書評
終末・預言・安息日
19世紀アメリカとエレン・ホワイトの安息日論
村上良夫著
新教出版社 1998年
定価 4500円 (本体のみ価格)

この本は1998年に出されたというものの、アメリカの私の所に知らされて送られて来たのは、ついこの2か月前の事でした。日本ではどの程度教会にインパクトを与えたのか、どのように評価されたのかなどは、余りこちらには知らされていませんが、話によると、これを読んでセブンスデーの信仰を捨てた人もいるという事を知らされました。一体どのような事が書かれたのでそのような残念な事が起こったのかという興味と関心を持ちながら、この本を読んでみました。以下はその要点を突っ込む徹底書評です。
 
 

著者の村上良夫というのはセブンスデーアドベンチスト教会の中で福音社の編集長などを勤めておりましたが、福音社が西暦2000年の一月一日をもって消滅してしまったので、仕事が無くなり、三育学院の講師だけでやって行けなくなったのか、教団を去って、地方のローカル大学の講師などの仕事をしています。私はこの方とは個人的に出会って話をした事はなぜかただの一度もありません。教団をやめた正確な理由をできれば知りたいものだと思っています。いずれにしても、それは、恐らくこの本の内容とはあまり関係がないであろうと察せられます。
 
 

彼は、この本を称して最初のホワイト夫人とセブンスデーアドベンチストの最初の「客観的考証」であると記しています(12ページ)。しかし、どこまで客観的で公正であるかは、保証の限りではありません。たしかに、彼のそうした自負に違わず、本書では彼は多くの資料を引用してセブンスデーアドベンチストのルーツに迫っています。実に、全部で390ページもあるこの本の中で、引用文献資料の紹介が142ページにも上っています。ですから、古いアドベンチスト教会の歴史やミラー運動の資料は一応一通り渉猟した上でこれらの論文を進めているようにみえるので、それだけで、資料価値ありとしてこの本は評価出来ます。しかしながら、とはいうものの、新しいアドベンチストの行くべき未来の姿を論じているわけではありませんから、紹介されている最新のアドベンチスト教会の神学の資料の傾向には明らかな偏りがみられます。たとえばナイトという神学者でもない単なるリベラリストの好事家の意見を紹介していますが、それに対立する保守派のロバート・ウィーランドを全く無視しているとか、バランスを欠いたものになっています。ですから、たとえば1888年のミネアポリス世界総会の評価も相当リベラル側の都合のよいように(律法主義がキリスト中心主義福音主義に修正されたとか)偏向解釈をされています。引用している文献もよく吟味してみるなら、ロイ・チャムリーとかマーテイン・ボローといったどこの馬の骨とも知れぬ人の学位論文とか修士論文などというような、あまり一般性のない文献が多用されているのが見られます。従ってこの本によってセブンスデーアドベンチスト以外の人にセブンスデーアドベンチストを公平に紹介するという目的が達成されるとは言えません。それゆえ、「本書が、アメリカ史やアメリカ研究、キリスト教、神学、宗教社会学など、さまざまな分野での今後の研究の一助になりますように」という著者のあとがきのメッセージがことのほか我田引水の印象を放って、浮き上がっているわけです。
 
 

まず、彼はミラー運動のところからセブンスデーアドベンチストの解剖のメスを入れています。ミラー運動はアメリカのプロテスタント教会の中で起こった大覚醒運動の指導者です。村上はミラーの働きについてコメントして、「まさに時の設定こそミラーのメッセージの核心であり、本質であり、強みであった。しかし後にはそれが弱点となって行くのである」(20ページ)と述べています。ミラーは聖霊に感じて終末のメッセージを語り始めたプロテスタントの一信徒に過ぎませんでした。神はこのような者達を立てて、アメリカに聖霊の注ぎを行われました。欠点のある指導者であったとしてもキリスト教会が終末が近い事を意識してそれに備えるようにメッセージを与えられたのは摂理にかなった事でした。残念ながら、ミラーにはユダヤ教やイスラエルの宗教の知識がなかったので、彼の聖書研究は、ある程度いい線はいっていても限界があり、ロシュ・ハシャナ(イスラエルの新年元旦)を太陽暦で数えた上に、再臨日だと勘違いしたり、それでキリストが来られないのであとで他の人に言われてヨム・キプール(贖罪日)がその日であろうと言いなおしたりなどの二重三重の失敗をして混乱を招きました。(嵯峨野教会ではこの1844年という年代設定自体がそもそもはじめから間違っていたのではないかと考えています→ 詳細はここをクリック! ) いずれにしても、先走った思い違いからプロテスタント教会に失望があって、この大覚醒運動に若干の不信を招いた事は歴史上の事実です。そうであったとしても、ミラー運動は再臨の事実を聖書から再発見したという意味で高く評価されるものです。決して、その誤りを理由としてその歴史的意義が相殺されるものではありません。村上は時を設定していたのがミラーの誤りと決めつけていますが、良く読めばわかるように、ミラーははじめから時を設定していたのではなく、限られた知識の中での聖書研究の結果、次々と事実が明らかになって言った事に興奮して、再臨の切迫を主観的に感じ、それを危急に人々に知らせる責務があると考えた結果そのようにしたのだと考えられるのであり、決して村上が主張するようなミラー運動の変質とか堕落を意味していたのではなかったと考えられるべき所です。ミラーの好意が誤解の故に仇になってしまったという状況だったという訳です。
 
 

ミラー運動そのものは確かにナイーブな所もあり、欠点も多いものでしたが、アメリカ歴史の上では、キリスト教国として建国を果たした新生国家がはじめて大規模に聖霊の運動を経験したという重要なターニングエポックでした。たとえ後世の者がこれを如何様にも批判したとしても、その歴史的意義は微動だにしません。アメリカがピューリタンの精神を守って祝福されたので神が聖霊を国家として注がれたという驚くべき歴史は他に類を見ません。こういう背景があって、セブンスデーアドベンチストが発生したというのは、それ自体が摂理であったと考えられるべきです。アメリカがこのとき祝福されなかったのであれば、アメリカ以外のどこか別な国からセブンスデーアドベンチストが起こるべきだったと考えなければならないのです。
 
 

次に、村上は、第七日安息日が持ち上げられるようになったのは、セブンスデーバプテストからの受け売りで、それをプレブルとかジョセフ・ベイツ船長、アンドリュースなどが粉飾してそれをホワイト夫人が「神聖化」したのだと主張しています。プレブルは安息日が神の印とみなされる要因となる事を強く主張し、安息日を守らないものは滅びるというような二者択一論をベイツに紹介した人として書かれています。しかも、このプレブルが第七日安息日を守っていたのはわずか3年間ほどの話で、その後また考えを変えて、安息日はやっぱり週の第一日だと主張する人々の群れに戻って行ったという事にされています。ベイツはそうしたプレブルの気まぐれなダイコトミーを引き継いで、「安息日を福音救済史の中に位置づけた、つまり第七日安息日を黙示録などの聖書の終末預言の枠組みの中でとらえ、さらに第七日安息日遵守者たちに、終末の預言と歴史における”残りの民”としての独自性(自己証明)を与えるものになった」と村上は書いています(68ページ)。これによってセブンスデーアドベンチストは律法遵守によって救われる事を主張する宗教団体になってしまったと村上は断じています。そこで、そういう不健康な状態を回復させたのは西海岸リベラルのジョーンズとワグナーだったという筋書きになるのです。1888年のミネアポリス世界総会は波乱の総会でガラテヤ書の信仰による義の解釈をめぐる大論争が起こりました。この総会の総括的評価につきましてはいろいろな解釈がわかれていますが、ナイトのようなリベラル聖書学者(神学者ではない)は、「これは別に新しい事が教会に起こったわけではなく、セブンスデーが本来あるべきバランスの取れた福音的キリスト教会の姿に戻ろうとしただけの事だ」という軽薄な評価をしていますが、保守派のロバート・ウィーランドは「ミネアポリスでは律法と福音が一致する事を再確認したのである」と評価しています。村上氏は後者の考え方があるのを知ってか知らずか、まったく言及せず、前者の見解に乗って、教会の歴史を論じています。もっと1888年の資料を読んで研究をしていれば、そうは書かなかったであろうと思われます。
 
 

村上はまた上のマーテイン・ボローの学位論文(?)を引用して、「安息日の過度の強調」、「イエス・キリストの強調不足」を糾弾しています(102ページ)。そしてさらに、安息日の真理の回復の結果、この教会の安息日遵守者にとって、聖書の世界は現実のものだった、として、聖書のメタファー(比喩)の世界を現実に移植しようとする人々をつくり出したと指摘していますが、これは恐らく村上氏がバルトのような実存主義的神学またはニーバーの実践神学のファンならば、我慢のならないことであっただろうと容易に察する事ができます。実際、セブンスデーアドベンチストが第七日安息日を回復するという事は、過去に失われた聖書の民の本来の生活パターンや倫理のパラダイムを回復する意義があったわけです。ですから、合理主義を重んじるカントの流れをくんだ思想家や神学者からみれば、第七日安息日を回復しようというセブンスデーは時代錯誤か「トン」でも説のようで耐えられないかもしれません。しかも、これはユダヤ人が二十世紀になって奇跡の復活を遂げるという事がまったく予想すらもされていない十九世紀に起こった出来事です。神の霊感の導きと聖霊の助けが無ければ、本来烏合の衆だった再臨信徒の集団はセブンスデーという一個の教会にはまとめられなかったでしょう。しかし村上氏にとっては、こうした烏合の衆が、ホワイト夫人の霊感の幻によって束ねられたという事実すらも面白くないらしく、本書の各所で不快感を表明しています。民主的な教会運営ではないのではないかとでも言いたそうですが、彼が左翼的な団塊の世代の人であればそれ位のことを言っても驚くには値しないかもしれません。挙げ句の果てには、「ひとりよがりの自己絶対的、自己義認的な考え方」(102ページ)で、残りの民を自称したとまでセブンスデーを過激に罵倒していますが、尤も、これには一理ある面はあって、セブンスデーが何のために選ばれたのかを理解出来ない信徒は確かに独善的になり、自分の教会だけが救われる14万4千人だといいかねない所はあります。それは確かに憂慮されるべきこの民の恥部であるというなら、私もことさら村上氏には反対しない方針です。しかし、セブンスデーアドベンチストが選ばれて建てられたのは、実にこの第七日安息日の回復そのもののためではなかったのかと思います。そのために「選ばれる」必要があったのです。この真理の回復の使命は決して小さい事ではありません。
 
 

第七日安息日の回復を語っている時に、「キリストの強調が足りない」というのは、ある意味で言いがかりの部類に属する非難であり、必ずしもフェアな批判ではありません。安息日の主は人ではなくキリストです。それは村上良夫氏自身が214ページで、引用に傍点を振ってまで強調していることで、言い逃れはできません。安息日がキリストの日である事が理解出来るなら、第七日安息日を強調してキリストを語っていないと批判する理由が皆無なのです。神のものであると認める事が安息日遵守の第一歩です。それが認められないのはまだ人間の精神を愛しているヒューマニストです。それにしても、どうしてこんな所で無名の修士のボローだかの学位論文などが引き合いに出されたのでしょうか。あとがきを見ると村上氏はボローの論文を見つけて送ってくれた人に謝辞を書いています。実はこの人は、学校の安息日遵守問題を回避するために自分の子供に卒業までバプテスマを受けさせなかったという人です。こういう動機の信徒からの支援を受けてこのような著作に及んだものであるなら問題が多すぎます。この本を読んでアドベンチストの信仰を捨てた人もいるならば、なおさらのこと看過し難いものがあります。
 
 

村上の日曜休業令の由来に関する説明は執拗を究める程詳細で、実に面白いものがあります。その中でも極めつけは、1880年にカリフォルニアで日曜休業令が出て、多数のアドベンチスト信徒が逮捕された事件を描写している事です(138ページ)。この時数百名の第七日安息日遵守のアドベンチストが逮捕されましたが、当時、日曜休業令を支持していたのは保守的な共和党で、これに反対していたのはリベラルな民主党でした。それで教会は民主党を支持して政治運動を行い翌々年の選挙で民主党が勝利したのでカリフォルニアの日曜休業令が撤廃されました。実は、アドベンチストが民主党より、というかリベラル思想よりになったのはこういう伏線があったからで、以後カリフォルニアのアドベンチストはリベラリストの民主党を支持する傾向が生まれました。今日、アメリカの民主党というのは、フリーセックス、ホモの人権尊重、学校における創造論教育の禁止、医療の社会主義化を推進する不穏なリベラリストの政党と化していますが、そういう政党に支持してもらって信教自由のステータスを勝ち取った歴史を作ってしまったのは実に不幸な事であったと思います。日曜休業令については、一応ピークは1890年代をもって収束したものとされていますが、これが再び起こるというのがホワイトの預言の示唆していた所です。しかし、結局日曜休業令がその時点でそれ以上発展しなかったので、セブンスデーは態度を変更しなければならないように追い詰められたと村上は踏み込んだ解釈をしています。しかし、預言者ではない村上に日曜休業令は再び起こるまいとは言えないであろうと思います。
 
 

結局セブンスデーアドベンチストはアメリカでなければ発生出来なかったという視点が村上の歴史評価には存在しません。彼はアメリカ史についてどれくらい広い知識を持っていたのかは疑わしいものがあります。その一つの証拠例として、村上氏はホワイト夫人が過度のアメリカ中心主義者であったとして彼女を批判していますが(234ページ)、これは行き当たりばったりのヨタ論であり、十九世紀のようなテレビもラジオもろくな報道機関もない時代にアメリカが世界の中心になると言い切れた事は寧ろ驚きの念を持って理解されなければならない事です。当時の一般のアメリカ国民は、情報が無いので世界の他の国と比較する自意識は育っていませんでした。この事実をもってしてもホワイト夫人の洞察は進んでいたと認めざるを得ないのに、村上はそれをなんと「19世紀のアングロアメリカニズム」のせいにしています。事実は19世紀のアメリカはヨーロッパ諸国からは野蛮で未熟な国家と思われており、アメリカ人自身も田舎者の自覚を意識していました。これは一種の劣等感であり、優越意識にはほど遠いものです。アメリカ国粋主義や孤立を尊ぶ国家主義が少しずつ台頭し始めるのは十九世紀もかなり押し詰まった後の事であり、それをホワイト夫人の著作の書かれた時代に普遍的に存在するものとして想定するのは村上のアナクロニズム(時代錯誤)です。
 
 

第七日安息日論の考察として村上が結論しているのは、進化論などの台頭する中で真っ向から逆らって、主の創造の記念日として安息日を強調したということです。村上は正確にも、これを人間中心思潮(ヒューマニズム)の大波に対する防波堤が、神による創造を記念する安息日であったとしていますが、これは私も賛成する事ができます。しかも、ユダヤ教社会の復活の兆しが見えず、そうした古いトーラーの伝統の全く見えなかった時にこれをやったというのが凄いと思います。しかし、村上は、続けて、

「エレンホワイトの安息日論は時代の所産であったと言える。彼女の主張の多くは十九世紀の安息日主義者達に共通していたものであった。しかし彼女のユニークさは霊的世界の実在性という彼女の強烈な直感のもとに、当時の安息日厳守主義の思想と実践を大争闘という枠組みの中でとらえ直したことにあった十九世紀米国の安息日厳守主義はほとんど廃れてしまったが、えれんホワイトの安息日論は1世紀後の今もなおセブンスデーアドベンチストによって信奉され、説かれ続けている。彼女の教えは霊感を受けた神よりのメッセージであると彼らは信じているからである。彼女の安息日メッセージはセブンスデーアドベンチストに自己証明と活力を与え続けて来た。しかし同時に、霊感による彼女のメッセージは、アドベンチストを十九世紀米国の思考と行動に閉じ込めてきたとも言えるのである」(237ページ 引用符は原文のママ

預言者を錦の御旗とする選民意識・優越意識にこだわりつつ、十九世紀米国の安息日主義を固守し続けるのか、それとも預言者託宣に含まれる時代性と普遍性をより分けつつ、もっと伸びやかな成長へと向かうのか。SDAのゆくえを見守りたいと思う。」(243ページ 引用符は原文のママ

と書いています。村上はホワイトのメッセージは神からのものであると信じていないのです。ホワイトの言葉を「託宣」と揶揄する程の不遜ぶりが鼻につくかもしれませんが、それはこの際はご愛敬として大目に見ましょう。しかし、読者のみなさんもご存じのように現実には、第七日安息日遵守の回復はセブンスデーアドベンチストの奇を衒った専売特許に終わっていません。1947年に、イスラエルは奇跡の国家再建をなし、それに伴い世界の各所でユダヤ教の側でも安息日の回復が訴えられました。1980年代にはメシアニック・ジュダイズムが復興し、それを見て一般のプロテスタント教会でも第七日安息日の見直しが進んでいます。このようになる事は十九世紀の時点ではアドベンチストもホワイト夫人も誰も予想しませんでしたが、その結果はセブンスデーが培ってきた第七日安息日の使命が生かされるものとなってきています。安息日に回帰することは、決して村上の主張するように十九世紀のアメリカを追慕するのものでは断じてなく、そうではなくて、初代教会の時代のイエスの教会の本来の姿に立ち戻ることなのです。読者がそれを理解する事ができなければ、この本はその初めの著作趣旨を全う出来ません。
 
 

イスラエルを追われたユダヤ人達は二千年もの間世界各地を放浪して来ましたが、それまで、安息日を守る事によって、ユダヤ人の家庭と教育、信仰と文化を守り育てて来ました。安息日を守らなかったらこの民はとうの昔に跡形もなく四散して行方不明になっていたでしょう。いうなれば、ユダヤ人が安息日を守ったのではなく、ユダヤ人が安息日によって守られて来たのです。セブンスデーアドベンチストにおいても、この教会が安息日を守ったのではなく、安息日を守って来たからこそ、祝福を受ける事ができて、どうやら二十一世紀の初めまで存続する事ができたと考えなければなりません。安息日の主は人ではなく神ですから、安息日の祝福を人に付与されるのは神にほかなりません。本書では村上は執拗にセブンスデーアドベンチスト教会の本質は第七日安息日を断固として守る事だけだということを証明しようとしましたが、その試みは成功したと思われます。セブンスデーアドベンチストの本質的な使命は十九世紀、二十世紀のキリスト教世界に第七日安息日を回復してイスラエルと和解をすることです。それを数多くの証拠を上げて気がつかなないままに証明してくれた村上氏には感謝をしたいと思います。もしわれわれの教会が第七日安息日を固く守るのをやめるなら、SDAはもはやSDAではありえず、それ以後の存在理由が消滅する事をも彼は間接的に論証しました。安息日を捨てるSDAは神から捨てられるしかありません。安息日を守って神の驚くべき祝福の約束の成就を証するSDAでなければ、せっかく選ばれた”選民”も過去のイスラエルのように捨てられてしまうでしょう。
 
 

けっこういい加減な解釈も多いものの、その集められた資料としては貴重なもので、将来に引用をしながら議論をする限りにおいては非常に価値のある本であるというのが私の結論です。そういう意味にでは、もし定価の4500円を払って買って手に入れたとしても損をしたとは思わないでしょう。しかし、柔らかい霊の食べ物しか食べられない人、簡単に人の意見に左右されてしまう人には勧められる本ではないというのは事実です。
 
 
 

2001年11月23日記す
 
 

嵯峨野教会牧師  長谷川寿紀




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