沖縄@マンボウ
”森川公園”
宜野湾市
真志喜区の東の小高い岡に位置し自然・斜面をうまく利用し作られた高台の公園です。
公園内には、羽衣伝説の舞台でもある”森の川”や石門などがあり史跡にもなっております。
森の川の湧水で淋浴していた天女に青年が巡り合う・・・って感じの話です

又綺麗に整備された歩道は運動コースにぴったり(高台の為、結構疲れました・・私は・・)
一番頂上は広い原っぱになっています。駐車場は20台ぐらいで少なめですが
路駐も可能だと思います。

画像クリックでUP写真
道路から見えるはこの入り口 駐車場は約20台ぐらい ジョギングでぐるっと一周でも
これが”森の川”湧水と周辺
石門(下記に説明文あります) 自然を多めに残した感じの公園です
頂上の広場 遊具は少なめ(滑り台・ブランコ・砂場)

西森碑記(にしもりひき) 宜野湾市指定史跡
この石碑は、高さ120cm、幅30〜60cm、厚さ10〜22cmのニービヌフニ(微粒砂岩)で出来ている。
尚清王(在位1527年〜1555年)の第7子を初代とする向氏(しょううじ)伊江家の人々が、この石碑の前にある石門と森の川の石積み工事を行い、その完成を記念して雍正(ようせい)3年(中国年号・1725年)に建立したものである。
碑文には「森の川で沐浴していた天女と奥間大親(おくまうふや)とが出会い、一女一男が生まれた。男の子は察度(さっと)と名付けられ、後に中山王に就いた。
私たちの元祖尚宗賢伊江王子朝義の母は宜野湾間切謝名村(ぎのわんまぎりじゃなむら)の野国掟の娘で、名を城(ぐすく)の大按司志良礼(うぶあんししられ)といい、尚清王の夫人である。
私達子孫は毎年5月、西森および森の川の泉を拝んでいるが、野国掟は奥間大親の末裔であるという伝説があるからであろう。
これらの事情により、私達は資金を寄せ、石工を集め、石を切り敷きつめ、泉を囲み、門を造った。また、西森の前にも長さ五丈四尺(約16.4m)の石垣を造り、門を開け出入りができるようにした。
これらは先祖をしのび尊ぶためである。よって、ここに石碑を建立しその事を記す。
大清雍正三年九月吉日、向和憲垣花親方朝理・向良顕伊江按司朝良・向和声西平親方朝叙」とある。
碑文の末尾の人物は三司官の向和声を含めいずれも伊江家の子孫たちである。  平成四年三月 宜野湾市教育委員会  (石門となりの説明文より)
森の川
沖縄県が「琉球国」と呼ばれていた1372年、沖縄中部地域(中山)の王として公式に初めて中国明朝との外交を開いた人が、この碑文に記される私たち郷土の偉人察度です。彼は、清泉「森の川」で出会った貧しい奥間大親と天女の間に生まれた高貴な人物とされ、その田畑には金銀が溢れ、黄金宮(現在大謝名在)と呼ばれる楼閣に住んでいたと伝えられています。その金銀とは、当時の「謝名(現在の大謝名・真志喜・大山の総称)」地域の土地・海幸の豊かさと住民の勤勉さをものがたっているのでしょう。(宜野湾市ホームページより)