読んだ本の記録 note
of books I read
当ホームページ開設後に読了した本を並べていく、自己満足のためだけのページ。
他人が読んでも分からない記述になると思います。ネタバレはしないように努めます。何故こんなことしようと考えたのかは、こちらに記しておきます。
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2009.11.20 米沢 嘉博 『戦後野球マンガ史 手塚治虫のいない風景』
私にとっては、野球マンガ=水島新司であり、野球マンガについて論ずるならば水島新司を中心に語らざるを得ないと思っているのだが、本書の視点は必ずしもそうではなかった。
ただ著者も書いているとおり、野球マンガといえば「巨人の星」「水島新司」「タッチ」だけが語られるのが普通で、そのような状況に対して著者は、「巨人の星」を導くまでの野球マンガの起源と成長、周辺的な作品まで丹念に渉猟し、野球マンガをめぐる全体像を記しておくことを目指したといい、現にそれは見事に凝結して好著となっている。
私にとっては特に「巨人の星」前史、特に野球マンガが「魔球」というシステムを発明したというくだりが特に面白かった。
でもやはり、私にとって野球マンガといったら、イコール水島新司だなあ。巨人の星は(実はTVアニメでしか知らないのだが)スポ根物だし、タッチはラブコメとカテゴライズされる
2009.11.17 森 博嗣 『恋恋蓮歩の演習』
飛行機の次は船だ。
という流れが、そもそもの大仕掛けから目を反らせるべく設定されたものだったのだろうか。
読み返してみたら、キャラがそのまんまではないか。
叙述モノも軽くクリア―の森作品、侮りがたし。
(余談だが、本書が巧みに下敷きにした『偽のデュー警部』は読んだことがあるはずなのだが、蔵書リストに載っていない。どこへいった?)
2009.11.13 森 博嗣 『魔剣天翔』
飛行機の話。森さんは好きそうだし詳しそうである。前後のからくりは解けたのだが…
解説は新谷かおる氏。Good!
2009.11.09 森 博嗣 『夢・出逢い・魔性』
奥さんは私の本のうち、京極夏彦、森博嗣、恩田陸などの文庫を読んでいるようだが、中では京極さんのが一番面白いらしい。それは理解に難くない。森さんもけっこう好きと思われる。だから、森さんの作品をしばらく買っていなかったら、自分で買ってきて怒濤の勢いで読んでいた。久々のVシリーズだが、けっこうやはり面白いわな。
最後のちらりとした引っかけ、思わず最初までページを手繰ってしまった。オブリガートは対旋律? 並行して走っていたのね。
フジテレビのプロデューサーという人が解説を書いていた。こういっては悪いが、気に障る書き方をする人だった。わざと露悪的にやっているのでなかったとしら、私との距離は100万キロメートルくらいか。仕事柄映像化に興味があって、本作では稲沢探偵に興味があるそうだが、なんというか、映像化しちゃ詰らない話じゃん。
2009.11.05 室伏 哲郎 『汚職の構造』
昭和56(1981)年刊行の本書が、約30年経った今問うてくるものは、実は大きいのではなかろうか。不勉強な私は、構造汚職という言葉も室伏哲郎という名もその死が報道されるまで知らぬも同様だったが、昭電疑獄、造船疑獄、そしてロッキード事件を取り上げた本書は、過去の出来事の歴史的記述に過ぎぬと思われるかも知れないが、さにあらず。本書を読む意味は今こそ大きい。本書の一番大きな論点は、55年体制が生み出す政官財の癒着構造である。振り返れば、その体制がこの世の春を迎えていたのが、まさに1980年代当時であったのではなかろうか。そんななかでこんな警鐘が鳴らされていて、それがまさしく当を得たものであったというのが歴史的に証明されたということだと思う。政権交代がなった今、この「構造」が変わっていくのか、それとも変わらないのか、本書の提言が日の目を見るのはまさに今この時であろう。企業社会でも、この問題は30年来抱え、昨今も「企業倫理」「コンプライアンス」「CSR」などのキーワードをめぐって繰り広げられる駆け引き―――既得権益派と改革派の攻防といってもよい―――の遠因もここらへんにあると思えた。しかし、変化はしてきているのだと思う。今の感覚では、もうこれはないだろう、ということも多かった。
岩波のサイトでは重版品切れ状態だったので、カザルスホールに行きがてら、川村文庫で入手。
2009.10.29 乾 くるみ 『Jの神話』
ある意味、これ、すげえ。
これが乾くるみのデビュー作ということだが、読了後の最初の感想は「デビュー作には著者のすべてが現われている」というあの定説は、この人には当てはまらんわ、ということだった。果して思うことは同じらしく、解説者(文春文庫版:円堂都司昭)もそのようなことを最後に書いていた。
振り返るに、私が最初に読んだ乾くるみ作品は『匣の中』であり、本書解説によると実はそちらのほうが本作より先に書かれていたようで、あれが最初と言われたほうが頷ける気がする。
予備知識なく読んでいたので、乾くるみ=新本格(のけっこうスレた方面)という頭で行くわけで、スレさ加減を予想しつつも、途中からはるかにそれを上回る裏切りを見せていくぶっ飛んだ展開は、痛快ですらある。
<supplement ネタバレあり 注意!>
2009.10.26 四谷 シモン 『人形作家』
過去および現在において、著者の作る人形に格別の関心があるわけではないのだが、旧装丁の講談社新書だったし、澁澤龍彦が出てくるに違いないと踏んでブックオフで買った物。期待通り澁澤龍彦は登場しまくりだった。なによりの収穫は60年代の新宿、「アングラ」という言葉に象徴されるその空気が少し分かった気がしたことである。著者の澁澤龍彦に寄せる尊敬、信頼、愛慕は小気味いいほどで、いわく「当時、ものを作る人間にとって、澁澤さんに一筆もらうということは、天下を取ったというくらいの力があると思っていました」。首尾よく一筆もらって開いた個展は大盛況。それには作品である個性的な人形や役者としても活躍していた著者のステータスが大きかったと思うのだが、著者いわく「芸術と文化の世界の錦の御旗である澁澤龍彦のオマージュが絶大だった」。私が知りようのないあの時代を知るには好著である。そうでなくとも、思った以上に面白かった。
2009.10.24 篠田 節子 『マエストロ』
篠田作品に出てくる男は本当にことごとくダメ男なのよねえ。
青柳いづみこさんの書評(『六本指〜』)によれば、著者はなまじの音楽家よりも音楽に精通しているとのこと。プロの音楽家で文筆家の青柳さんがいうのだから、そうなのだろう。読んでいても吉田秀和かと見紛うほどであるし。まさかこれで著者が楽器をやったことがないなんて言われた日にゃ、その才能に打ちのめされるな。
2009.10.22 篠田 節子 『贋作師』
このハードボイルドの一番私にヒットしたところは、ヒロインが三十代も半ばを過ぎた若いばかりではないという年齢に設定されていることである。著作の前後関係は確認していなが、どこかで読んだような話を上手いことつなげてできている印象を抱いてしまい、雅代の設定などずいぶんとおどろおどろしく人間存在の内面にも切り込んでいるのだけれど、篠田節子の文章に私が感じてしまう無機質さが本作にもある。何なんだろう、これ。
2009.10.20 恩田 陸 『エンド・ゲーム 常野物語』
困ったときの恩田陸頼み。呆けた状態で物を読む気すらどうも起きないなかで、気持ちを奮い立たせてくれる最後の手段は、恩田陸しかない!
と思って大事にとっておいた恩田陸に手をつけたのだが、いかんせん、本作は私にはどうも「薄く」感じられてしまった。残念ながら、呆けた気分を解消してくれるというものではなかった。やはり時間しかないのかも知れない。
著者あとがきでは、本作はシニカルな気分で書いていて、内容にもそれが現われていると書かれていた。恩田作品としては『禁じられた楽園』と似ている。
2009.10.17 島田 荘司 『摩天楼の怪人』
奥さんは島田荘司はあまり面白いとは思わないらしい。「建物系の人でしょ?」という。その通り、建物系の人である。そこのところの舞台装置の大げささがいいんじゃないかと私なんかは思うのだが、奥さんは京極さんのが一番好みにあっているらしい。
後書きによると、コアとなる着想は既に得ていたものの2003年に直接の構想を得、その年の末に連載を開始し、2005年に単行本が刊行。プロってすごいわ。
2009.10.15 佐伯 照道 『なぜ弁護士はウラを即座に見抜けるのか?』
センチメンタルな気分は、音楽を聴く気を削ぎ、本を読む気も失せさせる。日々の雑事、それも頭を使わなくてはならないようなのにかまけるのが、忘れるには一番のようだ。ということで、今の気分で読めそうなのは、気分とは真反対の甚だ実学的な本書だった。
法学は、学問ではなく実学でなくてはならない。そしてその目的は問題解決にある。だから法学博士はPh.DではなくJ.Dなのだ。数年前に聞いたこの話の実践者がここ大坂にいらっしゃった。
2009.10.09
雁屋 哲 作/花咲アキラ 画 『美味しんぼ』[103] 日本全県味巡り 和歌山編
「美味しんぼ」は、今のほうが記録的な価値は高いだろうが、面白さでは昔のほうがずっと優っていたのは間違いない。そのように性質の差が出てくるのは長く続けている限り仕方のないもので、今の美味しんぼに昔と同じレベル(と内容)の面白さを求めるのは無理だとは思う。
本作では和歌山県人が外に出ていく強さを描いているが、私の知る和歌山県人(N=3くらい)も得てして押し出しが強く、どんなところへ行っても物怖じしない力強さ(別の言葉ではずうずうしさ)を持っているとは感じる。
2009.10.04 村上 春樹 『風の歌を聴け』
1986年4月から1988年3月まで私が下宿させていただいた世田谷のお宅の大家のOさんは、80を過ぎながらなお矍鑠としたおばあさんだった。私はこのOさんには不義理の極みでまったくもって申し訳がないのだが、とっても素晴らしいおばあさんだったことは間違いない。なんともすごい人で一言では語れないのだけれど、ひとつの面としてOさんは大変な読書家だった。いかにも明治生まれの方という筋の通った言動の方だが、どちらかというと乱読の気があったと思われ(私は嫌いではない、というかとっても好きだ)、大衆的な本もその書庫にたくさんあった。おばあさんとの話で印象的だったのは、「私は村上春樹も読むわよ。面白いわ」とおっしゃっていたことだ。1980年代の中ごろ。「ノルウェイの森」以前。Oさんにはミーハー、といって悪ければ新し物好きのところもあったと思うのだが、そこは明治生まれのミーハーだから、今と違って(?)一本びしっと筋が通っているのである。実は私は当時村上春樹は未読だった。高校の友人のM(Trp.)や後輩のY(Trp.)は「カンガルー日和」を絶賛していたが、私はまだ村上春樹を分かっていなかった。明かせば、私は村上春樹をまずエッセイからはいった口である(その後「ノルウェイの森」でやられた)。
小説家は処女作にすべてが顕れるとよく言う。村上春樹のデビュー作の本書を読むと、なるほどそうだとは思うけど。青柳いづみこさんは、本書から村上春樹の長編志向を読みとったという。私にとって、村上春樹はOさんと分かちがたく結びついてしまうのである。Oさんとは村上春樹について話をすることはできなかったのだけれど(私が読んでなかったから)。
2009.10.02 うえやま とち 『クッキングパパ』 [106]
大工の棟梁はやっぱりシブいぜ。今巻の発見。種子島ちゃんのお母さんはキュートだ。
2009.10.01 三島 由紀夫 『サド侯爵夫人・わが友ヒットラー』
ある年代----計算すれば昭和30年ころより後に生まれた者----にとって三島由紀夫は、あまりに凄絶かつ特徴的なその最期から知る人である。つまり後ろからはいる。とっかかりがあの事件であるから、どうしたってバイアスがかかる。三島がいかに文学的才能に富んでいたといわれても、一歩引いて構えてしまう。だって、三島フリークという立場をとるとしたら、それは私たちの時代ではある色眼鏡で見られる恐れが多分に感じられたから。
でも、本作など読んでみると、たいへんに面白い。創作に対する高度の探求心とそれを支える抜きんでた文才というものがまざまざと感じられる。戯曲はダメだったが、シェイクスピアを読んでから、だいぶ大丈夫になった。澁澤龍彦の論考を集めた本で本作を知りさっそく読んでみたのだが、なるほど面白い。併録している「ヒットラー」のほうは付け足しかと思ったが、三島自らの解題によると、「サド」のほうとセットで作ったものだという。言われてみると、その対比は見事だ。
2009.09.27 澁澤 龍彦 『渋沢龍彦日本芸術論集』
私の見たその澁澤龍彦展では、「サロンの主催者」としての澁澤龍彦に焦点を合わせ、鎌倉の澁澤邸を訪れた数多の人々との写真や手紙などを展示してあった。究極の書斎派というイメージがあったので、展示のその人懐こいような澁澤像は、私にはある意味新鮮だった。土方巽はその展示会でも重きを占めていた。澁澤の貴重な映像記録が放映されていて、それは土方の葬儀での澁澤の弔辞の模様なのである。そう広くはない畳敷きの部屋に喪服姿がそれこそ芋の子のように膝づめになっている前に立ち、少々甲高いその声で澁澤は語っていた。
本書に納められた、特に現代日本の芸術についての論考を読むと、その澁澤龍彦展の意味がよく分かった。記述の端々のエピソードを読むと、実にいろいろな人が澁澤のもとを訪れている。文字通り鎌倉の澁澤邸に訪れ、そして酒を飲み語り合っているのである。人から親しまれる雰囲気やそれに応えるホスピタリティがある人だったのだろうと思う。
惹かれた言葉。「もしかしたら、ノスタルジアこそあらゆる芸術の源泉なのである。もしかしたら、あらゆる芸術が過去を向いているのである。」(「ノスタルジアについて」より)
2009.09.19 小泉 喜美子 『弁護側の証人』
ある意味本書とは不幸な出会いをした。私は新聞の書評欄で1963年に出た本書が最近静かなブームというの見て探したのだけれど、その紹介によって本書がいわゆる叙述ミステリーだということは分かるわけである。書評上仕方のないことだが、出た年代からしてその先駆的作品だというのが現在における本書の価値として紹介される。追い刷りを重ねている集英社文庫の帯にもその手の美句が並べられていた。
そうなると、読む私のほうとしては構えて読んでしまうわけだ。
願わくは、古本屋なんかで本書と出会い、何も知らずに読んで、あっと声を出すかのごとく騙されたかった。
<supplement ネタバレあり 注意!>
2009.09.17 ポオ / 八木
敏雄 訳 『黄金虫・アッシャー家の崩壊 他九篇』
青柳さんのコンサートを聴きに行く前にぜひともアッシャー家を読んでおかなければと思いテキストを探した。青空文庫にもあったのだが、やはり私は紙ベース・書籍ベース・特に文庫ベースで読まないとダメなようだ。ちょうど岩波の新しい編集が出ていたので買った。ポオはモルグ街の殺人などが収められたものは昔読んだことがあるはずなので、あるいはアッシャー家も読んだことあるかも知れないのだが、仮にそうだとしてもさっぱり記憶がない。読んでみたが…正直ドビュッシーがオペラにしたいと若いころから構想し結局未完に終わってしまったほどの思い入れを、これのどこに感じたのかはピンと来ていない。今度のコンサートを聴けばあるいは何か分かるのだろうか。
推理小説の元祖とされるポオ、元祖ということは発明者といえるかも知れない。やはりそのような作品が面白い。黄金虫は当時も海賊版が出るほどの人気を博したそうである。日本はまだ江戸時代。そのころに書かれた黄金虫だが、今でも普通に面白く読めるのは驚異的だ。
2009.09.15 福岡 伸一 『世界は分けてもわからない』
著者が科学(特に専門の分子生物学)を説いてくれるなかで使われる巧みな比喩、殊に擬人化がたいへんに見事でわかりやすく、読み手の腑にすとんと落ちてくれる。科学者にとってそれは一種の「禁じ手」であることは著者は十二分に意識したうえでの文章なのだろう。このような科学エッセイが、研ぎ澄まされたような透明感をもったとても詩的な感触を有するのが、著者の大いなる特徴である。著者の生命論は動的平衡論とでもいうものなのだろうが、死と生の境目は実ははっきりしているものではない、もっといえば人間が人為的に時間を区切っているものであって、死と生とは本当は連続しているものであるとのくだりは、死に対する恐怖をいくぶんでもやわらげてくれたかも知れない。
2009.09.11 菊地 成孔 『スペインの宇宙食』
天才菊地成孔は、ちょうど10年ほど前にウェブサイト(当時はホームページと言ったか)に怒濤のごとく本書に収められた文章群を発表したのであったか。
カタカナの使い方がこれほどまでに身についていて、それでいて微塵もインテリ臭さを感じさせない語法は、あまり見たことがない。
2009.09.07 須賀 敦子 『ユルスナールの靴』
福岡伸一の新刊を読んでいたら、聞いたことのなかった須賀敦子の名が出てきて、そちらのほうへ流れた。とりあえず書店の棚にあった著者の本を手にしたのがこれ。読了した今知ったが、これが著者の最後の作品であったようだ。基本的に順番に読んでいく性向からは外れるが、すべての興味ある著者を順番に読んでいくと時間がいくらあっても足りない。本書に惹かれてユルスナールに流れていくと、なかなかもとへ戻れない。
福岡伸一が著者に惹かれた理由はよく分かる気がする。両者の文章が醸し出す雰囲気は驚くほどよく似ている。透明感のある落ち着いた筆致に終始しながら、静かな情念が底に流れているのをまざまざと感じる、そんな文体である。
2009.09.05 青柳 いづみこ 『六本指のゴルトベルク』
本書を読んで、自分のto readリストに載ったもの。ロマン・ロラン「ジャン・クリストフ」(岩波文庫)、永井するみ「大いなる聴衆」(創元推理文庫)、S.J.ローザン「ピアノ・ソナタ」(創元推理文庫)、アン・パチェット「ベル・カント」(早川書房)、奥泉光「鳥類学者のファンタジア」(集英社)、澤木喬「いざ言問はむ都鳥」(創元推理文庫)、篠田節子「マエストロ」(角川文庫)、トルストイ「クロイツェル・ソナタ」(岩波文庫)、ギィ・スカルペッタ「サド・ゴヤ・モーツァルト」(早川書房)、バルザック「従兄ポンス」(岩波文庫)。これでも抑えて基本的に文庫になっているものをセレクトしたが、単行本でも挙げられているのはかなり惹かれた本である。
トーク&サイン会のときの質問コーナーで訊けばよかった。「どれくらいの速さで本を読むのか?」もしくは「年間どれくらい読むのか?」を。書かれたものから想像する限り、かなりの多読家かつ速読家だと思われる。本書中にあった記述によれば、書評を頼まれ「海辺のカフカ」で初めて村上春樹を読んだ際に書評するからにはと、それまでのほぼ全作品を読んだという。私の青柳さんに対する信頼度がぐんとアップした一節。そこで村上春樹主要作品を読むに費やした期間が約2週間とある。やはりかなりの速読家ではあるまいか。そして私と比べても仕方ないのだが、本書で取り上げた主要作品のうち14作を帯に掲げているのだが、そのうち私の既読は3冊であった。「ショパン〜」のときから思ったが、相当の多読家だとも思う。
2009.09.02 「夏目幸一郎さん」刊行会 編 『夏目幸一郎さん』
会社の普段ほとんど開けることのないキャビネットを覗いていたら、本書が置いてあった。会社の得意先のS社経由で献本されたものだった。その手の本は、たいていの場合読まれるものではないだろう。本書も実質的に身内が作った自主出版故人伝なわけだし、関係者でもなければ読むことはない。
このような本が編まれていたとは知らなかった。うちにもないはずだ。
夏目幸一郎さんには一度だけお会いしたことがある。と思う。親戚筋なので、一度ならずお会いしているのかも知れないが、定かではない。
東大オケの長野サマコンのときに、母に連れられてお願いに上がったのだと思う。畏れ多く怖そうなおじさんという印象が残っているばかりである。
本書の成り立ちからして、基本的にはライターが故人をヨイショして美化して書かれているわけなのだろうが、ビジネス的には教えられることが多いのかも知れない。「お互い不満もあろうが、現状ではベストの結論に持っていく」という、極めてプラグマティックな能力に長けていたことは、どなたも評価しているようだ。
2009.08.27 岩城 宏之 『音の影』
Uの項目についての秘密は、見破った。でも、とてもいい話だと思う。
2009.08.25 奥田 英朗 『町長選挙』
伊良部シリーズは、患者の話である。どのような患者を登場させることができるかが、話の成否を握っている(もちろん、伊良部とマユミちゃんというぶっ飛びキャラを創った著者の功績のうえに立ってのことだが)。患者のネタが尽きてきたのか、本書に登場する患者は著名人をモデルにしている。ナベツネ、ホリエモン、黒木瞳。最後の表題作でもある「町長選挙」ではそのパターンは元に戻るが、舞台がいつもの地下室ではなく離島に飛ぶ。マユミちゃんももちろん付いていっている。マユミちゃんの造形がちょっと変わってきたかな。
2009.08.22 奥田 英朗 『空中ブランコ』
マユミちゃんの活躍が減って寂しい気がしたが、最後の話でちょっと活躍して少し満たされた。
2009.08.21 奥田 英朗 『イン・ザ・プール』
マユミちゃん、サイコー!
2009.08.20 佐々木 倫子 / 小林 光恵 原案・取材 『おたんこナース』
入退院を繰り返した身で読むと、ことさらに面白い。
2009.08.18 森 絵都 『リズム』
初めての森絵都のデビュー作を、2009年6月に出た文庫で読んでみる。
もともとの単行本は1991年刊だそうだから、実に18年の年月を経ている。その年月を埋めて現代に置き換えるためなのか、児童文学として元の作品を少々アダルトにするためなのか分からないが、文庫化にあたって加筆・修正したことが巻末に記されている。でも、私はあとがきは後に読むが、奥付は先に見るのが常なので、1991年に出された本だと思って読むわけである。すると、現代に合わせるために修正したと思われるところで引っかかってしまい、妙なしこりが残るのだった。たぶん、エコバッグという言葉は1991年には使われていなかったし、メールもなかった。真ちゃんが新宿に行ってしまうことに対する不安に対して、手紙か固定電話しかなかった時代に抱いた気分は、メールのある現在とは違った在り様だったはずで、古臭さを感じさせたとしても、加筆・修正(明らかな誤字や事実の間違いは除いて)はしないほうがよかったと思う。だって、さゆきは東京に行ってしまった真ちゃんに「手紙を書く」のだよ。そこがいいんじゃん。神は細部に宿るのか。図書館でオリジナルを探して読むべきだったかも知れぬ。
『DIVE!!』はどうしようかねえ。古本屋で上下見かけて、その時気が向いたら買おうか。
2009.08.17 篠田 節子 『女たちのジハード』
直木賞受賞作。浅田次郎『鉄道員』(未読)と同時受賞。1997年ということは、一回り前。著者は、私よりちょうど一回り年上。ということは、今の私の歳のときにこれを刊行して直木賞を獲ったのか。
篠田節子の文章は私には読み始めは無機質というか機械的な感じの違和感を与えることがあるのだが、読み進んでいくうちに、本作の世界にはまった。ただ、ほとんどすべての男がどうしようもない男に描かれており、現実を直視させられ甘い夢が見られなくなる小説ではある。少なくとも途中までは、出てくる男出てくる男、どうしようもないのである。
ジェンダーをめぐる状況は、一回りの間に徐々に変わりつつあるのかも知れないが、本作が提起する女性をめぐる問題はまだまだノスタルジーをかきたてるようなものにはなっていないので、そう変わっているわけではないのだろう。
登場する5人の女性のなかでは、私にはやっぱり康子が最も魅力的に映る。阿佐ヶ谷のマンションを手に入れるくだりは最高だ。しかし、外見的には若く美しく気の利くリサに惹かれるのかも知れない。相手にしてくれそうもないが。どうでもいいが、かくしてT火災には誰も残っていない。それもまた女性をめぐる現況ということなのか。
2009.08.15 團 伊玖磨 『パイプのけむり』選集 食
團先生ご夫妻に拝謁する光栄に浴したことが一度だけある。夏の志賀高原音楽祭に----もっとも我々は「夏の金管合宿」と呼んでいたが----太鼓の大御所としてお越しくださったのである。團先生は作曲家として知られるが、東京音楽学校では太鼓叩きとして学ばれた。はずだ。
J志賀の大広間の地べたに座って行われる「大コンパ」にご出席くださった。その際に私は同席させていただいたのだが、いかんせん、そのころには團伊玖磨の業績もよく分かっておらず----「ぞうさん」の作曲家とは知っていたし、「夕鶴」も中学だか高校の音教で鑑賞したことはある----書店では『パイプのけむり』がすでに文庫でたくさん並んでいたにもかかわらず、なんだかたいしたお話をすることもできず、まともにおもてなしをすることもせずに終わってしまったのであった。嗚呼なんとも赤面の若き日といえよう。
そのパイプのけむりだが、選集が出ているのを発見して、このたび初めて読んだ。こんなことで團先生に拝謁するとはなんとも身の程知らずではある。かといって、あのとき読んでいたらなにか実のあることができたかと言えば、それは分からない。
本選集には初出が割愛されているのが残念だが、年代順に並んでいるようだ。
エピソードの一つに、名古屋でご馳走になった鰻屋の器の丼をいたく気に入り、それを所望してしまう話がある。鰻屋の女将はいい顔をしなかったそうだが、案内した地元新聞社の人が後日送ってくれた由が書いてある。そりゃいい顔はしないだろう。作曲家のところへ頼んでいた作品を取りにいって、「こりゃまたえらく良い五線紙ですなあ」と、紙ばかりを誉めるようなもので、その上「ちょいとばかりその五線紙を分けちゃいただけませんかね」と頼むようなものだろうと思う。その辺が上流階級を感じさせるのだけれども、あるいは太っ腹で「きみ、いいだろう、この五線紙はねえ、ウィーンで買ってくるものなんだよ」と嫌な顔もせず分けてくれるのやも知れぬ。
2009.08.14 ジョージ・オーウェル / 高橋 和久 訳 『一九八四年』 [新訳版]
1984年に私は高校3年生だった。翌年浪人をして東京に出てきた私は、下北沢に暮らすことになり、大丸ピーコック側にあったS書店にもよく通うようになった。たぶんそのころ早川書房や東京創元社の文庫の占めるスペースは現在よりも広く、この『一九八四年』も燦然とそこに並べられていた。誰だって考えるだろう、その時期に本書のセールをかけることは。だがしかし、そのとき私は本書を買わなかった。難しそうで取っつきにくいと思ったのやも知れぬ。以来、いつか読もうと思っていた。
今回読了したので、気兼ねなく数年後に出るであろう村上春樹の新作の文庫落ちを手にすることができる。今回の新訳版も、村上作品に合わせたセールであろうが、ありがたく乗らせてもらう。
もし1984年、もしくはその翌年に本書を読んでいたら、今とはだいぶ捉え方が違ったかも知れない。それは自分の年齢の問題もあるが、当時はソ連がまだ厳然として在ったというのが大きかろう。共産圏が自壊し、民主主義はやはり勝利するのだと勘違いしている昨今、本書の描く世界は滑稽なカリカチュアと捉える向きもあるのかも知れない。歴史的遺物として、そういう時代もあったよね、と懐かしむのを第一義とするのかも知れない。だがそれは違うだろう。本書が描き予言しているのは、まさに現代の社会が陥りかねない(もしくはすでに陥っている)状況に通じている。
2009.08.10 高橋 篤史 『兜町コンフィデンシャル』
東証などが、文書などで会社に対して要請してくることの意味が、本書を読んでからだと、だいぶ違った景色で見えてくる。
"ビジネス法務の部屋"でたびたび取り上げられているため、久しぶりに買ったハードカバー。業務用図書として、会社の卓上に置いておくことにした。
2009.08.03 山本 渚 『吉野北高校図書委員会2』
文字数少なく、描く情景もさりげない日常で、さらりとスケッチのように描くこの文体だと、あるいは気恥ずかしくて2作目になるともういいかもと思いかけたが、読み進めるとやっぱり引きつけられてしまった。一つの出来事を、2つの視点から追う2作を収め、読み終えるとかなり構造的だったのも私の好みだ。
城北高校って、本当にこんな高校なのか。この前、H野ちゃんに十年ぶりで会ったけど、訊くの忘れたわ。
2009.07.31 川端 裕人 『川の名前』
読む時期としてはばっちりだった(3年前に買っていたのだけれど)。読み始めのところで勘違いしていて、なかなか取りかかれなかったのだが、都会が舞台だった、これは。川端作品に通底するアドベンチャーがよく出ている。夏休みにぴったりの話。
2009.07.30 うえやま とち 『クッキングパパ』 [105]
よし、今度カツオを漬けにしてみよう。
2009.07.27 我孫子 武丸 『弥勒の掌』
文春文庫の帯は書き過ぎである。そんなこと書いてなくたって、十分楽しめる。まぁ、タイトルが何となく地味なので、こうとでも書かないと手が伸びないというのはあるかも知れない。
はっきりと書いておくが、私はまんまと引っかかってしまった。その悔しさが帯に向かっているといえよう。ヒントの位置も分かっていたのになぁ……
<supplement モロネタバレあり 注意!>
2009.07.24 青柳 いづみこ 『モノ書きピアニストはお尻が痛い』
書くことと弾くことは、著者にとって表現者として生きていくうえで分かちがたく、どちらも欠くことのできないものであるということだ。「本業」はピアノで、書くのは「副業」という区分はあるらしいが、余技というものではないらしい。ピアノを弾いていくうえでも、著者にとっては書くことは必要なことなのだろう。
ただ、著者によれば演奏にあたっては良い子モードが、書くにあたっては悪い子モードがはまるとのことで、その指摘には膝を打った。批評というものにたいする鋭い論考も傾聴に値しよう。
ピアニストを、作曲家系ピアニストとピアニスト系ピアニストに二分して考える論考も面白かった。それって、たぶん管楽器奏者にも当てはまるし、ほかの音楽家にもあてはまりそうだ。
ちなみに、本書は一度紛失して買い直した。失礼な発言ではあろうが、印税収入に貢献している気がして、惜しくはない(自己満足)。
2009.07.21 フレデリック・ブラウン / 小西 宏 訳 『未来世界から来た男』
短編集としての原題は”Nightmares and Geezenstacks”であるらしい。Geezenstacksは辞書に載っていないが、がらくたどもというような意味か。
翻訳された本文庫の表題作には収録されたショートショートの一編のそれを採っているが、この話のオチはなんとも皮肉が効いていて見事なまでに後味の悪さを残す。特に「悪夢」として集められた短編が強烈であり、私には「青色の悪夢」(原題”Nightmare in Blue”と題された掌編が印象的だった。
2009.07.17 岡田 暁生 『音楽の聴き方』
音楽は、言葉をもって表現されなければならない。本書はこう主張する。とても説得力のある議論が展開される。
そして、音楽と社会とのつながりに光をあて直そうと意欲的な試みが行われる。
2009.07.13 津村 記久子 『君は永遠にそいつらより若い』
正直に言おう。私が、綿矢りさや金原ひとみの小説をまだ手にしたことがないのにかかわらず、芥川賞受賞で知った津村記久子のデビュー作の本書を買ったのは、ひとえにルックスが好みだからである。かように、若い女性の著書を買う場合----断っておきたいが、ここでの「若い」はかなりゾーンが広い。今の私にとっては、15-45歳をカバーする----私が、心密かに動機にしているのは、間違いなく著者近影である。もっとも、山本渚などは著者近影は見たことないので、そればかりとは限らない、と言い訳しておこう。
面白かった。じわりとした重みを心に残してくれる。『ミュージック・ブレス・ユー!!』や『アレグリアとは仕事はできない』が文庫に落ちたら、恐らく買うだろう。
巻末付録のインタビューを読むと、この人はかなりの努力家なのだと思う。そういうのを感じさせないような、いかにも大阪人らしい明るい笑いにあふれた会話なのだけれども。
2009.07.11 清水 誠 『オランダ語のしくみ』
日本には正式にオランダ語を学べる大学はないそうだ。これは意外だった。長崎の出島の昔には、日本人はオランダ語によって西洋科学文明を学んできたが、その後の曲折を経て、そのような状況になっているのだろう。見てみると、オランダ語はたしかにドイツ語と英語の合いの子のようでもあるが、むしろ、オランダ語とドイツ語の関係が、ポルトガル語とスペイン語のように感じた。ドイツ語に馴染めば、オランダ語はものすごく訛りの強いドイツ語のように思えるのではなかろうか。
ネーデルランドが長らくスペインの支配下にあったせいかは知らないが、オランダ語のGは、カタカナで記せばハ行の音となるようだ。だから、日本ではゴッホとして知られるGoghは、ホッホというらしい。その手の発音違いがけっこうありそう。
2009.07.06 谷川 流 『涼宮ハルヒの憂鬱』
いつの間にか、正確にいつかというと、日本のアニメがグローバルにcoolという評価を得るようになったころからだと思うのだが、アニメの絵が画一的になってきたように思う。そしてその絵、正確にいうと、柳田理科夫的に頭蓋骨の大半が眼球で占められてしまう比率の瞳の大きさの絵は、私にはどうも感情移入が難しい。(絵としては、エヴァよりガンダムなのである、私は)。
本作は、その手のアニメがブレイクした作品なのだと思うが、そのせいか私は勘違いしていた。まず、涼宮ハルヒは、スニーカー大賞を受賞した本文章作品がオリジナルである(のだよね?)。そして、その文章は、相当に上手で、とってもしっかりしている。とりあえずシリーズを追うところまでの気にはなっていないが、この文章には感服した。絵は知らん。
2009.07.05 姫野 カオルコ 『コルセット』
構成的。全4章の章の変わるごとにぺろりと一枚大きな紙をめくるかのように移相される世界。第2章が、私にとっては最も共感できない話なのだが、最も圧倒的に迫ってくる姫野さんの技。圧巻。
2009.07.03 筒井 康隆 『敵』
筒井康隆は、私にとって、これまでの人生のなかで読んできた作家のうちの間違いなくベスト10にはいる人であり、この前相当程度の入力を終えた蔵書リスト(現在のところ未公開)を数えると、50冊以上は読んでいる作家である。しかし、2002年末から始めたこの記録において、筒井さんの作品は実に本書が最初である。これは、彼が断筆宣言をしていた時期があったからであり、かつ、本書をなかなか読み終わらなかったことが一番の要因である。たぶん2000年に文庫になったときにこれを買ったのだが、このたびようやく読み終えた(読み始めるまで何度かトライアルがあった)。
NABEO恒例のS我部さんの講評で、SVBEを表していわく「老獪」といったことがあるが、まさしく本書などはその言葉があてはまると感じる。
2009.07.02 サミュエル・ハンチントン / 鈴木 主税 訳 『文明の衝突と21世紀の日本』
勘違いしていた。Uさんのデスクの上に新書が置いてあって、それが本書だったのだが、「えっ、この本って新書でも出てたの?」と吃驚したのだった。もっと大部の単行本かと思っていたのだが、この新書はそのダイジェスト版?などと考えたのだった。Uさんに断るのもそこそこに手に取って奥付を確かめると2006年刊。
「この本って、こんなに薄かったんですか?」「興味があれば、すぐに読みおわっちゃうよ。ただ、こんなふうに割り切れるほど、現実は単純じゃないと思うけど」
親切なUさんは本書を貸してくださったのであった。
で、読み始めて私はすぐに自分の勘違いに気づいた。すなわち、本書はハンチントンの『文明の衝突』ではないということを。そうではなく、ハンチントンがその後行った講演やら短い論考をまとめたのが本新書だったようだ。
かといって意味がなかったわけでなく、おそらくは『文明の衝突』が説いているのであろうエッセンスが簡潔に述べられていたのだと思うし、一番は『文明の衝突』がどのような時期・文脈のもとに書かれたのかを認識できたのであった。すなわち、原著『文明の衝突』は1993年に書かれたものということを、初めて認識した。もっと古い本かと思っていた。
2009.06.15 五十嵐 太郎 『新宗教と巨大建築』
日本にはこんなにも多くのいわゆる「新興宗教」の巨大で特徴的な建造物にあふれているということにいささかの驚きを覚える。
今住んでいるところの隣は天理教の施設なのだが、何故道路に対して微妙に斜めに建っているのかとか、同じ敷地にあるアパートのようなものは何かということが、本書によって判明した。NABEOで天理市に行ったとき、その宗教都市ぶりを目にして吃驚した記憶があるが、なんとも壮大な構想の下建築が進められているらしい。見たことはないが、ガウディのサグラダファミリアも目じゃないんじゃないかという勢いである。
そのような新宗教の建築は、まだほかにもいろいろな所にいろいろとあるようだ。大石寺とかPLの都市とか真光教とか神慈秀明会とか、一度は見てみたいと思う建造物がたくさんある。
思えば当り前のことかも知れない。法隆寺やら善光寺やら伊勢神宮やら出雲大社やら、「新」でなくていいのなら巨大で興味深い建造物は昔からいくらでも作られてきている。それが、馴染んでいてホッとするような感じを与えるか、目新しくて奇抜な感じを与えるか、の違いなのであろう。
2009.06.08 谷山 鉄郎 『日本ゴルフ列島』
1991年刊の講談社現代新書の旧装丁版を、いまだ新刊で売っている改造社書店は素晴らしいぞ!
ゴルフ場の造成により、日本の里山環境が破壊され、農薬による土壌・水源の汚染が問題になっている、ということを指摘するのが本書である。日本のゴルフ場はアメリカ式で作られるが、多雨の日本の気候では無理があるというのは、相当に正しい主張であろう。やるなら生態系を考え、日本の風土にあったゴルフ場というものを作るべきだろう。
著者は農薬や作物学に造詣の深い農学者であるが、最終章でこれだけゴルフ場が跋扈している原因にまで筆を延ばしている。要するに、これほど開発が行われるのは、ゴルフ場が儲かるからだ、という理由なのだが、まさにバブル期としかいいようがあるまい。最も安ければ3000万円でゴルフ場が開け(普通は100億円くらいかかるようだが)、高額の会員権が1口数千万円で売れ、元が取れ利益が出るという仕組みだった。バブルだよ、バブル。
2009.06.06 と学会 編 『トンデモ本の世界』
トンデモ本というのは、読むのが疲れることが多い。その荒唐無稽さを楽しもうというのが本書およびと学会のコンセプトだが、その余裕がだんだんなくなってくるのだった。その意味で、本書くらいのちょっとずつの分量を楽しむのが、普通の人にはいいのかも知れない。
トンデモ主張者の多くは、国粋主義的な嗜好なことが多いようだ。ユダヤ陰謀論や超古代史の人がそうなるのは分からないでもないが、UFOや超常現象を信じる人たちもそうなってしまうのが、興味深いところではなかろうか。たぶん、被害妄想があるんじゃないかと思う。
2009.05.31 うえやま とち 『クッキングパパ』 [104]
最近では奥さんがクッキングパパの新刊発売を教えてくれて、買っていないと「まだ買わないの?」と促すのであった。よしよし。
2009.05.27 折原 一 『天井裏の散歩者――幸福荘殺人日記』
おかしな小説である。叙述トリックのテクニックを詰め込むという作りなのが、そのおかしさを生む。叙述トリックとか、クリスティの大技って、まさに一発芸、二度と使えないみたいなところがあるけど、その手の技をこれでもかと詰め込んだ結果、コミカルな味わいが出てくるという、ある意味稀有の書かも知れない。詰め込んでいるから、個々のテクニックはこじんまりとしていて、「読めてしまう」ものもいくつかあったが、そんなのもまた楽しい。
驚いたのは、これに続編があるらしいことである。本書は、古本屋の50円均一どころが30円で買ったものだが、続編を読まなくては。もちろん新刊(文庫だが)で買う。
2009.05.26 李 玉 / 金 容権 訳 『朝鮮史』[増補新版]
隣国の勉強シリーズ第4弾なのだが、どうも頭にはいってこない。特に近代史以前が。“増補新版”なのは、訳者がほとんど本書の終り1/3ほどを占める長大な補遺を現代史に当てているからで、その補遺はこの前自殺した大統領ばかりか現大統領にまで及んでいる。
半島の歴史は、ともかく外敵の侵入の歴史だという。秀吉や明治時代の日本もその外敵にはいっているわけだが、圧倒的には大陸からの侵入であろう。東アジアの地図を見ると、半島の先にはいわずと知れた日本があるわけで、もしかしたら日本は朝鮮がバッファーになってくれたおかげで、外敵の侵入をずっと免れてきたのかも知れない。
2009.05.24 本郷 建治、佐藤 彰 『超入門ドイツ文法』
ドイツ語は文法用語が好きである。これは、本家ドイツ人がそうなのか、はたまた日本のドイツ語学会がそうなのか知らないが、とにかくいろいろと文法用語を名づけるのが好きであると思う。用法の一つ一つまで名前が付けられていたりして、そんなのまで名前つけて分類する必要があるのかね、などと思う。たぶん、ロマンス語系などでは、あったとしても、みんなそんなの使わないと思う。
2009.05.23 ビル・プロンジーニ、バリー・N・マルツバーグ / 内田 昌之 訳 『嘲笑う闇夜』
この組み合わせだからなあ、そう単純に終わる話ではないと思っていたが、最後の1ページはショッキング。期待を裏切らない。
でも、たぶん、おそらく、私はこのオチをまだ理解していない(折原一解説から窺えるところによると)。口惜しいぞ。そう、あの1箇所の意味合いも分かっていないし。うーん、口惜しい。
2009.05.17 北村 薫 『覆面作家の夢の家』
覆面作家シリーズは全3巻だそうで、これがその3巻目。ということを知ったのはこれともう一冊既読だったはずの覆面作家2巻目を古本屋30円均一台から拾い出して家で読んでからであった。蔵書リストを開くと、1、2巻は既読であった。
こんなにラブリーな文調だったっけ、というのが久々に読んでの感想。
2009.05.16 アンドレ・ミラード / 橋本 毅彦 訳 『エジソン発明会社の没落』
エジソンは、単純に数々の発明をして特許を取って大金持ちになった、という発明王ではなかった。彼は数々の起業を行い、銀行家とも渡りあった経営者だった。そして、それらの企業は必ずしも成功の一途を歩んだわけでなく、むしろ市場に受け入れられなかったり競合相手に後れをとったり、上手くいかないことも多かった。経営がうまくいかない原因に、エジソンの独裁や判断ミスがあったことも数知れない。だが、エジソンは数々の産業を生み出すことに大きな貢献があったことは間違いなく、「企業内研究所」というものを生み出したのはエジソンの独創らしい。エジソンはもともと研究費を稼ぐために事業をしていたのであり、その姿勢は最初から最後までぶれない。一発当てて成り上がりたい、という欲求よりは、実験し発明するのが好きで、それがすべての中心にあったのだろう。その証拠に、晩年に至るまで研究を続け、最晩年にもゴムの研究をしていたという。「自分の研究のために経営をする」ということを貫いた点では、ウソがなかったのであろう。
例えばビクターと対比されるエジソン蓄音機会社の姿は、技術至上主義のマーケット志向の薄い会社で、イメージ的にはスバルや、うちの会社なんかを思い浮かべてしまうのであった。
いずれにしろ、とんでもなく多様な面をもった人物であったことは間違いないようだ、エジソン。
2009.05.07 小森 健太朗 『大相撲殺人事件』
このバカバカしさを笑えるかどうかが、この作品を楽しむことができるかどうかの分かれ目であろう。私はどうもそこまでいかなかった。が、長野から帰ってくる道中の列車のなかで読むにはよい加減のお気楽さであった。
2009.05.06 歌野 晶午 『世界の終わり、あるいは始まり』
試みが必ずしも痛快な読後感を呼び起こすことに成功しているかどうかは疑問があるが、そもそも痛快な読後感を求めたのは私の勝手であり、それが適切な読み方とはいえなさそうでもある。重厚感や幻惑感を求めるならもってこいかも知れない。それにしても、新本格ブームのなかでは地味な存在だったと思われる著者だが、世紀が変わって、地道な取り組みが一気に花開いている感じで、よいなあ。愛読してきた身には嬉しさが募る。
作中、固有名詞は明らかにされてはいないが、北越製紙が登場するのが羨ましい。
2009.05.02 乾 くるみ 『イニシエーション・ラブ』
大好きである。こういうミステリーは。カバー裏のキャプションから何らかの叙述トリックが仕掛けられていることは予想できるので、目次の段階から用心のうえに用心を重ねて読んでいったのだが、やっぱりダメだった。予告されていたとおり、最後まで読んでから、またページをめくり返した。再読はしていないけれど、めくり返して確かめるのに1時間以上は費やしたろう。まんまとしてやられる。
もっとも、言い訳ではあるが、本書で描かれている時代がいつなのかを捉えるのにしばらく要したことが敗因のひとつではある。もちろんそれもトリックではないかと疑って読んでいるので、惑わされたこともある。本書のタイトルが、「エイティーズ」とかいうのであればなあ… というくらい、これは1980年代後半の習俗が満載されている。お話のキーになっている「男女七人〜」は観ていなかったので、その点でもハンディはあったかも。80年代の習俗ということでいえば、ただそれを並べているだけではなく、幾重にも周到に折り重ねてあるのが素晴らしい。当時の歌の題名を借りた各章のタイトルなども、元歌の歌詞を思い浮かべるとその章の内容と重なってくるようになっていることなど一例である。
なお余計な心配だが、本書は同様の作品をいくつか読んでから当たるのがよいのではなかろうか。いきなりこれだと分からないんじゃないかなあ。とりあえず「アクロイド〜」を読んで、あと本書のなかでも登場するが「十角館〜」とか読んでからがいいような気はする。ほんとに余計な心配だけれど。
<supplement ネタバレあり 注意!>
2009.04.30 森見 登美彦 『夜は短し歩けよ乙女』
印象的なフレーズが怒濤のごとく溢れかえっている。「かいせつにかえて」で羽海野チカさんも書いているが、「恥を知れ!! しかるのち死ね!!」とか「諸君、異論があるか!? あればことごと却下だ!!」とか。今、ランダムにページをめくっても、「閨房調査団たちの猥褻な夢はあっけなく潰えた」とか「この玄妙不可解な物体」とか、そういうフレーズの嵐である。京大ってそうなのか? 古今東西の文学のみならずサブカルチャー方面からもネタをひょいと取り込まれていて、そこらへんが新しさなのであろう。奇妙な造形のキャラクターたちと、目先のフレーズの嵐に幻惑されそうになるが、基本骨格はたいへんにオーソドックスな構造的作品で、それがなんとも与太話の本作を安心して読ませることに寄与している。起承転結、春夏秋冬の四部構成。私としては、第三章が一番オモチロかった。
2009.04.28 宮川 泰 『若いってすばらしい』
我々の世代にとって、宮川泰さんは何といっても「宇宙戦艦ヤマト」の人であり、事実本書のなかでも自身の代表作としているのであるが、ご本人は必ずしもこれを愛するばかりではないような感じが伝わってきた。もちろんあからさまにそんなことは言っていないのであるが、ヤマトに関しては、ともかく多忙だったということのみが語られている。私にとってヤマトは、思い起こせば初めてラッパ(アルトホルンだけど)を吹いた曲であり、小学6年のそのときはパッパパー、パパパパッパパーのフレーズを吹いていた。ヤマトに関しては、その後中学でめでたくトロンボーンになり、タタタターンという3連符を担当することができた。
宮川泰の人生のほぼすべてをカバーする本書は、それは痛快で、とてもとても興味深い。随所にこれはという記述が散りばめられているのだが、その一つとして、交友録としてもずいぶんと面白い。前田憲男氏との出会いのくだりなど、モーツァルトに初めて会ったサリエリみたいかも。
最初に書いたように、我々の世代にとって宮川泰はヤマトなのだけど、それ以前にも数々のヒットを放っていたのであった。ザ・ピーナッツなんかは、まったくもって氏の曲であるようだ。『銀色の道』が宮川氏の作曲だったとは初めて気づいた。
本書が刊行されたのは、平成19(2007)年3月。宮川氏の一周忌のころに出されている。実に最近の刊なので、最後のほうの記述はまったくリアルタイム。マツケンサンバIIを経たのちの彬良さんに対しても、まだ宮川彬良節はないけれど…という厳しさ、は、さておき、のっぽさんが歌って踊るグラスホッパー物語のコーラスが宮川泰の孫たち(編曲は彬良さん)とは知らなかった。
私は世襲というものに対して懐疑的な態度をとって生きてきており、現代日本において(特に特権的地位である場合)親の職業を継ぐという行為に対して著しい不信感を抱く癖があるのだが、宮川親子などを見ていると、親の後を継ぐというのも悪くはないなと思わないでもない。
巻末の年表は、ざっとしか見ていないが、これはかなり貴重な史料に違いない。
なお、本書は長田昭二さんというライター(?)が宮川泰氏から話を聞き、文章を起こしたもののようだ。
[千葉市中央図書館]
2009.04.27 木村 幹 『韓国現代史』
歴代大統領を軸に第二次大戦後の韓国史を綴る。隣国の勉強シリーズ第3弾。李明博が大統領になっている時点まであるので、まさに現代韓国を著しているといえよう。戦後、改憲論議は止むことはなかったといえ、結果的に一文字も憲法をいじってこなかった日本の隣で、韓国は何度も憲法改正をしてきたということを認識した。たぶん、グローバルにはそれが普通で、日本はかなり特殊なのではなかろうか。
2009.04.26 キャロリン・キーン / ジャン・マケーレブ、大場 恒子 共訳 『ラークスパー荘の秘密』
ナンシー・シリーズとチャーリーズ・エンジェルの類似を一旦認識してしまうと、読みながらついその共通点にいろいろ気づいてしまう。本作などはほとんどそのままチャーリーズ・エンジェルになるのではないか。最初の作からナンシーは車を乗り回しているのだが、そういうカーアクションなんてのもチャーリーズ・エンジェルっぽく、それがとてもアメリカっぽい。ナンシー⇒ケリーと前に書いたが、そうすんなり割り切れるものではなく、ブロンドという外見からすればジルだし、知性派のリーダー格という点からはサブリナだし。エロっぽさをことごとく排した点は本作もそうなのであるが、3人が水着になって泳ぐシーンなどがあり、そのような映像的サービス、また、老婆と付添の看護師に変装して敵の怪しいサナトリウムに乗り込むというコスプレの要素など、まさにチャーリーズ・エンジェル。
[千葉市中央図書館]
2009.04.25 キャロリン・キーン / ジャン・マケーレブ、小野瀬 嘉慈 共訳 『白い秘密結社』
「チャーリーズ・エンジェル」は、ナンシー・シリーズに影響を受けているのではあるまいか。最初の作ではまだそうではなかったが、後の作ではナンシーは常にジョージとべスという2人の親友とともに探偵の冒険をすることが多い。ナンシー⇒ケリー、ジョージ⇒サブリナ、べス⇒ジルと見ることも可能だ。
[千葉市中央図書館]
2009.04.24 キャロリン・キーン / ジャン・マケーレブ、小野瀬 嘉慈 共訳 『盗まれた楽譜』
読売新聞社1976年刊の本書は、まだ手で活字を拾って版を組んでいたようである。途中、「し」の字が90度回転しているエラーがあった。
果たして小学校の図書館にあったナンシー・シリーズはどの本だったのだろうか。記憶では紺色っぽい単色もしくは2色刷りの表紙だったと思うのだけれど。
[千葉市中央図書館]
2009.04.22 キャロリン・キーン / ジャン・マケーレブ、大場 恒子 共訳 『手帳の秘密』
思うにナンシー・シリーズは水戸黄門なのである。話のパターンは決まっている。怪しい人間は、最初に出てきた瞬間からそうと分かり、救われるべき善人は貧しくも慎ましく生きている。そして、ナンシーの活躍によって悪人は滅び、善人がハッピーになって、お話は一段落つくのである。
[千葉市中央図書館]
2009.04.21 キャロリン・キーン / 谷村 まち子 訳 『古い柱時計の秘密』
これがナンシー・シリーズの最初の作品であるらしい。けれども、何故か、いくつかある邦訳シリーズでも最初に置かれているわけではないようだ。最初だけあって、設定ものちのものとは違う。ジョージもべスも出てこず、ナンシーの親友はヘレンという娘。ナンシーの年齢は微妙に振れているようで、ここでは18歳とされている。
やはり恐れ入るのは、18歳の少女探偵を主人公に据えたアクションながら、セクシャルな要素がことごとく存在しないところである。本作でも、ナンシーが調査に忍び込んだ家で盗賊一味の屈強な男どもに遭遇し、捕まってしまうのだが、ここで少しも「ウッシッシ」ということがなく、ナンシーも純白を汚されるという恐れを微塵も抱くことがなく、盗賊一味はナンシーを部屋に閉じ込め餓死させようとし、ナンシーも飢え死にすることを恐れるのである。ある意味、不思議。
同じシリーズのなかでも、挿絵画家が違ったり、同じ本のなかでも表紙と本文中挿絵画家が違って、千差万別のナンシー像があるようだが、金の星社1977年刊の本書の表紙のナンシー像(by依光隆)が一番私のイメージにあっている。
[千葉市中央図書館]
2009.04.18 恩田 陸 『ネクロポリス』 上下
恩田陸を読める幸せ。
2009.04.16 うえやま とち 『クッキングパパ』 [103]
クッキングパパはやはり酒を飲みつまみを口にしながら読むという行儀悪が一番だ。作ってみたいと思ったのは、バーニャカウダ。
2009.04.14 今川 徳三 『八丈島流人帳』
知りたい宇喜多秀家のことはほとんど載っていなかった。それでも、僅かずつではあるが、知識の断片が蓄積されていく。予想通り、八丈島には宇喜多秀家の墓が祀られている。宇喜多秀家が流人第一号であり、かつ、彼とそれに随行(と言うのか?)した一行が八丈島に「文化」をもたらしたことにより、一族は別格の扱いを受けており、またその他の流人に対しても本土の人という意味の「クンヌ」という呼称を当てられていた。宇喜多秀家の子孫は島で増え、明治2年になって赦免(!)という扱いになった。等々。
八丈島には一度行ってみたいものだ。八丈紬というのが名産らしい。
流人が島でさらに罪を犯して、死罪という扱いとなった場合、正式には事細かに方法が決められているはずなのだが、実際にそんなことはしたことがなかったため、処置に困った島のでは、報告上は作法に則ったとしながら、実際には罪人をある崖(宇右衛門ガ嶽という所らしい)から突き落としたという話が、興味深い。
[千葉市中央図書館]
2009.04.10 尾崎 彰宏 『レンブラント工房』
レンブラントの作品にはいわゆる真偽の問題がつきまとうようで、それは「工房」という制作手段をとっていた故ということは、本書以前に提起されていたらしいが、このような工房は、現代日本のマンガ家のプロダクション制度と通じるものがあるのだろう。そう思って読むと、小国オランダと通じる日本という図式が頭に浮かんでくる。思うに、オランダは絵画の国であり、音楽方面においてコンセルトヘボウこそ一般に知られているが、オランダ人の著名作曲家は?と問われると、普通はえっーと?であろう(ブラス方面はクーツィールであろうが、そもそもこれをどう表記するかさえ定まっていないことから、かの国に対する本邦の理解のレベルが知れよう)。一方、オランダ絵画といえば、くだんのレンブラントや、フェルメールその他思い浮かぶ。かようにオランダは絵画の国である。ただし、ブラスの世界や、コンセルトヘボウを思うと、音楽の国でもあり、芸術文化の豊富な国だとは思う。
[千葉市中央図書館]
2009.04.07 キャロリン・キーン / 土居 耕 訳 『シャドー牧場の秘密』
少女探偵ナンシーのシリーズは、1930年代に始まり、なんと現在も続いているらしい。噂によると、現在のナンシーは18歳らしいが、オリジナルでは16歳である。そしてどうやら、16歳の夏休みが何十回と繰り返されるシリーズのようである。
それにしても、小学校の図書館においてあるシリーズだから当然とは云え、16歳の少女を主人公にしたのにかかわらず、セクシャルな描写が一切省かれているのには恐れ入る。乱歩の少年探偵シリーズだって(乱歩だから当たり前であるが)、とっても胸ドキのエロティカルな印象があるぞ。
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2009.04.06 キャロリン・キーン / 塩谷 太郎 訳 『あらしの夜のできごと』
フォア文庫で刊行されているナンシーのシリーズは、表紙や挿絵もずっと現代チックでアニメっぽくなり、電車で中年男性が読むのはかなり気恥ずかしい。
娘はこの前の日曜に借りたあと、すぐさま読んでいた。たぶん2時間ぐらいで読破していたので、そのスピードたるや私とほとんど変わらないじゃないか!
「普通くらいの面白さ?」と訊いたら、「そうだ」と答えたので、そうなのであろう。どうやらこのシリーズは、話のパターンはみな同じようなものらしい。
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2009.04.06 キャロリン・キーン / 土居 耕 訳 『少女探偵ナンシー』
小学生のときに学校の図書館で借りて途中まで読んだのだが、結局根気が続かず途中を飛ばして最後だけ見て結末を知るという、不遜な読み方をした記憶だけが残っている。装丁はポプラ社の少年探偵シリーズと同じようなことは覚えているのだが、シリーズのどの話だったのか、どんな話だったのか、ナンシーがどんな少女だったのか、何も覚えていない。このたび、三十数年ぶりにそれを確かめようと読んだのだが、図書館で探しだした本書は、1980年刊で、計算上私が小学校で見たのとは違う版のように思われる。
[千葉市中央図書館]
2009.04. 04 川島 武宣 『日本人の法意識』
学生のころからずっと本書の存在は知っていたし、書店でもよく見かけていたものだが、学生のころに読んでも分からんかっただろうと思う。今読むと、とてもよく分かる気がする。1967年刊だから、私が生まれた年に書かれたものだが、現在になっても「あるある」が満載。
データの出所や根拠を丁寧に吟味し示しているのが好感。そういう当たり前の姿勢が、近頃の新書には見られないような気もする(気がするだけだが)。
2009.03.31 ジェームス・D・ワトソン / 江上 不二夫、中村 桂子 訳 『二重らせん』
クリックはともかく、ワトソンはよくもまあノーベル賞を獲れたものとあきれるほどの品のなさ。
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2009.03. 28 酒見 賢一 『後宮小説』
恩田陸はこれを読んで、私も小説を書こうと思い、『〜小夜子』を書いたらしい。なるほど、前例のない「第1回日本ファンタジー小説賞」に、この作品をもって応募しようというのは、まさにたいしたものである。お話を作って空想のなかに遊ぶというのがおおいに得意な人がいるが、作者もその力を十分に持っているのだろう。まったく独自のワールドをこのように築いて遊ぶことができるのは、とっても楽しいことのように(傍からは)見える。
2009.03. 23 松旭斎 すみえ 『松旭斎すみえのマジックの世界』
この人のステージを見てみなくてはならない。強くそう思ったのだが、まだ見られるのだろうか。少なくとも数年前までは、とても近くでマジック教室をやっていたようなのだが、今でもやっているのだろうか。
「オリーブの首飾り」を手品の音楽にしたのは、この人が使い始めたからというところまでは調べたのだが、本書にはそれに関するくだりがあって、それだけでも収穫。それに加えて、練習の仕方とか、舞台での心構えとか、ネタの仕込み方などについての記述が含蓄に富んでいる。もちろんインチキマジック用ではなく、音楽の面で。共通するところが多いと思う。
そして、本書後半は松旭斎すみえの半生を描いているのだが、これがなかなかである。若いころの写真は胸キュン物だ。
いわゆるタレント本であるが、そんなものを読んだのはいつ以来だろう? でも、これはとてもよいタレント本である。
[千葉市中央図書館]
2009.03. 22 荒井 正道 『スペイン語のすすめ』
「すすめ」シリーズも、スペイン語はまだ古本屋で見つかっておらず、図書館に頼る。何冊か読んだり聞いたりしたスペイン語入門後講座では聞いたことのなかった話もいくつか。
一例。?や!をひっくり返したスペイン語独特の記号の書き順。初めて知った。四分休符の書き方みたい。
[千葉市中央図書館]
2009.03. 21 梅棹 忠夫 編 『私の知的生産の技術』
『知的生産の技術』の続編ではなかった。1988年の岩波新書50周年に募集論文12を編んだもの。時代はワードプロセッサー普及期で、パソコンの使用も一部見られる。梅棹氏自身もそうだと思うのだが、結局のところこのようなことに関心を抱く人は、みな新し物好きである。12の著作の中では、プロフェッショナルな立場の人のほうの書いたもの感じるところが多い。必ずしも私の趣味に合わないのだが、盲学校の先生、日舞の先生などの書いたもののほうが、骨格に一本筋が通り、物事の本質を掴んでいるように見える。先日読んだ薬学者の船山信次氏が研究所研究員(おそらく北里研究所)時代にこの企画に応募していたのが12編の一つに入っていた。
本書からさらに20年経った現在の目で見ると、この時代には「インターネット」が欠けているのが手にとるように分かる。40年前の『知的生産の技術』では、「その問題はもうすぐにコンピュータが解決してくれますよ」と思いながら読んだのだが、20年前の本書では、「その問題はもうすぐインターネットが解決してくれますよ」と思うのであった。
それにしても、カードを使うのが流行ったというか、「知的生産の技術=カード」くらいの勢いで論じられているのが、少々奇異に思えるのは私だけなのだろうか。カードって、使っているのを見たことがないのだけれど。
[千葉市中央図書館]
2009.03.19 大内 兵衛、茅 誠司 他 『私の読書法』
全20人による読書エッセイ集。1950年代から岩波書店『図書』に掲載された。著者名を挙げておく。清水幾太郎、杉浦明平、加藤周一、蔵原惟人、茅誠治、大内兵衛、梅棹忠夫、中村光夫、八杉竜一、田中美知太郎、都留重人、吉田洋一、宮沢俊義、開高健、渡辺照宏、千田是也、鶴見俊輔、松田道雄、松方三郎、円地文子。
与えられた題のせいか、書き出しが学校の課題の作文みたいな場合も多いのだが、それでもみな数行するとニヤリとさせられる文調になっていて面白い。
どの人も共通して、万人に通用する読書法などあるものではないということを陰に陽に述べていて、各人の読書法などバラバラである。そもそも本を読むのが好きな人からそうでないと述べる人までいて、まったく人それぞれ。それはむべなるかなと思うのだが、それではと各著者が述べる独自論のなかに、20人すべて例外なく、私にも共感できるなあという部分が出てくることが興味深い。こんなのはとっても嫌らしい言い方になってしまうのだが、世の中には読書人とそうでない人の二種類がいるのだと感じさせられる。本書の20人は、岩波書店がこんなタイトルのエッセイを書かせるだけあって、みなかなりの読書人種に違いあるまい。多くの著者が読書に適した環境として挙げているのが、病院と牢屋である。かねがねそうじゃないかと思っていたのだが、その裏付けを得た。
[千葉市中央図書館]
2009.03.17 小泉 信三 『読書論』
明治生まれの人間にはなにやら現代の人間には真似の出来ない筋が一本通っている。それに憧れるとか、それが正しいとかいうものではないが、そのようなことを感じる。著者は、ほぼ谷崎潤一郎などと同年代の人間。後日、慶応の塾長をつとめたこともあるせいか、本書でも福沢諭吉讃歌が随所に顕れていて、慶応文化に親しんだことのない私などは妙な感じも受ける。だが、明治生まれの著者は、その父が福沢の直接の弟子だったというほどこの歴史上の人物と近しかったとのことで、その近しさを存分に書き込んでいるのが、現代の人間にはとても真似できない。
[千葉市中央図書館]
2009.03.12 梅棹 忠夫 『知的生産の技術』
年間100冊だそうだ。
私が高校生から大学生になる辺りの時代において、必読の書みたいな雰囲気でいわれていた本のなかには岩波新書も当然何冊か入っていて、例えば『術語集』とか『日本人の死生観』とかがそうであったように思うが、この本も書名だけはずっと昔から知っていた。なんとなくこれも必読の書っぽかったのだが、今日まで未読であった。内容的には、ひらがなの多い著者独特の文章もあって、取っつきやすい内容である(少なくも、前掲の2冊よりはぜんぜん読みやすかろう)。
著者は本書のなかで、情報処理というか知的生産のための方法をいろいろと考察し提案している。そのときどきで最新のツールも積極的に試していて、それが故に、逆に2009年現在では1969年刊行の本書の内容は古さを通り越して骨董世界になっている部分も半分くらいはあるのであろうが、にもかかわらず現在でも傾聴すべき根源的な指摘が底に透けているのは大したものである。現在ではハウツー的な意味はなにも持たない古くなった部分も、ひらがなタイプライターのことを始めとして、骨董品的に読めばかなり楽しめる。真に受けたら大変な指摘もあるけど。例えば、他人に見せるものはすべからく原稿用紙に書くべしということなど。これは今ではもう通用しなくなってしまったのではなかろうか。文芸作品の募集だって、ワープロ推奨である。原稿は、データで渡すのが基本であろう。
ひらめきを「文章の形にしてメモしておく」ということが最初のほうに書かれている。これはまったく現在でも通用する現役バリバリの指摘だと思う。
2009.03.10 岡本 浩一 『ナンバー2が会社をダメにする』
業務用図書。そうでなければ、PHPのこの手の本を買うことはないなあ。最初このタイトルを聞いたとき連想したのは次のようなことであった。
ナンバー2といえば、アオレンジャーである。もしくはコンドルのジョー(どっちも古い)。チームのなかにあって、ニヒルで冷めていてちょっと斜に構えた性格。なるほど、一致団結チーム一丸となっていこうとするときに、もっとも障害となりそうなキャラクターだわ。と、そういう話かと思ったのだが、少なくともそうではなかったということだけは報告しておこう。
2009.03.06 柿崎 一郎 『物語 タイの歴史』
大変に失礼な話で申し訳ないのだが、この本を手に入れて読んだ契機は次のような事情であった。業務で、タイの会社(とはいえ日本法人の子会社)との契約書を見ることがあった。そのとき、タイについての知識が希薄で後に述べるような問いを同じセクションの人にしてしまったのだ。まったく無知を晒す話で恥ずかしい。そのときに知りたかったのは、タイではどの言語が優位的地位を占めているか(もちろんタイ語が一番なのだが、旧宗主国というようなものがあった場合、事実上その言語がよく通じるという事情があろう)ということだったのだが、その訊き方が知性も品性もないものだった。すなわち、「タイって、どこの植民地だったんだっけ?」 その契約書は英語であった。英語は現在デファクト・スタンダード的に世界共通言語であることに異論はあるまい。日本とタイの会社が契約を結ぶに、英語であるのは何の意外性もない。実際に英語のほうが安心する。中国との会社とだって、英語で結びたいくらいだ(中国の国力は潜在力も含めて侮りがたく、中国語の契約書はよく見る)。私と一緒に仕事をしているU氏は、さすがにコモンセンスがあった。「タイって、確か独立を貫いていたと思います」
そのとおりであったことは、本書を読めば一目瞭然。タイは、したたかとも言える外交を駆使して、列強がアジアで覇を競う厳しい時代に、その独立性を保ったのだった。読んでいて、なんだか日本に似ていると感じた。欧米社会的には、エキセントリックで何だかよく分からないのだが、その社会では昔から長い時間の間に培われてきた社会文化というものがあり、一方で外に対していい顔をしたいという性格があって、結果上手く立ち回るのだけれど、何となくその根幹は余人の理解を阻んでいるという性質、それがタイと日本に共通してはいないだろうか。
タイは、近隣のラオスやカンボジアとは緊張した関係にある。特に、史観の問題について、ある出来事をめぐって評価が180度違うことが、困難さの源にある。それはまさしく日本と朝鮮半島や中国の関係の源にあるものであり、多くの近隣諸国同士の間にある問題なのであろうことが、タイの歴史を通観する本書を読んであらためて感じた。
2009.03.01 倉田 喜弘 『日本レコード文化史』
巻末の索引に「大田黒元雄」の名が記されていなかったら、本書を買うことはなかっただろう。大田黒に関する記述はわずかなものだったが----それでもレコード=カン詰音楽論を展開してあらえびす論戦を繰り広げたことが記されており、なるほど『美味しんぼ』のあの話(「缶詰評論!?」コミックス90巻収録)の元ネタはここかと思ったりして実はあった----面白いエピソードが時代の折々にあったことが紹介されていて、まこと有益な本であった。蓄音器が発明されたのが明治時代のこと。それが日本に伝わってきて以来、日本レコード文化史は始まるわけだが、それはそのまま維新から現在まで続く近代化の道と重なるのであった。
2009.02.27 郷原 信郎 『思考停止社会』
前著『「法令遵守」が日本を滅ぼす』の冒頭で「日本は法治国家ではない」と刺激的に切り出した著者は、本書においても現在日本の司法や規律をめぐる問題の根本に鋭く切り込む。その主張は、前著といささかもぶれるところはない。コンプライアンスの問題について、現在もっとも実質的で前向きな論者の一人だと思う。ただ、目先の損得を求める現代社会の人たちからその議論が真正面から受け容れられるかどうか、不安に感じることはある。著者の表面的な経歴をなぞって、不祥事を犯した企業サイドが最後に頼る弁護士などと安直に早合点してはならない。頼れるエージェントには違いないが、依頼人に五分の魂があってこそだと思う。なにしろ元検事だ。単なる悪は太刀打ちできない。
著者は、ありがちな「主張には傾聴すべきところがあるのだけれども、言い方が戦闘的で、エキセントリックな印象を与える」というのとは一線を画す。落ち着いた筆致の裏に熱い思いをにじませる文章家だ。つまり、「業界では疎んじられていたんだろうなあ」という感じの人では決してない。
すべての議論は「社会の要請に応えていくことが根本である」というところに行きつく。ではその「社会の要請」とはなんぞやということである。それは環境変化著しい現代では、刻一刻と変わっていくものであろう。しかし、それを考え続けていくのが、まさしくコンプライアンスなのであろう。本書の主張を踏まえて言えば、社会的要請はこれであると公式見解が出された瞬間に、思考停止に陥ってしまうわけである。
個々の問題では、裁判員制度について、著者もかなり問題視していることが分かって安心した。どうしてこんなことになってしまったかについて、新たな視点も得られることが書いてあった。私は、日弁連のうちの推進派の意図が分からなかったのである。
ところで、本書では水戸黄門を巧みに比喩に用いて論述を進めているのだが、不二家を貶めた捏造報道疑惑のため本書のなかでかなり非難をされているTBSが、その水戸黄門の放映局であるというのは、著述上意図的にした皮肉の構図なのだろうか。
2009.02.24 岩田 規久男 『景気ってなんだろう』
知りたかったことに答えてはくれなかった。
パラパラとめくった感じでは期待薄だったので、仕方ない。そもそもエコノミストの地図はまったく頭に入っていない。
私が知りたいこと、それはまさしくタイトルのとおり「景気とはなんぞや?」ということである。今さらなにをと思われるだろうか。しかしこれは幼少のみぎりよりの疑問ある。子供のころ、世間で景気が好いとか悪いとか言われていたのが分からなかった。子供はなんでも知りたがるものであろうが、この「景気」というのは説明を聞いても理解できない謎の言葉として心に残っていた。身の回りに会社員という人種が少なかったせいもあるかも知れない。
最近うすうすと「景気とは人の気分の問題だ。だから、必ず好くなったり悪くなったりする。それが必然なのだ」ということを考えている。だから、一流エコノミストの著者が解説したこの本なら、少なくとも今までの経済学の歴史のなかで、景気とはなにかについて論じられてきたことを教えてくれるのではないかと期待したのである。
しかし、どうして景気が好くなったり悪くなったりするのかについての説は紹介されていたが、その肝心の景気とはなにか(まさにタイトルのとおりではないか)については、論じられていなかったように思える。
政府が景気が後退期に入ったのは2007年11月だと正式に発表したのは、2009年1月にはいってのことである。2008年10月刊の本書の最後で、「07年11月頃、あるいは、遅くとも08年3月には景気後退に入ったと判断されます」と書いている。素晴らしい。的中しているではないか。と驚くよりは、実感としてみんな思っていたことという気がしないでもない。
ただひとつ、本書のなかでタイトルどおりの疑問に答えている部分がある。その一文というか、文の一部は次のとおり。
「日本では、内閣府が景気判断を発表していますが、(後略)」
景気の判断は内閣府がしているのである。景気が良いとか悪いとかは、きわめて政治的な判断なのである。
2009.02.21 T.J.バス / 日夏
響 訳 『神鯨』
現在絶版。1990年のSFハンドブックにわずか3行だけ紹介されていた。「主人公、ロークァル・マルは鯨型サイボーグ漁船。ほかに類を見ないユニークなキャラクター」このセンテンスに惹かれ、ずっと探していた。海洋冒険SFを期待して読み進めていったが、思っていたのとはかなり違った。
これは、奇書である。
1970年代に書かれたハードSFという区分けになるのだろうが、かなり独特な世界観で描き出している。理科オタク丸出し、想像のおもむくままアイディアフルなアイテムを次から次へと繰り出す。はっきりいって、読みにくい。訳者があとがきで読者の便を図って状況設定をまとめてくれているが、それすら読んでいて分かりやすいものではない。それほど独特の世界観、語法を駆使した作品である。場面が次々と入れ替わり、目まぐるしい。映像化したらかなり衝撃的でコアなファンにはたまらない作品ができそうだが、実写では難しいかも知れない。上述のように主人公が全長600フィートの鯨型サイボーグ。もう一人人間の主人公が出てくるが、これが半人間。事故で下半身を失い、コロストミー(結腸切開術)とユーリターオストミー(尿管開口術)が施された上半身だけの人間である。それに遠未来のハイブと呼ばれる人間たち・・・・。指輪物語を映像化するのに多難な困難が予想されたというが、本作はそれ以上かも知れない。恐るべき才能を持ったマンガ家ならどうだろう。
本書が一部ハードSFファンに多大な影響を与えたのは理解できる。そしてまた本書が現在絶版なのも理解できる。分かりやすいエンターテイメントではない。
[千葉市中央図書館]
2009.02.14 船山 信次 『毒と薬の世界史』
中公新書には、山崎幹夫著の『毒の話』(1985)および『薬の話』(1991)という名著がある。私はこれを愛読していたため、毒は薬でもあるし、薬も毒であるという概念には昔から馴染んでいたように思う。本書もそれを現代的観点から書き表わしている。
本書によって盲を開かれたのは、医学部と薬学部の関係についてである。医師と薬剤師の関係についてといってもよい。著者いわく、日本では「医者に薬をもらう」と普通に思われているが、しかしこれは、世界的には一般的な形態である医薬分業というシステムからすると甚だ異なことであるという。薬学部の存在も、東大薬学部の沿革からも窺われるように、中途半端な位置づけで正当な評価がなされていなかった面があるという。これは、日本にはもともと漢方医の伝統があり、薬を処方することが(漢方)医の仕事であると、医術を施す側も施される患者側も思ってきたことを今に残しているからだという。このあまりに当たり前に思っていたことが、実はユニークでイレギュラーな状態であるということを、近年病院に急速に親しんだ身ですら考えてもみないことであったのは、私にとって本書から得た数多い収穫のうちでも最も大きなものであった。
2009.02.09 天藤 真 『犯罪は二人で』
「おかしな状況」が最も大輪の花を咲かせているのが『大誘拐』だと思うが、天藤作品はほかにも多くの作品で「おかしな状況」が登場する。本巻にもそんな短編が多数。また、人が死なないミステリーも多数。いかにも天藤真らしい。
「採点委員」は、大学教員の経験に裏打ちされていると思われ、大学入試の裏側が鋭く書き込まれている。もちろん、お話は天藤作品いつものどんでん返しつきのミステリー。
2009.02.06 うえやま とち 『クッキングパパ』 [102]
自家製ウスターソースからカレールーに連なる話が、意に反してしみじみ。クッキングパパは第1巻のころ(1986年くらい)は、男が料理をするのは隠しているという設定だった。恐らくそれが当時の風潮だったのである。50巻(1998年)くらいになって、初めて料理をすることがオープンになる。そして102巻現在、「料理もしない男はもてない」というように変わってきている。これは、世間の風潮を忠実に表わしている貴重な資料だと思う。
2009.02.05 円満字 二郎 『漢和辞典に訊け!』
漢和辞典という、誰もが一度は買わされて持っている(た)が、おそらく一番使用頻度が少ないであろう、手近にあるけれどもマイナーな漢和辞典という存在に光をあてる好著。面白い。そもそも現代の形の漢和辞典ができたのは、およそ百年前だという。考えてみれば、漢和辞典とはずいぶんと中途半端な事典であって、けっして中日辞典ではないわけである。日本語化された漢字を扱うという、果たしてほかの国にはそんな位置づけの辞典なんてあるのだろうかという、個性的な辞典である。
あとがきがカッコよすぎるぞ、えんまん。
2009.02.04 溝口 敦 『パチンコ「30兆円の闇」』
私はパチンコはしない。別に品行方正であるからではなく、やり方がよく解らないからである。加えて勝負事にはとんと弱いため、それで勝てるとは到底思えないので、近寄れない。これまた品行方正だから言うわけではないが、どう少なく見積もっても、パチンコ産業は賭博罪に当たらないとは思えないのである。それがどうして大手を振って(いるように見える)許されているのか、現物に近寄れないので、書物で机上の勉強をしようという腹である。よく書けているルポなのだと思う。たいへん体系立てて理解できたし、その産業に身を置く人の雰囲気というものも伝わってきた。
しかし、それにしても謎である。30兆円産業だというのだ。ちなみに紙パルプ産業の生産額は3兆円。30兆円ということは、国民一人当たり30万円。って、本当かよ。パチンコ人口が1500万人らしいから、実際やる人は200万円? そんなに使うのか?
本書読了後、改めていくつかの刑法の教科書の賭博の罪のところを当たったが、パチンコについて触れているのが見当たらない。誰も違法性を問わないのか。
2009.02.01 ビル・プロンジーニ、バリー・N・マルツバーグ / 高木 直二 訳 『裁くのは誰か?』
創元文庫の帯の「森博嗣推薦」の文句は伊達ではない。『森博嗣のミステリィ工作室』に当たったが、本作についてはひときわ熱い調子で語られ、「「何とか百選」といった本にも出ていないし、どうしてこの本が評価されていないのか、とても不思議」と高く評価されている。いざ現物に当たったわけだが、本当に衝撃度は抜群だった。
最後の15ページほどで、うすうす気づいていた展開になって意外な犯人像が露わになるのだが、その後が凄かった。その15ページには目眩がしそうになる。すとんとひっくり返されて「やられたあ」と唸るというより、目眩がしたまま悪酔いしたような気分になる。けれども、読んで損はない。私が控え目な性格でなければ、必読と言ってしまうところだ。
<supplement ネタバレあり 注意!>
2009.01.29 エラリー・クイーン / 井上 勇 訳 『エラリー・クイーンの冒険』
エラリー・クイーンの短編を読むのは、実は初めてかも知れない。とりわけ好きなのは、当初別人名義で発表したかの四部作であるが、そのほかの国名シリーズなど、長編しか読んだことはなかったのかも知れない。
謎の設定、どうして猫を毎週買い続けたのか、同じ本を盗み続けたのか、など、パターンは似通っているものの、おかし味がある。
<supplement もろネタバレあり 注意!!>
2009.01.27 小幡 績 『すべての経済はバブルに通じる』
社会主義経済は、バブルに通じたのだろうか? あれは萎縮して行き詰って瓦解したように思えるのだが。
2008年8月刊の本書は、いわゆるリーマン・ショックの直前までの状況を描いている。そしてその最後は、「これまで以上の激痛と悶絶を経なければならないだろう。少なくとも、その覚悟だけは、我々は今からしておかなければならない。」と結ばれている。当たってよかったね。
2009.01.25 小幡 績 『ネット株の心理学』
「業績の伸びそうな会社の株を買って、慌てて売るようなことは考えず、長期で保有するのがよい」というような、従来言われてきた株式投資の方法は、すべて間違っていると著者は見得を切る。そして、デイトレーディングを最もよい投資法だと勧める。その主張には一理あって、特に、株を持っていることはリスクなので長期保有はリスクの大きい投資術で、買ってすぐ売って宵越しの株は持たないデイトレはリスク・コントロールをしやすいという指摘は正しい。何故正しいかというと、著者は至極当たり前のことを言っているからで、つまり株というのはかなりのリスクマネーだからである。
2006年6月刊行の本書は、デイトレについてはそれが最も優れた投資法だという指摘は当たっていた。何故なら、インターネットでデイトレができるようになって普及したのは2003年頃のことであり、それから2006年6月にかけての株式市場は右肩上がり一辺倒であったからである。デイトレは所詮ゼロサムゲームである。著者も本書の最後1章を割いてそのことを述べている。本書で著者は、「株式投資にはゼロサムゲームの要素もある」という書き方をしているが、書いているのは「いかにゼロサムゲームで勝つか」ということであり、私などからすれば「それは負ける人がいるから勝つ人がいるのだ」という話になって、要はババ抜きと一緒で、そんなものに近づく気はますますなくなるのである。
2009.01.24 天藤 真 『われら殺人者』
ユーモアに満ちた語り口や、市井の人々に対する濃やかな愛情といった著者の特徴に騙されそうになるのだが、天藤真の目指したもの、もしくは好きだったものは、最後の数行(理想は1行)で、一気にひっくり返すミステリーのどんでん返しの味ではなかったか。
2009.01.21 郷原 信郎 『「法令遵守」が日本を滅ぼす』
このタイトルは適切ではない。もしくは、誤解を招く可能性がある。もっとも、商品としての本のタイトルは、おやっと人に思わせて手を延ばさせることにあるのだから、怒るつもりはないのだが。
コンプライアンスが声高に叫ばれ、一般にもこの言葉が浸透してきた頃、「コンプライアンスの行き過ぎ」をたしなめるかのようなタイトルの本書が逸早く刊行された。2006年12月のことである。現在のところの私の調べでは、「コンプライアンス不況」などと経済学者が言い出すよりずっと早い。私は本屋の棚に初めて本書を見たとき、不勉強なことに著者の名を知らなかったので、著者略歴とタイトルだけを見て、「おいおい、ずいぶんと大胆なことを言う弁護士さんだなあ」と思い、また本を棚に戻したのである。その意味で、本書のタイトルは不適切というのだ(その後の、この分野における著者の活躍は、周知のとおりである)。
本書の主張は極めて王道のコンプライアンス論である。早くからコンプライアンス問題に取り組んできた弁護士や学者も皆、初めから同じようなことを言っていた、と私は理解している。すなわち、コンプライアンスとは、ただ法令を(形式的に)守るという発想ではなく、広く社会からの要請に応えていくことである、それがcomplyの意味だ、という考え方である。
表面的には談合を容認するようなことが書いてある、と読む人がいるのかも知れない。しかし、そう言っているわけではない。コンプライアンス不況などと言っている輩とは懐の深さが違うのである。
2009.01.19 天藤 真 『親友記』
本巻収録の「鷹と鳶」「夫婦悪日」は角川文庫のほうで既読であったが、再読してみる。「夫婦悪日」のオチがやはり解らない。
天藤作品には、全般的に各処にユーモアが散りばめられている。登場人物には、底意地の悪いような者も多く出てきて一筋縄ではいかない。コミカルな語り口につい噴き出してしまう箇所も多い。「穴物語」は、天藤氏得意の“誰も死なない推理小説”の一つでもあったが、ミステリーを落語調で語ったらどうなるかという試みにも近いようなものも感じられる。
2009.01.13 金 両基 『物語 韓国史』
隣国の勉強第二段。当り前のことだが、朝鮮半島の歴史は、日本列島のそれよりずっと古いのであった。韓国の歴史は、中華王朝との緊張の歴史でもあった。強大な中華王朝に対していかに自らを処していくかというしたたかさは、現在の北朝鮮にもつながっているのかも知れない。いずれにせよ、長い歴史を通観してみると、日本にとっては、韓国の存在が強大な中華王朝の圧力からのバッファーになっていたということに気づかされた。
2009.01.09 天藤 真 『わが師はサタン』
長らく謎のペンネーム鷹見緋沙子名義の作品とされていたそうであるが、天藤氏の作品だと思って読むと、とても天藤氏らしい作風と感じられる。巧みな話法で、読み手を引き込んで離さない。
表題の長編については、犯人や作品の仕掛けにずいぶんと早い段階で勘付いてしまった。久々に冴えていたなと自己満足。もちろん詰らなくは感じない。そういう作品のほうが、見通しよく良い印象が残る。
付随の短編『覆面レクイエム』も、手触りや最後数行の急転直下の結末など、天藤氏のほかの作品に通じるものがある。
2009.01.05 北朝鮮研究学会編 / 石坂 浩一 監訳 『北朝鮮は、いま』
「さすがに隣国のことを少しは勉強しないと」プロジェクトの第一弾。韓国の北朝鮮研究の一般向けの記述で、たいへんバランスが取れている書とのこと。確かにニュートラルである。同民族に向けた深い思いが根底にあると感じられる。
北朝鮮というと、支配階層の(今の世界では)特異な政体にばかり目がいき、一般国民は虐げられている一方という類型的なイメージがあるが、そう単純なものでもなく、一般国民もしたたかに生活しているという面に多角的に光をあて、今の北朝鮮の社会を捉えようとしている。
印象的だったのは、社会主義思想を打ち出し男女同権を謳いながらも家父長制が強く残り家庭における女性の負担はそのままで、結果として仕事もしながら家族に献身的に尽くすスーパーウーマンが理想とされてきたという指摘。書いているのは同じ儒教文化圏の韓国の人なわけで、この指摘は我々の国にも十分当てはまるのではなかろうか。そして思ったのは、日本などの政治的折衝も、北朝鮮の女性相手にすればいいのではなかろうかというアイディアである。
2009.01.01 トム・ロブ・スミス / 田口 俊樹 訳 『チャイルド44』
快作かつ力作。先の読めないストーリー展開に手汗握らせる、お手本のようなサスペンス。しかも、スターリン恐怖政治下のソ連における話で、その特殊性も見事に描き出す。読み始めてしばらくは、サスペンスでもミステリーでもなく、スターリン下の「作り出された相互不信」ということにばかり思いがめぐらされる。
逆転に次ぐ逆転に次ぐ逆転に次ぐ人間関係。それはカフカの小説世界をも思わせる。けれども若き著者はシナリオライター上がりのためか天性の才か知れないが、不条理をも感じさせる世界を、ハリウッドでもきっちりとはまるような映画化に対応できるよう、仕立て上げている。映画的に絵になる場面満載。それが、重く複雑なストーリーに快速感を与えている。
新潮文庫の売り文句は何といっても「ロシアでは発禁」であろう。正直いって私はそれに惹かれた。ただこの発禁の正体を確かめる必要はあろう。単に翻訳しても売れそうにないという判断かも知れないではないか。
<supplement ネタバレあり 注意!>