SDAの医師国家試験問題  Part 2
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ある安息日遵守者の履歴

私は普通の日本の何処にでもありそうな家庭で生まれた。

私の家はキリスト教とは無縁のように見える家庭であった。教育は普通に熱心だった。幼稚園のときに新約聖書をもらった。漢字ばかり多くて読めなかったのでそのまま隅に仕舞われた。次に聖書を読んだのは小学校の6年生の時だった。私は普通の小学校に行って普通の中学校に行き、それなりに優秀の部類であった。私はある日当時の親友に誘われてキリスト教会の聖書研究に行った。今更聖書もあるものか、そんなものならもう読んでしまった、と思った。彼は、他の人から誘われたが一人で行くのは寂しいからついて来てくれと言った。私は不甲斐ない奴だと思いながら、ついて行った。それがセブンスデーアドベンチストの教会だった。物寂しい土建屋の事務所を買い取って改造したままの粗末な教会堂だった。ダニエル書の研究をしていた。私は、世界史の勉強の参考になりそうなので出席を続けた。私に一緒についてきてくれと言った奴は間もなくいなくなり、私だけが残った。私の両親はしばらくの間、その親友の男を私をかどわかしたA級戦犯のように恨んでいた。
 

私はそれから片手間に聖書研究を続けた。そうしてこれが面白い本だということがわかった。そのうちに安息日を守るべきことが示された。私は高校に通いながら、安息日を守る決心をした。体育の単位が足りなくなって危うく高校の卒業が出来なくなるところだった。
その時、私は数学と物理が得意だった。エレクトロニクスのエンジニアになろうと思っていた。しかし、教会に行くようになってから間もなく、やっぱりせっかくここまでタラントを与えられて教育を受けてきたのだから、医学部に行って、医療伝道ということで医学部に行くことにした。
 

当時、私の高校の友人達はユニークな人が多かった。
 洗面器で炊飯をする名人がいた。彼は京大物理学科を目指していた。
 私にオカルトの専門書を読めと薦める秀才の女の子がいて証の文と交換という条件で読んでやった。つまらなかった。
 授業中ボーっとしているのにいつも一番の奴がいた。彼は東大に行って女に振られたので自殺したとか。
 文芸部の先輩も同級の女子学生と心中自殺をした。物凄く哲学的な思索に裏打ちされた死だった。
 早稲田に推薦入学で入った女の子がいた。英単語の暗記で全く頭が上がらなかった。
 頭は凄く良かったが靴下が猛烈に臭い奴がいた。靴下が臭いと言ったら申し訳なさそうに裏返しにして履き直した。
 風貌が知恵遅れ風の同級生が東北大学に合格した。彼は「東北大はIQ70でも入れるんだ」と宣伝して回っていた。
 修学旅行で、駅弁を買いに出た途中の駅に置き去りにされた奴がいた。
 下駄と風呂敷で通っていた男がいた。天才と呼ばれ、東大法学部に入った。将来は山口組の顧問弁護士になると言った。
優秀なのが集まっていて、その中で翻弄された。
私はその中で、土曜日に学校に来ない奴というので有名になった。ともあれ、いろいろな人間に会って楽しかったが、もうこんな世界は経験しないだろうと思われた。三育学院という教会の全寮制の学校があると聞かされた。親にそんな話をしたら、私の祖母がポツリとこう言った、「高校生ならともかく、小学生や中学生のころから親元から引き離して寮に入れて教育する親の気が知れないね」。私はその言葉を心に留めていた。そうかもしれない。私の祖母は正しいかもしれない。しかし、死んでしまったら、寮にいくどころか、親元から無限大の距離に引き離されるのだ。全寮制の学校がなんぼのものかと思った。
 

ある秋の深まった日に、私はバスに轢かれた。路面が凍結した日に自転車ごと車体の下に突っ込んでしまった。自転車は目の前で押しつぶされたのに、自分は無傷で助かった。教会に行ってその話をしたら、「それは天使が助けたのですよ」と老婦人が言った。もうこの時に死んだとしても文句は言えない命であることを自覚した。私は心の中で神に従って歩む人生をはじめようとしていた。それがどういうものになるのか、誰も教えてくれなかったし、誰に聞いてもわからなかっただろう。恋人は、自分を信じて、与えられたレールに乗って進んでいけば私の将来は約束されていると言った。しかし、私にはそう思えなかった。恋人に聖書の黙示録の預言の話をしたら、だんだん疎遠になっていった。安息日ははじめは隔週で教会に行っていたのが、毎週になった。校内模擬試験が土日だったのを、日曜日だけの私立文系で受けたら、いきなりトップになってしまった。みんなから、おまえは人を舐めているのかと袋叩きに会ったが、そうではない、安息日を守った結果だと釈明した。
 

私はバプテスマを受ける決心をした。親は反対した。しかし私は受けた。ちょうどその時に受験だったが、集中して勉強していなかったので不合格になり、一浪になった。私は浪人になった。バプテスマを受けて最初の年は予備校生の生活だった。予備校でも当然安息日を守っていた。医学進学特別コースは土曜日の出席が厳しいというので避けて、出欠確認の杜撰な普通コースに入っていた。なのに、最後には、予備校の模擬試験で再びトップの成績になって、非常に目立った。予備校の首席を表彰するメダルと奨学金の授与式が土曜日で、絶対に出席しろといわれたのをまた教会に行って出席しなかった。榊原という名前の予備校の監督は恐ろしい人であったが、後で会いに行くと、優しくメダルと金一封をくれて、「どうした、なんで来なかったのだ」というので、「安息日を守っていました」と言うとそれは何かと尋ねるので、私は説明をした。
 

私は翌年また医学部を受験した。家族との信仰の葛藤を最小限にするために出来るだけ遠くの学校を選んだ。一期校は京大を受けた。京都の教会に行ったら、三育学院を出たという青年に取り囲まれて「どうしてわざわざこんな所まで来たのか」と聞くので、安息日が少しでも守りやすい融通の利く可能性のあるところを調べたのと、家族との摩擦を最小限にするためにしたと説明した。そうしたら、彼らは笑って安息日が守れる学校なんかどこにもない、お前の考えは甘いと言った。私は、困難なところが多いからこそ、少しでも勉強が先に続けられる可能性のある所を選んだのですがとやや気落ちして答えた。彼らはあざ笑っていた。田舎の教会ではみんなで祈って送り出してくれたのに、一体これはなんたるザマだと不甲斐なくなった。京大の入試は、他の科目はともかくとして、その年の数学が今までと全く異なった新傾向の問題が抜き打ちで出て、大敗し、うまく行かなかった。しかし、がっくりしてうなだれたまま受験した山形大学が合格した。母親は、もう一年頑張って来年東大でも受けたらいいっしょ?と言ったが、私は、これも摂理であろうと思い大人しく山形に入ることにした。
 

こうして、私は医学部に入った。そして、やはりそこで安息日を守った。教会は内輪で対立して霊的には余り恵まれない教会だった。老人が殆どで、活気が無かった。私はそこを最初の伝道地にした。私が最初にしたことは、青年会を立ち上げることだった。青年会の働きをはじめた。子羊クラブもはじめた。前任の牧師が集めた女子中学生のグループに伝道しているうちに、そうして大学の青年も集まってきた。いきなり教会にやってきて牧師に「神はいない」と怒鳴り込んでやってきた厄介な女子大学生も一瞬のうちに私が青年会に取り込んでしまった。高校生時代の哲学論争が大いに役に立ったからである。大学よりも教会のほうが楽しかった教養時代だった。あらゆることが祝福された。しかし、良いことはいつまでも続くものではない。必ず、よい日もあれば試練も来たる。悪魔が神の祝福をねたむのも当然である。私はローカルの教会のいがみ会いに巻き込まれていった。更に悪いことには、牧師が私に嫉妬した。信じられないだろうが。私は安息日に教会に行くことが苦痛になった。
 

私は東京衛生病院を何度か訪れたことがある。そこで会った人々を今でも忘れないだろう。その中で、高先生という台湾出身の人がいた。頭がいいと顔に書いているようなシャープな人だったが、謙遜だった。問題は、日本の国家試験を受けられなくて、病院で雑用をしていたことだ。彼は私に頑張れと励ましてくれたが、ある日とうとう耐え切れずに国家試験を安息日に受験し、男泣きに泣いた。そうしていずこへともいなくなってしまった。あと、小野村という先生もそこで国家試験が受験できなくて葛藤し忸怩していた。衛生病院の人事課長から「役立たずの穀潰し」のように罵られ、ついに切れて、安息日に国家試験を受験した。もちろん、彼も糸の切れた凧のようにどこかへ行ってしまった。こうして私は、安息日を守って証を立てようとしていた信仰の先人を悉く失っていった。
 

安息日を守りながら、勉強をし、自らの生活を維持して、教会活動をしていた。エレンGホワイトの「食事と食物の勧告」を隅々まで読んで玄米菜食をしていた。同級生は私を「忍者」とあだ名していた。その間、精神的な支えは皆無だった。そもそも当時のその教会自体が病んでいたから、他人を支えるどころではなかったのである。空しい教会に来て学校を休むことに葛藤した。誰もアドバイスをしてくれる人はいなかった。適当にやっていればなんとかなるさとアドバイスした衛生病院の医者がいた。果たして、そんなものなのだろうか、京都教会の三育出の青年達が言っていたことと180度正反対のことではないか、と私は怪訝さを隠すことが出来なかった。
 

そのうちに私の安息日遵守が次第に難しくなってきた。学部に入って出欠が厳しくなった。次第に私をめぐる学校の情勢が厳しくなった。出席日数が足りない。土曜日の試験を受けない。教授から呼び出しを受けて、叱責を受ける毎日が始まった。私は窮地に立たされた。「君は学校に対するサボタージュだ」とか、「愚かな行動はやめたまえ」と、言われ続けた。ところが、ある日、安息日に授業や試験がかかっている訳でもなんでもないクラスの教授から呼び出しが来た。どうして呼ばれたのかさっぱりわからぬままに、教授室に行くとその教授が「さあ、君はどうして土曜日に授業に来ないのか説明してみよ」と言われるので、私が聖書から安息日が週の第七日であるという話をしたところ、「ぐわっはっはっは、そんな理由か。くだらないな。だが、心配するな。気持ちを変えて、土曜日も私の教室にでもやってきてライフサイエンスの奥義を学べ。そうすれば、科学が君の神となり、もはやそんな安息日を守る必要もなくなるであろう」と傲頑に言い放ったので、私は、「先生は科学を何にも理解しておられません。科学とは神の作られた世界のものですから、科学を学べばますます安息日を守るようになるはずです」と咄嗟に言い返してしまった。自分でもどうしてそういう言葉が出たのかわからないが、25年経った今になって振り返って思い起こせば私は恐らく「預言」をしたのだと思う。教団の宮崎恭一氏は、私がそういう事を医学部の教授に言ったというので「一体どういうつもりをしているんだ、どうしてそんな事を言うんだ」と烈火のように怒って私を叱責したが、私は、この場合、何と言われてもどうしようもなかったのである。
 

そのうちに、安息日を守る必要に疑念を与えさせる牧師たちが現れた。まず、自分のところの教会の牧師が、私が安息日を守っていることについて、安息日問題で教会に重荷を増し加えられるのは迷惑だと私に言った。それは実は、学部で私の安息日問題が顕在化する半年以上も前のことだった。だから、私が本当に祈りと助けを教会に求める前に、向こうから梯子を外してしまっていたのである。同じ教区の牧師から「かっこつけるのもいいかげんにしろ」と怒鳴られた。それなら一体何の為の安息日なんだ?どうして信徒に安息日を守れと教えているのか?非常に腹立たしくなった。東京である教会の婦人伝道師にあって、事前の面識も何もなかったのに、いきなり名前で呼ばれて、「あなたよりも大変な安息日問題で戦って学校に行っていらっしゃる学生さんは他に幾らでもいらっしゃるんですからね」と言われた。突然誰ともなく比較されてもこちらは返す言葉がなかった。安息日の戦いは誰にとっても大変なことなのだ。それは誰に言われなくても守っているみんなが知っている。さらに教団の総理までやってきて、安息日の山形教会に「暴虎馮河」という題で幾ら信仰を持っていても無謀なことをするのは罪であるという様なあてつけがましい説教をしに来た。牧師はそれ見たことかと私に目配せをした。やれやれ私は愚かな虎なのか。一体私の事は中央で何と告げ口されているのだろうかと不安になった。
 

安息日問題が先鋭化してきて、東京衛生病院のC・デルマー・ジョンソン医師が教務と交渉するためにわざわざ山形までやってきて、予想通りであったが、平行線だった。東北の教区長が渋々連れてきたという感じだった。しかしジョンソンは真面目だった。私を呼んではいつも毒舌と罵声を浴びせていた学部の教務部長の塚本長氏が珍しくにこやかに私に会って、「いやあ、あのジョンソンという医師は大物だな」と言った。
 

私に何を言ってもダメだと言うことで、父が遠くから医学部に呼ばれた。
泣いていた。父がではない、教授がだ。
こんな優秀なお子さんが宗教の理由で先に進ませることが出来ないというのが忍びないと言って
遺伝学教室の遠藤教授が父の前でさめざめと泣いたのだそうだ。ところが、
大学が牧師に問い合わせると、牧師は「本人の問題だ」と責任回避。
両親が牧師に問い合わせると、牧師は「あなたの息子は変人だ」と答えた。
母は髪の毛が全部逆立つような思いをした。

私になんとかなるさとアドバイスした衛生病院の医師を偶然知っていた教授がいた。
その教授は前任の医学部で、彼が実は医学生の時に土曜日に学校に来ていたと私に教えた。
「だから君もそうしたらどう?」という老婆心の親切の積りでそう言ったのはよく理解できたのだが。
それで私は激しく失望した。ダメ押しの一撃のようですらあった。
悪霊七匹分の攻撃のダメージを一度に受けたかのように、私のスピリットは瀕死になった。
 

私はこうした状況ではいくら安息日を守っても何の証もできないと結論せざるを得なかった。
 

私は医学部を辞める決心をした。いさぎよく中退のオプションを考えた。教団幹部のY先生から「辞めるのは馬鹿馬鹿しいことだ」と言われた。しかし、その一方で私は米国人宣教師の会計のロバート・フロストからロマリンダに行って勉強を続けなさいとして無利子奨学金のオファーを受けた。しかし、無利子だといっても、とんでもない額の借金を背負い込むことになるのだ。「辞めるのは馬鹿馬鹿しい」と気軽に言った教団の先生は、教団常務委員会で「そんな額の金など誰も返せない」と絶句した。そりゃそうだ、それは目も眩むような試練を身に負うことになる、しかも成功の保証は無いのだ。もしも私が彼の義理の息子か何かだったら、彼は、私の両親よりも錯乱して安息日を守るのを止めに山形まですっ飛んで来たに違いない、と思って苦笑した。

しかし、ここで引いたら証ができない。牧師に傷つけられた両親も私に躓いて滅びてしまう。その責任を誰が取るのか。教会も教団も誰も責任など取るまい。引いたら私は単なる敗残者になるだけなのだ。甲斐性なしの牧師の責任にするのは簡単だが、自分が挫折した責任は無いのか?と。

導かれるままに私はオファーを受ける決断をした。孤独の決断だった、主が必ず助けてくださると信じるだけだ。モーセが紅海を渡ったように信じて前進するしかなかった。大学に退学届けを出したと聞いて、両親は泣いた
 
 

お世話になった教授にはやめる前に挨拶に回った。私に罵声を飛ばしていた教務の塚本教授もしんみりしていた。そして「おい、おまえは一体これからさしあたりどうするのだ」というので、私は「千葉にある三育学院カレッジに行きます」と答えた。彼は奥の書棚にあった全国の大学カレッジ便覧という分厚い本を引っ張り出してきて、いきなり大声で、「なんだあ、こりゃあ、カレッジなんていうけど、こりゃあ、おまえ、ただの専修学校じゃないか!」と叫んで呆然となっていた。私はそれを聞いて、黙ってうなずいた。「ただの専修学校じゃないか」と言われて、かえって、誇らしくなり、何故か自分の行こうとしている道は大幅に間違っていないような気がしたのだった。大学を去るとき、同級生の人たちが送別会を開いてくれた。もう、この人たちを見るのはこれが最後かと思った。
 

私に励ましの手紙を書いて送ってくれていた姉妹がいた。彼女も東京のある大学で同じように安息日を守っていたが私と同じ様に中退した。心が惹かれていた。何故ひかれていたのか、今になって振り返って考えてみて、いろいろあった比較的些細で私的な理由の他に、敢えてこの記述に公の一般性を持たせて、少しは余分に客観的批判に耐えられるようにする特記事項を一言だけ添えるならば、この女性が、そもそも私に中学生のときに一人で教会に行くのが怖いから一緒についてきてくれと頼んだ不甲斐ない親友(男)をそのまま女にしたように見える風貌であったことが、引き合う摂理を感じさせたということを付記しておかなければなるまい。ともあれ、私は間隔を開けて2度も結婚を申し込んだが、結局、何も起こらなかった。私はこうして失意のうちに山形大学医学部を中退した
 

千葉の山の中の学校に一時在籍して渡米の準備をした。「専修学校」というよりも、雑然とした教会学校だった。「専修学校」を「短大」に引き上げようとして、表面的な体裁を作るのに忙しかったのを昨日のことのように思い出す。そこでまた三育の知恵者という人たちが現れて、私にこんな所で時間を浪費しないでとっとと早くアメリカに行ったらどうだと言う者があった。また、医者よりも君は牧師が向いているのではないかと言う者もあった。だから、ついうっかりその気にさせられそうになったが、やはり、ここで宗旨替えをするなら、ここまで育ててもらった親にも、信仰で安息日を守って戦っている兄弟姉妹を励ますことが出来ないように思え、ここはこの道を進んでゆくしかないと悟った。
 

1980年6月3日、私は後ろ髪を惹かれるようにして渡米した。もう日本はこれで終わりのような気さえした。母が遠い旭川からわざわざ雨の羽田空港まで見送りに来た、もうここまでは来ないだろうと思っていたのだが。安息日を守って励ましの手紙を書いてくれた女性は間もなく未信者と結婚して失われた。

私はアメリカに来た。安息日の戦いの引き換えに、言葉の壁と格闘の戦いが与えられた。「A」を取らなかったら奨学金は停止すると威嚇された。ここでそんなことをされたら野垂れ死にだ。同じ死ぬなら勉強をしようと、死ぬほど勉強をしたような気がするが覚えていない。峻険な断崖絶壁をよじ登っているように思われた。アメリカに行く前に奨学金を貸与してくれることになって教団の先生に挨拶に言ったのだが、意外なことに胡散臭がられたり「おまえなんか知らない」のように扱われた。内部で合意が出来ていなかったのだろうか。また、私がアメリカに行くと聞いて、「それならアメリカにいる誰それ先生の息子さんによろしく」とか、「これを誰それさんに持っていって下さい」とか他人のお土産を持たせられたりした。それでも律儀な私は行きがかりの義理でアメリカまで旅行かばんの隅に入れて大切に持っていってやったのだが、ありがとうの一言も言われず仰天した。世間知らずの教会幹部の子弟の人間関係にはこれでまず嫌気がさした。
 

私は医学部に入りなおした。南カリフォルニアにあるロマリンダ大学というこのセブンスデーアドベンチスト教会のもつ私立大学の医学部だった。一応他の医学部にも願書を出したのだが、英語の点数が低いという理由で入学を拒まれた。ある日、このロマリンダ大学の入学者選考にあたり、志願者の面接があった。医学部から「伝説の鬼の試験官」といわれた故DrエヴァートとMrsゴーレスがやって来た。彼は私の推薦状と大学のGPAを眺め渡し、次に全米医学部志願者選考共通試験(MCAT)の点数表に目が釘付けになった。それには、生物、化学、物理、統計などの得点偏差値が全米のトップ2%に入っていながら、英語の得点偏差値が全米の最下2%だったからである。エヴァートはしばらく唸っていた。そして、いきなり私にこう言った。「もし我々が君の入学を認めなかったらどうするかね」。それで私は「私は、第七日安息日を守ったので日本の医学部にいられなくなり、親の反対を押して医学部に入ろうとしてアメリカに来ました。それなのに入れないということになれば、私は生きてこの面下げて日本に帰れませんから、フレスノの違法入国者のメキシカンと一緒に葡萄や梨を摘んで余生を過ごすでしょう」と言うと、エヴァートは「ニヤリ」と意味深長な笑いをして、面接の時間を終えた。それからしばらくしてロマリンダ大学から入学許可が来たので、私は恥も外聞もなく、キャンパスで日本語の賛美歌を大声で歌って歩いた。
 

ロマリンダに来て、最初の二年間は悪夢のようだった。英語がカタコトの外国人が、秀才といわれて医学部に入ってきた現地のアメリカ人と英語で競争をしなければならなかったからだ。はじめの解剖組織とか生化学などは、山形大学で叩き込まれた知識で乗り切ることが出来たが、そこでやらなかった分は大変だった。ロマリンダ大学の日本人教会に出席したが、誰からも歓迎されなかった。新入生の歓迎会のときに、教団の身内や三育卒業生が名前をあげて紹介されたが、私には声もかけられなかった。それどころか、私が奇人変人であるから近づくなという噂を垂れていた者すらいた。奨学金にもいつの間にか利子が付いていた。とにかく不平を言う暇があったら前進するしかない。英語が出来ないのにどうしてアメリカに来たのかとみんなに言われた。安息日問題があったからと説明しても全く理解されなかった。そんなものを経験したことがないのだから、何を言っても理解してもらえないのは当然だ。ここも京都教会のニヒルな青年会の延長なのだと割り切るしかなかった。
 

私は結婚をした。その仔細は別項に語るとして省略。
 

私は戦いを続けた。お前なんか医者になどなれないと医学部でも教会でもいじめられ続けたが、本当に自分には適性が無いのかと挫けかけた。医学部の女学長に呼ばれて、「あなたにはアメリカで医者としてやってゆける可能性がない」と吊るし上げられた。私はもう荷物をたたんで日本に帰ろうと何度となく思った。帰って田舎でタクシーの運転手をしながら奨学金を返して細々と生きてゆくことも考えた。妻と涙を流して祈ったことも夥しかった。そんなある日のこと、私は、意を決して日本に行くことにした。ロマリンダだけ見ていても何も得られない、日本の医学部を見ようとしたのである。そこで私は、東京都内のある私立医科大学に手紙を書いて、夏の間、医学生として研修されることを要望した。そしてそれは認められた。物凄くミジメな気持ちをしながらLAから家内と東京行きの飛行機に乗った。ふと下を見ると、それはちょうど私が最初にアメリカに来た山の上のカレッジの上空を飛んでいた。私は、妻に自分の青春の修羅場を通った山形を見せてあげようと連れて行った。医学部に行ったら、私がいた時の先生方がまだおられて歓迎してくれた。私が曲がりなりにもアメリカで医学生をしていると聞いて自分の息子のやった事のように喜んでくれた。その時に驚くべき事が知らされた。私が山形を去ったあと、一、二年の後に、私の問題を扱っていた学生教務主任の教授が、「いや、待てよ。土曜日に休むというのは結構いいアイデアかもしれない」と考え始めるようになり、それで文部省に申請して、なんと山形大学医学部が日本の国立医学部で最初に週休二日制を採用したというのだった。教授は、「君ももうすこし長くここにいればよかったね、ははは」と言った。安息日の目が開かれたのも私がそこからいなくなったからであって、私が漫然と居残っていてもそうはならなかったであろうものの、多少は複雑な気持ちになったが、寧ろ胸が熱くなった。遠藤教授にも会ってお礼をした。それから私は東京に戻り、都内の医学部で3週間ほど研修をした。私が東京に来ているということが東京衛生病院に知らされて(別に秘密事項ではなかったのであるが)、院長が「ただではすまさない」と言っていたと知らされた。山形大学では歓迎されたが、自分の教会の病院ではこんなに刺々しく反応されることに空しさが漂った。妻は泣いていた。しかし、いずれにしても、都内の私立医科大学での研修は大成功だった。国家試験がパスしたら、うちに来て下さいねとも言われてしまった。帰りの飛行機は、格安航空券がオーバーブッキングをしたために座る座席がないというので、仕方がないのでファーストクラスに妻と座らされることになった。日本行きは落ち込んでいたのに、帰りは神に祝福されて凱旋してアメリカに戻ってきたようなものだった。

私はその時、その後の私の人生を多少変えることになった機械を買った。それは日本語を使えるNECのコンピュータと通信用のモデムだった。買った理由は、日本語の医師国家試験問題集というプログラムを使えるためというものだったのであるが、まさか、それが、将来の「嵯峨野教会」を開く技術習得の伏線になるとは考えもしなかった。
 
 

その後、英会話が不十分のゆえの失敗もあったが、私の臨床研修は呪いが解かれたかのように見違えるほど楽しくなった。毎朝4時に起きて病院に行って勉強した。臨床実習では軒並み優良の評価をもらった。私に「あなたはアメリカで医者になれない」と言い放った女学長がある日私を廊下で呼び止めて、詫びた。そんなある日、どこでどうしてそんなものが来たのか未だにわからないのであるが、ウィスコンシン大学の医学部の神経内科から面接の案内が来た。なぜそんなものが来たのかはわからないにしても、せっかく招いてくれたのだから行ってみようというので貯金をはたいて家内を連れてウィスコンシン州のマジソンまで面接に行った。そこはとんでもなく美しい所だった。大学病院も一流で、どうしてこんな所から英語がペーペーで「おまえはアメリカで医者になれない」となじられているような私が呼ばれるのであろうかとさっぱりわからなかった。それは1986年の秋のことだった。紅葉が目に染みた。大学病院で何人かの医師と面接をし、最後に神経内科のチェアマンの、ヘンリー・シュッタに会った。恐らく妻を連れて面接に来たのは私だけだったのではないかと今でも思う。いずれにしても、彼には既に何人かの優秀な候補者が既に確保されているかのようで、私の履歴書や推薦状などはそれほど価値がないかのようにして、「アイオワやミシガンにもいい神経内科のプログラムがあるぞ」みたいな調子で初めは軽くあしらわれていたのだが、しかし、シュッタ教授は私にどうしてアメリカに来て医学部を卒業したのかと尋ねるので、私はズバリ、「第七日安息日を守ったのでアメリカに来ました」と答えた。「それはなんだ」というので、私は「安息日の事をひろく知らせる医療伝道のような働きをしたい」と答えた。予想外の答えを得て、彼は「ふうむ」と考え込んでいた。
 

卒業直前のマッチングは空クジで、一番残りたくないと思っていたロマリンダ大学病院の内科に当たった。恩師の心臓循環器のマレイズ教授は、いや、それが君にとって一番いい結果だと私に言った。それが摂理であるなら私は受容しなければならない。内科のインターンは順調に終了した。こうして、アメリカの国家試験にパスして合衆国の医師になった。山形大医学部の同級生がLAにポスドクで来ていると聞いた。彼は私が私がカリフォルニアの医科大学に入りなおして医者になっていると聞いて驚愕し、「やはり奴は本当に忍者だったのだ」と言った。ロマリンダの内科には気難しい厄介な学科長がいたが、彼からの信頼を取り付けるにはそれ程時間を要しなかった。
 

その翌年、私は、やはり恩師である神経内科のミラー教授を頼って、ロマリンダ大学の神経内科に入った。そこで、私は最大の試練にあった。導かれるままに神経内科のレジデントに収まった。そこまでは良かった。ところが、一緒にいた同僚のレジデントが私にことあるごとに嫌がらせや無言電話、ポケットベルに無関係な電話番号を打ち込んで仕事の邪魔をするというハラスメントを行った。私は彼からそのような仕打ちを受ける義理はなかったのであるが。そうしているうちに、ある日私は呼ばれて、「無能」であるからという理由でレジデントを辞めさせられることになった。愕然となった。「無能」とは薮蛇だった。しかし、間もなく辞めさせられたのは私だけでなく、もう一人のユダヤ人のレジデントもだったと知った。彼の場合は、神経内科のボードの受験資格がないという事だった(しかも、それは嘘だった)。ちょうど、神経内科教室で内紛があり、教室の長を陥れた若い医師であるDrウィルが成り上がった。要するに、ミラー教授の息のかかった我々は邪魔だったのだ。私は意気消沈した。
 

絶体絶命のピンチだった。そこに降って沸いたようにジョージア州のワイルドウッドの自給伝道学校で月給100ドルで雇ってやるという話が起こった。日本人教会にいたHという医者は「それは素晴らしい、君に寧ろ向いている」と言った。彼は、私をクビにしたDrウィルは「君の事を心配してグアムにでも行けたらいいのにと心配してくれる優しい人だ」と言った。人を見る目のない人の余計なお世話だった。しかしワイルドウッドに行く話すらも、結局はそのDrウィルが妨害して没になった。LAの日本人医師が私を雇うという話が出たが、グリーンカードの手続きを始めた直後に、丁度教団病院から日本の医師国家試験の受験資格手続きを行うために日本の厚生省に出頭しなければならないと知らされて、そのようにした所、気がつかぬうちに、グリーンカード取得手続きを無効にしていることが指摘された。改めてその医師の雇用条件を見たら、驚くべき低賃金で長時間労働をさせられることが判明した。私はグリーンカード取得手続きが無効になったのも神の摂理だと悟り、LAの仕事の口を辞退した。それがまたDrウィルを一層怒らせることになった。4月になってまだ行く先が決まらなかった。意地悪な日本人教会の人たちに「ねえねえねえ、まだ決まらないと困るでしょう」と詰め寄られた。私は目をつぶって「神が助けられる」と答えたが、そうしか答えられなかった。家内も安息日学校で「神は私達に勝利を与えられる、永住権も与えられる」と証をした。家内は預言したのであるが、聞いていた者の反応は冷ややかであった。行き先が無いまま4月を迎えた。あと2ヶ月で我々は露頭に迷うのか、安息日を守ってここまで来て、このような末路に終わるのか。
 

しかし、私は最後には逆転勝利した。内紛が起こっていたのは、ロマリンダの神経内科だけではなかった。小児科も、救急医療部も内紛でレベル低下を来たし、合衆国の教育指定病院の認可が取り消されそうになっていた。内科でも気難しい学科長が内紛で追い詰められていた。そういう状況で、この若干40歳を越えたばかりの若い神経内科の医師は突然医学部長に成り上がった。彼は勝ち誇っていた、そんな実力などあるはずもないのにどうしてそうなったか?それは話せば長い話だ。ユダヤ人の神経内科医師から「異邦人の分際で安息日なんか守るからだ」とも言われた。こうなるとまさにロマリンダは悪霊の天下になったかのようだった。しかし、私を陥れた人たちの間でも反目が着実に広がって行った。マレイズは、我々は悪霊にマインドコントロールされていたのだと言った。彼はアメリカの各医学部の神経内科教室に緊急に事情を説明する手紙をいくつも書いて、引き取ってくれるところを探すよう私に強く促した。私はそのようにした。

1989年4月12日にウィスコンシン大学の神経内科から正式に転籍受諾の通知を受けた。Drシュッタが、「安息日」のことを言った私が印象に強く残っていて覚えていてくれたのだ。DrシュッタがDrミラーに「この者は安息日を守ると言っているが、土曜日の当直も出てこないのか?」と心配して聞いたのだそうだ。ミラーは、「はあ、それはないでしょう。私は楽観的です」と答えたと私に教えてくれた。それで、彼は私を再面接なしで受け入れたのだった。私がウィスコンシンに行けることになった話を聞いたDrウィルとその取り巻きのヤクザな若い医師達は愕然となっていた。契約書にサインをした後であったから、もう妨害のしようもない。ワイルドウッド行きの妨害には成功したが、ウィスコンシン行きは妨害できなかった。リベラルなSDA神学に傾倒して、「スペクトラム」のようなどうしようもないインチキ神学雑誌の愛読者であったDrバウンズから、「この世界には、今しも白血病で死に掛かっている子供達が神に見捨てられたかのようにして死んでいるというのに、どうして君が神に祝福されるのか。不公平ではないか」と私に食って掛かったが、私が「それが不公平かどうかどうして有限の人間がわかりますか」と答えたら、「それもそうだ」と言って黙り込んでしまった。日本人教会の人から、「ほおほお、君はラッキーだったのね」と言われた。これはラッキーの問題ではない。神が介入されたと考えるしかない出来事にしか見えないのだが、それがわからなかったのか。ワイルドウッドをベターチョイスと私に勧めたH医師にもそれ以来会っていない。彼の娘がピアノのお披露目リサイタルに穿くから黒タイツを貸してくれと私の家内の所に借りに来たのが彼らを見た最後だった。我々は、レンタルトラックに家財道具を積み込み、自家用車を牽引して日本から来たポスドクの先生たちに優しく見送られながら因縁のロマリンダを後にした。重畳したロッキー山脈の峠を越えながら新天地に向かう我々には新しい希望と確信が与えられた。安息日を守るものは地の高いところを乗り越えらせるであろうという約束が突然字義通り成就したのだった。家内は涙を流して喜んだ。その時われわれは妻の体内に娘の命が芽生えてきていたのをまだ気がつかなかった。

安息日にあなたの足をとどめ、わが聖日にあなたの楽しみをなさず、
安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日ととなえ、
これを尊んで、おのが道を行わず、おのが楽しみを求めず、むなしい言葉を語らないならば、
その時あなたは主によって喜びを得、
わたしは、あなたに地の高い所を乗り通らせ、
あなたの先祖ヤコブの嗣業をもって、あなたを養う」。
これは主の口から語られたものである。
イザヤ58:13,14






私はウィスコンシンに行って、それまでの逆境がまるで嘘のようにスムーズになった。ウィスコンシンに着いていきなり回されたのは小児神経科のローテーションだったが、その次の三ヶ月のローテーションでてんかん病棟に行った。この時にあったDrアンディ・ケナーが間もなく私の進路の転換の運命の出会いだった。彼はポーランド生まれのユダヤ人だったが、両親がメキシコの重工業政策で移民を受け入れていた時にポーランドを出たからナチスに殺されないで済んだ人だった。彼はメキシコシティの医学部を首席で卒業した人だったが、同じ外国人として、私が変な英語をボソボソ喋っているのを見て親しみを感じ、何かにつけて助けてくれた。
 

翌年家内は娘を出産した。おどろくべき事は続いた。母親から私の実家の住所宛にアメリカ合衆国政府からの分厚い郵便物が届いているという連絡を受けた。それは間もなくアメリカに転送されてきて、それが合衆国の永住権が抽選で当たった通知だとわかって驚いた。当選確率は165分の一だった。出して損はないからというので出した応募が当たった。どうやら神は我々にもう少し長くアメリカに残るようにご計画をされているようだった。さもなければ、私はウィスコンシンのレジデントが終わり次第日本に帰らなければならない所だった。つまり、それ以降のアメリカの滞在は神の摂理の認める所となった事を意味した。この事を、ロマリンダに残っていたポスドクの先生が、ロマリンダの日本人教会の新年会で話したところ、人々は腰を抜かして驚いたと教えてくれた。やはり妻は預言をしていたのではないかと恐ろしくなっていたようだ。私はその翌年に妻と娘をつれて東京のアメリカ大使館に出頭し、永住権ビザを取得した。東京都内にステイしていたときに、こちらから希望したのではなかったが、三育学院の牧師コースのMという人がわざわざ私と電話で話をしたいと言ってきた。何かと思ったら、彼は電話で私が山形大学医学部で安息日の理由で中退したことを、愚かな行為だったと責めた。どうして、頑張って卒業しなかったのか?と言った。私はこの露骨な本末転倒に愕然とした。どうしてこのMという私と面識もない者が私の過去の問題を聞いて知らされているのか、どうして、それをわざわざ私に知らせようとして私のいる場所を聞いて電話までしてきたのかと考えると、こんな牧師の実践経験もない訓練生に誰かが上から安息日遵守に反対する思想を吹き込んでいるようだと容易に察しがついた。私は電話でその牧師が卵に言っている事の誤りを一つ一つ指摘しながらこの教会の一部にある反逆の精神に懸念を持った。当時の神学科長の我妻清三氏に適切な対処を依頼すると「そんなことは大した大きな問題じゃないよ、はっはっは」と笑われた。私はその真意を測りかねた。
 
 

さらに不思議な祝福があった。さらにロマリンダから厚手の郵便物がウィスコンシンの私のもとに届いた。開けてみると、中にあったのは、ロマリンダの波乱の神経内科の一年の期間終了認定証書だった。Drウィルが散々嫌がらせをして私を追い出したのだから彼に破り捨てられたかして貰えない物と思って諦めていたものだった。それには内科学科長と女学長の署名があったが、神経内科のDrウィルの署名だけがなかった。署名を拒否して空欄になっていたのだ。一見してどうやらこれはDrウィルと女学長との間に権力闘争の亀裂が入っている事を意味しているように見えた。1990年11月、私はDrケナーと共にサンディエゴで開かれた全米てんかん学会の発表で出席するために出席費用を全部大学病院持ちで出席することになった。この時、私はその証書を持ってカリフォルニアにゆく飛行機に乗った。サンディエゴで私はレンタカーを借りてロマリンダまで夜の砂漠のハイウェイを走った。それは金曜日だった。金曜日の夜にユカイパにある恩師のDrマレイズの家に泊まって、Drウィルが学部長になったロマリンダの医学部の大混乱ぶりをたんまり聞かされた。気難し屋の内科長のDrグラムズはDrウィルと対立して、ロマリンダの大学病院から追放されていた。「君が結果的にロマリンダを脱出することが出来て本当に良かったと思うよ」と彼はしみじみ言った。「学科長が追い出されるのだから、私が追い出されるのは当然か」と納得がいった。

翌日私は、ロマリンダ教会の安息日のサービスが始まる前に、コルトンにあるDrミラーの家に行った。私はそこで、ロマリンダ大学医学部の女学長から送られてきた期間修了証書を見せた。ミラーはそれを見て、「おおおっ」と驚きを禁じなかった。しかし、神経内科長の署名欄がブランクになっているのを見て、「HAHAHA、ここは私が署名するべき場所だよ」と言って、持っていたペンで自分の署名を書き込んだ。Drウィルにチェアマンから蹴り落とされ悔しい思いをしていたミラーがこれほどにこやかな顔になったのはこの時を措いて他に見たことがなかった。実は、このミラーの署名のおかげで、この認定証書がずっしりと重みがついて、それが、後日、全米の神経内科専門医認定試験や脳波のボードの認定の取得の為に大いに役に立ったのである。

それから間もなくであるが、ミラーから聞いたところによると、なんと、このDrウィルは、アメリカの防衛産業からアルツハイマー病のリサーチファンドとして得ていた資金を、私用に流用着服していたことが明らかにされて、学部長を罷免された。その最後は悲惨なものだった。ミラーによると、Drウィルは、まさに文字通り大学病院の学部長室からつまみ出され、その持ち物は、窓から投げ捨てられたという。
 

あなたがた、主の言葉に恐れおののく者よ、主の言葉を聞け、
「あなたがたの兄弟たちはあなたがたを憎み、
あなたがたをわが名のために追い出して言った、
『願わくは主がその栄光をあらわし、,
われわれにあなたがたの喜びを見させよ』と。
しかし彼らは恥を受ける。
聞けよ、町から起る騒ぎを。宮から聞える声を。
主がその敵に報復される声を。
Isaiah 66:5,6


ウィスコンシンの神経内科レジデントの訓練はそれから2年後に何事もなく完結した。それから私は、Drケナーに推薦されてシカゴのラッシュ・プレスビテリアン・セントルーク病院(ラッシュ医科大学付属)で、てんかんの外科治療と脳波のフェローを二年間行った。指示したのは当時てんかんの世界では天才といわれたフランク・モレル教授であった。ロシア生まれのユダヤ人で、風貌もアインシュタインにどこか似ていた。彼は、二次性てんかん源巣発生"The secondary epileptogenesis"の提唱者であり、てんかんの外科的補助治療方法として、"multiple subpial transection(MST)"を考案し、有効である証拠を集めていた。MSTは今は世界の多くのてんかんセンターで外科治療の選択肢の一つに取り入れられている。私は、週に一度はそういう手術を見て学ぶという生活だった。身の毛もよだつ Landau-Kleffner Syndrome が脳手術で治療される例を一緒に集めた。物凄く頭の回転が早かったが、物凄く短気でもあって私とフランクは2年間なんやかんやと言い会いをしているうちに面白く二年間があっという間に終わってしまった。しかし、残念なことに、彼は私がフェローを終えて幾年も経たないうちに亡くなってしまった。生きているうちにもっといろいろ面白い話をしたかった。そういう私は今は彼の研究の後を継ぎたいと思っている。それをして、社会に貢献する事も「医療伝道」なのだと考えるようになった。
 

シカゴのラッシュ医科大学でフェローをしていたとき、私はそろそろ仕事を探さなければならないことを感じていた。日本に医師免許がない以上当然、アメリカ国内で見つけなければならない。しかし、安息日の祝福の結果ここまで訓練と教育を受けられた以上、やはりそれなりの専門性の高い病院、大学病院に就職することを考えた。そういいながらいくつかの米国内の大学病院に面接に行ったりなどしていた矢先、たまたま、「モンタナ州でてんかんの専門医募集」という雇用案内を見つけた。それを見たラッシュのレジデントやフェローたちは「それはジョークでしょう。バッファローに医療費を請求するのでしょう」と言って笑った。面接の旅費などの費用は家族で来ても全額持つと書いてあったので、しばらく旅行も何もせずひたすら勉強と訓練ばかりの毎日で、家内にも息抜きの旅行をさせたいと思っていた私は、半分お遊びのようであったが、モンタナのポジションの視察と面接に応募した。その結果わかったことは、モンタナ州の歴史には今までてんかんの治療の専門家も施設もなく、海とも山とも知れぬpatheticな状況だったのを、そこの地方にてんかんセンターを立ち上げようという人たちの熱意があった。私は、その話を聞いて、自分の最初の伝道地が実はここなのではないかと考え始めた。妻も祈って、やはりこの場所に来るという確信を得て、ここに来ることになった。ニュージャージー州の某医科大学から受け入れの通知をもらったが、その時点では躊躇なくモンタナに行くことに決めた。その時の経験は、自著「モンタナ神経科クリニック物語」にまとめている。しかし、残念ながら、それから5年後に私は、モンタナからミシガンに移った。モンタナのてんかんセンターをサポートしていた先見の明のある病院がローカルの病院の政治的統合の結果消滅してしまったからである。私がそこにいる間、およそ300人の難治性てんかんをモンタナ州全域と一部ワイオミング、ノースダコタから集め、そのうちの130人をてんかんモニター室に入院させて診断し、その内のさらに70人程を脳手術に回したが、手術成績は全米平均を若干上回る良好さだった。後から気がついたことであるが、「モンタナ」と「山形」とは地名の原意が「山」というところで符号している。それは偶然ではなかったようにも思われる。
 

「モンタナ神経科クリニック物語」
http://homepage3.nifty.com/newSDA/a1ad.htm
 

しばらく前に衛生病院の医師が私に、「日本なんかてんかんの患者なんていませんよ」と言った。それはそうだろう、てんかんの患者を診断も治療もできる準備のない病院に誰が患者を運んでくるものか。いないと思うのは当然だ。しかし、モンタナ州の人口は100万人もいない。東京都の十分の一もいないのであるにもかかわらず、これだけの患者が助けを求めてやってきた。日本のてんかん患者の社会的認知は未だに低い。それを知って認識を改め、困っている人に、自分の病院では助けられなくても他の病院を紹介するなりして助けの手を差し伸べるのも医事伝道ではないのか。
 

「てんかんQ&A:こんなことも聞いていいでしょうか」
http://homepage3.nifty.com/newSDA/b2ad.htm
 
 

ミシガンに来ては、はじめは優秀な神経内科グループのチームの一員として迎えられたのであるが、間もなく、その病院を仕切っている老害の脳外科医が次々と私の上司や同僚を陥れて、町から追放し、私は孤立無援になった。彼はてんかん治療はカネにならないからやめろと言い、私の働きぶりが悪いと言っては、土曜日にクリニックを開くことを要求した。彼の手術成績は最悪で素行には倫理的に問題があった。私は、こんなところは長居は無用とばかり、辞表を出した。それを聞いた近くの退役軍人病院(VA)のユダヤ人のチーフが私に電話をしてきて、VAで働いてくれないかと頼まれた。爾来、私はそこにいて患者を診、ペーパーを書き、自分の今出来る場所で証を立てている。安息日を守っていて危機に遭遇したたびに私を助けてきたのはユダヤ人であったというのは果たして偶然であろうか。一方私は、第七日安息日を、一般のプロテスタント教会に拡大するメシアニック・ジューの働きにも協力して、安息日の祝福を訴えている。日本のSDA教団はそれがなぜか面白くないらしく、とうとう私の国家試験受験機会不通知という奇行で帰国来日を妨害するという挙に及んでいるが、これも今までの経過を冷静に振り返るなら、いずれは神が介入されて問題を解決されるであろうと十分信じられる。安息日を守れと教えてきた教会に安息日で受験できなかった国家試験が開かれた受験機会を阻止されるというのは皮肉であるが、視野狭窄の教会とはこれ程愚かになれるのだ。


一般に、自分の属している組織、人間関係が汚いと、いくらそこで不平を言ったり批判をしてみても、自分がそこに属している限り一緒にいることによる呪いと不利益を共有することは避けられない。それがジャックセクエイラや高橋義文氏が指摘していた旧約聖書の共同連帯責任の趣旨ではないか。それを思い切って、しがらみを払いのけて、こちらからそれらの不純な利害関係を清算したときに、神は新しい祝福を注ぐことができるようになる。
 


先日、私は山形大学でてんかん治療の講演をした。自分が中退した医学部で講演ができるようになるとは誰が予想をしただろうか。再び山形にいた当時の同期生にあって、話をする機会があった。それから、山形でてんかんの同級生を助けるために何度かミシガンから山形に月に二回も足を運ぶこともあった。奥羽山脈に秋風が吹く頃であった。大学の教授達とは今でも細々ながらではあるが音信が続いている。毎週呼びつけては私に怒鳴り散らしていた塚本教授も引退して今は穏やかなご老人である。こうして週休二日になった山形大学医学部を見て思ったことは、私は、これを捨てた結果得たのだということだった。私の為に父の前で涙を流された遠藤教授は、残念にも、もはや若くしてこの世の人ではない。山形まで呼ばれてきた父も今は白髪の老人となり、「今になってみればこうなって一番良かった。おまえもアメリカでよい働きをしてきているし」と言った。私は教会には助けられなかったが、基本的に神の安息日の祝福に支えられた。ユダヤ人自らが、「ユダヤ人が安息日を守ったのではない。安息日がユダヤ人を守ったのだ」と言っているのと同じである。安息日を守って私は波乱を作ってしまったが、それはその時は愚かなことのように思われて教会からも反発され批判された。そして私は学籍のみならず、友人関係も、恋人も、証の根拠も、両親の信頼や希望も何もかも失わせて、すべては真っ暗の闇の中に落とされたかのように見えた。しかし、失ったように見えたものは、回復され、ヨブがその繁栄を以前の倍に戻されたように私にもそのようになった。
 


以上のように自分の通ってきた道を振り返って、安息日を守ろうとする者に私は言おう。安息日の祝福は半端ではない。だからこそ反対が起こる。しかもその反対は、聖書を信じない者からの反対よりも、同じ聖書を信じていると言う者の中からの方のものが厳しい。しかし、信じてその道をゆくなら必ず、歩いてゆくたびに天からの祝福が戻ってくるのを見ることが出来る。しかもそれは、あなたの予想もしないような、想像を絶するものである。

安息日の祝福が存在する理由は、非常に簡単なことだ。それは安息日を守って祝福を得た人を見て、明らかに神が生きておられることが周りの人に知られる事である。安息日を守っていることを秘密にしたり、組織的に隠蔽するならどこに祝福があろうか。あるはずがない。


こうしてこの者は、こうして安息日を守るということはどういう事であるのか、その結果、自分の身にどういう事が起こるのかということを身をもって理解してきたのである。
  



 
 
 

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