アドベンチスト
成功する伝道者(牧会)の秘訣

| だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。(マタイ 6:24) |
私が少年時代に中学校の生徒会の会長を引き受けていたときのこと、自分達で学校行事のプランを立てると、教師達から賛同を得ても、同じ立場の生徒達から評判がよくないということが起こると自分は一体何をしてきたのかと悩むことがありました。逆に同級生などが喜んでくれるプランを作って職員室に持って行くと、教師達から「また生意気な」とか「勝手にやれ」という冷ややかな対応を受け、結局、両方から同時に支持され喜んで貰えるというようなことはほとんど無かったのでした。それはちょうど中間に立つ調停者の立場でした。上下両方からの要求、意見、苦言を受けて葛藤する場所でもありました。決して偉くて羨ましがられ、嫉妬されるような立場ではないのです。
イエス・キリストは神と人の間の調停者となられましたが、キリストがとりなそうとしておられたのは、こういう権威主義で頭の硬い教師と、怠惰でなるべく楽をしたいと思っている学校の生徒たちの仲介のようなものなのでしょうか。もちろん、キリストの場合は、学校の生徒会長と違って、上の人からやり込められて惨めにされることも、下からの要求に突き上げられて頭を抱えるという事もありません。キリストは、父なる神のみ心と、我々人間の祈りをとりなして仲裁されるのです。中学校の生徒会長の働きとは全く違うように見えます。しかしながら、私が教会にいたときには、概して、牧師は、キリストの調停者としてのかたちよりは、むしろ学校の生徒会長の役を演じていた事が多かったのではないかと思うのです。つまり、祈りもコミュニケーションもなく、ただ教団上層部からやれと言われたことを執行するか、または信徒の実態を報告するというだけで、生きた聖霊の交わりの仲介機能を果たしていないでグループの監督者然としていた事が多かったのではないかと反省されるのです。牧師が権威主義的になって、会衆に対して傲慢であったり、その一方で、上層部に取り入って自分の地位を安堵するために、言うべきときには何も言わず、長いものには巻かれ放しの迎合主義的な態度でいるならば、やはりキリストのようではなく、生徒会長か企業の中間管理職のようなのです。
どうしたら、このような「疑似仲介者」という膠着から伝道者(または牧師)が脱出できるかを考えるのが当稿のテーマです。
伝道者はキリスト(イエシュア)の事を第一にする
まず最も基本的でシリアスな質問は、あなたは自分の信仰に命をかけていますか、というものです。キリストの福音を述べ伝えられないなら死んだほうがましだと思っていますか。救いの生きた証しを持っていますか。信仰を証しするために、自分の名誉や全財産が無くなってもよいと思っていますか。それに「はい」と答えられないなら、あなたは伝道者にはなれません。私は当たらず障らずの態度の信徒や牧師に聖霊が臨んで働いているのを見たことがありません。パウロは上のように証しをしました。パウロのようにまずなってください。
家庭は伝道者の信仰の基礎
(この項目は独立させます)
キリストだけが常に高められること
よく○×先生の説教は上手だとか、下手だとかいう評論によって牧師の優劣が会衆の中で論じられているのを聞くことがあります。しかし、もちろん、そういう説教評価は大抵の場合主観的であります。それゆえ、ある教会では信徒が牧師の説教の優劣を評価することを拒否しています。そして「信徒が礼拝説教のよしあしを論じるのは不遜です。たとえどんな説教であっても、神が聖霊によってその言葉を通して一人一人に語りかけて下さるのです」と言います。もちろん、そういう主張にも一理はあります。語り方が下手だという理由で人が会衆の前で話をすることが禁じられるという決まりはありません。しかし、そうではあっても、指名されて会衆の前に立つことを許された者は、自分の語ることに責任を持たなければなりません。回りくどい世間話をして会衆の人気をえても自分には何の益も祝福もありません。後に残るのはリップサービスの後の空しさだけです。それよりもキリストがメシアである事を語りましょう。律法が廃されたのではなく、キリストにより成就して今でも生きている事を語りましょう。キリストのメシア預言を語りましょう。キリストが来られたのは、旧約聖書の律法と預言の成就である事を高らかに語りましょう。これらの事だけを語るなら、あなたには他に面白い世間話とか教会の裏話の知識とか、雑学的神学論議をする教養も一切いらなくなります。教会はもっと霊に満たされるようになります。そして、上の如き、誰の説教が上手くて下手かというパトラック評論会はたちまち雲霧消散するでしょう。
伝道者の謙遜
伝道者は謙遜でなければならないというと、「そんなのは当然です」とただちに言われそうですが、ならば福音のメッセンジャーを称する伝道者の謙遜の実を見せてもらいたいと思います。私は、その実というのは、かなり中途半端なものではないかと思っているのです。日本には三波春男という民謡歌手がおりますが、この人の有名な決めセリフは「お客様は神様です」というものです。お客を神様としたからと言って三波春男が偶像礼拝者だと言って批判するのは知恵がない証拠です。そうではなく、彼はそれほど観客を大切にし、機嫌を損ねたり、不愉快な取り扱いやそそうがないように、慎んで、ひたすらサービスに徹しているという、三波春男氏なりのプロフェッショナリズムの表現であると解釈して下さい。そして、このセリフを教会に持ち帰って来て、「教会員は神様です」とか「求道者は神様です」というつもりになって再献身出来るかどうか反省して下さい。それが出来ないなら、いくら十年二十年職業牧師をやっていたとしても「あなたは伝道者になる準備が出来ていない」と断言することが出来ます。あなたが靴磨きであれば靴をピカピカに磨くのがあなたの使命です。客の靴が余りにも汚ないとか臭いとか不平を言うような靴磨きは仕事を続けられなくなります。同様に、信徒の前でカトリックの司祭でもないのに牧師の権威を傘に着て威張り散らしていたり、えこひいきをしたり、献金を督促したり、信徒をしいたげるような牧師がいるならばどうでしょうか。伝道者としての謙遜を、「この世」の人のプロフェッショナリズムから学ばなければなりますまい。
伝道者の条件
(この項目は独立させます)
新鮮な神のみ言葉が人を動かす
自分の雄弁や知性のひらめきが他人をキリストに導くことができるかのように錯覚している伝道者が多すぎます。そのような状態では伝道者として祝福されることは何一つありません。ある教区長は常に自分のカバンの中に過去に作りためておいた自分の礼拝説教の原稿を入れておき、どこかの集会所に呼ばれて急にメッセージを頼まれた時に慌てないようにしているのだと自慢をしていましたが、これは本当は恥ずかしいことです。神学の知識をいたずらにカードファイルやコンピュータのデータベースに集めてみたところで、それは説教を作る作業を能率よくさせるだけであって、教会の羊を養う努力の代わりには全然なりません。他にも昔同様な教会運営をして「自分の知性に自惚れている」と顔に書いている様な牧師に出会った事がありますが、その教会の信徒達はそうしたトリックをたちまち見抜いており「あの先生は自分の命のないお説教に酔っておられるだよ」とあっさり評していたのです。羊の目は木の節穴ではなかったのです。人間の知性の努力の結果まとまった説教が毎週量産されるようになったとしても、神のみ言葉がそこに生きていなければ、死んだ文も同じです。み言葉が何回引用されたかということではないのです。あなたのその文を書いた精神がみ言葉によって動かされたのかというのが大切なのです。自分が肉の思いで書いた文にもっともふさわしそうな聖書のみ言葉を貼り付けて体裁を取っているのではダメです。あなたが日ごとにみ言葉を読んで、今の霊的状態において動かされて書いたメッセージであるのかどうかというのが大切なのです。これは伝道者への高望みでしょうか。決してそうではないでしょう。
罪を隠さない
伝道者の動機は常に、多少荒削りと批判されていいですから、神の前に純粋でなければなりません。不純な動機は神の前に隠すことは出来ません。イギリスの伝道者で神学校の校長であったスポルジョンは、あるとき彼の神学校に入学を志願する若者の面接をしました。ある志願者は、入学希望の理由を、他のあらゆる職業訓練でうまくゆかなかったから、神は私を伝道者または牧師として召されているに違いないと言ったのです。そこで、スポルジョンは、神があなたを牧師、または伝道者に召されているならば、あなたは他のあらゆる職業訓練において成功をしたはずです。ここはあなたのくる所ではありません、お帰りください、と言って即座に門前払いにしました。伝道とは、ほかにすることがないからする仕事ではありません。「私は伝道以外に何の能力もない」というのは間違っているのです。あなたが伝道で成功するなら、神はあなたが他のどんな働きをしたとしても祝福されていたでしょう。アカン、アナニヤ、サッピラの貪欲の精神は、伝道の働きの戦線の隊列を乱して、福音の伝道を停滞させます。イスラエルがアイの要塞の攻略に失敗したとき、神は宿営の中に不純な罪があることをサーチさせました。その結果、アカンが貪欲の罪を犯すことによって神の民に不興を来たらせていた事がわかりました。今日の教会の伝道が停滞しているのも、実は教会の中に第二、第三のアカンがいて、神を侮っているからであると証しの文は厳粛に預言しています。どうしてあなた自らが貪欲や姦淫の罪を隠したままアカンになってよいでしょうか。それが重要なポイントです。愚か者といわれても純粋で動機の清い伝道者は幸いです。