今、天馬のに乗って



 黴と血と死人の匂いがとぐろを巻いて蔓延していた。
 生きている者がいるとは到底思えない。ただその形をしている人形ばかりが、辺り一面の地面を覆い隠すかのように転がり、折り重なっている。呻き声も、助けを求めて叫んでいた声も今はない。何も動かない、永遠の静寂が続いているばかりだ。
 生気という生気が吸い取られたこの牢獄は、灯りもなく、それがその広さを推し量ることすら不可能にしていた。自分の横に何があるのか、それが生きているのか死んでいるのかすらも。
 石の隙間から空気が少し漏れてくるくらいで、ここには光の存在を見ることができるようなものもなかった。時間の感覚も、既に麻痺した。
 それほどに、ここには何もない。
 が、少なくとも――
 ――俺の隣で少し前まで唸っていた男は、もう死んだのだろう。
 開けたところで何も見えない目で瞬きをし、牢獄の一つに押し込められていた青年は、虚ろな視界の中で胸元へ手を伸ばした。
 今まで何度となく手探りで掴み、その感触で自分が生きていると実感させてくれたもの。
 首に下がった紐を探り当て、服の上に出す。その先にある硬く重い石を、青年は傷を負っていない方の左手で強く強く握り締めた。
 戦は終わっただろうか。
 我が軍は負けたのだろうか。負けたのだろう。この牢獄に閉じ込められた幾百の兵は、全てが青年と同じ軍の者なのだから。
 この青年が、きっともう三日はこの牢獄にいるのだから。
 ――ああ、ジルヴィ。
 おまえはちゃんと教えた抜け道を通って生き延びているだろうか。命の危険のない場所で、俺が生きていると信じていてくれているのか。
 青年はペンダントに唇を寄せた。色彩は見えないが血がついてしまったかもしれない、それも全て、ここから生きて出られたなら清めて元の姿に戻そう。
 ジルヴィ、この生の証拠をくれた人。俺の生きる意味。心の拠り所。
 おまえがいなければ、俺は今ここで息絶えても構わないというのに。こうして少しも動くこと叶わず、おまえが生きているか確かめることさえできない。
 ぼんやりと景色が霞む。――いけない。今度眠ったら、次にまた同じ世界を見られる保証がどこにもない。そんな保証をしてくれる人など、もうここには誰も。
 青年は重くなってきた瞼を必死で持ち上げようと、痛みで動かせなくなった右腕に爪を立てた。途端に凄まじい激痛が肩まで駆け抜ける。処構わず叫びそうになるのを歯を食いしばって堪えた。
 今はこのような無力な姿でも、また再びおまえに相見えるためなら、俺はたとえ最後の一人になっても生き恥を塗り重ねよう。いつかここから抜け出してみせる。必ずもう一度おまえに会う。
 そうしたら、いくら小さくても幸せな結婚式を挙げよう。平穏の中で、静かに温かく暮らすのだ。
 青年は矢傷を負った右腕を抱え込んだ。
 ――なあ、ジルヴィアーネ……。



 平和な世など、生まれた時からどこにもなかった。そんなものがこの世界にあるわけがない。今日もまた何処かで幼い子供が斬り殺され、村が焼かれ、逃げ惑う人々の背に矢が降り注ぐ。
 それが当たり前な世の中に青年は生まれた。今日の日まで必死に生きてきた。一日たりとも、身の危険を感じない日はなかった。
 立つのもやっとな頃から重たい剣を持たされ、武芸を叩きこまれ、大人たちと一緒になって戦いに繰り出すこともあった。それが当然だと、何ら不思議のない光景だとしか思わない状況下で、青年は育った。
 青年は小さい頃から剣の腕が立った。同い年の少年たちだけでなく、何歳も年上の大人も打ち倒せる優秀な戦士だった。
 いつも生活の中央に悠然と鎮座している戦いが、好きなわけはなかった。ただ、死ぬのが怖かっただけだった。常に何かに怯えて、剣を振るっていた。
 市民として参加した義勇兵から正規軍に入れられたのは、ある中隊長を討ち取った功績を買われてだった。手柄を狙っていたのではない。自分と家族を守れればそれで良かったはずだった。
 それなのに武将の首を初めて取ったその理由は、その中隊長が捕まえて連れて行こうとしていた街の娘に一瞬で心を奪われたからだ。数人の兵に囲まれても怯えることなく、声を荒げて対抗しようとしていた娘。武器も持たずに不利なのは明らかだったろうに、おまえたちに殺されるくらいなら舌を噛み切って死んでやる、と言い切った。それを見て青年の足は勝手に動き、敵国の兵士たちに相対していたのだ。
 隊を離れてまで助けた娘は、一言でその魅力を形容しようと思っても言葉が全く足りないような、人の眼を引く踊り子だった。名を、深い森の意を持つジルヴィアーネと名乗った。
 青年はその踊り子の気高さと美しさに恋をした。力強く、どんなに不幸な境遇にあっても弱音一つ吐かずに勝気な笑みを浮かべる娘。ジルヴィアーネも生きるか死ぬかのところを間一髪で救われて、青年に惹かれるまでそう時間はかからなかった。
「ねえ、あんたの名前は解放者という意味なんでしょ」
 隣国との戦が一段落して彼がジルヴィアーネの元で短い休息を得ていたある日、踊り子が彼の髪を撫でながらそう言った。
「そうなのか?」
 青年が娘の膝から顔を上げると、ジルヴィは一瞬ぽかんとして、声を上げて笑った。花などでは儚すぎる、太陽が咲いたような笑顔だ。
「何だ、知らないの? 街中みんな、いつもあんたを褒め称えてるんだよ、この頃戦に勝てているのは、この街から英雄が出たお陰だって」
 今度は青年がぽかんとする番だった。聞き返す声が裏返る。
「英雄? 誰がそんな。大袈裟だ」
「だから、みんなだよ」
 そう言って誇らしげに笑うジルヴィは、あえて喩えるならば大輪の向日葵のようで。
「『解放者』アーグラス……いい名前。あんたは本当に解放者なんだね」
「どうせ名前だけで囃し立てているんだろ、俺はただの一等兵だ。何ができるもんか」
 うっとりと見下ろす彼女に素っ気無く言うと、ジルヴィは一層微笑んだ。
「あんたは絶対、もうすぐに出世するよ。あたしには分かる」
 それに、たとえ一生一等兵のままだって、あたしにとってあんたは解放者なんだ。
 その澄み切った瞳、滑らかな肌、彼女のすべてを青年は克明に覚えている。
 ――なのに。



「行かないで、アル」
 馬上の彼に腕を伸ばし、隊の行進に飛び込んできたジルヴィは鎧の上から青年の腰にしがみ付いた。どよめく群集と同じように、彼自身も驚いて手綱を引いた。
 彼の大切な踊り子が予期した通り、一介の一等兵は、またたく間に戦績を上げて数年で将軍の座に登りつめた。戦にも近年負けたことがない。元は反逆者から国の『解放者』へと変貌した青年アーグラスは、来週ジルヴィアーネと式を挙げるつもりだった。
 左手の薬指に彼が贈った指輪を嵌め、貧しい踊り子だったジルヴィも、人に「勝利の女神」として知られていた。国中で一番幸せな女と言われたその勝利の女神は、長い睫を濡らして、その人々の前で英雄に掠れた声で言ったのだ。
「どうして兵を挙げたの。この戦は負けるわ。あんたにも分かってるんでしょう」
「……ジルヴィ」
 薄い肩をやんわりと引き剥がして、青年は宥めるように言った。
「戦はその全部に勝ちを見越して向かうものじゃない。勝てないと見えるものに勝つのも……」
「屁理屈はやめて」
 ざわざわと周囲に動揺が広がりだす。女神がこれは負け戦だと断言している、と。アーグラスは舌打ちしたい気分だったが、彼女の厳しい表情を黙って受け止めるだけだった。
「もし負けたら甚大な被害が出るんだよ。負ければ死人も増える。どうするつもり」
「ジルヴィ、戦は勝っても負けても人が死ぬ」
「あんたが死んだらあたしはどうすればいいの」
 突き刺すような声音に、彼の側に控えていた副官がぎょっと鞍から腰を浮かせた。戦女神が私情を口にした。それはすなわち女神としての仮面を引き剥がしたということだった。
 俺だって、叶うなら今すぐ将軍の座を捨ててお前と式の準備を進めたい。そんな叫びが胸の内だけで小さく噴火する。
 でも。
 俺を今の地位に押し上げたのは、お前じゃないか、ジルヴィ。
 眩暈のする頭を振って、彼は口を開いた。
「……俺は、責任者だ。俺の命は軍に預けているんだから、軍が負ければ俺が責任を取るしかない」
 それを聞いた時の彼女の表情には、絶望以外の何も浮かんではいなかった。突き放されたと、今までの時間を捨てられたと。
 左手の指輪を隠すように握り、唇を噛み締めて俯いていた彼女は、きっと青年を見据えると言ったのだ。
「じゃあ、あたしと同じ境遇になる女がもっと増えるんだね」
 救い主と呼ばれた英雄は、それに答えることができなかった。
 それが最後に見た彼女の姿だ。



 そして、不敗の英雄は初めて戦に負けた。青年が生まれてこの方経験したこともないような大敗だった。
 ほとんどの兵が牢獄に入れられた。残る兵士はやっとの思いで敗走しているか、討ち死にを覚悟で戦場を駆けているかだろう。
 敵軍は英雄の率いる軍隊を全滅させるつもりだった。すんでのところで指揮官の彼が降伏を申し出て、そうして入れられ、閉じ込められたのは、食料の配給も一切ない牢獄という名の墓場だった。
 ギィ、と錆び付いた扉が開けられたのに気付いたのは、ちょうど右腕を縛った布を替えようと、彼が隣の男の服に手を伸ばしたときだった。
 扉の向こうから、ランプの灯が牢獄の中にも流れ込んでくる。数日ぶり(であるはず)の光に目が追いつかず、彼は左手で目を庇った。
 身じろぎした拍子にざり、と靴が床を擦った。しまった、と彼は他人事のように思った。
 そう思った時にはもう遅かった。すぐにランプが青年の方へ向けて突き出され、目を庇っている兵が見つけられる。ついに生き残った兵を殺しにきたか、それとも情報を聞き出すのに拷問されるか。閉じ込めた兵の処理ならば、そのどちらかくらいしか残された選択肢はない。
 だが、再びジルヴィの元へ帰るためなら、無様な命乞いをし、恥を捨てて一人逃げ出すことも厭わないだろうという確信が、彼にはあった。英雄の名も、指揮官の座も、もう何も要らない。ただ彼女に会えれば。彼女に会って、本当は自分があの時どう言いたかったかを正直に伝え、再び手を取り合うことが一瞬でもできるならば。その覚悟だけには、何故だか自信が持てた。
「ああ、いたわ。そこよ」
 女の声がした。若く、健康的で、艶めいている。今日明日に食べる物に悩むような境遇の人間ではないと、すぐに分かる声だった。
「灯りをちょうだい……もういいわ、お下がり」
 数人の足音が去っていくのは、護衛兵か。扉は開けたままで、女がゆっくりと牢獄の中に踏み込んでくる。こつん、こつんと響く音の隙間に、酷い臭いね、というくぐもった呟きが混じった。
 やっと目が慣れてきて、アーグラスが周囲にどれだけの惨状が広がっているかを目に入れることができるようになった頃には、女は彼の前で、静かに立っていた。女が持つ灯りの中で、何も見ていないような、全てを把握しているような微笑みが、まっすぐに彼を見つめているのが分かった。
 アーグラスは隠れるのを諦めて、ぎこちなく座り直した。一番奥の壁にもたれかかるアーグラスと檻の前に立つ女、距離はあったが、その交わる目線の間に隔たりはなかった。
 見返してくるアーグラスに、女はさらに笑った。嘲っているのか、哀れんでいるのか、どちらにせよ余裕が溢れている笑みだ。しかしそれはどこか悲しげで、アーグラスと同様に何かを諦めているような眼だった。その眼を見て、アーグラスはこの女が誰だかはっきり理解した。
「あなたが『解放者』アーグラスですね。――流石の生命力だわ、入った瞬間に居場所が分かる」
「……おまえは、」
 喋りかけて、潤いを失った喉が老人のような声を絞り出した。アーグラスは激しく咳き込んで、黙って薄笑いを浮かべている女を再び睨んだ。全身闇に溶ける黒衣で、喪服を纏っている。
「おまえは……カリル王、か?」
 女はわずかに目を見張って、生ぬるい笑顔を崩さず頷いた。
「そうです。はじめまして、アーグラス将軍」
 女王カリル。アーグラスが率いる軍を、赤子の手を捻るようにいとも簡単に捻り潰した敵国の王だった。先王だった夫は数年前の戦で彼の国に負け、斬首された。その後を引き継ぎ、誰もが予期しなかった軍の才を発揮して、破竹の早さと絶大な戦闘力で奪われた領地を取り返している。
 その戦略は冷徹にして残虐、情というものを知らないという。仇討ちに燃えているあの女だけは相手にしてはならない、とジルヴィだけでなく将軍たちも口を揃えて断言していたが、彼は兵を挙げ、そして負けた。
「ここは、酷いところですね」
 言うと、カリルは芳香を漂わせる喪服の裾で再び鼻を覆った。そこに俺たちを放り込んだ張本人が何を言う、とアーグラスはそのまま口に出して吐き捨てる。それを聞いたカリルは、アーグラスの怒声を受けて心から楽しそうな顔をした。
 その人から離れたような笑みに、アーグラスは戦慄を覚えた。この女、もしや狂いかけているのでは。
「あなたの軍には、命を惜しげも無く捨てる人が多すぎだわ」
 カリルが歌でも歌うような軽やかな声で言う。
「俗っぽさ、というか……そう、生への執着心がないのよ。この戦は面白味がなかったわ。どの兵も死にもの狂いで立ち向かってくるばかりで、まるで従順な獣を相手にしているみたいだった。でも、あなたは違うと思ったの」
「何の用だ」アーグラスは低く唸って、再び咳き込んだ。「用件を言え」
 数々の国を征服した女王カリルは、世界を見下すような笑顔を浮かべた。
「あなたと私は、よく似ているわ。ええ、似ている。とても。周りの人間がいくら堅苦しく、規則に縛られた言葉を叫んだって、あなたはきっと頑として自分の意見を押し通すでしょう。――ほらね、似ているのよ。私も同じ。私達はとても似ていて、周囲の石ころのような心の持ち主たちよりもとても人間らしく、欲に満ちている」
「何が言いたい!」アーグラスは死体に囲まれた場所で怒鳴った。
「早く用件を言え……言うんだ、さもないと」
「さもないと、なに?」
 久しぶりに声を出した辛さで肩を上下させる青年を見下ろし、カリルは嘲笑した。
「こんなところで鎖につながれて、まともに喋ることもできないあなたが、私に何ができると?」
 怒りと痛みで、ぜいぜいと息が荒くなる。鼓膜の奥に風が吹き付ける。
 アーグラスが落ち着くのを待って、カリルはゆっくりと、噛み締めるようにもう一度言った。
「私たちは、似ているわ」
 とっても。ねえ、そうでしょう?
 軽く首を傾げて、カリルは笑った。その手に、錆びついた小さな鍵がぶら下がっていた。
 アーグラスの目は、それに釘付けになる。
 血を知らず、欲を知る白い手は、それを檻の中へ放った。
 カリルは笑った。
 何も言わずに、笑った。



 アーグラスは転がるように檻の外へ飛び出した。背後には、息のない腹心の部下の亡骸が数十。幾つもの忠誠を跨いだ。振り返らない。既に女は去り、影も形もない。それを待った。
 すぐに衛兵にかち合った。利き腕は全く反応がなく、体は思うように動かない。目は絶え間なく突き刺してくる光に、対処しきれなくなっている。だが、人を呼ぶ声、駆けつけてくる足音は聞こえ、剣を振るう筋は見えた。
 女が最初に入ってきたとき、灯りを持つ手と別の方に、剣があった。鍵を出すときにわざとそれを檻に立てかけたのを、アーグラスは見ていた。その剣が左手にある。彼は、剣を振るった。
 何人を相手にしたか定かではないが、立ち向かってきた全員を彼は斬った。慣れない左手で細かい傷も負わされたが、走ることができる。それで十分だった。
 彼の進む道、その後ろに、血の道ができ、人が倒れる。振り返らない。
 ――ジルヴィ、もう少しでお前に会える。
 それだけが彼を突き動かしていた。狂気に支配されかけた女王のことは、ほとんど忘れかけていた。



 鉄と血の錆を幾度となく浴びてきた、目の前に空虚な音を響かせて落ちた鍵を、彼はしばらく凝視して動かなかった。迷いではない。カリルに正気が残っているのかと、ただそれだけが気がかりになり、壊れた人形のように微笑み続ける戦の女王を見上げた。一瞬、戦の神に愛された女の影が、彼の愛する人の面影に重なった。驚いて瞬きをすると、それはすぐに消えた。
 女王は彼を見つめてぽつぽつと話し始めたが、次第にその声が熱を帯び、最後は激情に任せて声を上げていた。
 彼が逃げ出す直前などは、全部虚しいのよ、と鉄格子を掴んで叫んだ。金属が揺れる耳に痛い音に、アーグラスは眉を寄せて目を閉じる。
「夫が死んだって誰も悲しまなかったわ。戦の下手な男が死んだら、みんな喜ぶの。私はその陰口にも笑って答えてやって、そして次には自分だと怯えながら玉座に座るのよ。夫の代わりだなんて慎みがなく浅ましい、始めから玉座を狙っていた、女に指揮を取らせるなんて言語道断だ、……私に散々後ろ指を差した者が、一度兵を動かしたらみんな黙ったわ。でも次の日には、夫の仇討ちなんて、私情を挟む愚かな女だと言う。結局何をしたって、みんな最後には虚しくなるだけ。もう嫌だわ。何もかも嫌。戦なんて、国なんてもうどうだっていい」
 アーグラスは黙って女を見ていた。何故そんなことを、敵軍の捕虜である俺に? わざわざ大隊を派遣して捻じ伏せた自分に逃げてほしいというその意図が分からなかった。
 カリルの目に狂気がちらつく。血走ったその目と正面からまみえた一瞬だけ、彼女がどこの村にもいるような平凡な女に見えた。アーグラスの不思議そうな視線に気付いたのか、カリルは急いで凡庸な女の素顔の上に女王の仮面を付け直した。しかし、仮面はもう割れかけていた。
「あなたが何もかもを裏切って、背中に罵声を浴びせられながらそれでも欲に走る姿が見たいわ。あなたは私に似ているけれど、きっと私よりも重ねた罪の数が多いのよ。――だから、こんなの簡単でしょう? その手で部下を裏切って、国を裏切って、戦女神とかいう一人の女のためにどこかへ消えてしまいなさいよ。反逆の英雄として、末代まで呪われ続けて、それでも自分はぬくぬくと幸せの中にいればいいのよ。そうすれば私だって、私だって……きっと、いつか……」
 カリルははっとして、恐々と鉄格子から手を離す。血錆のついた手の平をまじまじと眺めたカリルは、それから何か化け物を見るような目でアーグラスを捉えると、逃げるように背を向けて牢獄を後にした。
 光に弱くなった目で見ても、惨めな後姿だった。



 一度採って弱っている虫を逃がし、それが溺死するのを何の感慨もなく見守る心境に近いのかもしれない。
 女王は自分にできないことを彼に押し付け、不可能に近いことを可能にさせて安心したかったのだろう。それが女王には何の益ももたらさないことを理解しているかどうかは、彼にも分からないが。
 彼は逃亡用の馬を探した。地下牢獄を出て地上に足をつけるまでに相当な数の近衛兵を倒したせいか、飛び込んだ厩まで追ってきた者はいなかった。厩番も、帯刀すらしていない少年ひとりだった。
「一番速い馬を出せ」
 彼はひび割れた、荒んだ低い声を振り絞った。驚き立ち竦む少年は、両手で口を覆ってただ震える。全身に血を浴びて右手はだらりと垂れ下がり、左手に血の滴る剣を持っている脱獄者は、少年には刺激が強かったらしい。
 少年がなかなか答えないので、彼は苛立って左手を振り上げた。
「早くしろ! さもないと切るぞ」
 少年は弾かれたように踵を返し、厩の奥へ転がるように走っていった。すぐに白毛の立派な馬を引いてくる。鞍と鐙、食みの豪華な装飾からして、高位の将軍のものか、もしかすると女王のものかもしれなかった。彼が最後に乗った馬よりも走ってくれそうだ。
 問題は馬が彼のいうことを聞いてくれるかだ。馬は敏感な生き物だ、乗せてもらう側の人間が蔑ろにするようでは、大人しく乗せてはくれない。
 しかし悠長に意思疎通をしている場合でもない、アーグラスは急いで白毛に飛び乗った。驚いて馬は前足を高く上げ、アーグラスを振り落とそうとする。平衡感覚は立ち上がったそばから何とか戻り出していたが、それでも彼の体力ではひどく視界が揺れた。彼は馬の首を何度も叩いた。
「おい、言う事を聞いてくれ。早くしないと敵に追いつかれる」
 手綱を手繰り寄せて荒っぽく引っ張ると、白毛はますます暴れた。何とか操りながら厩を出る。なかなか馬が静まらないので、彼は困って語調を弱くした。
「頼む。しばらくの間我慢して、俺をジルヴィの元へ連れて行ってくれないか」
 自分でも腰の低さに驚いた。義勇兵をしていた頃――否、つい数日前までは、馬を蹴り、怒鳴るばかりで、戦いの道具の一つとしてしか見なしていなかった。傷を負えば捨てて別のものに乗り換えるだけの、ただの使い捨ての駒だった。
 驚いたことに、アーグラスの丁重な態度を受けた白馬は不満そうに一度鼻を鳴らすと大人しくなった。彼は安堵し、手綱を握り直した。
「名は」
 眼下の少年に短く問うと、今度は自分の未来に悲観して震え出していた少年はすぐに答えた。
「アイーダです……女王陛下の御馬です」
「アイーダ――いい名だ」
 彼は丁寧な厩番をちらと振り返った。彼に切り捨てられることは免れても、少年の罰則は重いはずだった。遅いか早いか、それだけの問題だ。
 彼は前を向き直した。もう、振り返らない。
「アイーダ、お前は天馬だ。俺を乗せて飛んでくれ!」
 白馬はアーグラスに答えるように一度いななき、勢いよく走り出した。



 ろくに手当てができなかったせいで、布を巻いただけの右腕はとうに壊死していた。構わない。利き手の一本くらい誰にでもくれてやる。どうせならもう片方落としたっていい、アイーダとは膝で語り合える。
 ――待っていてくれ、ジルヴィ。
 将軍としてお前に冷たい言葉を浴びせることしかできなかった俺に謝らせてくれ。お前に平手の一つでも食らって、すっきりしたと晴れやかに笑ってほしい。
 見据える先はひとつ、村の外れの山道を西に向かって二日歩いて見つかる粗末な小屋。
 そこで俺たちは必ず落ち合える。再会できるはずだ。そして平和に向かって歩き出すのだ。
 アーグラスは馬を駈った。ただひたすら西を目指して。
 アイーダはアーグラスの望むように、まるで女王の心を映したかのように走った。
 まさに天馬のように、足取り軽く空でも飛ぶように。



 彼は出発してから七日目の夜にアイーダと別れ、それから徒歩で小屋を目指した。目算で二日の山道は、ずいぶん体力を消耗したアイーダには無理だと判断したのだ。水をやることはできるが、城で与えられていたような適当な餌は摂れない。疲労の色が濃くなってきたのを見ていた彼は、礼を言ってアイーダを送り出した。
 アイーダのために休憩を取りはしたが、彼が自分の休養のために立ち止まることはほとんどなかった。
 もし食料を調達したとしても、腹が満たされて眠るようなことがあってはたまらない。今そんなことをすれば、二度と起き上がれなくなるだろうと思った。一心不乱に、西に足を向けた。
 牢獄での不衛生な数日間と腕の怪我のせいで、身体への影響は大きかった。肉は削げ落ち、手足もひどく重い。右腕の傷から下だけでなく、上に向けても腐敗が進みかけているのがわかる。切り落とさなければならないが、自分では無理だ。
 それでも言う事を聞かない身体を無理矢理動かし、何とか山道を進む。もう少し。あと少しで、彼女に会える。きっと元気で、俺のことを待ってくれている。
 一緒になるはずだった彼女のことだけを想って、それを頼りに彼は一歩を出し続けた。左手は今にも崩れそうな右肩を掴んでいる。腹の傷は二度開いた。血の道は雨が流した。振り返ることはない。立ち止まらない。眠らない。
 そして、ついに彼は辿り着いた。
 それは幻かもしれないと一瞬我が目を疑った。ぼやける視界の朝靄の中、粗末なあばら屋がぽつんと立っているように見える。
 だが、それはまさしく彼が長い間探し求めた風景だった。
 その瞬間身体に圧し掛かっていた重みが吹き飛び、彼は転がるように走り出した。
 あそこだ。あそこに、俺のジルヴィが。歓喜と同時に、涙が込み上げてきた。
 自分でもどこにこんな力が残っていたのかと驚くほどの勢いで小屋の前に飛び出し、彼は背中から叩き付けるように錆びついたドアノブに手をかけた。
 ドアが開く。
「ジルヴィ!」
 家の中に入って全体を見渡し、彼は呼吸を止めた。
 部屋は灯りもなく真っ暗だった。まるで彼を嘲笑うかのように、すきま風が吹きつけるのみだった。
「嘘だ……」
 まさか。そんなはずはない。まさか、彼と確かに約束を取り交わしたジルヴィが。
 ――彼女が、ここに来ていないだなんて。
 目の前が真っ暗になって、彼はその場に崩れ落ちた。



 ジルヴィアーネは白い息を吐き出した。古びた桶を両手で持ち直す。冬先の朝は、服を着込んでも袖から先の指先はかじかんで冷え切ってしまう。
 小屋から一番近くの古井戸までは歩いて半刻かかる。夜になってから汲みに行くのは何が起こるか分からないから、毎朝起きるとすぐに床を出て井戸まで歩くのが彼女の日課となっていた。
 小一時間の行程は日に日に少しずつ辛くなっているが、いい運動になると思って続けている。
 今日も水を桶いっぱいに汲んで小屋へ戻ってきたところで、ジルヴィアーネは足を止めた。
 小屋のドアが開いている。――誰かが入ってきたのだ。彼女は身を強張らせた。
 ついに敵に居場所をつきとめられたのだろうか。もしかしたら、裏切りに気が付いて追ってきた故郷の者かもしれない。
 やっぱり、勝利の女神が逃げることは大罪だったのだ。国とともに、民とともにそして救世主とともに、彼女は滅びるべきだった。恐怖に支配された彼女は、とっさに手を軽く膨らんだ腹に当てた。
 ――はじめは、彼の言葉を信じる気には到底なれなかった。戦場へ送り出すときは自分は戦には直接関係はないかのように言ったものの、彼の軍が負ければ、彼女もまた責任をとらなければならない存在のはずだった。戦に負ければ、彼女とてただでは済まされないということは覚悟していたし、それを避けてのうのうと生き延びるのは恥知らずだと、そう思った。
 事情が変わったのは、大敗の報せを受け取る二ヶ月以上前のことだった。
 突然吐き気に襲われた。それが何の予兆なのか、人に聞いて確かめることは怖くてできなかった。彼女は今の戦に勝てないことを本能で予測していたから、腹に眠るものの存在を知られたら、敗戦後彼女とその子にどんな危険が及ぶかを想像することは容易かった。
 彼女の止めた戦で負けたと知ったら、民は逃亡の前に暴動を起こすだろう。
 八つ当たりの対象を探しているのだとしたら、その最たる候補は彼と彼女に違いなかった。
 そして彼女を守ってくれる彼はもうここにはいない。
 彼女は、一人だ。
 ――否、二人だ。
 死ぬわけにはいかなくなった。彼がまだこの地のどこかで生きているにせよ、もういないにせよ、この子を守る義務を放棄する権利など、あたしにあるものか。
 一人で生むしかない。彼女は決心した。誰かに協力を仰ぐことは危険が大きすぎる。彼を信じて待つには、希望も時間ももう少なすぎた。
 夜中にそっと家を抜け出し、誰にも見つからないように彼が指定した小屋に辿り着いた。
 不思議なことに、一度存在を受け容れてしまうと、彼女の中の小さな命は安堵したように活発に動き始めた。度重なる戦と不安で疲れていた彼女の心も次第に解きほぐされ、徐々に愛おしささえ込み上げてきた。
 この子を守ることは、あたしが自分で自分を守ることだ。彼女は自分とお腹の子を安心させるように、もう一度腹を撫でた。
 家に入って、まず最初に水をかけてやろう。冬の朝に限界まで冷え切った水をかけられて、多少は怯ませることができる。きっと数は多くないはずだから、その隙に桶で殴りつける。刃物なら中に置いてあるから、それを奪えば抵抗はできる。
 大丈夫、大丈夫と言い聞かせて、彼女はドアの側へとにじり寄った。開いたドアの隙間からそっと中の様子を窺う。物音がしていない。
 隙間から覗く床に何かが転がっているのを見つけ、彼女は息を呑んだ。
 人の腕だ。それも、酷く傷ついている。ぴくりとも動かない。
 中に人がいないようだということを確認すると、彼女は用心深くドアを押し開けた。
 その人はうつ伏せに倒れていた。全身に重い傷を負い、身体は血だらけだ。
 もっと近くに寄ってみて、彼女はその人が首から何か下げているのを見つけた。手に取ってみて、顔の見えないこの人が誰であるのかを知った。
 それは他でもない彼女が最愛の人に送った、守護の聖印だった。



「フォラス、十二歳の誕生日おめでとう!」
 ありがとう、と喜色満面の少年はすぐさま答えた。同じくらいに嬉しそうに、その妹も笑い返す。
 手早く祝賀の言葉を述べてしまうと、子供たちは同時に目の前のご馳走にかぶりついた。
「あんたたち、食べたらちゃんと自分の荷物をまとめるんだよ!」
 母親が流しから大きな声を出す。それには食べ物を口いっぱいに詰め込んだ子供二人分の返事が返った。
 隣の部屋で衣類を畳んで分けていた彼は、与えられた自分の仕事が終わると流しの横に立った。
「ジルヴィ、終わった」
「ああ、ほんと? じゃあ、今度は食器包むの手伝って」
 彼は一つ息を吐いて、流しの下に座り込む妻の側にしゃがんだ。
「おまえ、最近人遣い荒いぞ」
「そんなことないってば。あんたが太らないように気を回してんの」
 忙しそうに食器を大きさ別に分けながら、彼女は彼の方を見向きもせずにあしらった。
「ロネベがまだおもちゃを捨てきれないってしつこいんだよ、もう十歳なのに子供っぽさが抜けないんだから、まったく」
 彼は左手で積み上げられた食器を何枚か下ろして言った。
「まだ十歳だ」
「ほんっとにあんたはロネベにべったりだよねえ」
 呆れたようにやっとこちらを見た彼女は、「ロネベが嫁に行くとき泣いて止めるんじゃないよ」と笑った。最近少し皺が増えたが、その快活な笑顔は変わらない。
 彼はむっつりと押し黙って、それには答えずに皿を並べ変え始めた。右腕の袖の下には何もない。この肩から右手を切り落としたのは、身篭っていたジルヴィだ。
 彼が解放者アーグラスの名を捨ててから、早十数年が経った。四人に増えた家族は、今もなお小屋にひっそりと住んでいた。
 ここを去る決意をしたのは、隣国の女王カリルが崩御し新王が立ったためである。カリルの養子だったという青年王は、戦好きだったカリルとは対称的に穏健な性格の持ち主で、周辺国から難民の保護を無条件に受け容れているという。一家は平和で便利な生活、そして子供たち二人の教育を求め、各国からなだれ込む難民に混じって隣国に入ることを決めた。
「ここに来たときのこと、思い出したよ」
 スープ皿を布に包みながら、彼女は柔らかな笑みを浮かべて言った。母という肩書きを得てから、彼女の笑顔には豪胆なものに加えて優しいものが増えた。
「懐かしいねえ。あたし、帰ってきたあんたを兵士だと思って、桶で殴り殺そうとしたんだよ」
「そうだったのか」
 彼は恐ろしそうに目をすがめた。子供たちには彼らの父親が昔傭兵をしていて片腕を失ったとしか伝えていないが、ジルヴィ曰く、最近の彼の素行を見る限りとても国の救世主と呼ばれた男には見えないということだった。老いは確かに迫っているようだったし、言われてみれば動くことが少なくなった。
 時間の流れとは怖いものだ、と彼は思った。
 カリルは狂死だったという。これは上の子供が外で聞いてきた話だ。
 十年以上前に彼と初めて見えたときの対話からして正気の人間の言うことではないと彼は確信できたくらいだから、その後あの女が何年もの間あのままの状態でいたのならさぞかし国家は荒れただろう。
 結果的に彼はあの女王の言う通りになり、こうして幸せを得た。
 女王はあくまで彼の行為――自分が唆した行為を、私欲に塗れた悪や裏切りとしてしか見なさなかった。だが、彼にはその悪や裏切りが、こうも愛らしい子供を二人も授けてくれるとは思えないのだった。
 女王が言っていたように、彼はカリルに似ていたのかもしれない。立場に阻まれて、彼は本当に大切にしたいものを一度失いかけた。女王は失っていた。そして彼は、死にもの狂いでまた大切なものの糸口を掴むことができた。女王は最後まで掴めなかった。
 彼が今ここにいるのは、確かにまだそこにあると信じられるものがあったからだ。ジルヴィが必ずこの小屋に来ると、何の根拠もなく信じることができたからだ。
「ほんと、あたしがペンダントをあげとかなきゃあ、殺してたとこだったよ。感謝しなよね」
「……ああ」
 彼も一瞬過去に戻って微笑み、左手で胸の守護の聖印を撫でた。
 命よりも大切な家族を守るためならば、彼はもう一度あの牢獄にだって入れると内心だけで豪語している。
 また彼は彼女に見つけられ、彼女は彼に生命を与えてくれる。何も不安になることはない。
 たとえもう片方の腕も失ったとしても、首がつながっている限り、彼は彼女の守護印を下げることができるのだから。





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