プロローグとしての警告ここで、こうしたキリストの十字架と律法の契約の箱の「発見」が、聖書的に見て一体どういう意義があるのかを聖書を適宜引用しながら解説しなければならない。
今日、キリストを信じると主張しているいわゆる「キリスト教徒」というのは、キリストが我々の十字架にかかって愛の故に死なれたことを有り難がっているが、それがどうして必要だったのか理解していない者が多いのが実情である。甚だしきに至っては、「キリストが十字架で死なれたのは、神が我々を如何に愛しておられるかを印象付けるためのデモンストレーションであったのであり、全能の神は他の方法でも人類を救済する事が出来たが、愛を示すために敢えて十字架の方法を取られた」という主張(SDAロマリンダ大学のジャック・プロバンシャなどの曲学亜世の説など)をする者がある程である。しかし、そうした考え方は果たして本当に聖書的なのであろうか。単にヒューマニズム的に耳障りがよいだけではないのかと疑う人ももちろん多い。
マタイ7:15
7:15 にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。7:16 あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。1ヨハネ4:1−3
4:1 愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである。4:2 あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、4:3 イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である。
私たちはまず第一に、神はいかなる手段を用いても私たちの自由意志や判断を一様に強制するようなことはなさらないという事実を知らなければならない。それは物理的強制力はもちろんのこと、人の前でこれみよがしに引田天弘ばりの奇跡を行なったり、大衆操作的なデモンストレーションを含んでいる。サタンが荒野でキリストを試みたとき、サタンは「あなたが私にひざまずくなら、この世の主権をあげましょう」と言ったが、キリストは応じなかった。なぜなら、この世の主権ははじめから神のものであり、サタンはそれを横取りしただけに過ぎないからである。また、人を救いに導くのにサタンのこの世的な同意を必要とされなかったからである。だからキリストは躊躇することなく「サタンよ退け」と答えられたのである。従って、この場合、神の救いの計画は、大衆が言い逃れできるような、何か目に見える圧倒的な愛だか奇跡だかの啓示に従って罪深い人間の考えを改めさせようとしているのではない。大衆に受け入れられるというコンセプト自体が、そもそもサタンにひざまずいていると考えなければならない。だいたい、福音を伝道するのに、ヒューマニズムを主張するサタンの許可を得なければならないのであろうか。絶対にそんなことは有りえないのである。
エレミヤ5:30
5:30 驚くべきこと、恐るべきことがこの地に起っている。5:31 預言者は偽って預言し、祭司は自分の手によって治め、わが民はこのようにすることを愛している。しかしあなたがたは、その終りにはどうするつもりか。
使徒20:29
20:29 わたしが去った後、狂暴な狼が、あなたがたの中にはいり込んできて、容赦なく群れを荒すようになることを、わたしは知っている。
私たちがこれから直面する最大の「敵(エネミー)」は教会の外の不信者ではなく、教会の内部にいて真理を知っているかのようにふるまって実は真理とうらはらの方向に誘導する曲解者たちであることを、悟っている必要がある。
契約の箱とは何か?ローマ16:17
16:17 さて兄弟たちよ。あなたがたに勧告する。あなたがたが学んだ教にそむいて分裂を引き起し、つまずきを与える人々を警戒し、かつ彼らから遠ざかるがよい。16:18 なぜなら、こうした人々は、わたしたちの主キリストに仕えないで、自分の腹に仕え、そして甘言と美辞とをもって、純朴な人々の心を欺く者どもだからである。イザヤ8:20
8:20 ただ教とあかしとに求めよ。まことに彼らはこの言葉によって語るが、そこには夜明けがない。(→正訳: 唯だ掟と証とに求むへし。彼等の云う言葉此れに適わずばしののめあらじ!)
旧約聖書では、イスラエルの民がより深く神を理解することが出来るように、天における現象と神のご計画を理解するひな形として「聖所」をお与えになったことが記るされている。罪に陥って神から離れ、霊的理解力も減退し、視野も狭窄してしまった人類が、サタンの地上のパラダイム(秩序)ではなく、天の神のパラダイムを理解するようになるには、どうしても地上にそのひな型が必要であった。それが、別名「幕屋」ともよばれる聖所だったのである。
1列王8:9
8:9 箱の内には二つの石の板のほか何もなかった。これはイスラエルの人々がエジプトの地から出たとき、主が彼らと契約を結ばれたときに、モーセがホレブで、それに納めたものである。
至聖所と聖所(説明は下を見よ)
モーセ(または「モシェ」)が啓示を受けて、指示通りに作られた聖所とは、上の模型の写真で言うと、幕で囲まれた、「聖所(1)」と「至聖所(2)」という二つのコンパートメントに別れていた。「聖所(1)」には、備えのパンの台と燭台(メノラ)が置かれ、「至聖所(2)」には、モーセが受けた神の戒め(十戒)が書かれた石の板が置かれていた。なぜ置かれていたのか? それは、神と人類を信仰で代表するイスラエルの民との一致を約束した契約として保存されていたからである。つまらない世俗のビジネスでも契約書をサインしたものは重要書類として金庫にでも保存されるではないか。まして、これは天の神がアブラハムの信仰の約束に従ってイスラエルをお用いになって神の救いのご計画をこの地上に表わされることにイスラエルの民が合意したことを契約として保存したのであるから、恐らくこの地上にそれよりも重要な契約文書はないのである。
レビ16;2
16:2 主はモーセに言われた、「あなたの兄弟アロンに告げて、彼が時をわかたず、垂幕の内なる聖所に入り、箱の上なる贖罪所の前に行かぬようにさせなさい。彼が死を免れるためである。なぜなら、わたしは雲の中にあって贖罪所の上に現れるからである。出エジプト25:22−29
25:22 その所でわたしはあなたに会い、贖罪所の上から、あかしの箱の上にある二つのケルビムの間から、イスラエルの人々のために、わたしが命じようとするもろもろの事を、あなたに語るであろう。25:23 あなたはまたアカシヤ材の机を造らなければならない。長さは二キュビト、幅は一キュビト、高さは一キュビト半。25:24 純金でこれをおおい、周囲に金の飾り縁を造り、25:25 またその周囲に手幅の棧を造り、その棧の周囲に金の飾り縁を造らなければならない。25:26 また、そのために金の環四つを造り、その四つの足のすみ四か所にその環を取り付けなければならない。25:27 環は棧のわきに付けて、机をかつぐさおを入れる所としなければならない。25:28 またアカシヤ材のさおを造り、金でこれをおおい、それをもって、机をかつがなければならない。25:29 また、その皿、乳香を盛る杯および灌祭を注ぐための瓶と鉢を造り、これらは純金で造らなければならない。
聖所の前庭。水盤(左)、炉(右)がある。
神は人間が自分で自分の罪のとげを抜くことをお許しにならなかった。というか、人間の力ではそれは不可能なことなのである。罪とは神を裏切ることであり、神から離れることである。人間は神に創られた被創造物であり、神から離れては何もすることができない。自分の存在を支えることすらも出来ない。神から離れて生きるということ自体が自分の存在の拒否になってしまうのである。こうした人間の罪をあがなうために神が人間に提示された道は、犠牲制度であった。人が自分の身をささげて罪をあがなうのはよいが、しかしその場合、その人の存在はなくなってしまう。罪の報いは死であるということはパウロが新約聖書で証している通りである。そこで、愛の神は、人が罪から清められてもなお生き続けることができるように、信仰による身代わりの犠牲制度を設けられた。もちろん、ある人が他人のかわりに死んで身をささげても何の意味もない。ささげられるものは無垢で傷や汚れのない命でなければならなかった。そのために旧約の時代には、聖所において神が立ち合われて、そこで汚れのない動物(羊)の犠牲がささげられ、その血によって信仰により罪が許されるという「システム」が紹介された。しかしながら、もちろんそれは来たるべきものののひな形に過ぎなかった。天のメシアが来られて人類を根本的に救済されるまで、旧約に示された聖所はキリストの救いのプロトタイプとして人類に神の契約の証しとして与えられたのである。
旧約の記録によると、民はそれぞれ個人的罪を自覚するなり指摘されるなりしたときに、おのおの清い動物を携えて聖所に来たり、動物を屠って罪の清めを祈った。そして聖所の祭司は、年のはじめにイスラエルの民の罪のあがないのために血を携え至聖所に至りて(ヨムキプール)、そこにある契約の箱の上に注がれたのである。そのようにして一年間民が個人的悔い改めとして持ち込んだ罪の犠牲が総決算された。祭司はその場合罪のゆるしを神にこいねがう仲保者としての働きがなされた。この聖所の清めは一年に一度、毎年行なわれた。
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ケルビム(これは模型)
この年に一度祭司がはいる場所、至聖所に契約の箱があり、その箱の外には、どういうデザインであるかは正確にはわからないものの、み使いが守っているような意匠がほどこされていた。その箱はアカシアで作られて、外には海棲動物の皮のカヴァーがかけられていた。その中に律法の契約の石板が安置されていた。
契約の箱は、単に神聖な箱というだけではなく、それ以上の意味があることを理解する必要がある。それは、キリストが来られて十字架にかかられる以前において、罪の洗い清めという行為の中心的存在であった。そして、今天の聖所において、人類の罪がいま清められようとしているのである。
ヘブル9:7ー9、10
9:7 幕屋の奥には大祭司が年に一度だけはいるのであり、しかも自分自身と民とのあやまちのためにささげる血をたずさえないで行くことはない。
9:8 それによって聖霊は、前方の幕屋が存在している限り、聖所にはいる道はまだ開かれていないことを、明らかに示している。
9:9 この幕屋というのは今の時代に対する比喩である。すなわち、供え物やいけにえはささげられるが、儀式にたずさわる者の良心を全うすることはできない。9:10 それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いごとに関する行事であって、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎない。
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大祭司のいでたち
この場合、大祭司はメシアであるイエスキリストであるのは言うまでもないが、強調してし足りない。キリストは自ら大祭司でありながら、かつ犠牲の備えものとなられたことをここで学ぶのである。
さて、この契約の箱がどのような形をしていたかは、出エジプト記の25:17〜21を読むと知ることが出来る。
25:17 また純金の贖罪所を造らなければならない。長さは二キュビト半、幅は一キュビト半。25:18 また二つの金のケルビムを造らなければならない。これを打物造りとし、贖罪所の両端に置かなければならない。25:19 一つのケルブをこの端に、一つのケルブをかの端に造り、ケルビムを贖罪所の一部としてその両端に造らなければならない。25:20 ケルビムは翼を高く伸べ、その翼をもって贖罪所をおおい、顔は互にむかい合い、ケルビムの顔は贖罪所にむかわなければならない。25:21 あなたは贖罪所を箱の上に置き、箱の中にはわたしが授けるあかしの板を納めなければならない。25:22 その所でわたしはあなたに会い、贖罪所の上から、あかしの箱の上にある二つのケルビムの間から、イスラエルの人々のために、わたしが命じようとするもろもろの事を、あなたに語るであろう。
契約の箱のまわりに動いた歴史
この契約の箱は、モーセとアロンによって作られたが、その箱はヨシュアの祭司たちによってかつがれ、イスラエル民族がカナンに入るときにヨルダン川を渡った。その時奇跡が起こり、水はせき止められて民は無事に渡河することが出来た。それから契約の箱は常にイスラエルの民と共にあった。ヨシュアの死後一、二世代もしないうちに神の戒めの神聖さが忘れられ不信仰がイスラエルの民の内にみなぎったときは聖書では「師士の時代」と呼ばれ、それぞれが自分の目に正しいと思う勝手なことを行なう時代となった。その時にイスラエルはパレスチナの語源ともなったペリシテ人の侵入攻撃を受け始めた。信仰のある祭司はいなくなり、さしずめ20世紀末の日本のSDA教団同然の霊的に殺伐とした状況になってしまった。エリという名前の大祭司が契約の箱を管理していたが、その甘やかされて育った子供達が契約の箱の御利益を求めて戦場に引き出したところ、散々に破られ、エリの子供等も滅ぼされ、契約の箱は敵の異教徒の手にわたってしまった。預言者サムエルはそのようなイスラエルの危機のときに召されて神の働き人となった。不信仰なイスラエル人はその時に自らの上に王を立てることを求め、それが最初の王サウルであったが、彼も神に反逆して自ら滅んでいった。ダビデが次いで油を注がれ、ついには王となった。契約の箱も人間の想像を絶した不思議な方法で無傷で戻された。ダビデの次に王になったソロモンが神殿を建て、そこに石造りの聖所を建設し、契約の箱はその至聖所に置かれるに至った。ところがこのダビデ&ソロモンの王国も彼らの死後ヤラベアムの代になってまたもや堕落を開始し、その甚だしさは未信者イゼベルと結婚したアハブの時に極点に達し、多くの神に従う預言者が殺され、偶像礼拝と世俗主義がイスラエルを覆った。そして、イスラエルの12部族で構成された王国は、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂してしまった。エリヤは北王国でその背教的指導者に対して敢然と立ち向かった。イザヤは、北のイゼベルの娘をめとって堕落をはじめた南王国の中で預言をし、終末の警告を発し続けた。しかし、北王国はアッシリアに滅ぼされ、そこの10部族はユーフラテス川の向こうへ捕らえ移されて、以来今日まで彼らの行方はわかっていない。南王国は、預言者の警告にもかかわらず、懲りない反逆を繰り返した挙げ句、新興のバビロニア王国の攻撃を受けて滅ぼされた。その際彼らが誇りとしていたソロモンの神殿は徹底的に破壊された。紀元前586年のことであった。ソロモンの神殿にあった金銀製の什器、貴金属宝石類はことごとくバビロンに移送されたが、そこには契約の箱はなかった。契約の箱がバビロンに押収されていたら、それなりに記録されていたであろうし、バビロンの兵士の側にも神の神聖の栄光に打たれて死者が出て看過できない不穏当な事態になっていたはずであるが、それはなかったようだ。
契約の箱が失われる前に最後にそれについて言及したのはエレミヤであるが、
エレミヤ3:12〜16
3:12 あなたは行って北にむかい、この言葉をのべて言うがよい、『主は言われる、背信のイスラエルよ、帰れ。わたしは怒りの顔をあなたがたに向けない、わたしはいつくしみ深い者である。いつまでも怒ることはしないと、主は言われる。
3:13 ただあなたは自分の罪を認め、あなたの神、主にそむいて/すべての青木の下で異なる神々に/あなたの愛を惜しまず与えたこと、わたしの声に聞き従わなかったことを/言いあらわせと、主は言われる。
3:14 主は言われる、背信の子らよ、帰れ。わたしはあなたがたの夫だからである。町からひとり、氏族からふたりを取って、あなたがたをシオンへ連れて行こう。3:15 わたしは自分の心にかなう牧者たちをあなたがたに与える。彼らは知識と悟りとをもってあなたがたを養う。
3:16 主は言われる、あなたがたが地に増して多くなるとき、その日には、人々はかさねて「主の契約の箱」と言わず、これを思い出さず、これを覚えず、これを尋ねず、これを作らない。
そこには、失われたイスラエルの回復の神の嘆願が込められているようだ。南ユダ王国が滅ぼされ、民はバビロンに連行されたが、バビロニア帝国の滅亡後、エレミヤやダニエル、エゼキエルという神の預言者たちがおこなった証のゆえに、ペルシャの王は恩赦を出して、この民をエルサレムに戻って神殿を建て直すことを赦した。この帰された民はすなわち、イスラエルの二部族、ユダとベニヤミンであったが、それゆえに、この人々からルーツを発する(とみなされる)人を以来「ユダヤ人」と呼ばれるのである。このユダヤ人がエルサレムに戻り、エズラ、ネヘミヤの指導の下に信仰復興をするのである。それまでは聖所の祭司が管理して、民の前でしばしば読み上げられていた律法の書はこの時になって羊皮紙に大量に複写された。ユダヤ人はだれしもがトーラーをいつでも手に取って見ることができるようになった。しかし、肝心なものは失われていた。それはイスラエルの十部族と契約の箱だった。
ユダヤ人が信仰復興をさせたのは良かったが、それからまた数世代を経て、今度はすでに神がモーセに下さってあるトーラーの他に、そのコメンタリーとして、ミシュナとかタルムードという参考書が作られたのであるが、今度はそれがあたかも神聖な教典であるかのように強調され、それが偉いラビ(大先生)の言い伝えとして集積され、宗教家は人々にそれを墨守するように強要した。それが後にイエスが攻撃した「律法主義」の本態である。決して神の戒めを守ること自体が律法主義だというのではなかったのである。それは今日のキリストを信じると公言するクリスチャンが絶対に誤解してはならない聖書理解の分水嶺的なポイントである。イスラエルはこうして再度メシアを自らの手で殺すような堕落の道を歩んでいったのである。ちなみにキリストが偽善な律法学者と言って攻撃したパリサイ人というのは旧約聖書で神殿の働きをするように定められたレビの子孫ではない。実は彼らはレビでもなければ祭司の家系でもなんでもない、いわゆる「声の大きいヒラ信徒」の集団が増長化したものなのである。しかも彼らは自らを選ばれた特選のグループであると自称していた。これに対してツアドカイ人とよばれた人々は祭司系であって、レビの子孫も混じっていたかもしれない。しかし、そうであるにもかかわらず、世俗化してしまっていた事には違いがなかった。
しかし、キリストは何といわれたか。
私が来たのはイスラエルの失われた子等を捜し出すためである
と言われなかったであろうか。つまり、失われたイスラエルの回復の為にメシアであるキリストが来られたと言われたのである。イスラエルの一部であるユダヤ人はせっかくエルサレムに帰ることが出来たのに、それから400年たってから、旧約に約束されたメシアを拒んだ。ユダヤの世俗的宗教家たちはメシアよりも自分達がつくったミシュナーの規則を救いの根拠に選んだ。メシアなるキリストは自ら選ばれた民に裏切られた。こうしてユダヤの国は再びローマ帝国の攻撃を受け、第二神殿は再び破壊され、ユダヤ人は世界に散らされた。契約の箱の事もそれも何処へ行ったのか問うものも無く、全く忘れ去られたように見えた。
歴史の総括に向けて
当然の事ながら、キリストを信じて最初に集まった人々はユダヤ人であった。従ってこのユダヤ人は、キリストがメシアであることを受け入れたユダヤ人という意味で「メシアニック・ジュー」と呼ばれるものであった。ユダヤ人に与えられた福音はここから異邦人に伝えられるようになり、世界に広がって行った。ところが、その過程でキリスト教会は、そのユダヤ的な信仰的遺産を次第に捨てていってしまった。その中でも最たるものは十戒の第4条であるはずの第七日安息日遵守の変更であった。今日大多数のキリスト教会は安息日のかわりに週の第一日である日曜日を礼拝の日として遵守しているが、そもそも週の第七日が週の第一日になるべき聖書の根拠は皆無である。それがいつのまにか第一日になってしまったのは、一つの大きな理由として、キリスト教徒がパリサイ的ユダヤ人が受けるような苛烈な迫害を避けるために、ユダヤのアイデンテテイを消し去ろうとしたことがあげられる。どちらもローマから迫害されたが、後者への迫害が前者の迫害よりも激しかったのである。こうしてキリスト教はギリシャ正教との分離ローマカトリックが主導となり、キリスト教の暗黒時代が始まった。16世紀になってプロテスタントが発生し、さらに無数のキリスト教宗派が別れたが、安息日の回復は19世紀になってからのセブンスデーバプテスト(SDB)、セブンスデーアドベンチスト(SDA)の誕生を待たなければならなかった。特にセブンスデーアドベンチストには聖書全編の知識からほとんど2000年の間遠ざけられていた人間に聖書の史観を回復するために、わざわざエレンGホワイトという預言者まで与えられて信徒に聖書が教えられたのである。もちろん、歴史は繰り返すという諺を言うまでもなく、この教会でもせっかく与えられた預言者を軽んじ、その使命を理解しようとしないで否定するに及び、今は霊的衰退の坂を下り始めている。
しかし、預言者エゼキエルの預言したところにしたがって、イスラエルは奇跡的に自らの国を1948年に回復した。またSDAが霊的に衰退を始めた1980年になって、ユダヤ人の世界では、イエスキリストをメシアと受け入れるメシアニック・ジュダイズム(MJ)が起こった。ロン・ワイアットが契約の箱を見つけたのは、その同時期の1982年1月6日(注:奇しくも当ページの製作者の誕生日でもある)であった。
結語
これらの事をすべて考慮に入れるなら、ロン・ワイアットの契約の箱の発見について、次のような事が考えられる。SDAは一般にプロテスタント教会の中で第七日安息日の遵守を回復するために召され立てられた教会であると教えられているが、それは事実である。しかし、今、キリストが十字架に立てられた真正な場所からキリストの公生涯の最後の一瞬に起こった地震で生じたと見られる岩石の割れ目を伝って下りたキリストの血のかかった契約の箱がSDAの信徒であるワイアットの献身的で注意深い発掘作業の結果見出だされたということは、神が第七日安息日を守るSDAに歴史の最終ステージの幕開けの特権を授けられたという事を単純に意味している。SDAは聖書を信じるプロテスタントを安息日の真理を通してユダヤ・イスラエルの伝統に再会遇させる橋渡しとなるように召された、バプテスマのヨハネのような集団に過ぎないのかもしれない(「主の来たる道をまっすぐにする」というあの例の使命である)。
契約の箱自体はもはや、私たちの未来の救いを左右しない。しかし、それは、見出だされるならば、キリストの救いが確かに行なわれたという言い逃れのしようのない証拠である。旧約の清い動物の犠牲の血が注ぎかけられたという儀式にしたがって、事実、キリストの血は字義通り、ゴルゴダの丘の直下の秘められた洞穴に隠された契約の箱に人間の手によらずに、注ぎかけられたのである。これがもし、人の見えるところにある契約の箱であったなら、後世の護教主義者の創作であるとか、でっちあげであると批評されたかもしれない。実際、契約の箱に血が振りかけられる瞬間はいかなる人間の目によって目撃されなかったが、キリストのわき腹から血と水がわかれて流れるのはローマ兵もキリストの弟子達も目撃していた。そして、それが本当に契約の箱に注がれたという証拠は、世の終わりの、イスラエルの失われた子等が回復される最後の土壇場の時になって封印が開かれて全人類に驚愕をもって注視されるものとなるのであろう。
エピローグ
ちなみに、イスラエル政府は、このロン・ワイアットの契約の箱の発見の事実を探知して、現在非常な苦境に立たされている。なぜなら、契約の箱が見つかれば、イスラエルの国家再建の大きな民族的励みになるのだが、またそれが、キリストの十字架の真下にあって、キリストの血が注がれたということもわかってしまうと、ユダヤ教の者達が大量にメシアニックまたはクリスチャンになってしまうのではないかと心配しているのである。この事実は下のリンクに従い、紹介する。
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