平成15年6月 28日1,2,3,4

越後平安時代古図(康平図)

再評価

  

                目次

                はじめに

                            第一章    越後国古図の歴史あらまし

                            第二章    康平図の系統表

                            第三章    偽図論とその反論

                            第四章    康平図等の中の古代(平安・奈良)情報

                            第五章    「復元図(康平図)」の解説

                            第六章    「康平図復元図を延喜式の時代に逆上らせた図」の解説(佐渡を含む)

                            全章のまとめ

 

はじめに

 

  現在,康平図は新潟県内歴史学会及び郷土史家の人達のなかでは偽図との評価が一般的です。『越佐おもしろ歴史ばなし』(新潟県立文書館編)の「二枚の古絵図」(本井晴信氏=新潟県文書館勤務)では,「多くの謎を秘めながら、二枚の絵図は歴史研究の表舞台から消え去ろうとしている。」と記されています。

 しかし,私達は,榧根(かやね)勇氏(『越後平野の千年』 著者)がその本の中で論じられている様に,「偽図々々と決めつけているが,原図が現在確認されない,私達が見ることができるのは転写図ばかりで真物と判定もできないが,全くの偽図とも判定できない,又,現在の科学知識の無い江戸時代以前に空想の力だけで現在の知識からある程度頷ける古代図を描けるものでない」,との見解に同意する立場です。私達は,何がしかの歴史的伝言が含まれているのではないかとの立場であらゆる観点から調査研究して行く心算です。

 過去の真偽論争の過程を振り返ってみると,同じ地図を基に論じられていない様です。すなわち,転写を繰り返すうちに異同が生じ,異なる子図,孫図を見て論じているのです。そこで第一段階として,主だった本に付された康平図を表題と図形から親,子,孫の系統を整理してみました。以下,第一章,越後国古図の歴史あらましの次に,第二章,康平図の系統表としました。

 

第一章

越後国古図の歴史あらまし

       

奈良時代

天平10年8月

(738年)

 

天下諸国に国郡図を造りたてまつらしむ(続日本紀)

 

平安時代 初

延暦15年8月

(796年)

貞観5年

(863年)

 

同上     (日本後紀)

 

大地震、塩津潟出現カ

 

平安中期

延喜6年

(928年)

 

 

 

 

 

永祚元年8月

(989年)

 

越後古図(康平図と同系、『渟足柵探求の4ヵ年』)康平図の地形は平安の初に逆上る

 

十世紀半ば,源 満仲,現在の東蒲原郡の小川(こかわ)荘を領有,後,外孫渡辺 綱(摂津国 本貫=本拠地)が領有―阿賀野川河川輸送をおさえる。

同じ頃,平 維茂,奥州に勢力を展開,後,城氏成立

 

大地変動カ /大彦撰古図、成立はこれ以前

 

平安後期

康平3年

(1060年)

 

 

 

 

寛治3年7月

1089年)

寛治6年

1092年)

 

 

平安末期

 

康平図が成立

作成の背景

@源 義家,奥州征討,前九年の役(1054-1063年)

A(源)頼綱(頼光の孫),越後国権守(康平3-5年頃)

B源 義家,奥州征討,後三年の役(1085-1087年)

(源)頼綱家臣三郎兵衛信慶,作図(寛治図)

この頃(源)頼綱、越後守カ

 

大津波  越後国,主に下越国土一変,大混乱荒廃(『越後風俗考』に記載)

 

幾許もなく黒鳥兵衛の乱(伝説),源 義綱(義家の弟)これを鎮圧,後越後国に没す

奥羽城氏の南進  気候の冷涼化が背景

 

源平合戦

鎌倉期 初

 

 

鎌倉期 中

正応3年

(1290年)

天正年間

(1573〜1592年)

戦国末期

源 頼政の孫,頼連(よりつら)当時魚沼郡小国地方に住し、小国氏を称す(祖 頼綱で、はっきりした記録はないが,これ以前からこの地と源氏と係わりがあったフシがある)

小国頼景,弥彦庄石瀬天神山城に分家進出

小国彦七の名,弥彦神官中に有り。

 

釈日正(上杉 謙信が柏崎に聘す)『越後風俗考』成立

―寛治六年の大津波を伝えている

上杉氏 越後国慶長図作成

江戸時代

正保4年

1647年)

寛文年間

1661〜1673年)

 

貞享3年

1686年)

宝暦6年

1756年)

文化14年

1817年)

文政10年

1827年)

 

天保7年

1836年)

 

各藩共同合作,越後国正保図作成

 

関矢凌雲(東頸城松之山郷の人)『越後風土考』成立

―凌雲の見ていた古絵図は康平図と判断可

―寛治六年九月の大津波に依り幻の半島、島々の海没を記載

初代丸山兼術(糸魚川に住す)『北越風土記』成立/大彦撰古図所収

 

丸山元純(寺泊に住す)『越後名寄(なよせ)』成立/古図所収なし

 

小泉其明(きめい)の越後全図成立

 

@小泉蒼軒の『越後志』稿中に「文政の末から(寛治図)…国中諸方に流布した云々」

A寛治図(弥彦神社の神庫よりの写図)―星野日子四郎

鈴木牧之 『北越雪譜』成立(二代目丸山兼術、『越後名寄』等の記載)

寛治図(白図―白山神社より出)―小田島允武(『越後野志』の著者)

明治の初

明治中期

 

明治の末

大正〜昭和10年代

 

 

小池内広,寛治図偽図論展開

『温古の栞』創刊(第三十四篇号外『越後国之古図』)

―『越後風土考』にも見える康平三庚子年調製の国絵図云々の記載

星野日子四郎,寛治図偽図論展開

村島靖雄,上に同じ『高志路第一巻四号』

大木金平,康平図有用論展開

池田雨工,上に同じ

金塚友之丞,康平図寛治図偽図論展開『高志路第一巻十二号』

 

   注)康平図がいつ頃から流布するようになったかは、未調査。越後風土考所収の康平図未確認

 

 

第二章

康平図の系統表(縦系列)

 

 

       

タイプ

T―1―a

T―1―b

T―2

U-1

U-2-a

U-2-b

明治時代

偽図論争

長岡市大島旧家長谷川家蔵の写図(現在は所蔵なし)

魚沼郡某寺院に所蔵の謄写図

三島郡野積浜旧家蔵の図(現在は所蔵なし)

 

 

 

 

「越後国之古図」比図者後冷泉天皇康平三庚子年調製之分真写、『温古の栞第三十四篇号外』明治25年11月23日旧三島郡浦村大平覚太郎発行

大正時代

 

 

 

 

『郷土史概論』付図後冷泉天皇康平三庚子年5月取調、大正10年5月20日発行大木金平著

C.『越後古代史の研究』付図

後冷泉天皇康平三庚子年5月取調、大正14年10月15日発行池田雨工著

本図は現新潟港付近の古図と称せられるもの

上図の大正元年復刻版

(柏崎図書館蔵)

昭和30年まで

『深才郷土誌』付図「越後国地図」後冷泉天皇康平庚子三年調製、昭和4年9月10日発行(昭和4年1月縮写)

D.昭和15年深才図を謄写かやね図の素

加藤辰蔵写図昭和8年8月後冷泉天皇康平庚子三年調製(新津図書館)

 

 

『新潟県名勝記念物報告第七輯(しゅう)』康平三年5月越後古図、昭和12年発行

B.『新潟市史上巻』付図康平三年5月越後古図、昭和9年5月30日発行

『沿革ト其ノ事業』付図「越後国之古図」此図者後冷泉天皇康平三庚子年調製之分真写昭和5年6月1日発行青山士著

 

昭和末年まで

 

学会偽図説が優勢

越後平野の千年』付図(A「郷土のあゆみ」付図B『新潟市史上巻』付図C『越後古代史の研究』付図とD図を比較誤字脱字修正した図)、昭和60年7月6日発行かやね勇著(この図をかやね図と呼ぶことにする)

 

 

 

A『郷土のあゆみ』付図康平三庚子年5月取調、昭和24年9月15日発行(柏崎図書館)

 

 

 

平成時代

 

 

弥彦神社前土産店包装紙図後冷泉天皇康平庚子三年調製

図説中世の越後』付図後冷泉天皇康平庚子三年調製、平成9年12月12日発行大家(おおいえ)健著

 

 

 

 

     注1)深才図の左側はこちらから   全体

        注2)リンクした地図の一覧

 

まとめ

どの地図にも共通しているのは、平野部が海湾のように見える、角田山、五十嵐浜辺りから沖のほうへ突き出した半島状のものが描かれているということです。何だこれは!!という図ですね。しかし、地球はそして地面は絶えず、変化しています。もしかすると、この地図のように現在とはまるで違った形をしていたかもしれません。私達の印象では、諸地図の中で一番原図に近いと思われるのは、タイプT-1、及びU―2―bです。これらがどこまで本当なのでしょうか?次回の偽図論とその反論の中で、少しは、明らかになっていくと思います。特に偽図論Eが圧巻です。

 

 

 

追加稿  平成15年9月27日

第三章

偽図論とその反論

 

偽図論@

 平野部は海湾だったというが、海抜0〜2mくらいの地下から奈良平安時代あるいはそれ以前の時代人間の活動の遺跡が発掘されている。海のはずが無い、だから偽図だ。

反論

今迄収集した康平図(寛治図も)において、平野部を海と記載したものは一つも無い。A.主に大正昭和期の大木氏、池田氏、加藤辰蔵氏等が海だったと主張されたが、このことは現在の発掘成果から否定されざるをえませんが、地図のせいでは無く、地図の読み方の問題です。B.確かに阿賀北の桃崎浜〜松浜間砂丘が実際の曲線より新潟に来るほどに内陸側に寄っているように描かれている為、一見外海と繋がった海湾と思いたくなる。しかし、これは後で述べる康平図の復元の項目で詳しく触れるが、作図方法から由来するもので平野部は内水面と理解するのが妥当です。

 

偽図論A

 平野部には小吉島、東島、貝塚、鳥屋野、米島等が記されている。大部分空白でこれまた、ほとんど湖水面の様である。発掘成果からしてももっと人の住んでいた自然堤防、微高地、中州があったはずでそれが記されていない、当時の状況を反映していない。やはり偽図だ。

反論

 平野部は、沼沢地が微高地となって、すぐに人が住んだ所は土地が軟弱で、現在は沈降して地下2〜6mのところから平安期のものが出土している。未だ発掘されていないものも含め多くの箇所が地上にあったと思われる。そのような土地は小さく豆粒を撒いた状況で表現するには大変な労力を必要とする。誰が何の為にこの図を作ったのかと関係あるが、そこまで必要としなかったのではないでしょうか。

また、大家健氏の近著『中世越後の旅』の付図「日本国名総図」という中世資料がある(注1)。この図は康平図とほとんど同じく海湾の様に描かれている。康平図との違いは、沖に突き出した半島部、榎島(この二つの箇所は津波で消滅)が無く、阿賀野川の河口が埋積が進んだ為か海寄りに描かれている、等である。信濃川は文献資料により謙信の時代、現在と同じ意味での堤防が築かれ始め、川筋が定まった。室町時代の口碑に出水があると平野部(弥彦山塊から新津丘陵の間)一面が内水面状態になると伝えられている(『越後平野の千年』)。日本国名総図では信濃川平野部が海湾状に描かれ川の様には描かれていない。あながちこれは誤りとは言えないだろう。ダム貯水のない時代である。増水期の状態を作図したのであればこのようなものだろうと思われます。他地区でも似たような地図が残されています。尾張古図もその一例

(注1).文政11年(1828年)刊行、元になった資料図は、中世のものであろう(大家健氏)。

 

偽図論B

a.    平安時代の地図というのに地域地域で主要な役割を果たした神社(式内社)が一つも記載されていない等を偽図の理由にあげている人もいる。

b.    蒲原津が無いなんて、という人もいる。

反論

 a.これも誰が何の為に描いたのか不明であるが、目的によっては何の問題も無い。康平図を眺めてみれば、津名、川名、川筋、山名、安定した陸地、主要集落、飛島・飛山(すなわち烽家=のろし台)等の記載があり簡単な地勢図である。第一章で越後国古図歴史あらましを見れば康平図の作成者は、源頼綱でなかろうかと思う人もいるであろう。当研究会としては軍事用と見当をつけています。致命的な作戦ミスを犯さない為にはこれくらいは知っていないと何千何万もの軍勢は動かせないでしょう。税吏官が使用するには役に立たない地図でしょう。要は記載が無いことをとりあげて偽図というのは、無理だと思われます。

  b.これは記載されているのに、通説に目が曇って見えていないだけ。後に第四章にて論じたい。

 

偽図論C

 寛治図には、平安時代間違いなく無かったと考えられる地名、高田(元、菩提が原、それ以前は関川氾濫原でおそらく水葬の地)、新潟(元、土生田=はにふた、の里の地内、河口の変遷によって生じた新地名)等が記載されているから、偽図だ。

反論

 確かに、原本図でその様な事が記載されていれば、偽図ということになるが、現在我々が見ているものは写図である。寛治図は地名などの記載の無い白地図も出回っていた。それを写した人が自分自身の認識として地名を(追い書きの注をせず)書き込み、それを後日そこに高田、新潟の地名を見て、偽図と言っている類の話であろう。一概に偽図と決め付けられないでしょう。

 

偽図論D

 村島靖雄氏(元新潟県立図書館長)の説 ―前略―偽図を作る様なことをする者は多くない、大方『北越風土記』を偽作した(当研究会としては?)丸山兼術が寛治図も偽作したのでないか、文政年間(1818年から1830年)まで健在であったかは伝記不詳で確認できないが、そうならその人に相違ない。

反論

 随分乱暴な論定である。ここで偽作者として名を上げられている丸山兼術という人は『越後名寄』の著者、丸山元純の息子で二代目丸山兼術である。元純は宝暦8年(1758年)72歳で没している。その子二代目兼術は遅い子だとしても20歳代で、寛治図が出回りだしたのが文政の末で、その時すでに90歳を超えている。そんな老人が何をするであろうか?『北越雪譜』の中でその著者鈴木牧之が二代目丸山兼術の子と交遊が有り、その居宅の寺泊に寄留した時の話してとして、友の祖父元純の撰した『越後名寄』を読み、未発表で埋もれているのは惜しい旨書き残している。もしかして二代目兼術が『名寄』を世に出したくて、糸魚川で入手した『大彦撰古図』(注)を追加して初代兼術が撰したことに擬して序文を書き『北越風土記』を成立させた疑いはある。しかし寛治図との接点がわからない。寛治図は複数の神社から出回っている。寺泊の医師兼術と神社がどのような繋がりなのであろうか。喩え、『北越風土記』の真の撰者が二代目兼術だとしても江戸時代のことである。古地図や歴史書の内容で咎めを受けない為の便法であったと理解できないだろうか。『北越風土記』の兼術の序文に「此書上古世雖有之、織田信長公有故滅判、以来世稀無之密書也」とある。『風土記』の内容自体には何ら不信は無い。『風土記』『名寄』等に康平図との関連を思わせるものも無く、まったく不当な偽作者論である。

(注). 『大彦撰古図』は、康平図以上に復元が困難、もちろん偽図とは思われない。ずっと後の研究課題。

 

偽図論E

 金塚友之丞氏(民俗学考古学者)の説(村島説を全面肯定しつつ更に付け加えて)  いずれにせよ寛治図に比して康平図が数等優れているから寛治図だけを偽作也とする論者が居るが、遺憾とする。d康平図が優れているということは表面的年代と正反対に寛治図より一層後世の再偽作たる事を思わせる。a寛治図は想定古代地形図上に当時の地名を当てはめた一種の参考図でなかろうか。その後、これが以外に重用されるに及び種々補強工作を施したが、到底寛治年間の作として首肯せしむるに足らない事を悟り b増補修正古代化に務め康平図と銘打って世に出したものであろう。c もしも康平図が先在したなら、一見偽作と明瞭なほどの省略、改悪を敢行してより年代の新しい寛治図を作成するはずは無いのである。

反論

aの部分 文政10年(1827年)寛治図弥彦神社の神庫より出づ、天保7年(1836年)寛治図(白地図)白山神社より出づ、等の歴史的経過と全く整合しない推論であり的外れである。

 bの部分 康平図は寛文年間(1661年〜1673年)に関矢凌雲により記録されている(温古の栞)。文化文政の時に寛治図、続いて康平図が作成されたとの説は破綻している。

cの部分 確かに私が偽作するなら康平図を先に出し、寛治図を後にすることは無い。その意味で真理であろう。関矢凌雲は魚沼郡松之山の人である。源頼綱(康平年間の越後国司)の後裔である源氏の小国氏の居した所小国(古代は魚沼郡)と渋海川で繋がっている(松ノ山上流、小国中流、深才村、浦村下流)。しかも、康平図の原図に一番近いと思われる第二章系統表のタイプT-1、U-2-bは魚沼郡、三島郡(古代古志郡)から出ている。康平図の始原はここら辺りではなかろうか。一方、寛治図は神社から出ている。制作年代も30年の開きがある。一方は精密な図、もう一方は簡略な図、この二つの図は別々な理由で別々に描かれたと見るのが自然だ。ただし、寛治図は康平図を範として、描かれたことは間違いなかろう。

dの部分 金塚氏の偽図論は、既に破綻しているが、この論法に倣って言わせてもらえば、康平図の偽図ではないと思える最たる点は氏も認識しておられる図中最も異形たる半島部の存在である。実際は、深才図で半島部の海岸線角田浜―立間間4.5cmで描かれており、これはどの位の距離を表現したのであろうか。他の海岸線部分例えば、@角田浜―柏崎間60kmで6cm、A柏崎―直江津間40kmで6.5cmと縮尺はまちまちである。@の縮尺で見れば4.5cmは45km、Aの縮尺で見れば30km弱に相当する。少ない方を採用しても30km弱の海岸線を表現していると言える。これは大変な距離である。現在の海を見る限りなかなか信じられない数字である。金塚氏は、「想像で描くことの出来ない程の図形ならば、真作の何よりの証である」とも言っている。この30数キロの沖への海岸線の飛び出しは想像で描くことの出来ない程の図形の範疇に入らないのであろうか。金塚氏はこうも言っている。半島部を描いた根拠は、『名寄』の記事にある「往古は此の辺りより沖の方へ一里許り洲崎松原なりし由言い伝え今は千尋の海となれり」からだ、と。おそらく。氏の認識は、半島部の海岸線の距離はせいぜい約4km飛び出しているのをばかに大きく描いたものだ、その程度であろう。まるでわかっていないのである。偽物を作り世間の人を騙し一人ほくそえむ輩であれば、その半島を、すぐに嘘としか思えない30数キロもの大きさに描くであろうか。海底図(注)も知らない江戸時代の人が、こんな図を想像して描けるものだろうか?

 この半島部の信じ難い事は偽作論の否定論者も同じである。榧根(かやね)勇氏の康平図の復元図を見れば分かるとおり沖への半島とは考えておられない。木村尚志氏(歴史文筆家)もその著作で榧根氏の復元図を引用して、康平図は本物ではないかと述べている。半島のことについては何も述べられてはおらないので、信じてはいないのでなかろうか。大家健氏『中世越後の旅』付図「8世紀〜10世紀頃の信濃川、阿賀野川両河口推定図」を見ると、半島部の突き出しは無い。やはり信じられないのであろう。

 素直に康平図が表現しているものを見れば、想像で描けるようなものでない、信じ難いものだということが分かっていただけるでしょう。だから、何かあるのではないか、調べれば調べる程、沖の方に突き出していると考えるしかないことが分かってきた。そのことは、第四章以下で論じます。

(注)ウルム氷期(最寒気1万8千年頃前)、最海退の汀線の推定

 

まとめ

 大正昭和期の康平図偽作論の代表的なものを見てもらいました。まず偽作ありき、であって偽作の論証になっておりません。

残念ながら私達は、平安時代の事何ほども分かっておらないのです。康平図から平安時代の情報が手に出来るならば利用すべきです。

 

 

加稿  平成16年2月21日

第四章

康平図等の中の古代(奈良・平安)情報

 

その@

 現岩船郡境荒川は、当時岩船潟に注ぎ込み潟から海に開いていた。

この見方のヒントになったのは、小林昌二編『越と古代の北陸』の内の金子拓男氏の論稿です。氏はここで検討資料図を用い、「現荒川の河口部は、堀切川で、それ以前は平林、宿田方面から岩船潟に注いでいた。はっきりした工事の時期は不明ながら鎌倉時代の初めには、既に現在の川筋であった。」と述べている。今と川筋が異なっていたというのは驚きです。というのは、現在の川筋は、源流から川の成因である断層帯に沿っており自然な川の流れ、しかも乙、桃崎浜辺りは信濃川で言えば中流域で水の流れも速くやすやすと砂丘形成で閉じられてしまうとは思えない条件のところです。氏の説は本当でしょうか?康平図において荒川河口周辺の地名記入の全く無いもの、乙浜、市川浜の記入のあるものいろいろ、岩船潟の地名の記入位置もいろいろ、様々、同じでありません。それで、川筋の地形だけで検討してみます。そうしますと、細部は異なるものの、どの地図もほぼ同じ川筋を表現している様に見えます。すなわち復元図のように見えます。現在の川筋、江戸時代の小泉基明図海陸道中図絵、は西の方に一直線、康平図とは明らかに違います。氏の推定どおり川筋が岩船潟に注いでいたことが分かります。

ただし氏の言う、「現荒川の河口部は、掘切川」までの部分は、そう言い切っていいでしょうか?氏の検討資料図を元に検討してみましょう。現大日川沿いの乙集落(亀田砂丘列に当たる)から海に出るまで階段状に砂丘の端をなぞるように大日川が流れています。しかも乙から荒屋あたりの田園地は、かつて砂丘地であったようには見えません。神林村側の砂丘幅を見ても亀田砂丘とは繋がっていたようには見えません。それで縄文海進期以降の荒川の流路の変化を大略推理してみたのが@〜Cの図です。

T図で言えば、縄文海進により海面が現在より約7m高くなり丘陵地以外全面が海、又は汽水域となってから、堆積により最初に地面になったところを現在の地形から推測すると乙集落を載せる亀田砂丘列と点線内の島状のものではないでしょうか。この堆積は、沿岸流、風、川の水流、地球の自転の影響で出来たものです。旧胎内川と荒川の流れの作用で坂町扇状地が北西の方に伸びてきたことが予測されます。その為に荒川の筋が、平林、宿田方面に寄せられていきます。

U図で言えば、荒川の自然堤防が牛屋から南田中方面に出来てきます。ますます、荒川筋が丘陵側に寄せられていきます。@図の点線内の島状のものが繋がり砂丘の様になっていったと思われます。更にAの中島状の形成が始まったと思われます。

V図では、海退期で約2m海面が下がった為、胎内川は桃崎浜、塩谷の先で河口を開いていたと思われます。

 W図の康平図の頃には、坂町扇状地の先の方は水無川の様な状態だったと思われます。その海寄りは、扇状地にさえぎられ堆積が進まず沼地状態だったと思われます。

 T〜Wの様な変化を見てくると、胎内川、荒川が砂丘で完全に塞がれ岩船潟に注がれていたとは思われません。

 川筋が変わったのは、どのような理由でしょうか?考えられるのは、岩船潟に向かった川の堆積が進み流れにくくなって、川部から上流がダムのようになった上に洪水が重なり直線方向になったということでしょう。もちろん荒川右岸が地殻変動で隆起した為、岩船潟方面に流れなくなったとも考えられます。貞観の大地震で流路を変えたという説もありますが、それを示唆する口碑伝承はないようなので断定する事は出来ないと思います。

 W図の中で岩船潟を「まかた」と書きましたが、これは村上市史の通史第一巻177ページにより鎌倉時代後半の古文書に岩船潟を指して、「まかた」と記されているところによります。地名研究会の某人は、「まかた」は、「勾潟」だろうと言っております。また、16世紀末の上杉慶長図に岩船神社が『木船明神』と書かれている(うそでも式内社名を名乗ろうとする神社が多い中、よりによって『木船明神』を名乗るのはこの社が岩船とは無関係と見える)ことと、「まかた」の件からすると、この辺が最初から磐舟の地か疑念を持たざるを得ません。康平図の岩船潟という潟名の記載は後からの追記の可能性が高いと思われます。

 

そのA

 寛治6年9月大津波で消失した幻の半島に「古潟」地名がある。この地名が万葉集に見える。「こかた」と読むことが分かる。

万葉集12巻3180番(『国歌大観』抄)

「吾妹児乎 外耳哉将見 越懈乃 子難懈乃 嶋楢名君」

当研究会の解釈 (「懈」=「海」、通説に従う)

我いとおしい貴女、そのいとおしさを外に見るならば、越海の子潟の海の島々の風景のすばらしさだ。

この歌は越の国のいずれであろうか不詳というのが定説です。しかし、康平図を素直に見れば、幻の半島に「古潟」地名があり、しかも、近くに島が点在しています。万葉集の時代には、“子”も“古”も同じ万葉仮名甲類(こ音)読みでした。この歌の有力な候補地です。東北地方の松島湾の様な景勝地だったのでしょうか?

 

そのB

 幻の半島先端部に「飛山」地名がある。これが、烽火(のろし)台ゆかりの地名である。

宇都宮市内東方、中世の城、飛山城遺跡の下層から「烽家」(度布比とぶひ・や、と読む)の墨書土器出土。このことから、飛山の由来が烽家からとする見方が有力(平川 南先生の説)。

確かに康平図の飛山の地は、のろし台か灯台にするにぴったりの場所です。佐渡国からの急を受け取る第一地点になる所です。もしそうならば、次の地点はどこか?京都に伝えるに自然な地点は角田山地区です。役場に調べに行きました。やはりありました。角田地区に飛山地名が小字であるのです。(原則40里、約22km毎に1箇所の則で言えば、途中もう一つあるのかも知れませんが、康平図には見当たりません。

 飛山地名は「烽家」由来なのはまず間違いないでしょう。

 

追加稿  平成16年3月13日

 

そのC 蒲原津(かんばらつ)は現在の新津市新津に位置するあたりに記載されている地名「津」とあるところだ。ただし『延喜式』の時点では、(古)津の可能性有り。

第三章偽図論Bのbの反論が宿題になっていましたが、これが答えです。もし私が偽作者ならばどの地点であれ、蒲原津と書き込んだでしょう。津としか書き込みの無い地名だからこそ本物の情報だと思います。三重県には古記録では安濃津だった所が今、津市(県庁所在地)として現存しています。地元では津と呼称されていたのでしょう。本当に津を蒲原津と言ってよいのでしょうか?

(イ)蒲原津の変遷を考えると最初、古津に「津」が設定され、その後移転し古津と呼ばれるようになったのでしょう。移転先が、津と名乗っていたのが更に移転し、今までの所が、新津と呼ばれるようになったと考えられます。新津に在った津はどこに移ったか。栗の木川左岸、姥が山に今津(の杜)の伝承があります。その東隣の山二ツは、実は“山二津”という古文書もあります(早津家)。“今”の原字は(“ひとがしら”に“ニ”、『漢和辞典』)即ち山二、山二津は今津の事。今津地区が山二ツ地名と姥ヶ山地名に分かれたと考えられます。古津、新津と同じ時系列的名称、そのことからここに移ったのではないか。その後栗の木川伝いに南北朝の頃から江戸期途中までは、現在の新潟市万代島辺りに蒲原津が推定されています。ここにだけ、なぜ蒲原津が残っているのか、それは今の新潟市域が、沼垂郡の領域だった所に、蒲原郡の権益を負った津が、出張ったのでその様に称したと考えられます。新潟市域が沼垂郡だったということは、康平図の追書きに「乗足が領する所3ヶ島沼垂郡とす」とあることでわかります。(ロ)蒲原津がどこにあったかを考えるのに、蒲原の文字から何か分かるでしょうか?蒲原は「がまはら」と理解するのが一般的かと思います。それでいけば、様々な候補地が考えられますが、単純に「がまはら」と捉えてもよいのでしょうか?小林存は、延喜式には、蒲原に加無波良の訓みがつけられているし、佐賀県には、蒲原姓は「かもはら」という以上、「かむはら」と考えるしかない、と言っています。また、蒲原に関して次のような伝承があります。

 旧新津市古津地区大字朝日にある普談寺(観音堂が前身)について、『にいつの昔話(T)』「ころがり上がった大石」に、「(前略)越後巡礼第三十番蒲原と大石に刻まれている」とみえる。ところが、実際の大石には、「越後三十番、蒲原九番」とあります。(越後三十三観音のうちの第三十番目、少し後に設定された蒲原郡三十三観音のうち第九番目の意)民話のこの部分に引っかかりを感じます。「越後(巡礼)第三十番(朝日)観音堂」なら何も違和感はないのです。これは、「蒲原の謎は朝日観音堂を調べなさい」と言っている様に見えます。ここの観音様は秘仏で公開されていない為、現時点ではなんとも言えませんが、古津と蒲原とは深い係わりの地とだけは言えるのでないでしょうか。和泉の国から飛んでかけつけてくれた観音様だというのだけれども、皆に顔を見せたくないというのは何なのでしょうか。

奈良平安時代の文献資料では、蒲原津、蒲原郡、蒲原神社としか現れません。蒲原神社は岩船郡ですのでここでは省きます。西頚城において、当時、蒲原と青海と二つの地名があったことが分かっています。西頚城の蒲原の地は、親不知海岸の高台の上路地区を言うものと思われます。蒲原郡にはかつて青海郷があり、現在の村松町に大蒲原地区があります。これは元青海郷に所属し、蒲原郡の呼称の元になった所と思われます。旧青海神社が、加茂と村松との境の尾登峠に在った事がわかっています。

蒲原地名は神祭りを行う神原・上原地名を指す原っぱの意と解するのが適当ではないでしょうか(民俗学研究誌『高志路』による説)。(それなのに、蒲の字を使っているのは、出雲系を暗示する)大蒲原の地は神原・上原地名にぴったりです。

 なお言えば、西頚城郡沼川郷に建沼河男命・高志君の祖(大神(おおみわ)朝臣系図)、蒲原郡青海郷に高志君大虫、高志君五百嶋が出現していています。

これらのことからすると、蒲原は青海と深い繋がりがありそうです。そうならば蒲原津は、青海郷かその隣接地にあるのではないでしょうか。

(ハ)加茂市の青海神社と新潟市蒲原神社の係わりを見てみましょう。

延喜式内社では青海神社(二座)とあって当初は尾登峠に在った。青海郷(青海野や村松町、五泉)、青海野は、加茂川右岸、羽生田、田上地域が中心である。寛治4年(1090年)堀川天皇の時に京都賀茂神社の社領、石河荘設定(康平図に見える中条が当てられたと考えられる)とともに賀茂神社が勧請され、おそらくその場所は加茂山であったろう。いつしか、尾登峠の青海神社は衰え、加茂山の賀茂神社にかぶさる形で加茂山の青海神社となって現存している。

一方、中世の古文献には、蒲原津が新潟市の旧阿賀野川河口付近と推測させる表現であり江戸時代には新潟市万代島辺にかつて在った砂丘で蒲原村の金鉢山青海之社としてあった。後、川欠けで居る事が出来なくなり、長嶺の五社神社にかぶさる形で蒲原神社が移ったことがよく知られている。

そして、金鉢山青海之社の時から引き続いて長嶺に移ってきてからも、三年に一度、祭礼として加茂市青海神社の神輿が加茂川から信濃川を下り新潟市の蒲原神社を訪れる。すなわち陽神(おとこ神)が、陰神(おんな神)に会いに行く図式である。

この経緯からすると青海神社(二座)は元は青海郷にあって後で離れ離れになった。陽神、陰神が離れ離れになったのは、加茂山青海神社が成立する以前のこととなろう。(加茂山青海神社の縁起には陰神が蒲原神社に遷座したという事は見えない。)このことから延喜式の時代、青海郷が新潟市域にあったとするのは困難である。

(ニ)観点を変えて古代北陸道駅路から見てみます。

『延喜式』より          駅は30里(約16km)ごとに一つ置くことが原則、北陸道は馬五疋が原則           

駅名(ひらかなは研究会)  馬又は舟の数    当研究会による駅推定地                 

青海(あをみ)        馬八疋

鶉石(うつらし)      馬五疋

名立(なたち)        馬五疋

水門(みと)          馬五疋       直江津市、当時の関川左岸おそらく

  当時の河口より2〜3km程度逆上る地、即ち、JR直江津駅の西側辺りの

  古くからの市街地

  因みに越後国府、直江津市の旧身之輪山近辺(現在は海没の地)

佐味(さみ)          馬五疋        柿崎町木崎山

三嶋(みしま)        馬五疋        柏崎市枇杷島辺り、佐渡への渡海地―箕輪遺跡は郡家

多太(たた)          馬五疋        西山町二田神社(田田−タタ−多−太の謎解きですね)

大家(おおや)        馬五疋        和島村小島谷、下ノ西遺跡は大郡又は郡家。駅家併設

伊神(いかむ)        馬二疋        弥彦神社(旧名、夜比古社)

渡戸(わたと)        舟二艘        岩室村石瀬か橋本か又は、巻町舟戸が候補地

  (矢川水系)

 

終着駅(津即ち蒲原津)                  新津市古津(延喜式の頃)、

新津市新津(康平図の頃)

『令集解』

凡 水駅不配馬所 量閑繁駅別量 船四艘下二艘以上

解説 『延喜式』に於いて、水駅は越後国渡戸及び出羽国にしか記載が無い。壱岐島への渡海駅、隠岐島への渡海駅では舟の記載が無い。出羽国の場合駅名の地は川の辺の地が推定され渡海の目的地も無い。ゆえに渡戸は渡海の駅でない。川の渡し場です。佐渡国へ向かう渡海の駅は別のはず。

 このことから、北陸道の終着駅として、国府に準ずる施設が信濃川右岸青海郷方面にあったことがうかがえます。

 この方面に何故、国府に準ずる施設があるのでしょうか。奈良平安時代を通じて阿賀北出羽地方は、政治的に中央政府に対し不服従の傾向が続いており、常に緊張関係をはらんでいた所です。その為、不穏な動きに対する急使を立てる連絡道が必要であったと思われます。陸奥国鎮守府からの急使も北陸経由の方が短距離です。出羽方面からと陸奥国鎮守府からの連絡路の交差する所はどこかと言えば、現在の新津市(康平図の津と記載された地)が浮かび上がります。

蒲原津は、税としての農産物等の運送の為の国の湊であり、海路で京都(みやこ)につながっています。上記の役割を蒲原津が担ったとしても極めて自然なことと思われます。そもそも、八世紀初の、沼垂城〜大郡(大家の地、国府の前称)〜京都への連絡路が前身で、国府と名を改め頸城郡に移転した後も緊張状態は変わらず連絡路が支路として残されたと見ると理解しやすいのではないでしょうか。

付け加えて言うと、蒲原津は新潟市にあったとすると、伊神駅から次の駅は距離的(30里)に赤塚あたりが想定されますが、『延喜式』の記載では伊神駅からは馬二疋だけなので渡戸駅に赤塚を当てることは出来ません。蒲原津は、延喜式・康平図の頃は新潟市ではないといえます。

(ホ)康平図復元図(当研究会)の新津市近辺の地形を見ても港に最適です。風向きにより船だまりが山谷小合微高地を挟み2箇所取れる地形となっています。

 以上のように、津という文字からしても、蒲原という文字からしても、駅路からしても、また当時の地形からしても、蒲原津として津を当てることは出来るのではないでしょうか。

 

そのD

 阿賀野川左岸に見える「深江」地名(現在の新津市深川、江戸期は上深川、下深川)は、平城宮木簡「越後国沼足郡深江…」(おそらく郷が続く)にあたる。

この平城宮木簡は、天平7〜8年(735〜736)のものとされています。深江地名、これも偽作するなら深川と書けばよいところですが、深江となっています。また、「旧阿賀浦村に深江氏があるが由緒は同家にも伝えておらぬ」(注)(小林存『県内地名新考上巻』)とあり、現在、学会では、亀田砂丘地域は平安時代を中心に一部奈良時代のものが出土し、古代沼垂郡でないかと囁かれています。また、深川から約2〜3km離れた新津丘陵の先端部新津市滝谷、七本松窯跡の土器製品が、北蒲原から出土しここが当初沼垂郡だった可能性が浮かび上がってきました。そうすると、この新津市の深江地名は沼垂郡深江郷にあてられそうです。確度の高い古代情報だといえます。

(注)新津市深川は、旧阿賀浦村

 

そのE

 新潟の前身は「土生田」(にふた、宿駅)であった。その位置は今の新潟市青山関屋分水あたり。

a.北陸道の宿駅資料(康平図成立(1060年)の少し前のものである)『越後風俗志』(P64)(江戸時代寛文年中(1661〜1673)史家、関矢凌雲の調べによる)

宿駅名のあとの( )内は現在の推定地

一ふり(越後国最初の宿駅)

途中略式

―― となみ・うた・あをみ わたり・うら濱・のう・名たち・ありま・長濱・こた・名古 わたり・さい濱・かき岬・八岬・くしら波・中濱 わたり・椎谷・出雲崎 ――

てら尾泊(寺泊)

これより佐渡国 江 渡海         延喜式の頃(延喜年間は901〜923年)から康平図の時期に

至るまでに、三嶋駅―佐渡松埼駅ルートは津波等により

第一ルートではなくなった歟。

(天慶元年938年の頸城の津波が伝えられている。

「康平図」追書、また永祚元年989年の大地変動『大彦撰古図』

などがある)

出羽道は

麻背(間瀬)

かくた(角田)

大こし(現在は海没地、康平図では大越)

あかつか(新潟市赤塚地区神明浦から山崎辺り)   正保図によると今の赤塚村と思しきところが墨が薄れ判読しづらく、とにかく“赤塚”とは読めない。また北の砂丘地から現在の赤塚集落へ移動してきた伝承もあり(並松氏の論稿)現赤塚集落が当初からの赤塚村ではなさそう

船江(内野新川河口辺)

にふた わたり(青山、関屋分水、康平図では土生田)

のたり わたり(山木戸、牡丹山砂丘、康平図では乗足島)

七湊 船つき(所在不明、現在の岩船郡の七湊の地は後の呼称、

記載順に従う限りこの地は当てられない。)

塩谷(塩谷)    当時は別の位置

磐船(岩船)    当時は別の位置

背波(瀬波)

以後省略

(イ)  康平図の地名と海岸沿いでよく対応しています。

(ロ)  土生田が「にふた」と読むことがこれで分かります。

(ハ)  船江については、新潟市白山神社と古町の船江神社が本家船江神社を争っていますが、この資料によれば内野あたりの海辺が推定され、康平図復元図延喜式の時代(当研究会)からすると船江神社の元々は赤塚にあったと言う伝承も全く捨て去るわけにはいきません。

(ニ)  今の岩船郡七湊の地は、『式内社調査報告』によれば、「往古は信濃川、加治川、阿賀野川、其外小川に至迄、此処に落来、岩船に流下る、客船数多集まり、七ヶ所につなぐ、後に七湊と云」とあります。この地から奈良平安時代の遺跡も出土してはいません。のたりから、七湊までここまで宿駅間として距離があり過ぎます。康平図によっては、七湊の記載の無いものもあります。このことから、北陸道及び出羽道の宿駅資料の七湊に当てるには疑問があります。敢えて七湊の地を推測すれば、当時の加治川から塩津潟へ向かう水路の辺りではないでしょうか。(旧豊栄市嘉山から旧聖籠村)

b.江戸時代元禄4年(1691年)新潟町検断(肝煎、庄屋の類)小原八兵衛の新潟白山神社奉納板が現在も残されています。その奉納板には、「検断の任にある者として新潟の昔を今のうちに書き残しておかないと消失してしまうだろうから刻み残すこと、新潟は昔、塩水潟辺にして土生田・船江村と称した云々、文章家の三宅氏に依頼して美文にしてもらった。」などとあります。

c.そのこと(新潟の古名は土生田)を裏付ける出来事が明治初期越後府社寺取締役の任にあった加茂市の人小池内広の記録にあります。新潟市寄居町諏訪神社、この社は古新潟町の当時にあった寄居村の鎮守様で、小池の巡回指導時この社の鳥居に掲げてあった「土生田神社」の額を見て「此処にあるべきものでなし。羽生田村(中蒲原郡)にあるべきものの由、即刻取り外しを命じた」とあります。寄居の諏訪社が青山辺りから移転してきた元来の土生田神社で途中で看板を掛け替えたものか、あるいは、新潟町の移動の過程で衰えて引き取ってあずかったものかは不明です。この件につき現在の宮司さんは、「何も聞いていない」とのお答えでした。江戸時代の氏子と神社は、硬く結びついています。氏子の承諾なしに、別の神社名の額が人目に付くところに掲げられるはずがありません。氏子もその古き由来を承知しているのでそこに掲げられてあったものと思われます。無年号高調帳(溝口氏入部当初の資料と推定されているもの、1600年頃)によると羽生田村は当時、羽生堂村と見えこの少し後の資料も同様である(書き誤りでは無いと見られる)。平安康平図の時代に羽生田(中蒲)が土生田と考えるのは無理筋。額が羽生田村のものであるはずはありません。この記事については故加藤辰蔵氏の調査記録を当研究会で再チェックしてみたものです。

 

 

追加稿 平成16年9月4日

そのF

 康平図にある「越の山」は、小木ノ城山である。

a.『越後風俗志』(復刻版)によれば、釈日正(第一章に前出)の随筆を、『越後余情』(高橋随軒)が引用して、以下のようにあります。

        「越城の山を、をぎの山と訓し、是を上古の古志の山也」と書かれしは何の拠るべき事ありしものにや。

 現在出雲崎町に小字名小木、小木ノ城山の地名があります。中世の豪族に小木氏が居ました。小木ノ城山の山頂遺跡は、中世山城遺跡で、古代に山城は無かったようです。よって、古代は小木の山であり、万葉仮名表記ならば「越城の山」と言ったのでしょう。

b.この山は昔から漁師の海の目印としている山である。伊能忠敬の測量時の目印山となっていました。現代ではテレビ電波中継塔のある山、遠くから見え、姿も良く(高さ345m)和歌にも詠まれ、名所となっていました。古代古志郡に位置するこの小木の山すなわち「越城の山」は「越の山」と呼称されるのにふさわしいでしょう。

 

そのG

 康平図の加治川河口左岸、「三崎」地名は砂丘列由来である。

康平図の加治川の下流は、現在地名の新潟砂丘列T-4とU-1の間、すなわち正保図(第一章前出)の島見前潟に流れ込んでいたと推定されます。(次章で再度触れます。)

現在の豊栄市にある新潟砂丘T-2〜4の3列先端部が当時の湖沼に突き出した状態からついた名前でないかと思われます。この康平図に描かれた加治川の流路が、どこを流れていたかを現在において推測する事は、現在の知識をしても非常に困難です。「三崎」地名は早くから失われた地名であり、だから、江戸時代にこの「三崎」地名をでっち上げるのは、難しいでしょう。

 

そのH

 康平図の「なると浦」(幻の半島付け根辺り)は泣き浜、鳴き砂由来である。

その理由は、まさにここが地学でよく知られた「鳴き砂謎の一直線」(三輪茂雄)上に位置するからだ。近くの角海浜が鳴き砂の浜であり、その砂がなると浦に堆積したかと思われます。なると浦は、おそらく「鳴処浦」でしょう。思いつきで言える地名ではないでしょう。なると浦に続いて長浜があり、長浜の一部分の特に付いた呼称ではないでしょうか。

 

追加稿  平成17年5月28日

そのI

 康平図「小丹生」(おにふ)地名が見える。現在の長岡市信濃川右岸の地、これは式内社古志郡小丹生神社の所在に関し、唯一ともいえる情報である。

慶長年間(1596〜1615)の資料中大島荘の所に小丹生が見える。『温故の栞30篇』位置も康平図と整合しそう。従来色々論じられてきたが、地名の上でも神社名の上でも小丹生は現存していない為であった。これではっきりした。

 

そのJ

 康平図「耶麻」地名が見える。現在の長岡市東部〜東南部東山丘陵山麓辺り、古代古志郡四郷の内の()()郷に相当する

この四郷は、大家、栗家、文原、そして夜麻と記載されている。

 大家郷は島崎川流域に相当(郷名の由来は大郡が在ったことから)。“おおやごう”と読むカ。

 栗家郷は黒川流域に相当。その様に考えるのは、記載順によることもあるが、“黒”と“栗”が古代“くる”の音で通字であり、当て字に使用される。黒川最上流(柏崎市)小黒須こぐろす(地元では、をぐろす)これは、『倭名抄(高山寺本)』にある山城国宇治郡小栗郷の読みが“乎久流須”とあり、これと同系でしょう。また、新津市大字栗宮(古老は、“くるみや” と言う)もあり、栗栖(くるす)と称される部族の住んでいたところ由来と考えたい。“くるすごう”と読むカ。

 となると、残り二つの郷の内、夜麻郷は当然、耶麻地名の見える地域に当ることになろう。東山丘陵の背後に山古志村も有る。文原郷は、渋海川流域に相当。夜麻郷を信濃川右岸に当てた後の消去法的な推定ではあるが。何故、文原ということだが、手がかりなしと思えるところ。そうは言いながら、支配者側から郷名を付けると際、そこに多く住む人々の呼称で付けている場合が多いので、その観点からすると、倭文=しとり(しつおりの転訛)から来ているのではないか。文と原は、通常の日本語にならない、結びつきにくい言葉である。『拾芥抄』の人名録の項に波/ 原 腹 とある。ここにこのような解説があるということは、例えば、栗原(姓)は、栗栖の人々、その同族の意味を持つのではないか。それと同じように、文原は、文の腹、文は、倭文の略と考えると、文原は、倭文原=倭文腹、倭文は倭人族の意味でもあるので、文原は倭人族を指すと考えたい。更にこの地域は、苧麻や和紙の産地で倭人文化の濃厚な場所であることも、そのように考える理由である。文原郷はシトリゴウと読むカ。

 

そのK

 康平図「名古浦」 上越市直江津地区海岸に小字名で現存している。(図)

平安天喜年間(1053〜1058)の資料でもある『倭歌初学抄』(仁安元年1166迄に成立)に見える歌の名所として、

 「橋 越後 なごのつぎはし」(『県資料編二巻』209頁)が見え、名古浦に係わるものであろう。また、中世延徳三年(1491)で、府中(府中は直江津)

から柏崎にいたる記事に、「府中境 アフゲン河舟橋渡、次クロイ濱つたい地」(冷泉為広『越後下向日記』、『かみくひむし六十九号』掲載)とみえ、つぎはしから舟橋になったことがわかる(継橋は筏を繋いだものカ)。なのに、通説ではなごのつぎはしが、越中国奈呉江、奈呉海のところと考えられている。確かに、万葉歌では、越中国の奈呉江であるし、『夫木集9443』の読人不知の序に、「天喜元年8月(越中の守 源)頼家朝臣家歌合 名古の続橋」とあり、なごのつぎはしは、奈呉の継橋であって、現在の新湊市放生浦、放生潟辺りの事としている。が、疑問が多い。その理由は、

一、万葉歌に奈呉の継橋が出てこない。

二、入江・干潟・沖に海が見える、そんな地に継橋を設ける必要などがあるか不審。

  直江津の名古浦の位置なら砂丘への渡しとして継橋は自然である。

三、万葉歌越中国のなごの表記としては、奈呉の表記しか見えない。この奈呉は姓名の読みで、なきの読みがある。中国の呉国王は古代周朝の王系で、姫姓(きせい)であることから、奈呉は名姫、即ち、名前は姫(き)と言う意味である。奈呉江、奈呉海は和き海(なきうみ)、凪き海に通じる。むしろ、奈呉を、なきと読んだ方が当地の地勢に合う。このような歌があります。

 東風 伊多久布久良之 奈呉乃安麻能 都利須流乎夫祢 許芸可久流見由

 あいのかぜ いたくふくらし ○○の海人の 釣りする小舟 こぎかくるみゆ(『万葉集巻17、4041番』

東風をあいの風と意訳している。あづまかぜと読むより現地の俗にかなった読みである。越中のなごが、名古、那古、名子、奈呉等、色々な表記であれば、“なき”の読みは無い。奈呉の表記しか見えないので、「なき」、の読みしかないかもしれない。

“なごのつぎはし”は、むしろ、直江津名古浦が第一候補である。

 

そのL

 康平図頸城郡に「美守」地名が見える。今の吉川町辺りでしょうか。この辺りは『倭名抄』古代頸城郡夷守郷に推定されている域内です。

別に美守地名が同じ頸城郡新井市に現存する。関川と渋江川に挟まれた平坦地美守(ひだのもり、戦国期は比田森村)近隣地に飛田(ひだ)村(江戸期〜明治22年)、斐太神社(新井市宮内)もある。図の「美守」も、ひだ(の)もり、古代は清音なので、ひた(の)もりと読むと考えられるのです。ところが、夷守郷は、ひなもりの読みが付いていますので、このズレをどう考えるかが問題です。参考となる資料があります。常陸国の表記変遷です。古い方から

 

日高(ひた)国          常陸国信太郡 この地、本(もと)日高見(ひた神)国

日高見国                信太郡は筑波郡・茨城郡から七百戸を割いて郡とした(『常陸国風土記』)とあるが、言い換えれば日高見国を筑波・茨城二郡に含めた、そしてそこから分割で建てられた信太郡は、常陸の中心部である。

                        九州の比多国造{『旧事記』=豊後国日高(訓比多)郡、『倭名抄』=今日の福岡県日田市を含む地域}

 

 夷道(ひたち)         東夷中 有 日高見国。 其国人男女椎結文身為人勇悍 是総曰蝦夷。

                        (『日本書紀』景行天皇27年条)

                        夷(つね)は常(つね)に通じる字

                        夷道(ひたち)の実例は未だ見ないが、考える際の補助線として記してみた。

 

常道(ひたち)          常道の仲国造『古事記』

                        常道頭(ひたちのかみ) 『続日本紀』宝亀八年八月条、飛鳥朝時大伴吹負が任官(天武天皇の時)

                        道(みち)と陸(みち)は通ずる字

 

常陸(ひたち)          @常陸国、『日本書紀』持統元年687年に見える

                        A養老四年720年日本紀を修す(『続日本紀』)

                        B『常陸国風土記』和銅五年712年、『古事記』成立の後、和銅六年713年の詔に応じて製作提出されたもので、『日本書紀』の編集に利用されたことは確実だろう。

C常陸、『続日本紀』霊亀二年716年5月条に見える

 

 通説では「常陸は陸奥に向かう直道(ひたみち)から」であるけれども、常(ひた)には、直(ひた)の意味は無い。また、日高(ひた)と直(ひた)と通じるものも無い。常陸が何故、ひたちと読むかについては、北隣の陸奥(みちのく)を持ち出さなくとも、その中心部が、旧ひた(神)の地で在ったことからと理解する方が自然だろう。

 夷守(ひたもり)は美守(ひたもり)の事。夷の字を好字としての、美字に替えた意味だからとの説は支持したい。夷(ひな)と読むのは鄙(ひな)から来ている。純然たる中華思想の夷(い)に倭訓など始めは無い。辺鄙な地に住む文化文明の低い野蛮な人々を言うことから夷(ひな)と言う読みが生じたもの。夷守は通常、ひなもりと読むところでしょう。越後に美守(=夷守)ひたもりが伝承されているのは、常陸国と同じ「ひた」と呼ばれる人々がいたということでしょうか?

『大彦撰古図』付記に蝦夷(かい、えみし、後にえびす。毛人は別系ヵ、参考、隋書に「山外毛人国」と有る)が住んでいた伝承が記されていますので、驚くことはありません。

 夷守(ひなもり、ひたもり)は夷を支配管理する官人の所在地から付いた名称で、国境守備要員として東国から西国に配置された防人とは異なります。『魏志倭人伝』に、対海国・一大国・奴国・不弥国の四ヶ国の副官に「卑奴母離」の名が見え、通説では、後代の夷守(ひなもり)の事とされていますが、奴は「ぬ」音から後に「の」音に変わっていますので、この官名は、当初ひぬもり、後にひのもり即ち日の守か火の守を意味すると考えるべきです。

 

 

追加稿  平成16年5月8日

第五章

復元図(康平図)の解説

 

@作業の土台

(第三章、偽図論とその反論そのEに前出)かやね復元図に当研究会の調べを加えて作成。

近年発表された「奈良平安時代の古地理と重要遺跡(2003,9月版)」『渟足柵探求の4ヵ年』9pを見ますと、甲、亀田砂丘以南横越町、乙、大河津分水以北、加茂川以西、東島以南、西川以東の広い範囲で陸地化している表示となっています。これが正しければ、康平図の広い内水面は誤りなのか、どうもそうではないようです。次の資料があります。

 (イ)平安後期〜鎌倉期に遺跡の断絶があり、南北朝期から再開している。(『横越町史』)

 (ロ)「平安後期から鎌倉期にかけて遺跡、遺物の発見がない。ボーリング調査にもこの期間に担当するシルト質粘土の堆積があることから湖沼化し人の居住ができない状態だったと考えられる。」(『燕市史』)

 偶然でしょうか、甲域、乙域両方に同じ様な事が起こっています。平安海進なのか、越後平野に起こった地盤沈下か、砂丘が伸びた事による排水条件悪化による水面上昇なのか不明です。今後の探求を待ちたいところです。

いづれにしても、これらは(イ)、(ロ)は康平図も正しく当時を反映している証と思われます。

 

Aかやね復元図と異なる箇所

 (イ)岩船郡荒川流域も表示した(説明は第四章その@前出)

 (ロ)(紫雲寺潟)当時塩津潟の形等

康平図(大平図)は、楕円形で長軸は砂丘列と平行していないように描かれ、寛治図(天保七年写)は楕円形で長軸が砂丘とほぼ平行しているように描かれている。両図とも潟からの水の出口が無い様に描かれている。これを受け、かやね復元図は楕円形にしているが、九世紀半ば塩津潟が大地変動でできた以前から砂丘列後背湿地はあったようなので砂丘列を弦とする半月形とした。また、後背湿地は太伊乃川(胎内川)と合流していたことが推測される。

 (ハ)加治川の河口の位置

 かやね復元図では新発田市の中心部の北を廻って新砂丘T-2列(法華鳥屋〜上黒山)に沿って南下、砂山(地名)の西で当時の東潟(福島潟)で河口となっている。ところが、

(a) 『渟足柵探求の4ヵ年』6pに報告されているボーリング調査の結果によると、「加治川本流が福島潟に流入した形跡はない」との事、(当然これを取り入れなければならない。)

(b)康平図(大平図)を見ると確かに加治川河口左岸は三崎(地名)となっており、砂山(地名)はもっと内陸部に位置している。

(c)正保図での佐々木川と記される、ほぼ現在の太田川、この川は地元の伝承では旧加治川本流であった様で旧河道も確認できるという。(『新発田市史』)この太田川は、当初、佐々木(地名)辺から新砂丘T-2〜4(3列)、U-1〜4(4列)を、西〜南〜西〜南へと階段状に流れながら抜け下大谷内の北で内水面に注いでいた。戦国期この旧加治川本流は佐々木を抜け、新砂丘Tと新砂丘Uの間の島見前潟に注いでいた。溝口氏入部後、加治川本流の新発田城築城、城下町形成の為変更工事で五十公野丘の東側から姫田川と合流道賀、真野、聖籠山の西低地、藤寄の西から島見前潟に注ぐようにした。

以上の事などから、当時の河口を木崎の南に抜ける流路とした。

 (ニ)榎木島の位置と大きさ

 江戸時代の民間発行の越後の国絵図に山ノ下の北、新砂丘V列の北西部に榎木島の名がある。そこは、神社が座す小砂山になっており、大山、物見山と別の砂丘である。このことによって、榎木島の位置を決めた。また、島の大きさは乗足島と比較しても大きく描かれているので、それなりに表示した。

 (ホ)新津辺の地形

 最近までの発掘成果によると、新津市山谷から小合地区に続く鳥跡状微高地に平安時代の遺物が出ている事と、康平図にも小戸地名(この微高地の先)が見える事、大平図や深才図を写す時点で、この地名が追記されるのは考えにくい事から岬状に突き出した形とした。鳥跡状微高地の北側に湖沼があったようで、康平図では大沼、江戸期新津郷絵図では大潟が記されている。

 (ヘ)鳥屋野の位置

 大河の河口部は変遷が激しく復元が困難な所。『越後風土考』は、大津波が幻の半島すなわち日置半島(仮称-後段で説明)、榎木島その他小島々を消滅させた上に、乗足島の東南域に泥砂流入と記す。江戸時代、合子ヶ作(中洲)の大きさ、康平図の位置などからして現在の鳥屋野(地名)から合子ヶ作の一部を含む形で描いてみた。ここは、議論のあるところだろう。

 (ト)五十嵐浜〜青山の砂丘塊辺の形

 康平図で記された地名のうち、鳥原(後世の追書でないとすると)が今の黒鳥地名に対応する以外、対応するものが無い。砂丘の地勢は、ほぼ棒状に伸びているのに康平図の山見、鳥原、須濱の部分は膨らんだ形で描かれている。山見(地名)は古代に多い高見、国見、島見等の見張り場の役目を負った地名と同類で無いだろうか。とすると、官衙の的場・緒立遺跡に近い所にある地名と見る事が出来るかもしれない。鳥原(地名)も大平図や深才図を写す際に追記される可能性は少ないと見たい。それで黒崎地区も含めて描いた。

 (チ)幻の半島(日置半島=仮称)を描いた

 かやね復元図ではこの部分を今の新潟砂丘(赤塚〜青山)部分と見てほぼ90度回転させて描いています。当研究会としては、ウルム氷期の最海退汀線の海底図の範囲を限度として佐渡に向かって突き出している形は大方そのとおりと受け止め表示した。以下にその理由を述べる。

(a)()生田(ふた)(地名)は、第四章そのEで述べている如く現在の青山、関屋分水辺にあったとする事になんら不都合が無い。かやね復元図では、船江、須濱、土生田、山見、鳥原の小半島部を越後曽根から升潟方面に延びている自然堤防に充てているが、地名、地形、面積いづれも対応しないこと。

(b)幻の半島(35km〜40km)は、新潟砂丘(赤塚〜青山が15km)とは、地名、地形、面積いづれも対応しないこと。

(c)をりと浜(地名)は、現在の四ツ郷屋浜の江戸時代以前からの呼称で、現在も地元では使っている。大字四ツ郷屋の西部に小字岩山が在る。これは砂山の下に岩山が隠れている事を窺わせる。おそらく、弥彦・角田山塊から続く尾根筋がありそこを通って高度を下げながら沖へ向かっているものと思われる。しかもおそらく佐渡海盆の等深線を同じようなカーブをたどるのではないだろうか。

(d)角田浜に庄屋も勤めた大越姓の旧家が在る。いつから住み着いたか分からない、古い古いという伝承をもっている家である。康平図大越地名(海没地)と隣り合わせは、単なる偶然であろうか。

この様に、幻の半島(日置半島)の存在そのものを伝える情報は康平図以外全く無いのだが、幻の半島にみえる地名の、大越、をりと浜、飛山(第四章そのB前出)等、実在したからこその在りうるだろうその由来を知った今、空想されたものとは思えないでしょう。

付け足しですが、幻の半島を日置半島と仮称したいのは、(1)『倭名抄』蒲原郡五郷筆頭に日置、次に桜井、次に勇礼、青海、小伏とある事、(2)大平図に日山の地名がある事、(3)角田山頂上平坦部、長者原地名、その北東斜面に火の沢地名があって、置氏すなわち燠氏がそこに拠ったと思える事、等から、巻町から北の半島部を日置郷と考えるからです。新津周辺を日置郷に充てている人が多いのですが、それよりは、無理が無く思えます。(後の課題として、日置について論じます。)

 

B幻の半島はどのように形成されたのか

 (ア)半島の地質

(a)『越後風俗考』及び『越後風土考』共に寛治六年(9月)に大津波により大方没しその後の波浪で消滅したと伝えている。又康平図半島部に砂山(地名)長濱(地名)も有る事から砂層半島を考えたい。

日本中央史中、災害史上、寛治六年九月の大津波どころか地震の記録も無い。越後国内の伝承だけのようである。『扶桑略記』は寛治六年八月、伊勢神宮の台風被害を伝えていて、偽作論者はこの記事をタネに大津波を空想したのが居て、康平図等を偽作したというが、当研究会からすれば、ありもしない江戸後期の偽作を空想しているのは、偽作論者の方である。寛文年間、関矢凌雲が古絵図を見ながら「北見島、沖見島、榎木島、大越西北方、西南孤島共十数万頃(面積の単位?)の地打壊し…」と記す以上、康平図は既に出現していると言わざるを得ない。古い天保七年写の寛治図を見ても、北見島、沖見島など描かれていない。

(b)現在の海底の状況を見てみよう。海上保安庁水路部の海図(5万分の1)をみると一目、角田浜沖から以北の海岸線沖の大陸棚が急に広くなっている。特に、角田浜沖〜五十嵐浜沖で、−130m線〜−70m線の部分が舌状に浅くなっている。“有明の海”と呼ばれている所以(ゆえん)である。

 砂半島の土台があるんですね。

  (イ)砂丘形成の進行過程

(a)砂丘形成の限界−砂丘の形成には海進期の沈殿、その後の海退期の風による堆積が大きな役割を担っているようです。最後の氷河期、ウルム期に最も低くなった海水準を−130m(かやね説)と考える。そこまで下がっても、砂丘が断崖状に形成されるわけではない。それで、海が上昇してなお、頭を出している砂丘半島は、−120m線以内と考える。

(b)大地溝帯の存在−もう一つこの地域特有の条件が有り、それは信濃川大構造帯の沈降である。地質学系の資料から、巻町、赤塚、内野上新町そして沖に抜ける大地溝帯の西縁が予想される。東縁は榎木島の西を通っているだろう。年4mmの沈下、千年で4m、1万年で40m、海が130mまで下がるまでには数万年かかっており、その間には、今は砂丘のある四ツ郷屋の東境以東は信濃川になっている。

(c)この様に(a)(b)が有るという前提で、砂丘半島の直接の土台となったのは、Aの(チ)の(c)で触れたように舌状の浅海の西半分、角田浜から四ツ郷屋(をりと浜)間の沖への突き出しで、角田山塊からの尾根筋の上に砂が堆積し、幻の半島の骨格を成したと思われる。

(d)では、どのくらいの高さに成長したのだろうか。現在の海底の下り勾配は(四ツ郷屋浜から−130m線の先端部推定地、距離にして35〜40km)約1m/300mで、人が立って歩いたらほとんど平らの感じである。康平図(大平図)の地名、おおよその位置を、また山地名は最低10mの高さ、砂山地名は一番大きく描かれているので最高に、大越のそれは次の高さとして高さを仮定してみる。

 

 

大越

砂山

日山

飛山

大浦

130m地点

現海岸からの距離

5km

20km

30km

35km

38km

40km

海の深さ

15m

65m

100m

110m

120m

130m

海水準が±0時の砂丘の高さ

30m

40m

30m

20m

5m

3m

縄文海進時海水準+7m

23m

33m

23m

13m

2m

4m

再度海水準±0時の砂丘の高さ

30m

40m

30m

20m

3m

0m

砂丘の成長高

45m

105m

130m

130m

125m

133m

 

 

 

 

 

 

 

 

この仮定に依れば砂丘の成長は、今から一万年前、すなわち最後の氷河期が終わり海面上昇が始まる時点までに130m前後半島の先端部は成長した事になる。また、佐渡海盆の進行からすると角田山から延びる尾根筋の急激な沈下はたまにはあるかもしれない。古砂丘(1万年前までに成長した砂丘の事)の成長例を見ると、刈羽村寺尾で標高120mものがある。可能性は、有るであろう。海と大河に挟まれた半島部の先という条件で、この様な成長が本当に有りうるのか。専門家の研究を待ちたい。

(ウ)幻の半島の描写〜康平図と寛治図の違い

 

現海岸からの距離

5km

10km

15km

20km

25km

30km

35km

康平図(大平図)

大越(30m)

 

 

砂山(40m)

小山有り

日山(30m)

飛山(20m)

寛治図(天保七年写図)

 

砂山(40m)

 

 

飛山(30m)

 

 

 

描かれている半島の長さと山の位置を仮定してみた。この違いに関連して次のような、面白い絵がありました。

 県内某家に、某掛け軸が残されています。御当主のお話では、弥彦神社の縁起絵を氏子の縁にて明治36年御曾祖父が、絵師を帯同し写してきたものとの事。絵は正に、野積に上陸し製塩と漁業を指導した弥彦神が描かれているのですが、その背景(北方)に幻の半島の一部が見えています。弥彦神社の元絵は残念ながら明治45年の大火で消失した模様(当研究会で、念の為問い合わせしましたが、ご返事はありませんでした)。ところが、康平図の復元からイメージされる半島の山並みとこの掛け軸絵の山並みは少し違うのです。

そう言えば、弥彦神社は江戸後期寛治図の出所の一つ、しかも鎌倉中期岩室村天神山に、小国氏進出、まもなくその一族から神官を出しています。となると、弥彦神社の寛治図は、小国氏より入手したものと察せられます。この寛治図と、この掛け軸には何か関係が無いでしょうか。天保七年写図を復元しようとして見ました。そこで気付く事は、半島の突き出しが短く、山並みは砂山と飛山の二つだけです。野積から北方を見たときに見える山並みをイメージすると、半島の山並みは、掛け軸絵に近いと思われます。この事を踏まえると、掛け軸絵の元絵を弥彦神社が作成した経過は次のようなものではないでしょうか。 弥彦神社はこの寛治図を入手した頃は、まだ幻の半島の口碑は残っていた時期(寛治六年から二百年後)で、その事に確信を持ちさっそく、半島がまだ存在した時代の弥彦神社縁起絵として作成させ、野積浜から見える北の海に浮かぶ半島を寛治図からイメージして描いたのでしょう。当時の氏子や一般民衆も半島消滅の伝承を承知していたので、縁起絵を受け入れ、明治期まで残ったのではないでしょうか。江戸前期に弥彦神社縁起が書き変えられているため、掛け軸にもその時点で、書き変えが生じた可能性があります。

 半島の実際の山並みは伝えていませんが、この推定どおりであれば、掛け軸絵は「半島の存在、及び消滅を伝える口碑」の形を変えたものと考えられます。

 

 

追加稿平成16年6月19日

第六章

「康平図復元図を延喜式の時代に逆上らせた図」の解説

 

1節 作成の動機

平安時代の越後国佐渡国について文献資料は多くないがほぼ同時代の成立の『延喜式』、『倭名抄』が有りますので、この時代に対応し康平図を逆上らせた図があると便利です。延喜年間から康平年間迄の約130年間に変化した点を考慮して作成しました。

 

2節 復元図(康平図)と違う箇所

(ア)赤塚〜内野辺り

a)『新潟市史』に依りますと、赤塚地区の新砂丘T列先端大藪遺跡等の本格的な製塩遺跡が十世紀半ばで絶えたと記しており調度延喜式時代の少し後です。そういえば、以前

国際情報大学赤塚校の建築現場の人から「地下に塩気のある層が有って手間取った」と聞いた事があります。ということは、今の地形では考えにくいのですが、赤塚集落の近く迄入海が十世紀半ば迄存在したという事に成ります。

『渟足柵探求の4ヵ年』7頁でも製塩遺跡の分布に触れ、赤塚に最も近い海岸部から海水を運んだとする事に疑問を呈していましたが、もっともな事です。

b)としますと、以下の事柄が浮かび上がってきます。

 (1)外海につながる開口部から赤塚への湾入部は背後の西蒲原低湿地帯の淡水の影響が無い状態であった事になります。西川の自然堤防が連なり壁の役割を果たしたと考えるのが最有力でしょうか。

 (2)外海への開口部は、古き西川の開口部ではないか。河口の移動というのは砂丘が毎年数m東に伸びその分河口が東に移動するのでなく新しい例で言えば関屋の地、水道町、旭町辺りから北東方向に海に出ていたのが、今の東中通り以東に飛びました。関屋、旭町以前は関屋分水路に出ていたと推測できます。康平図時点迄逆上ったわけですが、更に逆上った時点で西川の出口はどこか。阿賀野川ほど水流は強くありませんから、一度塞がれたら突破できません。十世紀半ばまでそこが河口であったならば、新砂丘T、Uの形成期もそこは閉じられる事は無かった所と考えてよいのではないか。そうしますと、その様な候補地は唯一ヶ所、五十嵐中島、内野上新町です。ここの一番海側、新砂丘V-2(市史によれば、室町期には形成されていた)は、15〜20m近くなっている所ですが壁に例えて言えばこの地域が一番薄いところです。

 (3)湾入部奥、御手洗潟近くには延喜式に見える船江神社だとの伝承のある神明社の存在、そして十世紀半ばに製塩遺跡が絶えた即ち海水の流入がふさがれた事、そして康平図に見える船江地名即ち現在の内野新川河口辺りに位置しているらしい事、終いには江戸時代以降、新潟古町神明宮としての船江神社の存在等、流れ、移り変わりを見るとき、延喜式船江神社は赤塚地区にあった。船江湊もそこであったと考えたいところです。

(イ)佐渡海峡及び佐渡国について

 a)康平図等は越後国図の為、佐渡国全体も含めた描かれ方はしていないので、これ等からは古い時代の佐渡図の姿が如何様だったかは残念ながらわからない、唯、康平図Tタイプ及び某寛治図だけに佐渡国迄の距離が記入されている事が最近わかった。

 b)けれども幻の半島や榎木島がかつてあった様に佐渡国も −130m〜 −120mの等深線を限度とした、今と異なる海岸線地形だった可能性がある。その事を窺がわせるものが、大彦撰古図とも称される『越佐古図』で「永祚元年八月十三日以前」の添書きもある様だ。海上保安庁水路部作成の海底図と比較するとこの図に描かれている佐渡国の形は−80mや−100m線で囲まれた形に似ている。

 しかも、この越佐古図が『日本書紀』欽明朝五年十二月の条「越国言す…」にて記される「佐渡島北御名部碕岸」地名や「瀬波河浦」地名(磐舟郡)と関係ありそうです。佐渡が実際の位置より北側に描かれ、磐舟郡と親しげに向かい合わせになっています。現存の通称として佐渡外海府・内海府や岩船郡海府地区があり、佐渡と岩船郡とのつながりの深さが想起される所です。また、小佐渡の山に「北御名部山」と記しています。(御名部山の可能性もあります。)どうもこれは康平図よりも古い資料らしく思われます。よって延喜式時代の佐渡国の地形の復元の資料としたいところです。(この越佐古図の越後国側の復元はあとにします。)

 c)ここで疑問を解いておかなければなりません。本州側の古代海岸線は、−130m〜−120m線を採用しておきながら、何故佐渡国側は、−100m〜−80m線の海岸なのかの訳です。

 これは、佐渡国側が、絶えず上昇傾向にある事で説明が付きます。あちこちに海岸段丘があるのです。ただし部分的に下がる所もあります。畑野町松ヶ崎縄文中期の遺跡が海抜前後の所から出ます。沈降が千年で4mなら上昇も千年で4m、約1万年前、−130m〜−120mのところが約9千年経過で、−100m〜−80mのところに位置するのは推定域内です。

 d)『越佐古図』を古い資料とするもう一つの理由は、佐渡ワタリシマの存在です。本州越後国の歪みが大きくその位置がはっきりしないように見えるのですが、それはどこなのでしょうか。

 海上保安庁海底図との比較、「フタツグリ」(直江津沖)の位置から柏崎沖〜佐渡小木線上にある島状の浅い所が第一候補と言えるでしょう。

 e)佐渡国と越後国の距離

 (1)佐渡国が十世紀迄はこの様な地形大きさだったとすると、幻の半島(日置半島)とは、かなり接近する所が出現します。これを裏付ける記事もまたあるのです。県内某所に飾られている某寛治図に以下の如くです。

 甲、(半島の先端)大浦から佐渡国迄三千百八十間。(注)一間=一歩=約1.8m、 

 別に、

 乙、大浦から佐渡国迄 三丁也。但し百八十間。(康平図T−1) (注) 江戸期から一丁=60間で、古代中世の距離の単位は、一里=六丁=三百歩

 もありますが、これは、甲の情報が正しいと思われます。次の様な経過と推測しています。

         康平図には、佐渡国は描かれていないし、佐渡国との距離の情報は無かった。

        後、別資料より甲情報を発見した人が康平図に書き込みした。

        和紙の折り畳みで「千」の字が読みにくくなった。しかも、時が過ぎて実際の内容に関しての伝承も途絶えた。

        そして、後また写し作業の際、佐渡国迄目と鼻の先の様子に一部分の海岸線が近くに描かれている。「丁」の字と解せば、

        すぐあとの百八十間の語ともつながって意味が通じると考えた。

        「三丁百八十間」としてみると、三丁プラス百八十間の意味ではないから更に「三丁也。但し百八十間」と解説迄付いた。

         乙情報が原情報と仮定してみましょう。「三丁」のみ、又は「百八十間」のみの表記と比べると不自然でありますし、

        「三丁也。但し百八十間」の下線部分が読みにくくなったからと言って甲の「三千百八十間」と書く人はいないでしょう。

        以上のような事ではないでしょうか。

 (2)三千百八十間は現在の単位で約6kmです。復元図で浮かび上がった最接近箇所の距離はこれより少し大きく約8kmになっています。元々緻密な情報でもない康平図を元に推定仮説を積み上げての作図ですから、一致する事はありえないのですが、かなり近い数値ですね。

 (3)大正期発行の『越後古代史の研究』付図の寛治図には、なぜか江戸期の佐渡国が描かれています(天保七年写の寛治図には佐渡国などどこにもありません)幻の半島が佐渡松ヶ崎に向かって突き出した位置関係に描かれています。江戸期寛治図が出回った頃、甲情報を知らない郷土史家が半島の突き出しを佐渡との距離の半分くらいと見当をつけて作成した復元図でしょう。海底図も無い、甲情報も無い、現に海原しかない、その様な状況の中で、半島がかつてあったとして想像してもせいぜいこの程度のものでしょう。甲情報が誰かの思いつきや偽りで言える数字ではない証と思えるのですが。

 

 

追加稿 平成16年9月4日

3節  康平復元図延喜式時代からの古代情報

@北陸道佐渡国府への行程

(ア)越後国三嶋駅      柏崎市枇杷島辺り佐渡への渡海地、以下の理由で比定しました。

                        a. 三嶋郡三嶋郷、三嶋駅から海上輸送に長けた三島氏の存在を想起させる。(『風土記逸文』によると三島氏は百済から渡ってきた海人族)

                        現に二田神社神官三島氏は古くに九州遠賀川流域から移住してきたとの伝承を持っている旧家です。

                        b.枇杷島は、牛の放牧をした川中島由来(牛の古語がビワとする本間雅彦説)。駅を設定した当時は、鵜川の下流が深い入り江として残り佐渡への渡海地、船溜りとして、良い環境でなかったでしょうか。東隣の鯖石川が平野部に開く所の「安田辺に古き称として深江の里の伝承あり」(温故の栞)海退期に深い谷が刻まれ海水準が現在の様になってすぐに埋らず細く深い入り江になっていた事を伝えている。その事情は鵜川も同じである。

                        c.佐渡ワタリシマの存在。中継地、避難地として利用できた。

                        d.対馬海流は小木半島の西岸から柏崎に向かっており、柏崎沖で北向きに更に北西に変え松ヶ崎、水津方面に向かう。この海流を利用し、佐渡側から本土側へは非常に楽に来る事が出来る。三嶋駅から佐渡に向かう場合は東回り航路を通って小木に向かっていったと推定される。少し時代は下るが、次の様な資料があります。

                        『管窺武鑑』を『大日本地名辞書』(吉田東伍)が引用して、以下

                        藤田能登守       佐渡に向かう

                        天正12年6月23日   石地より払暁に船押出し     (天正12年は1584年、払暁は夜明、この時期は朝4時頃)

                                    佐渡荻野澗 夕方申刻到着    (午後4時)

                        海上東路八十里                                 (1里6町=約540mで約43km、古代中世の1里)

                        陸より六〜七町遠干潟に船を掛ける        (この頃はまだ、小木、沖合600m前後、瀬が存った証)

                        三嶋駅から小木まで直線で約56kmで、上の例の43kmより遠いが当日内に着ける距離であろう。

                        e.陸路だけならば、西隣佐味駅からの距離、東隣多太駅からの距離からして、鵜川畔より鯨波辺りのどこかでも良いと思われるが佐渡への渡海地の要素も加わるので箕輪遺跡辺の郡家(三宅史御所や小池御所もこの区域内であろう)から遠くなっては、駅家村も不便であろうし鵜川畔が第一候補である。鵜川を挟み枇杷島の対岸剣野、大久保辺りも有力候補である。今後の発掘成果を期待したい。

                        f.この行程をとる事で佐渡国内の駅比定に無理がない。

                        g.面白い民話があります。『石地の羅石明神、岩の架け橋』民俗学研究誌『高志路』第一巻4号(中野城水筆)

                         越後と佐渡の往来を便利にしようと神様達が夜中に働き砂利、岩を運び佐渡へ向かって夜毎伸びていく橋を喜んでいた。一族の中の天邪鬼、毎晩の仕事に嫌気を差し鳥の鳴き声を発したら早く引き上げられると思い、ある晩途中で鳥の鳴くまねをした。神様達は夜が明けたかと引き上げてしまった。それから神様達は二度と来てくれず架け橋もそのままとなった。石地海岸の沖の岩場はその跡である。

                         この話は、佐渡の小木側も現在の地形より越後よりに飛び出していたし、渡り島もあって、佐渡への身近な渡航地が石地であった時代の名残、この章で取り上げた復元図ならではの話でなかろうか。現在のような佐渡海峡で島も見えないのでは、話にならないのでないか。

(イ)佐渡国松埼駅      小木町沖合(約3km)おそらくは古羽茂川右岸河口から2km程遡った辺り、今はその地は海没地である。砂丘状地で黒松でも生えていたか。(通説でいう畑野町松ヶ崎でも以前は約2km沖まで砂嘴があったそうである。)以下、ここに比定する理由を挙げる。

                        @松埼駅が小木半島にあったと思われる資料がある。倭名抄(高山寺本)によると、羽茂郡の郷名は記載順からして、八桑(小木半島西)、松前(小木半島東)、大目(西三川椿尾)、菅生・星越・高家(いづれも羽茂川水系域)、水湊(水津や松ヶ崎などいわゆる前浜地区)とあてられる。同じく倭名抄に豊後国国埼郡国前郷の例がある。松前郷と松埼駅は同一の所から発していると考えられるので、松埼駅は小木半島にあったと見ていいのではないか。

                        Aこの小木地名は律令以前に逆上る。燠由来(今の灯台の役目)で重要な寄港地を負っている名だ。

                         a.隠岐国焼火(たきび)権現は、西ノ島(島前地区)にあり隠岐海運の中心象徴である。

                         b.出雲国日御碕神社社家日置氏(出雲国造家に次ぐ古い由緒を持つ、『倭名抄』にある出雲国神門郡日置郷がこの氏族の根拠地)が現存し、この「日置」は古くは置部臣(おきべおん)、置郷(おきのさと)という表記で使われていた。(日御碕は島根半島西端、九州や朝鮮半島新羅国からの船の目印として、昼も夜も重要な場所である)『出雲国風土記』(天平5年=733年成立)原文を以下に見てもらう。

                         甲.出雲郡大領外正八位下 置部臣(出雲郡記述の最後署名の条)

                         乙.置郷者 郡家正東四里 志紀嶋宮御宇天皇御世 置伴部等所遣来宿停而為政之所 故云置郷 (志紀嶋宮御宇天皇は欽明天皇、6世紀半ばの出来事)

                         さらに他に『出雲風土記』中、島根郡美保郷に関して「所造天下大神命娶高志国座神意支(おき)都久辰為命子俾都久辰為命子奴奈宜置波比売命 云々」

                        この「置」とは、即ち、隠岐=燠(隠岐の島の又の名が、(おき)()呂別(ろわけ)、他に人名で、瀛津(おきつ)世襲(よそ)が『先代旧事本紀』に見える。)であって、 時代の古いほうから並べると、燠・息・瀛→置・隠岐→日置→小木・小城・於木・荻・興の推移が考えられる。

                        B畑野町松ヶ崎を松埼駅に比定する論者が多いが、そうするには疑問が多い。以下その理由を述べる。

                        a.松ヶ崎と松埼は、ガ音のあるなしが異なるだけで、これは所属を表す格助詞「の」であるから、同義とみなしてよいだろうというのが、彼等のいう根拠だろう。しかし、かつて江戸時代比較的近い集落で、河渡村松崎と松ヶ崎濱村と別々に存在した事を思い出すと即座に同じとは言えないであろう。また、『地名用語語源辞典』によると「マツカ」には崩落を意味する所がある(岩手県)。松(の木)由来で無い可能性がある。松ヶ崎濱村は海に面してなく阿賀野川畔で新潟市資料編第三巻口絵に松ヶ崎濱村が絵図に見える。それをみると砂丘の端の凹地状の所に家並みが在る。その村が放水路工事の後の洪水で阿賀野川本流として海に抜けた際、村の大部分流され削られた絵図も見える。県の土木部で使用している地質図を見てみると新津丘陵の背斜帯が曲がりながら沢海横越一日市から阿賀野川河口〜阿賀沖油田へと伸びている。この背斜帯は今も隆起傾向が続いている、としている。そうすると、当然付近は影響があるわけで、松ヶ崎濱村の場合マツカ、即ち崩落の意の可能性が高い所といえる。村の由来伝承は無い様なので断定は出来ない。他に県内このマツカ由来と思われるものに中之口村大字松ヶ森がある。弥彦神社資料に、「散在社領事 伊豆井村  御疉免 松森倒失」 とある。平野部の中央なので流失なら洪水であろうが倒失と書いてあることと、疉免が、地震による税免を意味するので、倒壊被害による貢納免除の記事と解される。「松ヶ森は松の木が森のように多く生えていたことから付けられたのでは無いことは確かである」と言う先学者の報告も有る。『畑野町史萬都佐木編』を見ると、いわゆる松ヶ崎の基部としている所の海抜前後の遺跡から縄文中期の物が出土している。当時は縄文海進の時代であり、遺跡は海抜10m以上が本来であり、地盤沈下が発生しているのである。こうして見ると佐渡畑野町松ヶ崎はマツカ崎(崩落地)であって松の木には関係ない地名と見たほうが良さそうである。

                        b. 畑野町松ヶ崎の砂嘴状の浜は「こうの瀬」と呼ばれているが、国府ノ瀬だからこの地が国府につながる松埼駅だという説もある。しかし、こうの瀬はその形状からして鴻ノ瀬(昔はもっと沖迄砂嘴が伸びていたので尚更)と解するのが自然である。うまやの瀬という名が残っているならば松埼駅につながる考えも認められるが、国府の瀬では付会に思える。松ヶ崎から国仲平野畑郷迄直線で約13km有る。小佐渡山脈、小倉峠(約400m高)越えを壁にして松ヶ崎の人々が足元の小さい浜辺の地名を山の向こうの国府と関連付けて呼称するだろうか?この松ヶ崎地域の小字をみても駅家に関わりそうなものは一つも無い。

                        c.松ヶ崎は松埼駅で国津でもあった、という主張もあるがこれも疑問の説である。次の表を見てほしい。

                        延喜式兵部省の資料と大蔵省の資料を一表にした。

                         国名          駅名            公津名

                        越前国          比楽            比楽湊

                        能登国                          加島津          駅路の終点が国府、その先にある公津

                        越中国          曰理            曰理湊

                        越後国                          蒲原津          駅路の支路終点、公津

                       

                        佐渡国                          国津            所在不明

                       

                        一目、駅と公津が併設されている所は、同一地名となっている。佐渡国国仲平野新穂村長畝沖に小字国津田があることからしても、松ヶ崎は国津ではない。米を主たる税として集め、保管、都への輸送を考えたら国仲平野国府川流域が自然であり、下流まで完全に開発されていない当時支流がより多く合流した地点は中流域であって、国津が長畝沖にあってもおかしくは無い

                        d.早馬道(飛駅)としては、高低差大きい山越えの行程は適さない。京都への急使の意義からしてとにかく早く楽に越後国の京都よりの地に着く為には小木半島を発地にするのが最善である。

                        e.松ヶ崎は駅家村、駅家を設定するには土地も狭い。もしここに駅家があったなら、この地としては大きめな遺跡となるが、いまだ発見されていない。

                        f.(何が何でも)北陸道は寺泊→松ヶ崎であって、寺泊側は伊神渡戸駅だと云う人も居る。これはもう理性を失った人の説だ。奈良時代の令制で、郡名、郷名など「好字二文字を取れ」の指示があり、以後これに倣い、延喜式の駅名でも全国何れも二文字であって、北陸道に於いて伊神 馬二疋、渡戸 舟二艘、と明瞭に表記、別々の二駅と解釈する以外に無い。となると、渡戸を寺泊に当てると伊神が浮き上がる。伊神を何とか解釈できる範囲に比定すると渡戸が浮いて来る。第四章その4で触れたように、渡戸は河、川の渡り処であって、渡海の地ではない(水駅の水は川を意味する)。『袖中抄』の記事でも「国分寺尼放光が、済度の難を救済の為渡戸濱に云々」とあり、この済度は河、川の渡りの意であって渡海の意味は無い。この尼放光の活動の範は行基の活動。河に橋を架けた、宿舎を作った、等はあるが、海上航路をどうこうした話は無い。駅路との関係で、寺泊の出番は無い。となれば、松ヶ崎の出番も無いのである。度津神社が松ヶ崎に無くて(かつて在ったという伝承も無い)他所に在るのは、至極当然と言える。

追加稿平成16年12月12日

(ウ)佐渡国三川駅        真野町西三川川の中・下流畔

                        以下の事由でこの辺りに比定しました。

                        @松前郷・松埼駅を小木半島に比定した事からすると当然国仲平野方面の国府、雑太駅との中間域に存在する西三川に着目することになる。

                        Aこの西三川川流域周辺は縄文・弥生時代から人々が住んでいた地域であり、馬草・人・水の支援体制をとり易い地である。

                        B松埼駅→西三川→国仲平野の行程は道の高低差が少なく早馬道に適している。通説のように松ヶ崎→三川→真野町の行程は不自然な迂回だ(中世の日蓮・世阿弥の時のように、松ヶ崎→小倉峠→国仲平野の行程が自然である)

                        C駅制の前身飛駅制(即ち早馬制)の資料を検討しましょう。

                        (a)752年天平勝宝四年、佐渡国、越後国より分割し復た置く。『続日本紀』

                        (b)同上11月 佐渡国 始守従五位下生江臣知麿『伊呂波字類抄』

                        (c)758年天平宝字二年9月28日 始頒越前(加賀国も含めた時期)・越中(天平宝字元年能登国を分国)・佐渡・出雲・石見・伊予等六国 飛駅鈴国一口『続日本紀』

                        (a)(b)(c)から当時はまだ越後国の駅路整備が完成しておらず、佐渡国→越中国→平城京の急使体制で始まっていることがわかる。

                        この見方は三嶋駅を裏付ける箕輪遺跡木簡、大家駅を裏付ける墨書土器片がいずれも8世紀末から、九世紀前半に推定されていることと整合します。

                         この早馬制で佐渡国から越中国へ向かうとなると佐渡国のどこから渡海しようとしたでしょうか。最短はやはり小木半島からでしょう。鈴が配布されているので小木半島の渡海駅までの途中駅が在ったと思われます。対馬海流を利用して柏崎まで近づき,沿岸航路を取ったのではないか。当時の航海能力を考える上で次の資料があります。

                        『古律書残篇』(古典保存会覆製本)715年〜739年の頃の内容と推定

                        佐渡国 郡三、郷十三、里三十八、去京行程三日、海道廿日、掾、目、六位以下也。

                         この資料からすると、京(平城)から若狭国小浜か越前国敦賀まで陸路、そこから沿岸航路廿日で当時の佐渡国郡家最寄の港津に至ったものと思う。

                         越後国の駅が整備され佐渡国の飛駅制は駅制に継承されていったのではないか

(エ)佐渡国雑太駅        後の課題

                        @雑太駅は郡家(後の国府)に隣接併置か。

                        A郡家、駅家は波多郷にあったか。

                        この2つが調べの中から浮かんできたのだが、きちんとした論稿にいたらず。

                       

                       

全章の結び             平成17年5月28日                                                                    4   5

 

康平図に係わる今迄に残された記録を出来るだけ拾ったつもりです。ここ迄読んで新しい視界を得てもらえたら幸いです。まだまだ私たちが見つけていない古代情報がこの地図にあると思います。これからも調査研究を続けいづれ報告したいと思います。調べることは楽しいですね。貴方も調べてみませんか。

 

 

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