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谷戸小の周辺13回卒 藤本 直 1.谷戸は心のふるさと“古希近し谷戸の桜のなつかしく” 昭和3年に設立された谷戸小学校は、生まれ年も私と同じで、まもなく古希を迎える。束京生まれで、いわゆる「いなか」をもたない私にとっては,谷戸小学佼は、「心のふるさと」である。ますます大切にしたい「心の故郷」である。 谷戸小は、ほぼ長方形の校庭周囲を道路とどぶで囲まれていた。その道路に沿って,2階建ての校舎が圧倒するように建っていて、ちょうど城壁のような威圧感があった。 西側に面する道路には、千歳湯という銭湯があり、右にいくと竹中俊祐君の中華料理店があったのははっきり記憶しているが、あとどんなお店があったのか,すっかり忘れている。北側はずっと住宅が並んでいたが、東北の裏門の前に駄菓子屋さんがあって、よく小遣いをもってでかけた覚えがある。おばあさんがいつも店番をしていたが、その顔は覚えていない。南側には、正門前に3組の井野礼三君のお店があり、少し西にいくと菊月堂という和菓子店と、すゞ屋という文房具店があった。妙なことに、このすゞ屋のご主人の顔と店のにおいが記憶に残っている。ご主人はチョビ髭をはやし、すごく端正な風貌をしていて、いかにも退役陸軍将校といった感じ。毎年、このお店で新学期になると教科書を買うのであるが、新しい本の香がお店に染み付いていたのかもしれない。東側には人家が並び、たしか桑山克夫君の家もあったと思うが、私の住んでいた家も東側であったので、この道路が遊び場でもあった。 夕方になると、糸に小石をつけて飛び交うとんぼやこうもりを生け捕りにしようとした。もちろん、そんなことがうまくいくはずはないのだが、子どもたちがそんなことをしてみたくなるほど、数多く乱れ飛んでいたということだろう。 校舎の東北側2階には音楽室があった。病気で欠席している日には音楽の授業が聞こえてきて、風邪や腹痛で寝ている私を慰めてくれた。 2.東中野というところ 戦災で焼け出され、それ以後は東中野を離れて久しい。しかし、折りにふれ東中野という言葉に出会うたびに、何かちょっと気を引かれるようになるのは、どういうわけであろうか。富山に住んでいたころ、東中野という地名があることを知り、とたんに懐かしさがこみあげてきた。 評論家の小林秀雄は、若い頃の一時期に東中野に住んでいたというが、どのへんに住んでいたのであろうか。その妹さんが漫画家の田河水泡(本名は高見沢)の奥さんであることを知ったとき、高根橋のそばに住んでいた漫画家の夫婦がご本人ではないかと何となく想像してしまった。 作家の芹沢光治良は、晩年「神の微笑」に始まる八冊の長編に挑戦したが、それを読んで小滝町に長年住んでいたことを知った。小説には、庭の泰山木と会話を交わすくだりがたびたび出てくるが、あの戦災にもやられずに樹木は行き残ったのであろうか。 私の家の前には詩人の若夫婦がいた、松阪直美という方で,今は日本詩人連盟副会長となられて、大御所的存在である。 大来佐武郎元外相とは中東旅行にご一緒させて頂いたことがあるが、学生時代は桜山町に住んでいたようである。父君が日本気化器製作所の社長であったから、あのあたり一帯を占める大邸宅だったろう。 このようなことをあとから知っても、それでどうということもないのだが、東中野に同時期に住んでいたということだけで、懐かしく思うのである。これも故郷意識の変形かも知れない。 3.谷戸小周辺のお屋敷 谷戸小周辺のお屋敷といえば、すぐに「小笠原邸」(宮前町31番地)と「田島邸」(城山町45番地)が思い出される。 実はこのことでふとした機会にちょっとした発見をした。長いこと私は「小笠原」さんというのは、あの東郷元帥の側近であった「小笠原長生」(海軍中将・子爵)のことと思っていた。きっと誰かにそう教えられてそのまま信じ込んでいたのであろう。これは大間違いで、王子製紙に勤める「小笠原英男」さんであった。お父さんが王子製紙創成期の重役であったようだ。それにしても慈願堂橋のそばにあった三角形の土地の大邸宅、門からは中の建物が見えない程やたらに広かったように記憶している。 一方,谷戸の西側にあった「田島」さんのお屋敷、こちらはてっきり華族さんだと思い込んでいた。ところが、あの当時盛んに使われた石炭・練炭の会社社長「田島庄太郎」さんだったのである。この会社は、いま潟~ツウロコというプロパンガスの大会社となっているし、一族は同じ土地に住んでいる。級友の山口幹夫君のお宅の隣は、堀越学園創立者である女傑「堀越千代邸」(高根町3番地)があった。 また、その道路の反対側には「本庄繁邸」(上の原町8番地)があった。満州事変勃発当時の関東軍司令官で後に侍従武官長になった男爵・陸軍大将。終戦の年の11月に自決した人物であるが、女婿がかの2・26事件に関与した悲劇の将車である。 また、高根町7番地にあった「森俊成邸」。この方は正真正銘の華族で子爵。中野町長や市議会議長をやり、さらに貴族院議員であった。播磨三日月藩主の子孫である。 一方,衆議院議員であったのが、「望月政友邸」。通称お化け屋敷と言われていたが、うかつなことに私は全然知らなかった。「望月さん」は、玉川水道という会社の重役でもあった。この会社は、昭和10年に東京市に合併されて市営水道となるのであるが、合併に際して一波乱があったようである。 「伊江朝助」という男爵・貴族院議員は高根町30番地に住んでいた。旧琉球王の子孫にあたる人物で、沖縄銀行の頭取とか沖縄民報の社長とか県議会議長をした,言わば沖縄の名士。朝助の弟「朝陸」は小菅刑務所長をしていたが、その息子が「伊江朝雄」、国鉄常務理事から参議院議員(自民党)になり、北海道開発庁や沖縄開発庁の長官をした。 「小原直邸」は仲町23番地にあった。戦前戦後にかけて司法大臣(今の法務大臣)であった検察出身の司法界の大ボスである。 考えてみると、このような支配層のお屋敷も多くあった中野には、泣く子も黙る憲兵学校があったり、特別高等警察でならした中野警察署があったのである。そして他方、たとえば、平林たい子の小説などには左翼層の巣窟としても出てくるような土地柄でもあった。 昭和20年のあの大空襲まで、平和はいつまでも続くものとひたすら信じて幕らしていた平凡な市民の生活。それと混在して様々の人生模様が描かれていたことを、今改めてつくづくと痛感させられる。 4.宝仙寺と氷川神社 谷戸小学校の東側に住んでいた人にとっては、宝仙寺と氷川神社は忘れられない存在ではないかと思う。また、この2つが奇しき因縁でつながっているとは思いもかけないことではなかろうか。 宝仙寺は、かの八幡太郎義家が後三年の役(1083年)の戦勝を謝して、不動明王をまつる寺を阿佐ヶ谷(現在の大宮八幡官の近く)に建立し、それが室町時代(1492年)になって現在の地に移されたもの。一方、氷川神社はそれより約50年前の1030年、義家の祖父にあたる源頼信が、平忠常の乱を鎮圧するに際して、大宮市の氷川神社の神霊を勧請して建立したものであり、本社と分社の関係にある。平忠常は戦わずして降伏したが、このとき義家の父頼義も参戦している。このように設立にはともに源三代がからんでいるが、その後も宝仙寺中興の僧侶聖永が神社の社殿を改築したり、日照りに際しては宝仙寺の僧侶が神社で雨乞いを行ったという。 中野区役所(中野町役場)は昭和10年まで宝仙寺の境内にあった。私の生誕地は、中野町時代の大字中野であるが、後に塔ノ山と称された。現在、区立第十中学佼に祈念碑があるが、かつてそこはお寺の領地であり、三重の塔があったことに由来する。江戸時代は名所となっていたという。当然、お寺の境内は幼児期の遊び場であったし、たくさんいた鳩を追いかけ回すことが日課であった。きっと私が初めて覚えた言葉は、「鳩ポッポ」あたりではなかったのかと思う。 一方、氷川神社の方は少年期になっての思い出につながっている。いかにも鎮守の森といった社殿の裏手のうっそうとした杉林は戦争ごっこにうってつけの場所であった。お祭りのときの縁日は子どもにとっては最大の買い物ができる楽しみであった。あのお神楽の滑稽な動作のうちに神秘的な雰囲気も感じた。ひところ、毎朝の散歩に氷川神社までの往復を続けたことがある。朝のしじまの中の神社のたたずまいに何か惹かれるものがあったのであろうか。 幼い頃の写真を見たり、その思い出に耽ることはストレス解消の療法になるともいう。同期生の下野和子さんの発案で作った谷戸小学佼周辺の復元地図が懐かしい,いろいろの思い出の扉を開く鍵となって,ついこんな雑文を書いてみた。 (1996年6月) |
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最終更新日:2006年05月08日(月)
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