過去ログ第9編
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おしらせ 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日: 7月15日(日)22時19分04秒

      本ページのリンク欄で最新の「安息日催し物ページ」が「聖書クラッシュコース」に
      かぶりリンクしているという指摘を受けましたので、今修正を行いました。これで嵯
      峨野教会メインページから安息日問題のイベントページにつながります。

      この安息日問題イベントページは、最近アメリカのセブンスデーアドベンチストが出
      した安息日特集の翻訳です。これはこちらの教会の公認で、実際の教会で信徒に牧師
      達の手によって(一部クレージーな「信徒伝道者」によるのではなく)配布されまし
      た。原文を読みたい方はもよりの教会の牧師にお問い合わせの上、確保して下さい。
      日本のセブンスデーの牧師の中には第七日安息日の遵守に不忠実なものがあり、こう
      したSDA本来の趣旨を確認する出版物を快く思わず、信徒に紹介するのを喜ばない
      人もあろうかと思います。もし読者の教会で、そういう残念な状況がもしあるなら、
      いたずらにそういう牧師と争わず、むしろ速やかにこの小冊子のアドベンチストの出
      版元に直接手紙かEメールでお問い合わせになることを強くお勧めします。
      (E-mail address: staff@projectrestore.com )

      Project Restore, Inc.
      P.O. Box 2000
      Locust Dale, VA 22948
      U.S.A.

      http://www.projectrestore.com



忘れ去られる固い食物 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日: 7月14日(土)20時57分50秒

      ある方よりこんなEメールを頂きました。
 

       >昨夜から「氷点」の現代設定版「氷点2001」が始まったのですがーーーー
       >…(T▽T)なんでわざわざ旭川から鎌倉へ来るの〜〜、あれは北海道の過酷な風土と信
       >仰の葛藤で成り立っている世界なのに。一瞬洞爺丸のエピソードはしょるためかと思
       >いましたが、2001年で世界設定しているのだからその必要も無し。これは雪国のロケ
       >が大変だから、・…という事なのかしら。
       >
       >そしてーーーーーー、あの村井医師が、結核療養所じゃなくてイギリスでガンガン女
       >遊びして仕事もこなしたエリート医師として帰国してきたーーーーーヽ(T-T)丿 そり
       >ゃ今の時代、結核療養所帰りなんて、なんの説得力もないわけですが、それにして
       >も・・・院長もはや完敗してます。人格者、という原作の設定も、映像的に全然漂っ
       >てこないし、ただの優柔不断なさえないおっさん、というだけ。対して村井の方は、
       >sexyだし眼は輝いているし、強引だし強気だし、英国帰りのエリートだし危険っぽい
       >魅力にあふれているし、もはや勝ち目は有りません、院長。
       >
       >奥さん奥さん、何が良くて旦那についていますの。と、思わずchange勧めたくなるほ
       >どでした。三ヶ月で離婚だろうけど。
       >それに大テーマであるはずの、信仰のシの字もでてこなかったし。
       >
       >まいった・・・・
       >
       >確かに昭和初期を再現するというのは苦難困難なのは分かるんだけど、あんまりとい
       >えばあんまりではないでしょうか。破綻しすぎてます・・・・・・・・・
       >
       >思わず息子に「氷点」はこんなチャラチャラした話ではなーーーい。と力説してしま
       >いました。
       (以下略)
 

      全く同意というか、「氷点」の原作者を私の家の近所に持つ嵯峨野教会牧師としては、こうした
      原作に対する冒涜を眞に遺憾とするものであります。あれは、聖書で言う所の「固い食物」なん
      です。原作者が死んでしまったら助平なテレビドラマにどうにでも利用されるというのが哀しい
      ものがあります。こうして原作者の元の本旨が忘れ去られて行くのでしょう。あないみじ。

      聖書のみことばやホワイト夫人の証の文も、同様に、固い食物を食べることを望もうともしない
      教会の人たちに踏みにじられ、骨抜きにされてきたことを思い、反省したいと思います。



そうですね 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日: 7月12日(木)18時57分31秒

      あの人は教会員であるか、そうでないか、というのは実はものすごく表層的なことなんですよね。



悲しい現実 投稿者:弱き者  投稿日: 7月12日(木)09時32分00秒

      信仰を持ってから私は信仰の有無によって人は二つのグループに分けられる事を教えられました。学院においてまた、教会において私はこの事を教えら
      れました。信仰を持つと無意識のうちにこのような分類をしてしまう危険があるのだと思います。私もきっとしていたのでしょう。友はこの事を感じ取
      って「同じ人間だよ。」と抗議したのかもしれません。信仰を持って人を区別してしまう事はなんと恐ろしい事でしょう。悲しい事です。



愛と関心の新しい表現を開発する事 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日: 7月12日(木)07時12分02秒

      あれは遠い昔昔の事、私がまだ若い青年だったころ(←今でも若いのだ、実は。なんちて)純真で剛毅朴訥仁に近し
      をモットーにしているかのような受験予備校生だった時でしたが。私は教会のパトラックの後、午後に教会の集会を
      待っているときに、ある教会の女執事のおばさんと雑談をしていました。私は、大学受験の為に骨身を削っている話
      をして、それなりの苦労の話をしていました。私は安息日を守りながら予備校通いをしていましたが、そんなことで
      は大学に合格などしないだろうと言われていたので(実際は後でその予備校の優秀特待生になって賞状と金一封を貰
      ったのですが)それなりに苦しい状況にありました。私もそんなに自分の状況をいかにも苦しそうに説明して人の同
      情を買おうとしていた訳ではないので、適当に冗談めかして私の話をしていたのです。それで「いやー、こういう生
      活をしていたら、僕は大学の合格通知を手にする頃には過労で死んでしまっているかもしれませんよ、はっはっは」
      と言うような事を言った記憶があります。それはそれでよかったのです。ただ、次にその教会の女執事の人が、あっ
      さりと私に言った言葉が、私のはぐらかし笑いを一瞬にして凍りつかせたのです。何と言ったのかといいますと、

         「あなたが死ぬのもみこころです」

      それで、私ははははと笑って話をしていたのが急に冷え冷えとしてきたのを三日前の事のように覚えています。もち
      ろん「生きるも死ぬるもみこころだ」というのは同意できる事であり、それ自体は問題はないのですが、もし本当に
      その時に私が過労で死んでいたとしても、この人達は「みこころ」と思っている事に関知をして、私の死には関知し
      ない人たちなのではないかと思ってゾーっとしたのでした。

      もし私たちが、キリストを信じない友人や親族に対して、同じような印象を与えるのであれば伝道は失敗する事にな
      りはしまいかと懸念するのです。墓や位牌に向かって手をあわせるのはしないというなら、自分達はキリスト教信者
      になった子供達から愛されていない、見捨てられているということを意味するのだと思わせてはいないかと反省する
      のです(だからというので「方便で形だけでもお墓参り、墓所参拝をしなさい」と教えるような牧師は大間抜けです
      が)。そうではなく、神を信じた結果、あなたをこのように愛している事を表現する事ができるのだ、という関心の
      表明の新しいかたち、新しいパラダイム、新しい原則を示す事が出来るようにならなければならないのではないか、
      そうでなければ「あなたも神の下にいるのだからいつ死んでも文句言うな」と突き放すような教会員になってしまい
      ます。そうならないようにしなければならないと自戒を込めながら、これを書いております。



私は・・・ 投稿者:弱き者  投稿日: 7月11日(水)23時12分57秒

      嵯峨野教会牧師さま
      鋭く深い洞察を感謝いたします。神様と出会ってからはむしろ地位や立場をこえて同じ被造物として真剣にその人個人と向かい合ってきたつもりなので
      すが・・・。直接その人を見つめてきたのですが。私は主を語らずして人との関係は語れない気がします。人と真剣に向かい合おうとすればするほど向
      かい合っていないと言われます。私の友は主と出会ったら変わるのかな?しかし、この友の考えが主との出会いを阻んでいる気がします。何が真理なの
      かわからないです。



ありがとうございます 投稿者:弱き者  投稿日: 7月11日(水)22時39分55秒

      あきよし様
      ご回答を感謝します。人の本来の姿は主の前にあるという事ですね。つまり、主との関係があって人と人との交わりがあるという事ですか。参考資料の
      提供を感謝します。



まじまじと読むと 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日: 7月11日(水)08時11分09秒

      「あなたは何でも神様なんだね。神様を通して私を見るんだね。私を直接見てくれないんだね」

      この言葉をじっと読んでいると、弱き者さんにこう言った人の心の焦燥もしくは軽い当惑が見える
      ような気がします。また、それは、神という大前提があって自分をもはや個人としてみてくれなく
      なってしまっているのではないかという懸念とも淋しさとも取れます。(懸念<淋しさ?)
      いかがでしょうか。この人が神を知るようになれば、そういう風には考えなくなるという性質の問
      題であると果たして言えるかどうか、もう少し考えてみたいと思います。



愛 投稿者:喜ぶ者  投稿日: 7月11日(水)07時44分59秒

      私は愛の無い人間です。私の一人の力では
      誰も、自分すらも愛することが出来ない人間です。
      でも、そんな私すらも愛しぬいてくださったお方が
      いる、愛されている、そう確信できている今、こうして
      いられるのです。
      人を憎みそうになる時、神は、その人も愛しておられるの
      だと思うと、憎しみの代わりの愛を持つことが出来るよう
      にしてくださったのです



Re: 何と答えますか? 投稿者:あきよし  投稿日: 7月10日(火)23時37分38秒

      弱き者さま。

      『ブーバーの人間学』(稲村秀一/著 教文館)にこのような文があったのですが、
      参考になりますでしょうか?

      「ヘブライズムでは、神の言葉(つまり霊)によって世界は『無より創造された』
      という思想が語られる。この世界理解の背景のもとで被造者なる人間も理解されて
      いる。つまり、人間存在はすべてのものを在らしめ、それぞれに存在の意味を与え
      ている創造主との関係のなかではじめて明らかにされるのである。『人間とは何か』
      の問いは、ヘレニズムにおけるように客観的対象としての人間の本質的構造が分析
      されることにとって答えられない。というのは、その前に、まずこの『私』(実存)
      が今ここに存在せしめられている事実の意味が問われているからである。『私とは
      誰か』が問われている。したがって、ヘブライズムでは、人間論は(中略)魂と
      身体の統一体である『私』(実存)が創造主の前でいかに在るかという問いとして
      考えられている」(168-169ページ)



みなさん 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日: 7月 9日(月)20時59分05秒

      下のような状況に会われた時には、本当に何と答えますか?またそう言われたらどのように考えるべきでしょうか。
      どうぞみなさんふるってご意見をお寄せ下さい。弱き者さん、信仰の思索の糧の提供をありがとうございます。



何と答えますか? 投稿者:弱き者  投稿日: 7月 9日(月)11時07分08秒

      私はまだ信仰を持っていない友人に様々な事を質問されました。神様と出会った後の変化について特に聞かれました。別れ際この友人は「あなたは何で
      も神様なんだね。神様を通して私を見るんだね。私を直接見てくれないんだね。」と言いました。もし同じ事を言われたらこれを御覧の方はどのように
      答えますか?



ありがとうございます 投稿者:弱き者  投稿日: 7月 9日(月)08時12分50秒

      嵯峨野教会牧師様  お答え下さりどうもありがとうございました。安心しました。神様をあくなき姿勢で求め続けていく事が幼子のような信仰だった
      のですね。これは積極的な信仰の姿ですね。いつも私の疑問に分かりやすく答えてくださりどうも有難うございます。牧師さんと出会わせて下さった神
      様に感謝します。



幼子の信仰の真意 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日: 7月 8日(日)23時58分16秒

      弱き者さんへ

      いつも有用な質問をしてくださって有り難うございます。幼子の信仰というと、すぐ単純でナイーブな信仰という
      風に一般的には解釈されているようですが、それはそれで大幅に間違ってはいません。しかし、聖書に「蛇のよう
      に賢く鳩のように素直であれかし」とあって、これと幼子の信仰とどうやって擦り寄せるのかという質問はよく聞
      きます。確かに幼子は蛇になれません。しかし、これは比喩であって、聖書が決してキリストを信じるものに対し
      て狡猾な人間になるようにと勧めているのでは断じてないのは明らかです。ではどういうことなのかと言う事を、
      また例によって簡単に説明してみましょう。

      人間というのは本来永遠に生きるように作られました。しかし、罪の結果死ぬようになって、その寿命がせいぜい
      およそ千年となりました。その後罪の結果がじわじわと浸食し、人間の寿命はどんどん短縮してゆき、洪水後の自
      然環境の激変後はさらに惨めにも縮んでゆき、せいぜい50年(古代ギリシャ文明のアテネの平均寿命はなんと25
      歳だったとか)になりました。まさに「人生五十年夢幻の如くなり、下天の内に比ぶれば〜♪」という信長の台詞
      のようになってしまったのです。ですから、人間は幼い内に成長し老化し死んで行くようになりました。ですから
      50歳で死んでも聖書の尺度ではこれは「若死に」か「夭折」なのです。ですから、罪の世界ではみんなほとんど例
      外なく幼くして(100才にもならずして)死んで行く訳ですから、そもそも幼子のまま一生を終えるとしても決して
      過言ではありません。

      ユダヤの社会では、成人を男子は13才(女子は12才)と設定しており、これまでに子供を実社会の生活において一
      人前に育て上げる事が出来なければ親として不能と見なされます。またこの歳に達して成人式(バーミツバ)を行
      った13歳の男子は本質的に80歳のヒゲもじゃの老人と対等かつフェアな議論をすることが許されているのです。と
      いうことは彼らはもう13歳の時点で幼子であることをやめているのでしょうか。そうではないのです。彼らは80歳
      になっても90歳になっても神の前では我々は幼子であると言っています。老獪で知恵がついたと思っているような
      世俗的な老人は嫌われます。つまり、幼子というのは、「成人式」を経ても相変わらず熱心に神を求める姿勢です。
      その結果考えが以前よりも深くなったからそれだけ幼子でなくなってしまったのかといえば、全然そうではなく、
      次々に新しい知識を吸収して、さらに視野を拡大し、考え方にもいろいろなパラダイムや方向を学んで幅が出てき
      てもなお、それに甘んじて自分の好き勝手な世界に閉じこもることなく神をあくなき姿勢で求め続けて行くのが、
      この場合の幼子の意味です。

      人生は長くありませんから、決して、自分の得た知識や経験に満足して成長をとめて「老化」して行くような時間
      的ラグジュアリーはないと思わなくては。



あきよしさん 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日: 7月 8日(日)23時35分04秒

      契約の箱読まれましたか。ね。凄いでしょう。
      「あなたの信仰が変わります」というのも誇張ではない事がわかりますよね。
      ワイアットのRealPlayerのファイルのリンクまで拾ってきて下さって有り難うございます。
      あとで、私の該当ページにリンクとして貼り付けておこうと思います。



幼子のような信仰とは? 投稿者:弱き者  投稿日: 7月 8日(日)22時50分23秒

      私はある牧師さんに深く考えていく時、幼子のような信仰を失う危険があると言われました。幼子のような信仰とはどのようなものですか?疑わずにた
      だ信じ従う事ですか?疑問を持たない事ですか?



『契約の櫃』読了しました。 投稿者:あきよし  投稿日: 7月 8日(日)17時37分56秒

      こんにちは。
      「行くのが当たり前!」と言われればそうなのですが(笑)
      昨日もまたSDAの教会に行って来ました。なぜ安息日のバイブル
      スタディや礼拝に参加すると、心身ともにこれほど満たされた
      気持ちになるのかしら。不思議です(^-^)

      『契約の櫃』読み終わりました。トンデモ本だと思っていた
      自分が何とも恥ずかしいです。すごい内容ですね。
      それに、ただの「発掘モノ」の本ではなく、読者を真の信仰に
      導く本だな、とも思いました。
      (ところでオーストラリアのSDA教団があれだけ暴力的に
      講演集会などを妨害しようとしたのは本当なのかしら…)

      本を読みつつ、Ron Wyattに関するインターネット上のサイトを
      見つけて読みました。

      http://www.pilgrimpromo.com/WAR/

      ↑例えばこのサイトから、RealPlayerで彼の仕事を
      撮影・説明したビデオが見れるなんて(しかも無料で)、
      驚きです。

      嵯峨野教会牧師さま。
      「なぜSDA?」という私の質問に、とても詳しく丁寧に
      お答えくださり、ありがとうございました!
      わたしも、SDAの教えが一番「聖書に忠実で」「理にかなった」
      ものだと思います。それゆえに私も教会に通い始めました。

      教団や関連団体にまつわる変なスキャンダルが無ければなぁ…。



二年前のある出来事 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日: 7月 8日(日)10時59分03秒

      二年前の初夏の事、私は、自分の本業の関係の理由で、ワシントンDCに行きました。
      そこでホテルに泊まって、カンファレンスに出席していたのですが、ある夜、ホテルに
      缶詰になって手足がなまるので、気晴らしに外に出て、そのあたりの道を歩いていまし
      た。合衆国の首都ですから、それほど治安が良いという訳ではありませんが、こちらも
      いかにもそのへんのアジア系のあんちゃんのようなラフな格好をして出て行ったのです。
      そうしたら、学生街が近かったのか、そこのローガン街の通りの角に、ネオンで妖しく
      飾った古本屋がありました。せっかくだから何か面白い本でも探すべ、と思って中に入
      ると人文系から理科系統からポルノやオカルトの果て迄、ありとあらゆる古書が並んで
      いました。奥に入って、社会学系の所に行って目ぼしい本を物色していたら、私はその
      場で思わず目が本棚の真っ正面に釘付けになりました。なんとそこに、そこにはあろう
      はずがない日本語のタイトルの赤い背表紙の本があったのです。周り全部英語の本でそ
      れだけ日本語でした。しかも、その本のタイトルは「日本の学生運動の歴史」でした。
      「これは異様な」と思いながら私はその本を拾い出して、こんなものワシントンDCの
      誰が読んでいたのだろう?と思いながらパラパラとめくっていたら、中から薄汚れた紙
      切れが一枚落ちてきました。拾い上げて、私はびっくり仰天しました。それには、

      「赤軍闘争同志よ、次の場所に連絡されたし。○○市△△町■番×号□□方 電話番号...」

      と鉛筆で書かれていたのです。それで、私は、そこに書いてある紙を取らず、持ってき
      たメモ用紙に書き取りました。それから、私は、その情報を発見した場所と状況を書い
      て警視庁のホームページにメールで送りました。そしてワシントンDC在住の警視庁の
      係官がその本屋に直接出向いて、本棚の何番目にある該当の本にはさまれている情報を
      確認するように古本屋の住所を書いて依頼しました。それから3、4カ月程経過して忘
      れかけたような時に警視庁からメールで「情報の提供有り難うございます」と返事があ
      りましたそれから間もなく重信房子が逮捕されたという訳です。

      思うにああいう人の道から外れた人たちですら、同志を集めるために世界中に網を張っ
      ているとしたら、神の道に帰ってきて欲しいと願う神は世界中にもっと多くの真理の回
      復の出会いを設けておられると信じられるのではないでしょうか。



時代は・・・ 投稿者:弱き者  投稿日: 7月 6日(金)23時18分45秒

      時代は確実に神様のご計画に従って一つの終わりに向かっているのですね。私たちは時代という名の鎖の一つの輪として召されたのです。この神様の鎖
      を繋いでいく事が私たちの使命です。その時代に召された者としてしっかりとその使命を受け継ぎ次の輪に繋いでいきたいものです。



我々はバプテスマのヨハネです 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日: 7月 6日(金)21時02分25秒

      あきよしさま

      素晴らしい質問です! 私のホームページを隅々までよく読んでいて下さっているようですね。そ
      の中からよくぞ尋ねて下さいました。

      まず、このセブンスデー・アドベンチスト教会というのが、神の摂理に従って立てられ、十九世紀
      の福音プロテスタントの中から人々が集められました。彼らはキリストの再臨使命を危急のものと
      いう共通した認識によって集められたのです。その上に教会に小さな光としての烏合の衆を導く霊
      感による預言の使命者が与えられて、この教会の行くべき指針が与えられました。そこに第七日安
      息日遵守の回復という使命がやはり摂理の内にセブンスデー・バプテストの婦人を通してバトンタ
      ッチされて伝授されました。歴史的に見て、これは宗教改革以後のプロテスタントの中で第七日安
      息日が最も「組織的(←良い意味で)」にかつ継続的に回復されている教会となりました。第七日
      安息日に気がついて守り出したプロテスタント教派は他にもSDBの他にチャーチ・オブ・ガッド
      がありますが、前者は小規模衰退傾向であり、後者は最近になってリベラル派の台頭があって第七
      日安息日の教理を撤回してしまいました。アドベンチストは教会の内部は日本もアメリカも預言の
      霊のアドバイスを否定する牧師や安息日は週のどの日でもよいと教える者が増えたり教会内部スキ
      ャンダルが各所で爆発したりして、精神的に落ち込んでいますが、にもかかわらず一応統計上はバ
      プテスマ数による教会員増を示しています。教会から去っている人もかなりいるはずですが、その
      一方で、新たにこの教会の教えていた事に真理を見いだして、逆に加わろうとしている人たちはま
      だまだいるのです。ホワイトも終わりの時代には多くの者が真理の旗を打ち捨てて去って行くが、
      それと同じくらい新たな人々がサタンの側から神のみ旗の下に帰ってくると証をしています。
      ですから、SDAがたとえ病んでいるように見えていても、未だこの世界で真理を伝達するアウト
      ポストとしての存在意義を失っていないのがわかります。
      メシアニック・ジューというのは、リンクを辿って説明を読まれていればお分かりでしょうが、こ
      れは内容的に言って本質的に十九世紀の大覚醒運動と同じもので、それがプロテスタントという枠
      を超えて、カトリック、ユダヤ教、という聖書世界全般を巻き込んで人を集めているものと考えて
      下さい。SDAもおしなべて立派な指導者がいた霊的な教会であった時代もあったかもしれません
      が、SDBがSDAに道を譲って使命をバトンタッチしたように、SDAもMJにそうしなければ
      ならない時が早晩くるであろうと考えます。しかし、だからといって活動するのをやめてしまうの
      ではなく、最後迄走り続けるのです。これは再臨に道を備えるバプテスマのヨハネの教会なのです。
      自分も備え、他の人をも備えさせる教会です(悪事を行って私利私欲を肥やしているような人は放
      っておけば滅亡します)。この使命に徹底する人が真のSDAであり、真のSDAはMJに道をぞ
      開くべしというのはそういう意味です。

      またわからない事があればどうぞお尋ね下さい。



なぜSDA? 投稿者:あきよし  投稿日: 7月 6日(金)19時50分30秒

      こんにちは。
      嵯峨野教会牧師さまに質問なのですが、ホームページでMessianic Judaismを
      あれほど高く評価なさり、「SDAの使命はもう終わった」とも受け取れる発言を
      なさっていて、その上メシアニックの集会に容易に参加できるアメリカに
      お住まいの牧師さまは、なぜ未だSDA信徒でいらっしゃるのですか?
      あ、どうか誤解なさらないでください、「Messianic Judaismの運動が活発に
      なってきている今、SDAメンバーであることは何を意味するのか」を知りたいのです。
 



re. 同じです 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日: 7月 5日(木)12時31分35秒
 

           ガーン
 
 

      とりあえず、当教会で提供している、ジャック・セクエイラの聖書講座で
      静かに聖書を学んでみませんか。聖書講座教材は嵯峨野教会Hpメインペ
      ージからリンクしています。ところどころタイプミスがあったりして直さ
      なければいけないとは思っていますが。

      ううむ、それにしても、思わず私は沈思黙考....



同じです 投稿者:弱き者  投稿日: 7月 5日(木)01時07分22秒

      嵯峨野教会牧師様  お察しの通り同じ牧師さんです。私はこの方と聖書研究をしているとますます闇の中に行くので暫らくこの牧師さんとの聖書研究
      をやめる事にしました。この方から離れて良く考えてみたいと思います。



喜ぶ者 投稿者:喜ぶ者  投稿日: 7月 4日(水)22時18分36秒

      まあ泣かされたと言うのは半分冗談ですが、大の大人が本当に泣いたんじゃしゃれ
      になりませんからね。
      でも、かつてのハンドルは、長いこと使っていましたんで愛着があったんですが、
      もう使えません。2CHみたいなとこでまともなハンドルを使った私が馬鹿でした。
      本当に悲しいことですが、ね。私はイエスキリストを救い主として信じる人たちと
      対話が出来ればいいなと、時には聖書の解釈で議論を戦わしても、対話が出来たら
      いいなと思いましたが、無理な相談でした。Flord の時に懲りたはずなのにね。



つかぬ事を、ですが 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日: 7月 4日(水)22時10分05秒

      弱き者さんへ

      |義とは何ですか? 投稿者:弱き者  投稿日: 6月 9日(土)00時27分32秒
      |
      |   私は牧師さんとの聖書研究でローマ人への手紙を学んでいます。そこで義について学んでいますがよくわかりません。義イコール律法なのですか?私の
      混乱は
      |   深まるばかりです。どうか義とは何を意味するのか教えて下さい。

      この六月九日にお尋ねになった時のローマ書の研究をしていた時と同じ牧師さんが
      あなたに「セブンスデー教会の使命は十戒が与えられた意味がわからなければわか
      らない」とおっしゃったのですか? ローマ書は、クリスチャンにとって極めて重
      要な書です。律法と福音の関係を明らかにしています。それはやはりまた当教会の
      使命を反映しています。十戒が与えられたという事がわかっていてすらもSDAの
      使命が理解しうるならば、ローマ書が理解出来るならSDAの使命を理解するのは
      一層断然容易になるでしょう。また、そうならなくてはいけません。基本に従って
      一歩一歩確実に行きましょう。



それに 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日: 7月 4日(水)20時45分22秒

      2チャンネルというのは、たまに10%くらいまともな事を言う人はいても、残りの大部分は
      便乗、煽り、面白半分、野次馬の類で、彼らは恐らく発言にシリアスな責任を感じていませ
      んし、そもそも3日たったら自分が何を書いていたのか覚えてすらいないかも知れませんよ。
      野次と喧嘩は2チャンネルの華とか誰か言ってましたが、普通はあんなものです。私も進化
      論反対のページを出しているので一時実名を書かれて糞味噌に揶揄されてました(今でもや
      っているかもしれん【汗】)。それでも私は放置しています。でも政治板にいったらあれの
      3倍ひどいですよ。

      まあ、いずれにしても、そんなに嘆いたものでもないと思います。よしよし、安かれ!
      いちおお慰め (^=^;



Joy to the world! 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日: 7月 4日(水)20時33分01秒

      しかしですよ、正直に言いましてとてもお痛わしくて「悲しげさん」などと呼ぶ気になれま
      せんな。英語で言えば「Hey, You depressed man!」というようなもんで、ヘラヘラしてい
      る人をからかうジョークならともかく、ほんとに落ち込んでいるなら、尚更の事ですわな。
      キリストの名の故に災に遭うなら幸いであるとも言われていますよ。たとえカラ元気でも、
      せめて名前を変えずに、喜んでいたほうがいいですよ、私がそうしていたように。



(無題) 投稿者:悲しげ  投稿日: 7月 4日(水)14時43分29秒

      私の名前を以後お間違えないようお願いいたします。



大変ですね 投稿者:悲しげ  投稿日: 7月 4日(水)14時30分28秒

      大変ですね。嵯峨野教会牧師殿。
      私は、2CHで泣かされてしまいました。
      http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=psy&key=993050226
      牧師殿から見たら、物足りない馴れ合っているといわれるいかもしれないと思う
      くらい、遠慮して発言しているのに全く身に覚えの無い罪で私の名前を葬り去れ
      らてしまいました。彼らは、最後の審判のときに全く無実の罪をかぶせたことを
      主の前にどう言い開きするのかな?と思ったりします。



過去ログ第9編
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