一章 そして、再び
一場 初夏
温かい風を帯びた空気が、肌にまとわりついてくる。それにのって、時折人の声が遠くから聞こえる。
人気のない白昼の廊下を、足取りのおぼつかない白衣がふらふらと進んでいた。両手は視界を遮るほどに積み上がった書類で塞がっている。それでもよろめくまでの重量ではないのにその人がしきりに体勢を崩しているのは、足元を見るに疲労の蓄積が原因のようだった。
目的の部屋の前に辿りつくと、軍師は残っているだけの力を振り絞って肩からドアに体当たりを仕掛けた。しばしの間を置いて、キイッと幽霊館の扉のような音を立ててゆらりとドアが開かれる。内側からドアを開いた人物は、倒れるようにして中へなだれ込んできた者の腕の中身を目にするとうんざりと空を仰いだ。
「また新手か? 出しても出してもお前が手ぶらで帰ってこないぞ」
「俺だってもう半死半生だっての」
シン・グライアは嗄れた声で答えながら、山のような紙の束を大きな息とともに執務机に落とした。少し視線をずらせば、机の真ん中を占領して沈没している金茶頭が穏やかな寝息に合わせてふわふわと揺れていた。寝癖も真新しい幸せそうな寝顔を見て、シンはくしゃりと泣きそうな顔になる。
「暢気なもんだよなぁ、カイムは。羨ましいぜ、まったく」
「働く奴がいると知っているから調子に乗るんだ」
吐き捨てるようにして、セシル・サンドナリアは目の下の隈をこすりながら再び席についた。砦の少年王を見やる視線は、苦々しげだが憎らしさは込められていない。
シンも苦笑しながら汗ばんだ白衣を脱ぎ捨て、黒衣の団服姿で隣にどっかと腰を下ろした。印鑑を手に取ったセシルの右手の中指が白くなっているのを見つけて、シンは痛々しげに眉を寄せた。
「もしかしてそれ、印鑑だこ?」
副長は苦い顔で頷き、新しく積まれた書類の中から数枚を取り出すと瞬く間に五枚分ほど叩き込んだ。
「今さらたこの一つや二つでやめられるか。こうなったら意地でも今日中にこれ全部片付けてやる」
書類の種類には訴状や報告書諸々だが、その全ては一度情報部に集められ、そこから執務室へと運ばれてくる。どうして苦しませたいのかは個人の性格の問題であろうが、絶妙なタイミングで一気に送り込んでくる情報部長――兼、春に特別館長に腰を落ち着けたユウリ・ゼルヴィアスに、執務室の面々――主にセシルがいいように動かされているのが明らかだった。
口をへの字に引き結んで次の書類を乱雑に引っ掴んだセシルを頬杖をつきながら横目で見ていたシンは、ふと身を乗り出して仏頂面を覗き込んだ。
「……ね。実は、ユウリさんからすんげえ報告書もらったんだわ」
へえ、と生返事をしながら執務に勤しむセシルは聞く気がない。シンはさらににじり寄って、書類とセシルの顔との間に滑り込んだ。
「最優先特務事項なんですけど」
シンの病的な白い頬を真横に押し戻して、セシルは再び印鑑を叩き付けた。聞いてる、と続きを促す声がとても聞いているようには思えず、口を尖らせて少し考えた後に軍師はまた口を開いた。
「砦に繋がるルートが“下”にあるんだと」
ごろん、と重い音を立てて、団長名義の印鑑がセシルの手から零れ落ちた。深い海の色の瞳が、大きく見開かれてシンを見る。言葉を発しようとする唇がかすかにわななき、口角の片側が引きつっていた。
「……何だって」
「言い方を変えましょうかね。砦内を深夜にうろつく部外者がいるって噂だ」
怖いほどの形相でたっぷり数拍はシンを黙って見つめたかと思うと、それからセシルは弾かれたように立ち上がった。まず、横で座礁しているカイムの頬をつねる。肌触りも最高であろうよく伸びるその頬は、肌荒れどころか今までにきび一つ経験したところをシンは見た事がない。
「起きろニムサーバ、一大事だ!」
呼ばわって、セシルは唸りながら嫌がる少年を叩き起こした。寝つきはいいが寝起きは酷いのは周知の事実であるが、幸せから現実に引き戻されてぐずっている様を見て、覚醒を待つセシルの米神にはすぐにも青筋が浮き立ちそうである。
頭をふらふらと動かしながらしばらく目をこすっていたカイムは、背もたれに首を預けた姿勢でぼんやりと目を開けた。辛抱強く待ち続けるセシルとシンを認めると、ふんわりと満足げに笑う。
「おはよう。どうしたんだ?」
「どうしたもこうしたもない。あんたの首が飛びそうだ」
誰よりも信頼を置いている右腕であり竹馬の友が腰に両手を当てて仁王立ちしているのを瞬きしながら見上げ、カイムはだんだんと水色の瞳に意識の光を灯し出した。セシルの言葉を文字通り飲み込むと、両手を首に恐る恐る這わせる。
「……どうしたんだ?」
はっきりとした二度目の問いかけになって、シンはようやく手の中の報告書を差し出した。
白と黒の団服を纏い、どの国にも迎合せず平和を保つことだけを目的として空に砦を構えた、「真珠」の騎士団。それは癒着を何よりも禁忌とし、絶対遵守の秘密と伝説の中だけにある。
エルナドル大陸の民が知るのは、この世界のどこかに空に浮かぶ騎士団砦があるということ、その騎士団が平和のために戦う使命を負っていること、仮に彼らに助けられても、それを覚えおくことはできないということ。
そして最もよく知られているのが、その騎士団が各国のどの直属騎士団にも劣らない精鋭集団であるということ。
ひとたび空の門を潜れば、その瞬間から下界の者の記憶の中で、団員に関するものは全て時間を止めてしまう。仮にある団員が故郷へ帰ったところで、名も知らぬ他人だと思われるのだ。
再び家族を家族とするためには、生きて勤めを終え、団服を脱いで下界へ降りたたなければいけない。何事もなかったかのように迎え入れられたその後は、その団員が砦の記憶を呼び覚ますことは二度とない。砦の中だけで、伝説は守られていく。
空と下界との行き来には、砦にのみ生活する翼を持つ鳥獣が使われる。ゆえに、下界から空へ、団員でない者が登ってくることはできないはずなのだ。
「訴状の差出人はクリス・マテイン・ウィノバリタス、Bクラス在隊……」
真剣な顔でその名前を読み上げてから、カイムは深刻に唸った。
「誰だ?」
「え……カイム、知らねえの?」
シンが驚きに声を裏返らせて聞き返した。顔が浮かばない、とカイムは眉を顰めて肯定する。在任も一年になろうかという頃になってのこの人覚えの悪さにシンは絶句した。
「眼鏡ちゃんじゃねえか。Bクラスリーダーで紅一点。あんなに特徴的な子いねえだろ」
「……ごめん、思い出せない」
説明しながら上げた手をふるふると震わせるシンに、資料と書類を入れた棚をまさぐっていたセシルが平然と付け足した。
「ニムサーバは何度刷り込んでも人の顔と名前は三秒で忘れるよ。何を言おうが無駄だ」
信じられないといった表情でシンは猶も言い募ろうとして、その口を閉ざした。一言の下に切り捨てられると、本当に無駄にしか思えなくなってしまったのだ。
シンにまで無言という方法で同調されたカイムは、決まり悪そうに視線を下へと落とした。口を尖らせ、拗ねたように分厚い絨毯を靴でほじる。
「ただの噂じゃないんだろうな?」
「眼鏡ちゃんはそんなことする子じゃない」
冷たくセシルがつっぱねた。その人を知らずとも必要以上に信頼を寄せているのが分かるその言葉に、カイムは尚も首を傾げている。セシルの知り合いは自分の知り合い、と思っているらしいカイムだったが、その半数を覚え切れていないことが分かっていないようだった。書類を菓子のように摘み上げながら、日に透かして文章の羅列を探る。
「金品の盗難被害、といったよな。被害届は一件だけか?」
「手首に金品を身に付けていた者全て――五百を越えるだろーね」
ごひゃく、とカイムがあんぐりと口を開けた。
「妙だな」
怖いほどの深さで眉間に皺を刻み、机に手をついてセシルが低く呟く。
「それほどの被害が短期間で出るとも思えない。どうして報告が今までなかったんだ?」
カイムの手から書類をさらい、シンはひらひらと振ってみせた。
「それが、詳しいことが書いてないんだよ。こりゃ、直接話をさせろって要求だな」
「確かに、眼鏡ちゃんなら自分の口から伝えようとすると思う」
カイムの忘却の彼方にある「彼女」を思い出してか、セシルは少し口元を緩ませた。目を上げて長年の友人であり副官として仕える上司を見たときに、その目は優しさを微塵も含まずに脅しに近い光を灯らせていたが。
「喚問するだろうな、ニムサーバ?」
自分よりずっと華奢で小柄な少女に凄まれて、カイムはそれを物ともせずににっこり笑った。団内の女性団員を一瞬で虜にする悪戯っぽい微笑みで誰よりも信頼を置く部下を見やる。
「よんでほしい?」
「……まだ寝たいか?」
拳を固めた白い手を慌てて先に取り押さえて、カイムは呆れ顔で傍観するシンを振り返った。
「明日にしよう。シン、その眼鏡ちゃんって人を呼んできてくれ」
「了解」
急なスケジュールの乱れも、日常茶飯事で数ヶ月続けられればもう慣れた。
シンは肩をすくめ、筒状に丸めた書類を手の中でぽんと叩いた。
今年の夏は例年よりずっと涼しくなるであろう、というのが特別館気象予報部の調査結果だったが、ベールの気候は春夏秋冬の変動が激しく梅雨時もある。
それに対して隣国のブラックスピネルはというと、北に土地を構えているために寒冷である。
であるからして、夏と冬の騎士団砦には、毎年故郷との温度や湿度に参ってしまう団員が数々見受けられる。
「あぁ――――っ、づぅううう〜〜〜〜」
米神を伝う汗を団服の肩口でぐいと拭って、Aクラス二期目レイ・グロスラインは本日何度言ったか分からない叫びを今にも溶けそうな顔で吐き出した。
目の前には二列に並んだ頭が四つ。レイはそれを暑さで霞んだ目で必死に追う。足が重い。腕がだるい。何より暑すぎる。頭のてっぺんが熱を吸い込んで、ものすごい温度になっているのがわかる。
「もう何周目だよ!?」
「まだ八周だよ」
涼やかな、少し息を弾ませただけの爽やかな声が答えた。レイの右斜め前からである。
キロス・シャクザルム。レイの同期で騎士団つき鍛冶屋の跡取り息子だ。下界でも一族でベールの王国騎士団の剣鍛冶を手掛けているために、代々国内に住んでいる。
「あと十二周。もしかして、もう疲れた?」
「まっ、まっさかぁ」
虚勢を張ってみたものの、最初は先頭を切っていたレイがどんどん追い越され最後尾についてしまった状態で疲れていないとは誰も信じない。体力には自信のあるレイだが、不慣れな気候にぶち当たったこの夏、連日地獄を見る目になっていた。
それを狙ってか、特に暑さが気になってきた頃から、総監でもある隊長ロイド・ヒナタルが毎日の練習に課す基礎練習は闘技場周り二十周のランニングとなった。ベールの出身である者はもとより、団員生活の長い者でも数年暮らせばこの気候の変動にも慣れるが、まだ入団して一年も経っていないレイにとってはとても辛い。他の同僚もみな砦での生活が長いので、実質かんかんと照りつける太陽にやられているのはレイだけなのだ。
「くっそー、おっさん隊長の鬼ー!」
「聞こえとるぞ、レイ!」
最前列から厳しい声が飛んできた。こちらに到っては息が弾んでもいない。とうとう今期でAクラス六期目という経験の豊富さを日頃は皆でおっさんだとからかってはいるが、その実力は否めようがない。
「一人だけあと五周追加するか!?」
「結、構、です! もう十分!」
やっとのことで怒鳴り返して、レイは酸素を求めて大きく息を吸った。最後列で一人ぜいぜい荒い息を吐いているのを認めて、キロスの隣で黙々と足を動かしていた、均整の取れた身体が振り向いた。明るい表情を崩さずに笑う様が、いつ見ても女のレイが惚れ惚れとするほど美しい。
アイナ・メビウス。一つにまとめた燃ゆるような濃緋の髪に若葉色の瞳、誰もが認める美女も、この騎士団の最高峰に在隊している。レイと同じくAクラス二期目だが、団員生活は五、六年目という話である。
「大丈夫、レイ? あたし隣行こっか?」
「だ、だいじょ、ぶ……んの代わり、何か、気の紛れる話頼むっ!」
「気の紛れる話、ねえ。――あ、あの噂、聞いたことある?」
「どれ?」
うきうきとアイナは自分の仕入れた情報を披露し出した。常に人の群れの中心にいる人であるため、情報網にはただならぬものがある。
「最近ね、毎夜砦をうろつく部外者がいるらしいわよ〜。金品を盗まれた人も、十や二十じゃ済まないんだって。それも決まって、身に付けてたものだけ。これって、隊舎にまで忍び込んでるってことだよね!」
「何や何や、俺を差し置いておもろそうな話しとるやんか」
そこへ野太い南国訛りがひょいと横から首を突っ込む。ロイドの隣で安定した足運びを続けていた浅黒い肌の男はルーク・コレクトだ。世俗の噂はデマでも聞きたい野次馬精神を持ち合わせ、煌めく金の眼がその好奇心を如実に示している。
「それ、『幽霊説』と『盗賊説』に割れとるらしいな。俺は『幽霊説』を支持しとるんやけど」
それを聞いたキロスが苦笑し、横目でルークを覗き込んだ。
「ルークさんはそうだったら面白い、と思ってるだけでしょ?」
「……先輩に向かって中々言うようになったやんけ、お前」
「へへ。俺ももうすぐ三期目ですからね」
キロスはどこか得意げに口角を吊り上げた。カイムの尽力により「騎士団つき鍛冶屋」の昇進限定を取り下げられ、晴れてAクラスへと昇ってから約一年。レイほどではないにしても、元から礼儀正しかった彼も段々硬さが取れてきた。
「ほなお前はどやねん、キロス」
「俺ですか? ……そうですね、『盗賊説』の方が対処しやすいですよね」
「あたしは『幽霊説』かなー。ロマンがあって素敵じゃない。レイは?」
他人事とばかりに楽しそうにアイナが尋ねた。息を整えながら、レイは二つのケースを比較する。
幽霊なら噂で片付くが、目に見えた影響がありすぎる。また、盗賊とすれば、金品被害の話には説明がつくが、それを肯定すると今までの砦の歴史を覆す大問題である。団長のカイム達の責任が問われることはまず間違いないだろう。
どちらを取るにしても一長一短あるが、果たして。
「『盗賊説』、だな」
「どうしてどうして?」
興味津々に問うたアイナに向かって、レイは一言で斬るように返した。
「幽霊は信じてない」
断言した途端、漫然とした空気が四人の中に流れた。ルークなどは呆気に取られたような顔で、口の端をへの字に下げて変な表情になっている。返す言葉を間違えただろうか、とレイは首を傾げた。昔から相手の気持ちを慮りながら会話するのはあまり得意ではない。自分がとんでもない問題発言をしてしまっても、気付かずに平然としている節がしばしばあるのだ。
最近微妙な空気を察知できるまでには成長したと(自分だけで)思っているので、避けられなかった時のカバーの仕方を習得しようとしている今日この頃である。レイはすかさずこんな時の鉄壁に話題を振った。
「――じゃあ、隊長は? どっちだと思うんすか」
「せや。ロイド、お前はどっちや?」
ルークがしきりに肘でロイドを小突いて催促する。鬼総監はしばらく何も答えずに迷惑そうにしていたが、焦れて飛んで来た褐色の拳を受け止めて、ようやく重い口を割った。
「興味がない」
ルークは憮然を通り越して呆然とした。
「うっわー。ようそんなおもんないこと言えんなお前」
「お前は俺に何を求めているのだ」
「茶目っ気と南国魂」
「要らんそんなもの。お前のようになれば昼寝にかまけて何もできんだろうが」
「あ、南国馬鹿にしよった!」
ぎゃいぎゃいと騒ぎ立てる最前列(のルーク)と二列目の二人の討論を聞きながら、レイはふと何かにつられて、側を通り過ぎようとしていた前方の木を見上げた。
しばしじっと眺めている内に、何に引っ掛かったのかが分かった。新緑の中で、枝に止まっていた漆黒の鳥の色が眼についたのだ。金色の瞳と嘴の色からして鴉らしいが、砦に鴉がいるとは珍しい。そう思って、レイは腹のあたりをかゆそうに足でがりがり掻いている鴉をまじまじと観察していた。
ふと鴉が頤を上げ、レイと視線が合ったかのように首の向きを定める。大分距離は離れていたが、その瞬間鴉は翼を広げて逃げるように飛び立っていってしまった。
それにしても小奇麗ななりの鴉だった、と不吉とされる鳥の姿を思い出しながら、レイは前を向いて距離の開いた同僚たちを追いかけた。
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