今回私が書こうとしていることは、きちんとした統計資料の裏付けがあるわけではない。したがって1つの仮説、つまり概念論と捉えていただきたい。 1950年頃から始まった割賦住宅という名の第1期イノベーション。これはどこまでも資金に関するイノベーションであって、建築工法や技術に関しては何一つとしてイノベーションがなかった。 殖産住宅、日本電建、太平住宅、三和建物などは在来木造住宅のみに依存し、そのなかで有力な工務店を組織化して指定工事店としただけ。 一方、工務店の方は、名刺に大きく「殖産住宅指定工事店」と書き、大手から選ばれた技術力の確かな業者であるという信用力を誇示し、最大限にこれ利用して受注に励んだ。 そして、1963年から1978年までの15年間。新設住宅の着工量は、ほとんど毎年対前年比で20%以上の伸びを見せた。笑いの止まらないウハウハの季節だった。 拙著の「高気密住宅ものがたり」には、この時代の豪雪地帯魚沼の大工養成施設の異常なブームの様子と「いってこい」と呼ばれた元請け業者の粗利の大きさを如実にうかがい知ることが出来る。 この時期は、単に建築だけが景気が良かったわけではない。あらゆる産業が急激な右肩上がりのブームに沸き、中卒の若手が枯渇して人手不足が日本全国で叫ばれた時代でもあった。とにもかくにも、先に設備を投資し、一人でもよけいに人を集めた者が勝ちという時代。 住宅建築業界も例外ではなかった。 日本の住宅不足は膨大で、住宅の需要は半永久的に伸び続けていくものとほとんどの人間が信じていた。 この時期、注文住宅には2つのベンチャー群があった。 1つは、年季奉公の明けた大工の、新しい工務店への変身。 さなぎが蝶になるように、多くの若い大工達が湧き出てくる需要を当て込んで独立した。 地方では目先のきいた者は土木にも手をだし、住宅だけでなく総合建設業として官公需にも手を拡げた。 そして、新規に工務店を起こすのは原則として大工だった。異業種からの参入は皆無とはいわないけど極端に少なかった。つまり大工全盛時代であり、切妻と寄棟、入母屋の屋根がこなせれば住宅のプロとして大きな顔が出来た。 注文住宅の主役はどこまでも大工。 もう1つは、異業種からプレハブへのエントリー。 プレハブを呼んだ代表例が東京の都営住宅。 2000戸を建てなければならないのに、応札が1社もない。 民需が忙しくて、公営の安い住宅なんかやろうとする業者が不在だった。 これに不安と焦りを覚えた建設省は、ヨーロッパからプレキャストコンクリート工法を導入し、中層賃貸住宅のプレハブ化を一気に進めるしかなかった。そして、大声で「プレハブ化」を叫んだ。人手不足を解消するというよりは、応札不足を解消するにはこれしかなかった。 この中層のプレハブ化の動きに便乗して戸建て住宅のプレハブ化の動きも進んだ。 鉄骨屋、木材屋、樹脂屋、設備機器屋、繊維屋、機械屋、コンクリート屋、etcによって…。 しかし、戸建ての住宅では各地に大工がひしめいていて、なかなかその牙城を崩すことが出来なかった。消費者の意識の中にはプレハブというのはペラペラの安物というイメージが刷り込まれていて、需要は一向に盛り上がらなかった。 庭先に建てる1坪とか2坪程度の安物勉強部屋はなんとか売れるようになった。しかし大工さん以外のド素人に戸建てを頼もうという物好はいない。 破れかぶれで、多摩川で建設省の主催で開かれた短期のプレハブ住宅展示会に数社が試みに出展した。たった1週間の展示であったが、現物を見て注文してくれる消費者が現れたのである。 そこで初めて気が付いた。今までになかった新しいプレハブを売るには、自動車のように実物を展示しておく展示場がないかぎり駄目だということを…。 そして、展示場を持つには、セールスマンを置かねばならないということを自動車業界から学んだ。 爪を短く切り、綺麗に散髪し、ノリのきいたワイシャツでネクタイを締め、頭を下げて両手で名刺を差し出し、お客の記名をきちんと取れるセールスマンを…。 と同時に、1社だけの単独展示場では集客率が悪い。どうせやるなら何社かが共同で出展した方が効率的だということも次第に経験を積んで分かってきた。 こうした試行錯誤を繰返しているうちに神風が吹いてきた。 それは、銀行からのアプローチ。 戦後の重点的傾斜生産方式で、銀行は集めたカネを紡績、石炭、鉄鋼、造船などの基幹産業へ重点的に融資してきた。しかし、基幹産業が一息つきはじめた時、銀行は諸外国を見てあわてた。 アメリカをはじめ諸外国の銀行のメインの仕事はローン。相手は個人の消費者。いつまでも基幹産業を相手に商売していると、幕府や殿様に貸し込んだ江戸時代の金貸業と同じ運命になってしまう。このままでは殖産や電建などの割賦業者にやられてしまう。なんとかローン事業を立ち上げねばならない。 そこで、ピアノローンとか自動車ローンが登場した。これらのローンは、どこまでもメーカーへの信用で貸した。 本来、ローンというのは銀行の独自の判断基準で融資の応否を決めるもの。ところが、基幹産業だけを相手に殿様商売をしてきた銀行には消費者の個人信用に関するデーターもなければ審査ノウハウもない。 そこで、メーカーとの提携ローンという形でピアノと自動車ローンをスタートさせた。 次は大物の住宅ローン。 もちろん銀行には消費者を審査して与信を与えてゆく能力がない。そこで、住宅の場合もやむを得ず提携ローンでゆくしかなかった。 ナショナルとか東芝とかという大資本系列のプレハブだと心配はない。しかし、どこの馬の骨か牛の骨か分からないダイワとかミサワなどというベンチャーがプレハブには圧倒的に多い。これと提携ローンを組むというのは大変にリスキー。しかし、そいつらと組まない限り住宅ローンは伸びない。 苦渋の選択であったが、銀行はお目付き役をベンチャーに派遣するという非常手段でプレハブのベンチャー群への融資を始めた。 右肩上がりの時代。消費者は借金さえ出来れば土地などの値上がり益に便乗出来た。不労所得の仲間入りが果たせた。 したがって、プレハブ住宅というのは伊勢湾台風で屋根が吹き飛んでしまうものだということを十分に熟知しながら、ローン付きのプレハブを買った。個人資産を形成するにはそれしか選択肢がなかった。 折から、住宅産業が未来産業の雄であるかのように雑誌や新聞で囃されるようになってきた。 かくて、日本の上場企業の半分以上が何らかの形で住宅産業へエントリーした。 商社も銀行も証券も不動産も…。粉屋も鉄屋も土建屋も船屋も機械屋も電気屋も糸屋も鉱山屋も山師もペテン師も…。 1970年から1978年にかけては、住宅業界では下命を受けたサラリーマンベンチャー達で溢れていた。 |