄。 赤城山腹には陶芸教室の俵萌子美術館があります。 その美術館の脇に行列が出来るおいしい蕎麦屋。 また、多品種格安直売野菜と花で有名な道の駅「ぐりーん・ふらわー牧場・大胡」もあります。 そうしたところを巡って新緑を満喫していると目と心が洗われます。ところどころで竹林が目立ちますが、現時点では風景を破壊するまでには至っていません。 旅はこうでなくちゃ。久々に自然を満喫。 話はがらりと変わります この4月に「木造住宅改革の旗手…ツーバィフォー住宅の魅力」(松下寛光著、三水社刊) が出版されました。 松下氏とは30年来の親交があり、ツーバィフォーの普及や木構造の復権に力を貸してくれた仲間の一人。 そこいらの駆出記者の半端な記述や眉唾ビルダー社長の独断PR物とは異なり、著作は系統的で説得力があります。 目新しさは少ないけど一読の価値あり。 しかし、ツーバィフォー協会の監修本ですから、ツーバィフォー工法の一方的な賛歌に終始せざるを得ない。それがなんとも歯がゆい。 たしかに、阪神淡路大震災でも新潟中越地震でもツーバィフォー工法の耐震性は見事に証明されました。 しかし、阪神淡路大震災でツーバィフォー住宅の全壊がゼロと書いていますが、これは意図的な間違い。間口2間半の家の耐力壁が足りず1/60ラジアン以上の変形を起こし、隣家に寄りかかって倒壊だけは免れた住宅を目撃。証拠写真を見た日本を代表する木構造の2人の先生は「全壊です」と断言。 どんなに優れた工法でも、耐力壁の配置がアンバランスだと倒壊するという貴重な教訓。それを、全壊ゼロとして封印したのは三菱自動車と同一の発想。 新潟中越地震では、震度7、加速度3000ガル以上と推定される田麦山、武道窪などの激震地にはツーバィフォーやプレハブ住宅が存在していなかった。したがって倒壊はゼロであった。もし激震地に立地していたらどうなっていたか?! また、ツーバィフォー工法をオープン化したのはツーバィフォー協会ではなく、ホームビルダー協会のビルダーと公庫の若手技術者の必死の戦いの戦果であったという事実。これを意識的にネグレクトしているのは姑息。 このほか、バルーンフレーミングに対する指針のなさ。一部業者の間違えたパネル化に対する指導と検査の不十分さ。カナダ政府とのR2000住宅の技術契約を部会に諮らず一方的に破棄し、高気密高断熱住宅での先導的な立場を失い改革の旗手どころか一周遅れの後発ランナーに成り下がった事実。 こうした肝心な点が削除されています。 しかし、そういったことよりも最大の問題は、ツーバィフォー住宅はカナダとアメリカの森林で成り立っている工法だという記述。これは「ツーバィフォー協会は北米の林業資本の奴隷に成り下がりました」との告白?! ホームビルダー協会がツーバィフォーをオープンな形で導入したのは画期的な意義を持っていました。 何回も書きます。 今から53年前の1952年。戦争中の乱伐で日本の山には国民の需要に応じられるだけの木材がないところから、日本建築学会は「公庫の木造住宅標準仕様書」の作成を最後に「もはや木造の時代は終わった。これからはRC造と鉄骨造の時代だ」と叫んで、明治大学の杉山英男研以外は木造住宅を見捨て去ってゆきました。 その先頭を切ったのが東大であり建設省。 しかし、1970年代になっても日本の住宅の主流は木造住宅。たしかに、日本の山には適木がなかった。しかし、海洋国日本には北米、北欧、オセアニア、東南アジア、ロシアからどしどし木材が輸入され、当時石油に次いで木材が2番目の輸入品目だった。 そのほとんどが丸太での輸入でした。日本の港湾に貯木して、細い3寸角に挽いていた。外材を日本の貧弱な基準に合わせて小細工し、儲けていたのです。 33年前のツーバィフォーのオープン化運動は、こうしたいびつな木材・建築事情を革新する一大運動でした。 「丸太で輸入するのではなく、製材品を科学的な工法と一緒に導入する」という内容。 つまり、3寸角の柱と細いスジカイ、キズリ、羽子板ボルトとカスガイで出来ていた耐震性と耐火性の弱い軸組。これに根本的な科学のメスを入れ、生産性と耐震・耐火強度を上げ、高性能な住宅造りを始めようというのがツーバィフォー工法導入の動機であり目的。 製材品での輸入にこだわったのは、日本には木材の強度を樹種、節などで一本一本グレーデングして供給するという思想と機械設備がなく、木造住宅の強度が何一つ担保されていなかったからです。 決して北米の巨大な林業資本に迎合したわけでも、白旗を上げたわけではありません。 この、強い理念で導入されたツーバィフォーは、その目的どおりに日本の木造住宅に科学の光を当て、従来の板目や柾目のみにこだわっていた日本の木造住宅を一新しました。 しかし、在来の軸組が本当に一新された契機は、ほかでもない10年前の阪神淡路大震災。 資材を徹底的にケチり、プレカットされた3寸角の柱でスジカイ、キズリ、羽子板ボルト、カスガイなどで構成していた軸組は見るも無惨な姿を天下にさらけ出してしまいました。そして、5000万人以上の市民を瞬時に軸組の下敷きにしてしまったのです。 この最大の責任は51年前に「木造住宅よさようなら。RC造、鉄骨造よこんにちは」と叫んで逃げた建築学会にあります。しかし、安普請を請け負ったビルダーや大工の責任は決して免責されるものではありません。 だが、この阪神淡路大震災を契機に、日本の木軸は革命的な大変身を遂げました。 それは集成材の採用であり、剛金物の開発。 北米や北欧にも昔から「ポスト&ビーム」と呼ばれる柱・梁工法はありました。しかし、その接合金物は厚くてほとんどが露呈しているもの。 ところが、日本が開発した剛金物は木材の中に埋め込まれており露呈していません。つまり、火災に遭遇しても、木材の表面が炭化して構造金物を破壊しません。つまり焼け落ちる心配が皆無になってきたのです。 それだけではありません。この集成材による剛金物木軸に断熱気密パネルと29mmの剛な床下地合板の面材が採用され、木軸は完全に生まれ変わりました。 つまり、6面体の木造モノコック構造は、ツーバィフォー専用ではなくなってきているのです。 |