江戸時代初期、この地津軽、藤堂、堀家の屋敷であったが徳川三代将軍家光は天海僧正に命じて寛永寺を建てさせた。寛永二年(一六二五)のことである。その後大きな変化もなく幕末を迎えるが慶應四年(一八六八)の彰義隊と官軍の戦争により寛永寺が焼失、一面焼け野原と化した。荒れ果てた姿のままであったが明治六年一月の大政官布により公園に指定されたことから公園地となった。
寛永寺本堂(国指定重要文化財)
本堂は桁行(間口)、梁間(奥行)ともに七間(一七.四メ−トル)、前面に三間の向拝と五段の木階、背面には1間の向拝があり、周囲は勾欄付廻縁をめぐらしているが、背面の廻縁は中央間の左右に木階を設けて、基壇面に降りるようになっている。正面中央の三間等は桟唐土、その左右二間等は蔀戸、背面の中央間以外等は板壁となり、すべて素木のままである。屋根は入母屋造、本瓦葺、二重たるきとし、細部の様式は和様を主とする。内部は内陣が土間で、外陣と同じ高さの須弥壇を設け、その上に本尊その他の仏像を安置している。この内部の構造は中堂造と呼ばれ、天台宗独特のものである。現在は仮の床が張られ、内外陣共にすべて畳敷になっている。慶応四年(一八六八)現在の東京博物館前の噴水池あたりにあった旧寛永寺の根本中堂等が彰義隊の兵火に焼けて、寺は現在地に移り、明治一二年(一八七九)埼玉県川越市の喜多院の本地堂を移したのがこの本堂で、寛永一五年(一六三八)の建造という。本尊の薬師如来三尊立像は、国重要文化財の指定を受けている秘仏である。 |