レビ記23章は福音書である



もし明日迫害が始まり、聖書を禁じられたとします。あなたは聖書を持っている事が許されないといわれました。その時あなたは聖書が取り上げられる前に、せめて聖書の一ページだけでも破り取ってポケットの中にこっそりしまっておきたいと思いませんか。その場合、あなたは聖書のどの場所を切り取るでしょうか。そう言う事が起こらないとは限りません。もし起こるなら、是非レビ記の23章を切り取って持っていて下さい。なぜなら、この一章に、メシアであるイエスキリストの誕生から十字架の贖い、最後の再臨と裁き、調査審判までの福音の一連の予定がすべて網羅されているからなのです。レビ記といえば、多くのクリスチャンが一番読みたくない律法のリストのような退屈で福音とは無縁の書であると思っていますが、これを読んだあなたはもはやそのように思わなくなります。実はイエスキリストのご計画は既にこの時点でモーセを通してイスラエルの民に明らかに啓示されていたのです。以下にそれを説明しましょう。
 
 

(23:1-3) 主はまたモーセに言われた、 「イスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたが、ふれ示して聖会とすべき主の定めの祭は次のとおりである。これらはわたしの定めの祭である。六日の間は仕事をしなければならない。第七日は全き休みの安息日であり、聖会である。どのような仕事もしてはならない。これはあなたがたのすべてのすまいにおいて守るべき主の安息日である。


レビ記にはイスラエルの民が守るべき祭りを定義していますが、これが福音と何の関係があるのかを示します。
まず、祭りには、季節にしたがって毎年行われる祭り(フェステイバル)と、毎週の安息日とに分けられます。毎週の安息日も広義の祭りなのです。何の祭りかというと、それは神がこの世界を創られた記念日としています。神は創造の記念日を一年に一回とするのではなく、毎週とされました。一部の福音主義者は安息日は週の第七日ではなく、週のどの日でも良いかのように主張していますが、それは聖書的には全く根拠のない空言です。世界を創造されたのはイエスキリストであるので、安息日の主は当然キリストなのです。

イスラエルの暦では、春先のニサンの月を正月とする暦と、バビロン捕囚から帰還したユダヤ人による秋のテイシュリの月を正月とする後の暦の二種類あります。今、これから述べるのは、明らかにモーセの時代の啓示の時点でニサンの月を新年とする暦に従って説明がなされます。
 

(23:4−8) その時々に、あなたがたが、ふれ示すべき主の定めの祭なる聖会は次のとおりである。正月の十四日の夕は主の過越の祭である。またその月の十五日は主の種入れぬパンの祭である。あなたがたは七日の間は種入れぬパンを食べなければならない。その初めの日に聖会を開かなければならない。どんな労働もしてはならない。あなたがたは七日の間、主に火祭をささげなければならない。第七日には、また聖会を開き、どのような労働もしてはならない』」。
新年の月の第14日の夜は「過越しの祭」と言われています。これは旧約においてはイスラエルがエジプトから脱出する前夜に一致していますが、新約では、キリストが十字架にかかられた日に一致します。23:4にある「夕」という言葉は、ヘブル語では「たそがれ時」もしくは「二つの宵の間」という言葉で表現されています。イエスキリストも十字架にかけられて夕方近くにお亡くなりになりました。出エジプトの際のユダヤ暦正月の第14日には、人々は羊の血を家の鴨居に塗り、それが裁きを下す滅びの天使の通りすぎるための目印となりました。新約の時のユダヤ暦正月の第14日には、キリストが十字架にかかられて血と水を流されました。われわれはそれによって救われるのです。「種入れぬパン」というのは、罪のない犠牲の象徴です。種によって膨らんだパンは罪に染みこまれた我々の憐れむべき肉の存在を象徴しています。
 
(23:9ー14) 主はまたモーセに言われた、 「イスラエルの人々に言いなさい、『わたしが与える地にはいって穀物を刈り入れるとき、あなたがたは穀物の初穂の束を、祭司のところへ携えてこなければならない。彼はあなたがたの受け入れられるように、その束を主の前に揺り動かすであろう。すなわち、祭司は安息日の翌日に、これを揺り動かすであろう。またその束を揺り動かす日に、一歳の雄の小羊の全きものを燔祭として主にささげなければならない。その素祭には油を混ぜた麦粉十分の二エパを用い、これを主にささげて火祭とし、香ばしいかおりとしなければならない。またその灌祭には、ぶどう酒一ヒンの四分の一を用いなければならない。あなたがたの神にこの供え物をささげるその日まで、あなたがたはパンも、焼麦も、新穀も食べてはならない。これはあなたがたのすべてのすまいにおいて、代々ながく守るべき定めである。


過ぎ越しの祭りの安息日の終わった翌日に穀物の初穂が揺り動かされたということは何を意味しているでしょうか。キリストは十字架にかかられ、安息日に墓の穴で休まれましたが、その翌日に復活しました。キリストは人類の救いの初穂となられたのです。
 
 

(23:15−21) また安息日の翌日、すなわち、揺祭の束をささげた日から満七週を数えなければならない。すなわち、第七の安息日の翌日までに、五十日を数えて、新穀の素祭を主にささげなければならない。またあなたがたのすまいから、十分の二エパの麦粉に種を入れて焼いたパン二個を携えてきて揺祭としなければならない。これは初穂として主にささげるものである。あなたがたはまたパンのほかに、一歳の全き小羊七頭と、若き雄牛一頭と、雄羊二頭をささげなければならない。すなわち、これらをその素祭および灌祭とともに主にささげて燔祭としなければならない。これは火祭であって、主に香ばしいかおりとなるであろう。また雄やぎ一頭を罪祭としてささげ、一歳の小羊二頭を酬恩祭の犠牲としてささげなければならない。そして祭司はその初穂のパンと共に、この二頭の小羊を主の前に揺祭として揺り動かさなければならない。これらは主にささげる聖なる物であって、祭司に帰するであろう。あなたがたは、その日にふれ示して、聖会を開かなければならない。どのような労働もしてはならない。これはあなたがたのすべてのすまいにおいて、代々ながく守るべき定めである。


過ぎ越しの祭りの翌日の安息日の翌日から七週間、というと、過ぎ越しの祭りから50日後ということになりますが、この時にする事を注目して下さい。持って来るものは「種入れぬパン」ではなく「種入りのパン」です。これは、罪の身であるあなた自身に献身が求められている事を意味しています。種入りのパンは純潔ではなく、従って完全なものではありません。従って、これが神の前で捧げられても、それ自体で完全な捧げ物とは見なされず、羊や牛の清い獣を屠ってその血を添えなくてはなりませんでした。つまり、あなたが献身しても、キリストの犠牲の血が添えられる事がなければ受け入れられない事を表しています。

そもそもこれは何の祭りでしょうか。そうです、過越しの祭りから50日目はペンテコステ(Shavout)の日です。この日に旧約と新約の時代にそれぞれ何が起こったの課について完璧な理解を持つ事が聖書の信仰にとって極めて重要です。まず、旧約の時代において、ペンテコステとは、モーセがシナイ山に登って律法(十戒)を受けとった日です。すなわち、ペンテコステとはイスラエルの神がイスラエルの民の上に正式に臨み、イスラエルの宗教が始められた日です。アロンには油が注がれ、彼が最初のイスラエルの祭司(つまり人類から選ばれた最初の祭司)となりました。詩篇には、その時の事が覚えられていて、

それはこうべに注がれた尊い油がひげに流れ、アロンのひげに流れ、その衣のえりにまで流れくだるようだ。(詩篇133:2)
と書かれています。この日から、アロンは仲保の大祭司に任ぜられました。それからイスラエルは神と共に歩む事を契約したのです。一方、新約の時代には何が起こったでしょうか。キリストが甦られ、天に昇る前に40日の間弟子達と過ごされましたが、その時まだ、キリストは天に登っていないと明言されました。キリストが天に上られて10日経ってペンテコステになりました。その時に起こった事は、天から聖霊が下り、弟子達の上に炎のように降りました。それはあたかも、注がれた油が発火して聖霊の炎になったかのようでした。これにより、キリストが天に上られて、父なる神によって大祭司に任命された確証が与えられました。

このようにペンテコステとは、旧約ではアロンの任命、新約ではその本体であるキリストが天の大祭司となられた日として提示されています。その日には我々は不完全で罪あるものであっても神の前にでてキリストの血(旧約では羊の血)の功によって感謝を捧げる事ができたのです。レビ記の前半の祭りの描写はこのように、福音の宗教のはじまりが二重の確証をもって啓示されているのです。これは決して軽んじられるべきものではありません。
 

(23:23−25) 主はまたモーセに言われた、「イスラエルの人々に言いなさい、『七月一日をあなたがたの安息の日とし、ラッパを吹き鳴らして記念する聖会としなければならない。どのような労働もしてはならない。しかし、主に火祭をささげなければならない』」。


ユダヤ暦で七月というのは秋になるテイシュリの月です。この第一日をロシュ・ハシャナ(ユダヤ新暦の正月元旦)といいます。この直前の月をエラルの月といいますが、この月の半ばから、イスラエルの人々はそれぞれの罪の清算を始めていなくてはなりませんでした。ロシュ・ハシャナは天の王が来られる日として重んじられ、この日の朝には角笛(ショーファー)が吹き鳴らされ、王が来られることを城内の人々に知らせました。「聞けシオンの山高くいとおごそかに鳴り渡る角笛を...」 という賛美歌はこの祭りをモチーフにして創られました。ロシュハシャナには王の来臨の緊張が満ちあふれます。19世紀の再臨運動のミラーは1844年のロシュ・ハシャナにキリストが再臨されるのではないかと考えました。ロシュ・ハシャナとキリストの再臨との密接な関係という着眼点は正しかったのでしたが、再臨の期日を設定できない誤りに陥ったので、その期待は報われませんでした。しかし、そうであっても、王の来臨に備えをするというのはこのレビ記にあるフェステイバルの本旨である事は論を待ちません。
 

(23:26−32) 主はまたモーセに言われた、「特にその七月の十日は贖罪の日である。あなたがたは聖会を開き、身を悩まし、主に火祭をささげなければならない。その日には、どのような仕事もしてはならない。これはあなたがたのために、あなたがたの神、主の前にあがないをなすべき贖罪の日だからである。すべてその日に身を悩まさない者は、民のうちから断たれるであろう。またすべてその日にどのような仕事をしても、その人をわたしは民のうちから滅ぼし去るであろう。あなたがたはどのような仕事もしてはならない。これはあなたがたのすべてのすまいにおいて、代々ながく守るべき定めである。これはあなたがたの全き休みの安息日である。あなたがたは身を悩まさなければならない。またその月の九日の夕には、その夕から次の夕まで安息を守らなければならない」。
ロシュ・ハシャナから十日後にいわゆる「大贖罪の日」(ヨム・キプール)がやってきます。これは年に一度、大祭司が至聖所に入って罪を清める日と教えられていますが、もっと直接的には、神の民がそれぞれの罪を清算するべき最終日です。この日に罪を清算して贖罪をなさないものはイスラエルの民から絶たれると迄厳しい言葉で説明しています。旧約ではこの通り、民がそれぞれの罪を負って、清算し、贖罪日を遵守しました。アポカリプテック(終末論的)には、これは天におられる大祭司であるイエシュアであるキリストが最後の裁きを行う事を象徴的に示していると考えられています。ヨムキプールに際して、あなたが行わなければならない事は、レビ記によると次の通りです。
(1)聖会に出席しなければならない
(2)罪を認め、告白し、身を悩ませなければならない
(3)犠牲を捧げなければならない
(4)休息しなければならない
(5)清めを受け入れなければならない、または、清めをしなければならない
聖書を誤読している世の一部「福音主義者は、これらのことは既に十字架でキリストがわれわれのかわりにやってくれたからする必要がないという誤りを教えて、これらの責任を不従順にも回避しようとしています。しかし、事実はイエスキリストが私たちのためにして下さった事は、私たちの罪のために血を流された事です。それが全てです。エゼキエルの預言の書に、「わたしは清い水をあなたがたに注いで、すべての汚れから清め、またあなたがたを、すべての偶像から清める。わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。わたしはまたわが霊をあなたがたのうちに置いて、わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる」(36:25−27)と書かれています。上の勧告に従順に従うなら、神はエゼキエルの約束を成就されるのです。
 
(23:33−35) 主はまたモーセに言われた、「イスラエルの人々に言いなさい、『その七月の十五日は仮庵の祭である。七日の間、主の前にそれを守らなければならない。初めの日に聖会を開かなければならない。どのような労働もしてはならない。


同じ第七のテイシュリの月の第一日であるロシュ・ハシャナから十五日後にスコテの祭り(=仮庵の祭り)があります。仮庵の祭りは七日間続く祭りです。仮庵の祭りの始まるのは、それゆえ、大贖罪日から五日後ということになります。下のリンクに明らかにしていますが、イエスキリストがお生まれになったのはこの「仮庵の祭り」の時です。12月25日のクリスマスなどでは絶対にありません。よってクリスマスをメシアの生誕記念日にする異教の悪習慣は廃されなくてはならないのです。
 

仮庵の祭りとキリストの誕生の関係詳細はここをクリック

 
 
(23:36ー37) また七日の間、主に火祭をささげなければならない。八日目には聖会を開き、主に火祭をささげなければならない。これは聖会の日であるから、どのような労働もしてはならない。これらは主の定めの祭であって、あなたがたがふれ示して聖会とし、主に火祭すなわち、燔祭、素祭、犠牲および灌祭を、そのささぐべき日にささげなければならない。
 
 
仮庵の祭りの第八日は律法(トーラー)の祭りです。イスラエルの世界では毎日子供達から大人迄みんな神の言葉であるトーラーを朗読しますが、仮庵の祭りの時に一年のプランが終わり、また新たに次の一年に向けて順ぐりで読んで行きます。このトーラーの朗読順を更新するのがトーラーの祭り、シム・ハ・トーラーです。キリストは一方律法の定める所に従い、生後第八日目に割礼を受けられました。それは実はこのシム・ハ・トーラーの日だったのです。つまりこの日に律法が受肉したのです。
 
このほかに主の安息日があり、またほかに、あなたがたのささげ物があり、またほかに、あなたがたのもろもろの誓願の供え物があり、またそのほかに、あなたがたのもろもろの自発の供え物がある。これらは皆あなたがたが主にささげるものである。あなたがたが、地の産物を集め終ったときは、七月の十五日から七日のあいだ、主の祭を守らなければならない。すなわち、初めの日にも安息をし、八日目にも安息をしなければならない。初めの日に、美しい木の実と、なつめやしの枝と、茂った木の枝と、谷のはこやなぎの枝を取って、七日の間あなたがたの神、主の前に楽しまなければならない。
あなたがたは年に七日の間、主にこの祭を守らなければならない。これはあなたがたの代々ながく守るべき定めであって、七月にこれを守らなければならない。あなたがたは七日の間、仮庵に住み、イスラエルで生れた者はみな仮庵に住まなければならない。これはわたしがイスラエルの人々をエジプトの国から導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせた事を、あなたがたの代々の子孫に知らせるためである。わたしはあなたがたの神、主である』」。モーセは主の定めの祭をイスラエルの人々に告げた。
 
実に、このようにレビ記の23章は、キリストの降誕、贖いのご計画、聖霊降臨、再臨、裁きの全てを網羅しています。旧約聖書のレビ記の律法は実はこのように福音その者であり、キリストの救いのご計画のブループリントにほかなりませんでした。



 

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