私とミスター・タツグチ


著者略歴:
1987年 ロマリンダ大学医学部卒業
1991 Chief Resident, University of Wisconsin, Madison
1993 Epilepsy Fellow, Rush Presbyterian St-Luke's Medical Center
Board Certified Neurology and Electroencephalography
Current: Chief, Neurology Service, Aleda E. Lutz Saginaw VA Medical Center
 



私は1982年に南カリフォルニアのロマリンダ医科大学に来ましたが来て間もなく昔ミスター辰口の物語がそこに伝承されている事に気がつきました。この人はロマリンダ大学医学部(戦前は「College of Medical Evangelists( = 医事伝道者のカレッジ)」と言われていた)でクリスチャン医師として訓練されたが、日本の伝道を目指して帰国して間もなく徴兵に取られ、太平洋戦争の激戦地であるアッツ島に送られてそこで玉砕戦に巻き込まれて日本兵として戦死したというものです。今でもロマリンダではしばしば医学部の同窓会誌などに彼の名前が現れて"One of the poignant memories during the war"(戦争の慙愧に耐えぬ思いでの一つ)として語り伝えられていました。

辰口信夫

私はこの「辰口信夫」という人物にいくつかの自分との共通点を発見し次第に引き付けられていました。第一にこの人は安息日を守るために日本を離れアメリカで教育を受ける決心をしたという事です。私も日本の医学部に3年在籍しましたが、この教会はユダヤ人と同じ様に聖書に従って週の第七日を安息日として守っているのでその為に学業の継続を断念しなければなりませんでした。それでアメリカに行く道が開かれてやって来たのです。単純な事かもしれませんが、それが私の辰口信夫氏との第一の共通点でした。第二に、私もそうでしたが、辰口氏がそもそも医者になろうとしたのは日本の医事伝道のためであったという事です。動機が全く同じなのです。第三に、辰口氏は現在はロマリンダと呼ばれる医科大学に入って医学の訓練を受けたのであるが、はからずも私も同じ医科大学に事実上の再入学をして同じ所で訓練を受けたという事実です。

もっと驚くべき事は、日本に帰ったミスター・タツグチは徴兵に取られ北方軍に編入されて、アリューシャン列島のアッツに送られたのが、この部隊の主力は北海道旭川に本部を置く陸軍第七師団であり、しかも実は旭川というのは私の生まれ故郷であり、第七師団の話ならば私が子供の時から何度となく耳にタコが出来るほど聞かされていました。第七師団は私の故郷の運命を共にしていたのです。第四の運命共有ポイントであったかもしれませんが、私はここで、あたかもアッツに眠るタツグチの霊に引き寄せでもされるかのように、彼の事をもっと調べてみようという気持を起こさせたのです。

私は辰口氏の事をさらに深く調べるために、ロマリンダ大学の図書館で得られる限りのミスター・タツグチに関する情報を集めようとしましたが、そこで得られた情報は量は必ずしも多くありませんでしたし、日本の戦後の教団関係者に問い合わせただけの不正確なものだったりしました。日本のセブンスデーアドベンチスト教会の記録も、一部の限定出版の教会史の本に名前が思い出語りに現れるだけで、殆どありませんでした。この第七日安息日を守るキリスト教会の神学校である千葉県の三育学院の図書館にはないだろうかと思い、学院にいた知り合いに頼んで図書館でサーチをしてみたらやはり彼に関する記録は殆どありませんでした。東京衛生病院なら恐らくどこかにあるはずだと思いましたが、単に昔そういう名前の医師が働いていたという以上の記録は果たして存在していませんでした。私はそこで次に旭川や札幌に残る第七師団や北方軍に関する記録を捜してみましたら、そうすると、北方方面軍の指揮官であった樋口季一郎氏の手記とか、アッツ戦役の生き残りとなった兵隊が書いた本などが半ダースほど見つかり私はためらわずそのすべてのコピーを入手しました。

樋口氏は東条英機に次ぐ軍のえら者でしたが、北方軍を編成して北の守りに備えていました。辰口がアッツに送られた時、恐らくこの二人が会って面接したのではないかと思われるフシがありますが、未だ確認する資料がありません。樋口氏はロシア語やドイツ語に堪能で東欧の情勢を熟知した当時でも希なインテリジェンスであり、ユダヤ人の文化に対して造詣が深く、従って土曜日安息日の事をよく理解できる人であったようで、東京都内で便宜上近衛兵団の軍医に取られた辰口信夫氏をわざわざ北方軍にまわして抜擢したのは実は樋口氏だったのではないかと思われるのです。そうでなかったら彼は最後まで帝都防衛の軍医として終戦を迎えていた筈です。アッツ島が危機になった時、樋口氏はアッツ島救援軍を旭川の残りの第七師団の精鋭から編成して送ろうとしましたが、海軍が抵抗したので遅れなくなり、樋口氏はアッツの精兵を見殺しにしてしまったと言って泣いたそうです。彼はアッツの日本兵を救出に行けなかった事が最後まで心の底に罪悪感として残ったまま世を去ったのでした。(右上に続く)

樋口季一郎

樋口季一郎氏は戦争後もしばらく生きていて、一時はソ連から戦犯として告訴されそうになったものの、満州で欧州からシベリア鉄道を伝って逃げてきた大量のユダヤ人を助けたというのでイギリスの判事が無罪の弁護を行って助けられ、1970年代まで天寿を全うしました。1998年になって北海道新聞のインターネット版に樋口氏の家族が樋口季一郎の未発見分の手記が見つかったと報道されました。私は北海道新聞に問い合わせて、樋口氏の家族と直接コンタクトを取り、その手記のコピーをわけて頂きました。またと得られない超貴重資料でした。

調べているうちに面白い事がわかりました。確かにアッツ島に派遣された者の中に辰口信夫という軍医がいたのです。しかも下士官のすぐ下の階級でした。かなり高階級に抜擢されていたのです。もしアッツから生きて帰ってきておれば士官クラスの高級軍医となっていたでしょう。アッツ島生き残り兵の手記にも、この辰口氏の事が思い出深く書かれてい
る箇所がありましたが、ここには辰口氏の経歴がなんと「東京大学医学部卒」と書かれていました。しかも樋口氏の手記資料にもそう書かれていました。ということは「東大卒」というのは他の兵隊の記憶違いではなく、実際にそう説明されていたのでしょう。もちろんクリスチャンである辰口氏が自ら詐称する訳もないし、してみても憲兵隊がすぐ嘘だと見抜いてスパイ容疑で処罰になるはずです。だから恐らくこれは辰口氏を軍医として雇った陸軍が「ロマリンダ大学医学部卒」とか「アメリカ合衆国医療伝道者のカレッジ卒」などと紹介すると他の者への志気にかかわると思って上の判断で公認詐称をさせたのであろうと推測されるのです。非常に興味深い事実です。

辰口氏の参加した戦闘が如何に凄まじいものであったかは、ここに書くまでもないでしょう。戦闘員の手記を読むとその激しさと厳しさに身の毛がよだつほどでありますが、その中を最後まで耐え抜きながら、思い出しては、今日は何があったとか、どこからどこに移動したとか、食べるものが無くなったと思ったらアザミが生えていたのを食べたら美味かったとか、妻に残す日記をしたためていたというのが憎い、というか結構まめでタフな御仁であったようです。そういう所もなんとなく私に似ていたようです。

結局、ミスター・タツグチは、こういう戦闘中ものんきに書き残したメモや日記があったので、無数の戦没者の中から存在が際立って浮上できた人だったのではないかと思います。

ミスター・タツグチの最後は最後に残った塹壕に追いつめられ、そこで自分がクリスチャンである事を見せようとして出ていって胸ポケットにある聖書を取り出そうとした所、武器を取り出すのだと思った若い米兵がとっさにライフルで撃ち抜いてしまったというものです。彼らはその聖書が英文の聖書でしかも彼がアメリカで訓練を受けた信仰者の医師であった事を知って愕然となり、撃ち殺した米兵は「私は神を信じる正しい人を殺してしまった」と言って地面に転がって泣いたという話が今でも伝わっています。この話の信憑性は、恐らく同じ話がアッツ島上陸作戦直後のその時のアラスカの地元新聞に掲載されたので、それほど低いものではなかろうと思います。

一方生き残り日本兵の証言によると、アッツで生き残ってアメリカ側に逮捕された少ない数の日本兵の中には軍医がいたが、この者はアメリカのボートに移送される最中に直立敬礼をして、唖然として見ている米兵の前でアリューシャンの氷のような海に入って自ら沈んでいったという目撃談を残していますが、前後関係から考える限り、これがミスター・タツグチであった可能性は極めて小さそうです。アッツに送られた日本軍の軍医は総計およそ10名はいた模様ですし、軍医と言うのは原則として最後まで生き残らなければならない使命がありますからゲームの確率として、辰口氏とこの入水自決をした軍医が最後に残ったのだと見られます。

私は現在、この私と時間を超えて運命の一部を共有した辰口青年の事を物語としてまとめています。日本軍資料やロマリンダから情報を集めてきましたが、恐らく此れくらいでは足りないであろうと思います。もし皆さんの中で、他にこういうものもあるという辰口氏の人柄などをしのぶ資料がありましたら喜んでお受け致しますのでお知らせ下さい。宛先は次の通り。

E-Mail: hisanori.hasegawa@med.va.gov



辰口よもやま知識 

辰口青年が留学先のロサンゼルスから日本に帰るのに乗船した船の名前は鎌倉丸といいます。これは太平洋戦争末期に合法従軍慰安婦を船倉に乗せたままインドネシア沖で魚雷攻撃を受けて撃沈されて有名になって有名な鎌倉丸そのものです。


北太平洋の流氷原の中にポツンと見えた辰口青年の眠るアッツの島影

右手前に見えるのは雲霧
いつも濃霧に覆われているのにこのように見えるのは珍しい


これを見る読者は辰口青年の冥福を祈られたし


1999年3月17日デトロイト発成田行きのノースウェスト航空機高度10000mより

デジタルカメラ(カシオQV300)にて撮影

→辰口青年物語制作状況(工事中)