最近、米国の陪審制が頻繁に話題となるようである。一般の素人が訴訟において重要な役割を果たすことになるこの制度では、当事者および代理人(弁護士)に必要とされる事項にも、裁判官による裁判に対する場合とは違ったものがある。本稿では、米国の陪審制民事訴訟(特に特許侵害訴訟)において“勝つために”どんな考慮がされるものなのか紹介する。「テクニック」と言ったのは、そういった“戦いとしての訴訟における技術”という程度の意味である。
日本から見れば、依頼者となる立場であるから、瑣末なテクニックを実践する機会はなかろうが、和解をするかどうかといったストラテジックな決断を下すについても、技術的な事項も少しは知っておく必要があるであろう。
筆者は、ニューヨーク州の資格を有してはいるものの、陪審訴訟の法廷に立ったことがあるわけではない。したがって、以下の話は直接の実地体験に基づくわけではないことを御容赦願いたい。
なお、話題の性質からして白黒のつくものではないので、断定的に言っていても単に1つの見解に過ぎないこと、もちろんである。また、話の種の多くは、筆者が米国で研修していた際に接した、米国人弁護士との雑談や事務所の昼食を兼ねた勉強会でのスピーチなど雑多なものなので、特に典拠を示さないことをお許しいただきたい。
素朴な正義の感覚からすれば、争いが生じているのはどちらかが悪いからであり、訴訟の場では既定の正邪が明らかにされるべきである。真実は唯一つ存在しているはずであると考えるから、例えば弁護士の力量で勝敗が左右されては真実を歪めることになる。現に日本の裁判官は、弁護士の巧拙で当事者に真実に反した利益や不利益が生じたりしないように努めている。
米国の陪審訴訟の現実は、まったく違っている。当事者は自分の主張を説得的に示すのが“義務”であり、弁護士の力量で勝敗が左右されるのは当然とされる。相手方と平等の機会を与えられているのであるから、それで陪審を説得できないのなら、負けても仕方がないのである。弁護士は、陪審員を説得するために演出をするのが勤めであり、陪審訴訟とは法廷を舞台としたショーであって、そこで力量を発揮して陪審員を説得することが法廷弁護士の責任である。
当事者としては、弁護士の人選が重要である。トライアル(trial: 正式事実審理)でのテクニックが必要であり、テクニックを用いてショーを演出し演技をするのが弁護士の役割である。したがって、弁護士で勝敗が決まる。弁護士料をケチってはいけない。といっても、日本企業は時に大盤振舞が過ぎることもあるようにも聞くし、気前が良ければいいというものでもないが。
基本的には“裁判官は法を語り、陪審が事実認定をする”ということになっている。しかし実際的には、陪審の役割にはこれ以上のものがある。
トライアルではそれぞれが主張を展開し証拠を示すわけであるが、そこでの段取りなどは裁判官が指示する。特に重要なのは、証拠の扱いについての決定である。日本の民事訴訟では何でも証拠にできるが、米国の法廷ではそうは行かない。証拠とできるものを限定するルールがあり、これに合致するものでなければトライアルに提出することが許されない。例えば、伝聞証拠(hearsay: 人伝の話や文書になっているものなど、法廷での反対訊問のできない供述証拠のこと)は原則として証拠とすることができない。しかし、これには多くの例外があり、必要なものはあらかた証拠にできるとも言える。そこで“証拠とできるかどうか”は複雑な法律問題となる。陪審訴訟では事実判断は陪審の役割なので、裁判官の役割はこうした証拠能力の判断に尽きる、とすら言える。
トライアルの最終段階では、裁判官が法律についての説示(jury instructions)を与え、これに基づいて陪審員は評議に入る。この際に、陪審の下すべき評決の形式についても裁判官が指示をする。評決の形式には、一般評決(general verdict)と個別評決(special verdict)という区分がある。前者は、最終的な結論(どっちの勝ちか、ということ)を評決として下すもの、後者は、裁判官が個々の事実問題を問う質問を与え、これに回答するという形で評決するものである。
陪審の役割は、本来は事実判断に限られているが、特に一般評決の場合には、実際上はオールマイティである。裁判官から適用されるべき法律の内容についての説示はあるが、これに陪審が従うことを担保する術はない。陪審員が裁判官の説示を無視したとしても、普通は誰にもわかりもしないから、それを正す機会もない。これでは、特に特許事件などいかにも陪審員が理解していなさそうな事件の場合には余りにも信用を無くしてしまうので、個別評決による場合が多い。それでも、やはり陪審員の自由度は相当に残る。
日本の訴訟では、初めの数回の期日は、訴状および答弁書の提出の後それぞれの主張を記した書面を交換するだけである。主張が出揃い争点がわかったところで、証拠調べに入る。書証(文書の形の証拠)は提出して終りだが(当事者から見れば; 裁判官はもちろん後に検討する)、証人は、期日に裁判所で証人訊問をすることになる。期日は、月に1回程度しか入らない(証人訊問では、1回に時間がかかるので、裁判所にも双方の代理人にも都合の良い期日を入れるのが難しく、この結果さらに頻度が低くなる)ために、裁判には長期間を要することになる。
米国でも、第一審判決までに数年を要する訴訟もある。しかし、その期間の大部分はディスカバリー(discovery: 開示手続)と呼ばれる相手方等に対する一種の捜査をする手続に費され、トライアルは長くても数週間である(例外はあるが)。
ディスカバリーは、トライアルという舞台のための準備と稽古の期間である。トライアル前には準備会議(pretrial confer-ence)が持たれるが、ここで示されなかった主張や証拠をトライアルで突然に提出することは原則として許されない。トライアルでの不意打ちを防止するためである。また、トライアルの期間は極めて限られていることからも、その期間内に何か新しいことをするのは無理である。そこで、ディスカバリーの期間中にトライアルの“シナリオ”を完成しなければならない。
さらに、日本では高等裁判所でも続けて事実審理がなされるが(審決取消訴訟では特殊な問題があるが)、アメリカでは違う。事実審は1回限りであり、準備不足でトライアルに不備があったといってもやり直しはきかない。したがって、周到な準備が尚一層不可欠である。
こうした事情が、トライアルの“ショーとしての性格”に拍車をかける。
信用されるためのテクニックは、外形から始まる。例えば、トライアルで喋る弁護士を1人にする。当たり前のことと思われるかもしれないが、これは実にテクニカルな問題である。米国は連邦制国家で、特許法のような連邦法もあるが、例えば契約法とか不正競争防止法に相当する法律などは州法である(成文法の場合もあるし、判例法の場合もある)。各州で違いがある。そこで、特許権侵害の主張と不正競争の主張が両方なされている場合には(これは起こりがちなことである)、それぞれの専門家を呼んでくるべき面もある。なにしろ不正競争については州法によるのであるから、問題となった州の専門家である別の人が担当するというのも、もっともなことである。
準備段階で、その州の専門家の助力を得るのは問題ない(費用の点以外は)。しかし、だからといってトライアルでもそうするのが良いとは限らない。複数の弁護士に法廷で喋らせては、“そのケースのすべてを把握しているという印象を与えて個人的な信頼を陪審員から得る”機会を失うことにもなる。下手をすれば“金に飽かして弁護士をたくさん雇って自分の非を隠蔽しようとしている”と思われることさえあるかもしれない。そこまでは行かなくても、弁護士を何人も雇わなければ負けてしまうだけの弱みのあることを自認している、と陪審員に思われてしまうことにはなる。
先日のハネウエル対ミノルタ事件では、ちょうど上で指摘したように、特許権とトレードシークレットの権利との両方が主張されていた。ハネウエル側は1人の弁護士がトライアルを担当したのに対して、ミノルタ側は3人の弁護士が担当したと聞いている。あるいは、不利に働いた面もあるかもしれない。
トライアルは、陪審員の選定に続いて、双方が冒頭陳述(opening statement)をし、その後に証拠調べをして(その間に、必要に応じて証拠の採否についての裁判官による決定がなされる)、これに基づいて双方が最終弁論(summationまたはclosing argument)をし、裁判官が説示(jury instructions)を与え、陪審員が評議に入る、という形で進行する。こうした手続のうちのどの段階で陪審員が結論を固めるかというと、80%以上という高い率で、冒頭陳述が終ったところで考えた結論を評決まで維持している。つまり実効的に言えば、証拠に基づいた判断が下されるべきものであるにもかかわらず、証拠を見る前の印象で勝敗は殆ど決まってしまうのである。
したがって、トライアルの早い段階で“信用できる”との良い印象を与えることが極めて大切である。
相手方がその弱点を突いてくるのが避けられない場合には、悩みはない。相手が主張する前に言うのが良い。実際の審理の前の陪審員の選定手続での質問の段階で言うべきかもしれない。
こうした場合にどう対処したら良いかは難問である。知られたくないのは当然である(上記のとおり、他社は特許の有効性と侵害を認めているということであろうと理解されるし、それに加えて、本件被告も同じことをしているなら支払って当然、と思われることにもなる)から、証拠から排除するとの裁判官の決定を得て、陪審員の耳に入らないようにする、というのも1つの戦術である。
しかし、たとえ証拠としては排除するとの決定を得たとしても、相手方が巧妙に示唆してしまうことがある。他の証人への質問事項に織り込んで来たりする。これがひどければ、陪審員を選び直してトライアルのやり直し(new trial)をすることになる。しかし、やり直しのためには多大な時間と費用が必要になるから、そう簡単には認められない。多くの場合には、たとえ陪審員に分かってしまっても、そのまま審理を続けることになる。これを前提とすると、排除された証拠を不当に示すのに対しては、異議を発しても、下手をすると何か重要なことを不正に隠そうとしているという印象を陪審員に与えるだけ、ということにもなりかねない。これは好ましくない。
その位なら、むしろ最初から言ってしまった方が良い。“痛い所を相手に突かれてシブシブ認める”という構図となったのでは最悪だから、相手が主張してくる前に言ってしまうべきである。つまり、トライアルの初期の段階で言ってしまうことが(一般的に初期の印象が大事であるということに加えて)尚一層重要である。
排除の決定を得た上で言うのは、せっかく得た決定を無にするようにも思われるかもしれないが、そうとも限らない。決定があることで、言いやすくなるし、またいかにももっともであるとの印象を与えることが容易になる。陪審員選定のための質問の段階でこう言うのである:“他社が、ロイヤルティを支払ってライセンスを受けていますが、これを証拠としてはいけない、すなわち影響されてはいけないとの裁判官の決定が出ています。あなたは、この決定に従って、ライセンスに影響されることなく事実判断をすることができますか?”と。この場合、答えがどうであっても、それ自体は構わない。“何事も隠さずに、陪審による真実究明を助けようとしている”との態度を印象づけることが大切である。
専門家証人の選択は、極めて重要である。複雑な技術の場合には、陪審員が中身を完全に理解することは期待できない。最終的に、専門家証人の言うことを理解して自分で事実判断を下すのではなく、どちらの証人を信じるか、で結論が決まる。つまり“どちらの専門家証人が信用できそうか”が決め手になる。そこで、トライアルの場で信用できるように見える専門家を選ぶことが、勝訴のために不可欠である。この意味で役に立つ専門家証人を選ぶことは、法廷弁護士の重要な仕事である。
専門家証人として信用してもらうためには、専門家としての実績と地位を有していることが望ましい。典型的には、ハーバードやスタンフォードのその分野の教授とかいったことになる。もちろん、場合によっては、そういった象牙の塔の人間よりも、毎日作業をして実物に接している整備工の方が信用されることもあるから、十分に作戦を練らないといけない。こうした肩書き以上に、単に権威的ではない“真摯で正直そうな印象”が大切なのは言うまでもない。
原告側のエコノミストは、とんでもない率のロイヤルティを妥当だと証言するものである。ポラロイド対コダック事件でのポラロイド側のエコノミストは、製品価格の70%が妥当なロイヤルティだと証言したとのことである。被告側としては、“これを放置しておいて、万一侵害と認定された場合にどうなるか”と考えると、まともな数字を証言するエコノミストを呼んで来たくもなる。
しかし、被告としては、額の話をするのにはまずいところがある。賠償の義務がないとの主張をしているのに、あたかも責任を認めてしまったかのような印象を与えることになるからである。少なくとも、侵害を認定して払わせた場合のことを陪審員に現実的に考えさせることになる。これは、その方が妥当であるとの判断につながる。こうした事態は避けたい。そうすると、無効または非侵害の主張と低い賠償額の主張とのどちらに賭けるか、決断をしないといけないことになる。
こうした困難は、陪審制だから起こることである。職業裁判官であれば、もう少しは、事実の究明とそれへの法の厳格な適用による判断が期待できるのが普通である。場合によっては、これは硬直した態度と言うべきものともなろうが、少なくともこの二律背反の点については職業裁判官は合理的な判断を下すものである。
陪審制の場合でも、このような難しい決断を被告がしないで済ませられることもある。「バイファケート(bifurcate)」(連邦民訴規則42条ではseparate trialと呼んでいる)といって、裁判官の判断で訴訟を2段階(場合によってはそれ以上)に分割するのである。ここで取り上げている例に則して言えば、責任の有無(すなわち、特許の有効性と侵害の有無)について第一のトライアルをまず行い、ここで被告敗訴となった場合に初めて第二のトライアルを行って損害額を決する。典型的には、ディスカバリーもこれに合わせて、それぞれのトライアルに先立つ期間に範囲を限定して行うことになる。
もう1つ、そこまでは完全な分離はしないで、トライアルの中で段階を分けるやり方もある。「フェーズド・トライアル(phased trial)」と呼ばれる。この場合は、ディスカバリーはすべての争点について期間を分けずに行う。その上で、1つのトライアルの中で段階を分け、その中間で評決を出させる。そこで有効な特許の侵害が認められた場合に限って、その後の損害額を決定する段階に進む。
いずれも、(少なくとも被告から見て)合理的な判断が下されるために役に立つ。しかし反面、余計に時間がかかることにもなる。このために認められないことも多い。
だったら被告側としては、あくまで特許は無効であるまたは侵害がないとの立場を貫き、損害額は0との主張だけをした方が良いということにもなる。“足して2で割る”とされた場合に、この方が結論が小さな数字になるからである。
結局、“極端な数字を主張した方が得”ということになって、とても正当とは言えない数字を双方が主張し合うことになってしまう。合理的な状態とは思えない。
仲裁の場合には、この不合理を避ける手立てが取られる場合がある。仲裁合意によって、仲裁人の下し得る結論を二者択一にするのである。すなわち、両当事者の主張のどちらかを取るしかなく、その間を取ってはいけない、ということにする。こうすれば、極端な額を主張すると、むしろ相手の言う通りになってしまい損になるから、自ずと妥当な水準に双方の数字が接近して来ることになり、適正な解決が図れる、というわけである。訴訟ではこうした手立てが取れないので、難しい決断を迫られることなる。
米国では、このように2種類の議論の可能性があるから、両者の長短を比較することが必要となる。特許権には有効性の推定があり、無効を主張する場合には被告が明白な証拠(clear and convincing evidence)によって証明しないといけないとされるので、非侵害の主張の方が有利であるように言われることが多い。しかし、PTOで検討されていない先行技術を根拠とする場合には、これは文字通りにはあてはまらない。明白な証拠が必要であるとはされるものの、PTOで検討の対象になっていない先行技術を根拠とする場合には、PTOの判断を尊重するための前提に欠けるから(PTOで検討されている先行技術だけが提示されているのなら、PTOの判断したのと同じ問題が与えられているのであり、PTOの判断を尊重するのがいかにも合理的であるが、それと違うわけである)、この証明度に達することも容易に可能となる([リンデマン]事件at1458)。
“陪審に対して説得する必要がある”との観点からは、無効の方がやさしい。非侵害の主張は複雑だからである。非侵害では登場する技術が、先行技術、特許発明(クレームおよび明細書)、ならびにイ号、と3つになる。これを区別して理解してもらうのが第一に難しい。その上で“特許権の範囲”という概念を持ち出して、さらにそれを先行技術との対比により調整する、などということを素人にやらせようというのは無謀である。
以上からは、次のような教訓を引き出すこともできる。無効主張の勝算がある場合には、トライアルに持ち込むことも合理的な戦略たり得る。だが、実際に革新的な発明で、広いクレームの記載にもかかわらず有力な先行技術を発見できない場合には、特許発明とイ号との微妙な差異を拠り所にして非侵害を主張し陪審トライアルを戦うのは、かなりの冒険となることが多い。
結果として、革新的な発明の保護範囲は限界の無いものとなることがある。それでは理論的に考えれば不当かもしれないが、しかし、それが現在の米国での現実の保護範囲なのである。こうした状況に対しては“陪審制は間違っている”と批判したくなることもある。しかし米国では、かかる批判は本末転倒である。極論すれば、陪審制という民主的な手続こそが根本にあり、そこで支持されないような“理論的真理”などというものは存在しないのである。
先行技術を根拠として無効主張をするには、基本的に2種類の形態がある。
ひとつは、特許権者(またはその被承継人)の発明時において既に新規(novel)でなかったから無効である(35 U.S.C. 102)との主張である。日本法での新規性の要求と、基本的に同じある。ただし、新規性が要求される基準時点に違いがあり、日本では出願時に新規であることが求められるのに対し、米国では発明時に新規であれば足りる(ただし米国特許法102条(b)により、簡単に言うと、刊行物公知等の一定の事項との関係では出願時から1年前までしかさかのぼることができない: 拙稿「『先発明主義』の内容」(『発明』1994年3月号および4月号)を参照いただきたい)。
いまひとつは、自明(obvious)であるが故に無効である(35 U.S.C. 103)との主張である。日本法でのいわゆる進歩性の要求と基本的に同じである。これも、日本では出願時の進歩性が問題となるのに対し、米国では特許権者(またはその被承継人)の発明時において自明でなかったことが必要とされる。自明かどうかそのものの判断は法律事項(question of law)で裁判官が決するものとされるが(もっとも[コネル]事件などのCAFCの裁判例によると、この問題は法律事項ではあるが陪審に任せることも許される)、その基礎となる、先行技術の認定や特許発明の市場での成功の認定(市場で成功していることは非自明性を示唆するものとされる)は事実問題なので、陪審に委ねられる。結局、自明の主張の場合にも、陪審員の説得は決定的である。
非新規の場合は、先行技術を示して、それが“クレームされているところに該当する”と主張することになる、すなわち“同じである”との主張である。対して自明性の場合は、先行技術に照らして特許発明が自明であるとの主張をすることになる。
自明であるとの判断を下すにあたっては、普通は、次のような思考過程を経る: まず、現在の技術水準を前提とすれば特許発明は自明であることを前提とする(例えば、現在なら、音を記録するものとしてテープレコーダーやCDもあるから、たとえエジソンの作ったような物理的な方法による蓄音機がなくてそれが新規とされる場合であっても、自明と言える: ここでは、そういう限定されたクレームであったことを前提とする); その上で、比較対象とされる技術を先行技術に絞った場合に(現在の状況ではなく、エジソンの開発した時点を考える; すなわち、その発明の時点までに存在した先行技術だけを比較対象にして考える)、特許発明をなお自明と言えるか、を考える(そうすると、初めて、自明ではないことにもなり得る)。
ところが複雑な技術の場合には、そもそも特許発明を十分に理解してもらえない。そうすると、どんな対照技術を持ってきても陪審員には特許発明が自明には見えない。この場合に、対照技術を先行技術に限れば、まして自明との結論は取り得ない。これでは自明の主張は認められようがない。こういうことが、まま起こる。
これに比べると非新規の方が、わからないなりにも同じものであるとの判断が下されやすい。表面上同じように見える先行技術があれば、事実上、違いがあることを新規性を主張する特許権者の方が主張することになるから、陪審員の無理解は、違いがわからないということになって非新規の結論に結び付く。
この結論の下し方は、証明責任の分配を考えに入れれば、誤ったものである。真偽不明の場合には、有効性の推定からいって、特許は有効なものとしなければならない。しかし、こうした場合の陪審員は、分かっていないということすらも分かっていないものであるから、理屈にあった行動をとることはない。
しかし、この判断には再考の余地のあることが少なくない。非新規との主張のためには、何も、明細書の事例とまったく同じ先行技術が必要なわけではない。明細書や包袋記録と照らし合わせて解釈されるところのクレームとの関係で、その範囲に入る先行技術があれば良い。
そこで“クレームを広く解釈すれば、非新規の主張もできる”という場合がある。ここで広い解釈を取ることは、無論、非侵害主張との関係では不利に働く。ゆえに、“無効で行くのか、非侵害で行くのか”決断の必要がある。どっちつかずの主張が最も説得力に欠ける(法律家相手なら、選択的主張または予備的主張として扱われ、不利にはならないものなのであるが)。“真の争点はどちらなのか”を決断して簡明な主張をすることに割り切るのが、陪審員の理解を得るためには必須である。
明細書は、112条により、当業者であればそれを見て発明を実施できるように発明についての技術的な説明を十分に尽くしたものでなければならない。この要求を満たしていなければ特許は無効である。ところが、特許の有効性の推定を覆して実施できないから無効であると判断するには、技術内容等についての全般的な理解が必要となる。これを陪審員に求めるのは至難である。
もちろん、法廷で実物の実験をするのも効果的である。しかし、実物は見やすいとは限らないし、アクシデントもあり得る。予定した結果にならなかったら、最悪である。そこで、ビデオを用意してこれを示すことがよく行われる。
原告が個人で被告が大企業という場合には、大企業の側が力を入れて用意をして来ているというだけで“後ろめたいところがあるに違いない”という推定が働くものである。いかにもお金がかかっているとわかる凝ったものとすると、判官贔屓を助長することにもなる。これでは、たとえ中身の説明では優位に立っても、どんな形で足元をすくわれることになるかわからない。視覚的説明は決め手になるところに絞って用意し、他の部分ではそうとは見えない様な周到な準備をする、というのが王道である。
“判官贔屓”を刺激しないためには、既述のように弁護士1人で法廷に立つことから始まって、余計な機材を用意しない、書類を準備しておくのが必要な場合でも傍聴席にキャビネットを置いて陪審員の目に付く弁護士の前のテーブルには置かないようにする、など極めて細かいことに気を配らなければならない。
特に深刻な問題となるのは、黒人の刑事被告人に対して、白人の検察官が訴追をしてやはり白人の裁判官が有罪判決を下す、というような場面である。実際に有罪なのだとしても、人種差別だという非難が生じることがままある。黒人ないしその他の少数民族のメンバーに入った陪審による評決で有罪にするのでなければ、いわれのない疑惑を受けてしまう。
つまり、効率あるいは公正を考えれば望ましくないものであるにもかかわらず、アメリカの社会においては他に取るべき方法がない。“アメリカの裁判所は、陪審制によってやっと社会的な支持および信頼を得ている”ということだと思われる。
特許侵害訴訟で、権利範囲が問題となっているとする。この場合、理論的に問題とされるべきものは、出願経過等に照らしての権利範囲とイ号の技術的な比較である。それなら、ディスカバリーは、狭い範囲の僅かな書類および証人について行えば足りるはずである。イ号がどういった技術によるものであるかは必須だが、どういう経過で設計されたかは、侵害の成否に関係ない。
ところが陪審制がとられると、こういった場合であっても、被告が原告の技術のどんな部分についてであっても真似をしていると、極めて不利に働くものである。“感情的に”考えれば、これももっともである。そこで原告は、こうした資料を発見しようと、設計段階のあらゆる文書の開示を求める。イ号の技術内容と関連がないとも言えないから、これを効果的に制限するのは難しい。
その結果、被告側でも原告側でも膨大な労力の浪費が行われる。被告側では、何等かの秘匿特権(privilege)で開示せずに済むものを出してしまわないように、大量の文書を点検する必要がある。原告側では、取得した文書を調査して、有利に使える事実を捜し出す。どちらも“勝つため”には合理的な行動なわけであるが、“実体的真実に沿った紛争解決”が目指されるべきものとすれば、およそ無駄な浪費というほかない。
このように、陪審制は他の場面にも各種の影響を及ぼす。そのためのコストを考えれば、米国が陪審制のために費やしているものは実に大きい。それでも米国には陪審制しかないのである。
確かに、日本の裁判官は優秀なインテリである。真実究明への情熱も持ち合わせているから、多くの場合に実体的真実を明かして正しい判断を下しているものと思う。しかしそれでも、対審構造によっている以上、説得をするのは基本的に当事者の責任である。“陪審トライアルのテクニック”とは、一種の説得の技術である。そう考えれば、裁判官による裁判の場合にも応用できるものがあるはずである。
加えて、裁判官は法律と事実認定のプロであるにしても、技術のプロではない。インテリであるにしても文系である。高度な技術が問題となる場合に、その周辺事情までを含めた事実を正確に理解することが当然に可能なのか、といえば、陪審と大差はないこともあるのではないか。そうとすると、テクニックを考えることも、裁判官に対して失礼になるとも限らないのではないか。弁護士としては、裁判官による訴訟の場合であっても、陪審制での説得の努力には見習うべきものがあるように思われる。
<引用判例>
[コネル]: Connell v. Sears, Roebuck & Co., 722 F.2d 1542 (Fed. Cir. 1983). 引用箇所
[リンデマン]: Lindemann Maschinenfabrik BmbH v. American Hoist and Derrick Co., 730 F.2d 1452 (Fed. Cir. 1984). 引用箇所
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