切り裂きジャックは実在したか?
切り裂きジャック(ジャック・ザ・リパー)は未解決連続快楽殺人事件の犯人として世界的に有名です。
これは1888年8月31日から11月9日に亘ってイギリス・ロンドンのイーストエンド地区ホワイトチャペ
ルで5人の売春婦が惨たらしく切り刻まれ殺された事件です。その犯人を名乗って警察や報道機関な
どに多くの投書がありましたが、いたずらを除くと、3通(2通が手紙、1通が葉書)が犯人のものらしい
と判断され、その2通(手紙1通、葉書1通)に「切り裂きジャック」と署名されていたところから、その犯
人が「切り裂きジャック」と呼ばれるようになりました。
連続快楽殺人の犯人が5人殺害の後、犯行をやめたのは不自然に思われます。
逮捕されるまで犯行を続けるのが一般的であるように思われるからです。
そのため、犯人は自殺した、外国へ転居した、精神病院へ入れられたなどと言われます。
確かに、それらの可能性は否定できません。
しかし、そうでないとすると、どうでしょう。
それは、切り裂きジャックはいなかったということです。
これは、切り裂きジャックを名乗り投書を送ってきた人物と殺害の実行犯が別ということではありません。
殺人がなかったということです。
しかし、現に被害者の傷つけられた遺体があったではないかとの反論があると思います。
ただ、それは警察関係者や遺体を解剖した医者の証言で裏付けられるだけです。
ロンドン公文書館所蔵の遺体写真を見ると、キャサリン・エドウズとメアリー・ジェーン・ケリーについては
遺体の損傷がわかりますが、他の3人については傷ついていない顔が写っているだけで、身体は布や衣
服でおおわれています。
この3人については、はたして警察発表のように遺体が切り裂かれていたか疑問です。
キャサリン・エドウズとメアリー・ジェーン・ケリーにしても、最初からそのような損傷を受けた遺体だったの
かもしれません。(この2人については、解剖後の遺体を写真に撮った可能性もあると思います。)
結論を言えば、イギリス政府が切り裂きジャック事件という架空の連続快楽殺人事件を作り出したのです。
この事件に関して、イギリス政府の対応にはおかしな点があります。
例えば、この事件当時の警視総監は、切り裂きジャック事件を解決することなく、最後の殺人が行われる
数時間前に辞職しています。事件が解決したからではなく、事件を作り出す仕事が終わったから辞めたの
ではないでしょうか?この総監は切り裂きジャック事件の捜査部長を交代させています。これは事件の解
決のためでなかったのは明らかです。
それにしても何故、架空の事件を作り出す必要があったのでしょうか?
その鍵はジャックの最後の犠牲者にあります。
この犠牲者は他の4人と違い、若く美しい女性でした。
売春婦とされていますが、そうではないと思います。
この女性が殺されたとされるのは、この女性の自室で惨たらしい姿で発見された死体がこの女性と考え
られたからです。
しかし、ジャックの被害者の中でも、最も激しく傷つけられていたため、実際にはそれを主張する科学的
根拠があった訳ではありません。
この女性はジャックによって殺されたのだと世間に(むしろ特定の人物やグループに)思わせることが企
図されたのだと思います。
この女性は誰だったのでしょう?むろん捜査当局の発表が正しくないのは明らかです。
プリンス・エディー(正式にはプリンス・アルバート・ビクター・エドワード、後のクラレンス公爵)が結婚を望
んだ女性かもしれません。
プリンス・エディーはヴィクトリア女王の孫で、次期王位継承者エドワード皇太子の長男です。
後にカトリックのフランス女性(パリ伯爵の娘エレーヌ・ド・オルレアン)との結婚を望み、皇室内や政府関
係者の多くから厳しい非難を受けています。
イギリス王室の宗教は英国国教会であり、カトリック教徒との結婚は許されるはずのないものでした。
この時代は特にそうでした。ビクトリア女王の人気が落ち、その息子エドワード皇太子の評判も芳しくない
ばかりか、社会主義の勃興が著しく、イギリス君主制の存続の危機が叫ばれていたからです。この結婚
問題がきっかけでそれが現実化する可能性が危惧されました。
このエレーヌ・ド・オルレアンこそ、ジャックが最後に殺害したとされる女性ではないでしょうか?
プリンス・エディーは政略結婚の相手としてこの女性を選んだのではありません。カトリック教徒は対象に
はならないからです。それなら、相手とは恋仲であったに違いありません。もしそうならどこで逢っていたの
でしょうか?フランス女性が珍しくない場所でなくてはなりません。切り裂きジャック事件があったとされる
ロンドンのイーストエンド地区は外国人が多く住んでいました。フランス女性も特に珍しいとは思われなか
ったでしょう。
この女性の正体が一部の人に判明してしまったか早晩判明することが確実と考えられる場合、切り裂きジ
ャックという異常者に殺されてしまったことにするのは都合が良いことです。
ジャックの被害者の住居がいずれもロンドンのイーストエンド・ホワイトチャペルの一地区スピッタルフィー
ルズの一隅であったことは不思議なこととされています。いきあたりばったりに襲っていたならこんなこと
は起こらないはずです。そこから彼らが知り合いで最後の犠牲者と間違われて他の4人が殺されたとす
る説も出てきます。
私は最後の犠牲者を除く4人は、身元不明の遺体だったと思っていますので、彼らについての証言は全
て嘘だと思います。そのような嘘をついた証言者はスピッタルフィールズの一隅の住人であったというこ
とです。彼らはイギリスの諜報員もしくは協力者であったと思われます。
ロンドンのイーストエンド地区は外国人が多い貧民街で、社会主義者の溜まり場ともなっていました。
19世紀後半からはユダヤ人が目立つようになりました。
特にホワイトチャペルにはユダヤ人が多く暮らしていました。
社会主義者はイギリス君主制の廃止を訴えたことから君主制の擁護者たちから目の敵とされていました。
そんなことから社会主義者の取り締まりのためイギリスの諜報員がこの地区に住んでいたとしても不思議
ではありません。
プリンス・エディーが結婚を望んだエレーヌ・ド・オルレアンは彼らに守られて、変装したプリンス・エディーと
逢っていたことでしょう。
もう少し詳しく検討しましょう。
切り裂きジャックの署名がある投書が出される以前は、殺人事件が起こった現場がホワイトチャペルであ
ることから、ホワイトチャペル殺人事件と呼ばれていました。
この事件以前にもホワイトチャペルで2件の売春婦殺人事件がありましたが、身体が酷く切り裂かれてい
ないためか、これらは切り裂きジャックの犯行とみなされていません。
しかし、私はこの2件も実際に殺人事件があったのではなく、イギリス政府が作り上げた架空の殺人事件
の可能性があると思います。
以下がこの2件を含め計7件のホワイトチャペルでの売春婦殺人事件です。
死体発見日時、被害者名(年齢)、死体発見現場、被害の状況、死因[それを特定した医師]、死亡直前の
住所・定宿の住所(不明の場合記載してありません)の順に記載しました。
1 1888年4月2日、エマ・スミス(45歳)、ホワイトチャペル教会の外側、ウェントワース・ストリートとオズ
ボーン・ストリートの交差点近く、若者のグループにひどく殴られたり蹴られたりした(片耳の殆どがもぎ
とられた)上に鈍器で性的な暴行を受けた後ロンドン病院で死亡、腹膜炎、スロールストリート(ジョー
ジ・ストリートの近く)
2 1888年8月7日明け方、マーサ・タブラン[別称マーサ・ターナー](30代後半)、ガントープ・ストリート
のジョージ・ヤード・ビルの1階踊り場、39回刺されており、陰部も傷つけられている、また9つの傷は
喉を狙っていた、刃物による心臓への刺し傷[T・R・キリーン]、ジョージ・ストリートの近く
3 1888年8月31日(金曜)午前3時40分ごろ、メアリー(ポリー)・アン・ニコルズ(43歳)、ロンドン病院
裏手、ユダヤ人墓地に接するバックスロウ小路(現在はダーウォード・ストリート)、舌に軽度の裂傷が
あり、右あごの下の方にこぶしでなぐられたか親指で押さえつけられたためにできたとおぼしきあざが
見られ、左顔面に指のあとのような丸いあざがあり、首には2ヶ所の切り傷、下腹部・陰部にも切り傷
があった、腹部の傷[リース・ラルフ・ルウェリン]、フラワー・アンドディーン・ストリートにあるホワイトハウ
ス、スロールストリート18番地のドスハウス(簡易宿泊所)
4 1888年9月8日(土曜)午前5時30分ごろ、アニー・チャップマン[別称アニー・シフィー、通称ダーク・
アニー](47歳)、ハンバリー・ストリートの3階建ての連続住宅の裏庭、顔が腫れあがり前歯の間から
舌が突き出ていたまた喉の切り傷が2つあり下腹部に裂き傷があった(小腸が切除され肩の上に放置
され、子宮・膣の上部・膀胱が切除され、持ち去られている)[ジョージ・バグスター・フィリップス医師によ
れば、首を絞められた後、喉を切られ、腹を切り裂かれた]、脳と肺の膜組織が冒される病気(おそらく
結核性髄膜炎、あるいは髄膜管性梅毒)に罹っていた、呼吸が妨げられ、次に出血多量のため心臓が
停止(「失神」つまり血圧の急激な低下)[ジョージ・バグスター・フィリップス]、ドーセット・ストリート35番
地にあるクロシンガムズ・ロッジング・ハウス
5 1888年9月30日(日曜)午前1時前、エリザベス・ストライド[通称ロング・リズ](44歳)、バーナー・ス
トリート40番地の国際労働者教育クラブ(IWEC)のクラブハウス中庭、喉の切り傷、喉の切り傷から
の失血死[ジョージ・バグスター・フィリップス]、フラワー・アンドディーン・ストリート32番地にある簡易宿
泊所、スピッタルフィールズ、ドーセット・ストリート38番地の簡易宿泊所(同棲していたマイケル・キド
ニーの宿)
6 1888年9月30日(日曜)午前1時44分、キャサリン・エドウズ[別名ケート・ケリー](46歳)、オレンジ
を売る市場に隣り合うマイター・スクウェア(バーナー・ストリートから900m離れたところ)、鼻の一部が
切り取られ、右の耳たぶもほぼ切断され、さらに顔、喉に切り傷があり、腹部、陰部に切り傷及び刺し傷
があり、小腸が引き出され右肩にかけられ、左の腎臓と子宮が失われている、左頸動脈からの出血[ゴ
ードン・ブラウン]、ホワイトチャペル・ロード救貧院の浮浪者収容所、スピッタルフィールズ、フラワー・ア
ンドディーン・ストリート55番地の簡易宿泊所
7 1888年11月9日(金曜)午前10時45分、メアリー・ジェーン・ケリー[別名マリー・ジャネット・ケリー]
(25歳)、スピッタルフィールズ、ドーセットストリート26番地ミラーズコート13号室(自室)、喉の切り
傷と全身が酷く傷つけられ、臓器は殆ど切除され、心臓が取り去られている、頸動脈の切断[ジョージ
・バグスター・フィリップス]、スピッタルフィールズ、ドーセットストリート26番地ミラーズコート13号室、
スピッタルフィールズ、ドーセットストリート32番地やフラワー・アンドディーン・ストリート32番地にある
簡易宿泊所
1、エマ・スミス 2、マーサ・タブランとも住所はジョージ・ストリートの近くで、このジョージ・ストリートには
1887年に7、メアリー・ジェーン・ケリーとその恋人ジョーゼフ・バーネットが住んでいたとされます。
ジョージ・ストリートもスピッタルフィールズの近くで、当時のメアリー・ジェーン・ケリーとその恋人ジョーゼフ
・バーネットについて証言したのはイギリスの諜報員か協力者ではないかと思われます。エマ・スミス、マ
ーサ・タブランについても同じ人たちが証言した可能性が高いと思われます。
イギリス政府は1、エマ・スミス 2、マーサ・タブランの殺害を当時イーストエンドで頻繁に起こっていた集
団暴力事件の結果と思わせたかったのですが、マスコミがあまり騒がなかったため、より猟奇的でマスコ
ミが触手を動かすような殺人事件を作り出したのだと思います。
これらに引き続くメアリー・アン・ニコルズの遺体は、それ以前の2人と比較できないほど酷く切り裂かれ、
傷つけられているとされました。
この時の警視総監チャールズ・ウォーレン卿はメアリー・アン・ニコルズ殺害の前夜に犯罪捜査部長を交代
させています。
犯罪捜査部長の役目が、マスコミの目を引き付け、マスコミがより報道するよう事件を作り出すことだとした
ら、それに失敗した人物の更迭は当然だったと言わねばなりません。
遺体はより残虐に切り刻まれ、切り裂きジャックの署名のある投書が出される(5、6の9月30日以後の事
件)ことで、マスコミは競って報道するようになりました。
ユダヤ人が多いホワイトチャペルで遺体が見つかったとされることは、イギリス政府がこの事件を利用して、
犯人をユダヤ人と見せかけたい意図があることを示しています。
何故かというと、前にも書きましたが、この時期、王室の人気が落ち、社会主義が隆盛を極め、貧しい労働
者は集団で政府に抗議行動を起こすというイギリス社会の危機的状況があったからです。
警視総監チャールズ・ウォーレン卿は元軍人で、政府に対する貧民の集団抗議行動を厳しく取り締まりまし
た。
1887年11月13日の日曜日には、ロンドンのトラファルガー広場で、抗議者2万人と警察が衝突し、抗議
者側に2人の死者・数百人の負傷者・逮捕者を出した「血の日曜日事件」を引き起こしています。
この人物がホワイトチャペル殺人事件(後に切り裂きジャック殺人事件)という架空の殺人事件を利用して、
政府に対する国民の敵意をユダヤ人に向けさせることを意図したとしても何ら不思議ではありません。
また、それだけでなく、ユダヤ人にまぎれている社会主義者の取り締まりも行ったと思われます。
遺体が発見されたとされる場所がいずれもユダヤ人が集まる(集まっている)場所であることがこれを示し
ています。
3 メアリー・アン・ニコルズ(43歳)の遺体はユダヤ人墓地に接するバックスロウ小路にありました。
当然ユダヤ人墓地に立ち寄るユダヤ人が疑われたことでしょう。
4 アニー・チャップマン(47歳)の遺体はハンバリー・ストリートの3階建ての連続住宅の裏庭に横たわって
いたとされますが、このハンバリー・ストリートはホワイトチャペルの中でも特にユダヤ人が多い地域です。
(ブルース・ベイリー著「切り裂きジャックの真相」原書房P76による)
ロンドン警視庁はこの遺体発見現場から半径半マイル(約800m)の簡易宿泊所(全部で200を超え
る)をしらみつぶしに調べました。(ブルース・ベイリー著「切り裂きジャックの真相」原書房P97による)
5 エリザベス・ストライド(44歳)の遺体は国際労働者教育クラブ(IWEC)のクラブハウス中庭で発見され
ていますが、この国際労働者教育クラブ(IWEC)は社会主義者クラブです。イギリス政府は遺体をこの
中庭に置くことにより、このクラブの社会主義者を取り調べることができたのです。
ただ、その諜報員や協力者が遺体を発見する前にこのクラブの書記が遺体を発見したために、遺体は
損傷を受けていなかったのです。
もし、そうでなければ、遺体は残虐に切り刻まれていたという発表が警察からなされていたことでしょう。
ただ、喉はかき切られていました。
イギリス政府は遺体の喉に傷をつけたのでしょうか?多分違うでしょう。もともと、喉に傷はあったのでし
ょう。自殺したか誤って自殺と見なされた人なのでしょう。イーストエンドの住人をみると、自殺とみなされ
た人のうちかなり多くの人が喉を切っています。(パトリシア・コーンウェル著「切り裂きジャック」講談社
P165〜P166によると、ロンドン病院の記録として、1884年には男性5人が喉を切り、女性4人が喉
を、2人が手首を切っています。1885年には未遂に終わったものも含めて女性5人が服毒、1人が入
水で、男性8人が喉を切り、1人が銃で、もう1人が首をつっています。1886年には女性5人が喉を切
り、女性12人、男性7人が服毒し、男性12人が喉を切ったり、自分を刺したり、撃ったりしています。
ただコーンウェルは当時の状況では、自殺と見なされても、殺された可能性を否定できるほど根拠があ
る場合は少ないと見なしています。)
6 エリザベス・ストライド(44歳)と同日にキャサリン・エドウズ(46歳)が殺されたとされますが、血痕のつ
いたエドウズのエプロンが遺体発見現場とは異なる場所で発見されたことになっています。
そして、それはゴールドストーンストリートの住居ビル108と109にまたがる共同階段の最下段で、その
上部の壁にユダヤ人を誹謗する言葉が書かれていたそうです。
そしてその「ユダヤ人」のスペルは誤っていたそうです。
ここは様々な国籍をもつユダヤ人ばかりが住んでいることから警視総監チャールズ・ウォーレン卿は、こ
の言葉を直ちに消させたということです。
本当に書かれていたんでしょうか?またエプロンは本当に見つかったのでしょうか?
エプロンが見つかった、そしてそのそばに誤ったスペルでユダヤ人を誹謗する落書きが見つかったこと
により、警察はユダヤ人ばかりが住むゴールドストーンストリートの住居ビルを捜査することができました。
このために、血のついたエプロン、ユダヤ人を誹謗する落書きが考え出されたのではないでしょうか?
9月初旬から11月9日のメアリー・ジェーン・ケリー(25歳)殺害事件のあとの週までの間にホワイトチャペ
ル殺人事件の容疑者として160余名の男が警察により逮捕されましたが、住所不定ではないと、納得のい
く説明を係官にできれば、それだけで、無罪放免になったそうです。事件当時のアリバイを求める係官はい
なかったそうです。(スティーブン・ナイト著「切り裂きジャック最終結論」成甲書房P116〜117による)
これは犯人を逮捕しようとする態度ではありません。ホワイトチャペル殺人事件の捜査を口実に社会主義者
の取り締まりを行ったとすれば合点がいきます。
死因の多くは検視審問での医師の証言によります。
この検視審問はイギリスで突然死の場合に開かれるもので、コロナー(検死官)といわれる役人が陪審員を
召集し、その死因を究明したもので、一般の人も傍聴が許されています。
ホワイトチャペル殺人事件での、医師が証言する死因は多くが真正であるように思います。
例えば4 アニー・チャップマン(47歳)の死因を検視審問でジョージ・バグスター・フィリップス医師は呼吸が
妨げられ、次に出血多量のため心臓が停止(「失神」つまり血圧の急激な低下)としていますが、もし切り裂
きジャックによる殺人としたら、コーンウェルが述べているように「首の切り傷による失血」とするのが正しい
筈です。コーンウェルは「血圧の低下」は死に伴って当然起こる現象であり、死ぬときは誰でも血圧は下がり、
絶命すると血圧はゼロになると述べています。(コーンウェル著「切り裂きジャック」講談社P243より)
5 エリザベス・ストライド(44歳)、6 キャサリン・エドウズ(46歳)、7 メアリー・ジェーン・ケリー(25歳)の
死因について検視審問で医師たちは「喉の切り傷による失血」としていますが、これは自殺とみなされた喉
に切り傷のある身元不明の死体に対する当然の判断ではないでしょうか?
検視審問での医師の不審な態度もこれで説明がつきます。
例えば4 アニー・チャップマン(47歳)の下半身の傷について、ジョージ・バグスター・フィリップス医師は証
言を渋りましたが、もともとそんな傷など無かったのでそうしたのではないでしょうか?
ロンドン公文書館に保存されていたアニー・チャップマンの死体置場の写真では、顔はわかりますが、身体
は着衣におおわれているため傷の状態はわかりません。これは3 メアリー・アン・ニコルズ(43歳)の死体
置場の写真についてもいえることで、顔はわかりますが、身体は布でおおわれています。
検視審問に対する政府の干渉がはっきりわかるのは、最後の犠牲者メアリー・ジェーン・ケリー(25歳)の
場合です。
事件がホワイトチャペルで発生したにも拘らず、検視審問はショアディッチ・タウンホールで開かれました。
コロナー(検死官)はそれまで検視審問を指揮していたホワイトチャペル地区担当のウィン・E・バクスターか
らショアディッチ地区担当のロデリック・マクドナルドに変更されました。
ウィン・E・バクスターは検視審問で解剖医のジョージ・バグスター・フィリップスに対し、アニー・チャップマン
(47歳)の下半身の傷について追求するなど、事件の真相究明に意を注ぎました。
政府の意向に従順でなかったといえます。
後任のロデリック・マクドナルドは、この事件でも解剖を担当したジョージ・バグスター・フィリップスの詳しい
証言を審問の場で求めず、1日もかけずに審問を打ち切り、「未知の1個人もしくは複数の個人に対して
故殺」という陪審の評決を記録しました。
審問の場でジョージ・バグスター・フィリップスに対し、遺体の一部が失われていなかったか、凶器はなにか、
いつ死亡したかを尋ねもしませんでした。
この不自然な検視審問は再審されて当然でしたが、当のホワイトチャペル地区の管区嘱託医ジョージ・バグ
スター・フィリップスが内務省から長期に亘り任務を受けているという理由から行われたコロナー(検死官)と
の内々の協議を公けにすることができず、再審は行われませんでした。
メアリー・ジェーン・ケリー(25歳)の遺体の惨状はマスコミで喧伝され、切り裂きジャックの悪名は轟きました。
ロンドン公文書館所蔵の遺体写真は不鮮明ながら、その惨状を推測させるものですが、それは警察の徹底
的に入念に行われた解剖の結果を示しているものかもしれません。
このように私は「切り裂きジャックはいない」と考えますが、様々に唱えられた切り裂きジャックの正体につい
て、一つ無視できない説があります。それはパトリシア・コーンウェルがその著書「切り裂きジャック」で唱え
ている「切り裂きジャックは画家ウォルター・シッカート」という説です。
コーンウェルは次の2点を根拠にウォルター・シッカートを切り裂きジャック見なしています。
1 切り裂きジャックからと思われる手紙のすかしとウォルター・シッカートが出した手紙のすかしに同一のも
のがあること
2 切り裂きジャックがロンドン病院病理学記念館館長ドクター・トマス・オープンショーあてに出したとされる
手紙の裏に張られた切手から取り出したミトコンドリアDNAとウォルター・シッカートが出した手紙が入っ
ていた封筒やそれに貼られた切手から取り出したミトコンドリアDNAが一致したこと
ミトコンドリアDNAは細胞核の中のDNAでなく、細胞核外にあるミトコンドリアという小器官の中にあるDNA
で、母親のみから伝わるものです。
ミトコンドリアDNAが一致したものは他に3件あります。
それは、切り裂きジャックがオープンショーあてに出したとされる手紙の表に張られた切手、ウォルター・シッ
カートの妻エレン・シッカートが出した手紙が入っていた封筒、切り裂きジャックの手紙が入っていた血のよう
なしみがついた封筒です。
他にもミトコンドリアDNAの配列の一部が一致したものとしてウォルター・シッカートが絵を描くときに着ていた
白いカバーオールを挙げています。
ただウォルター・シッカート本人のDNAが残っていないのが最大の難点です。
コーンウェルはウォルター・シッカートの妻エレン・シッカートが出した手紙が入っていた封筒に同一のミトコン
ドリアDNAが見つかる理由をエレンが夫ウォルターと同じスポンジを使って封筒の折りしろを湿らしたかウォ
ルターが手紙の投函をエレンに頼まれたため封筒の折りしろをなめたり手でさわったりしたのではないかとし
ています。
私は切り裂きジャックの手紙を書いたのはウォルター・シッカートだと思いますが、それを投函したのは主に
妻のエレンだと思います。
ウォルター・シッカートは自らを切り裂きジャックと疑わせるような行動をとっています。事件の被害者の遺体
をモデルとしたかのような絵を描いています。また、切り裂きジャックの手紙と同じすかしの入った手紙を出し
ています。これらの行動はわざと自分を切り裂きジャックと疑わせているように思えます。
私はウォルター・シッカートとその妻エレンはイギリスの諜報員であると思います。
彼らの任務はホワイトチャペル殺人事件の犯人として残忍な「切り裂きジャック」を作り出し、人々にそれを
信じ込ませることでした。(彼らが本当の夫婦であったかは疑わしい点があります。)
ウォルター・シッカートは自らを切り裂きジャックと疑わせて、切り裂きジャックが人々の記憶から薄らいでい
くのを食い止めようとしているかのようです。
さて切り裂きジャックが最後の犠牲者メアリー・ジェーン・ケリー(実はエレーヌ・ド・オルレアン)を殺したとさ
れた後プリンス・エディーはエレーヌ・ド・オルレアンとどのようにして逢っていたのでしょうか?
これにはイギリス政府がこの事件と同様に捜査に介入したと思われる事件が係わってきます。
それはクリーブランド・ストリート事件です。
これはクリーブランド・ストリート(クリーブランド19番地)にあったホモセクシャル相手の売春宿の摘発に絡
んでプリンス・エディーがその常連客であったことが判明した事件で、スキャンダルという意味でクリーブラン
ド・スキャンダルともいわれます。
捜査主任としてホワイトチャペル殺人事件(後に切り裂きジャック事件)の指揮を執っていたアバーライン警
部がこの事件も担当することになったのには何か意図的なものを感じます。
この売春宿の家主チャールズ・ハモンドはアバーライン警部の部下が見張りを続けている中フランスに逃亡
しました。
スティーブン・ナイトによれば(「切り裂きジャック最終結論」成甲書房P187〜189)公訴局長のファイルに
はイギリスの最高権力者たちの書簡やメモがぎっしり詰まっています。そしてそれは殆どがこのスキャンダル
をもみ消す方法に関してのものです。
例えば首相ソールズベリー卿は、内務大臣の問い合わせに対し、「フランス政府にハモンドについて逃亡犯
強制送還への協力要請を行う必要なし」と答えています。
大蔵省は、イギリスにいる唯一の重要参考人アリーズを買収し、国外へ出そうとしたばかりか、アメリカへ渡
るなら渡航費用のみならず生活費も支払うとの申し出を行いました。
ヴィクトリア女王すら大法官ホールズベリー卿とこのスキャンダルについて話し合った節があります。
また同じくスティーブン・ナイトによれば(「切り裂きジャック最終結論」成甲書房P189〜192)マスコミの中
にもこの不正を追及した記者がいましたが、名誉毀損の罪で1年間の禁固刑に処せられました。
プリンス・エディーの父親エドワード7世や母親のアレグザンドラ王妃の私文書は彼らの死後焼却されました。
彼らの意思だったのですが、ホワイトチャペル殺人事件やクリーブランド・スキャンダルについて記載された
公けにされたくない事実を葬るためとも考えられます。
プリンス・エディーがホモセクシャルでもあったということは本当でしょうか?
エレーヌ・ド・オルレアンに逢うカムフラージュとしてホモセクシャル相手の売春宿(この女性の住居がこの宿
とは限りません。そのそばに住んでいたかもしれません。)を利用したと考えることはできないでしょうか?
それならイギリス政府の高官がこの事件のもみ消しに動いたのは納得できます。
警視総監チャールズ・ウォーレン卿によってメアリー・アン・ニコルズ殺害の前夜に犯罪捜査部長に任命され
たロバート・アンダーソン卿は、ホワイトチャペル連続殺人事件のさ中アニー・チャップマン事件の翌日に休
暇を取ってスイスに旅行しています。これは常識では考えられない行動です。しかし、エレーヌ・ド・オルレア
ンとプリンス・エディーの今後の逢瀬について、フランスのパリ伯爵と打ち合わせをしたと考えると辻褄が合
います。ホモセクシャル相手の売春宿に通うというカモフラージュはこのとき考え出されたのでしょう。
プリンス・エディーは1892年1月9日肺炎のため亡くなりました。弟のジョージは兄の婚約者ドイツのテック
公爵の娘プリンセス・メイと1893年7月に結婚し、1910年ジョージ5世として王位につきました。
ジョージとプリンセス・メイの結婚について当時のポピュラーなプレスはメイが最初から愛したのはジョージで
あり神の定めだったと仄めかしました。(デニス・フリードマン著「王家の遺産 英国王室心理歴史」 近代文
芸社P75による)
ジョージがプリンス・エディーの死の前年1891年12月にチフスで死にかかっていて、この月にプリンス・エデ
ィーとプリンセス・メイの婚約が正式に決まったという話があります。
もともとジョージとプリンセス・メイが婚約するはずが、ジョージの死が確実視されたためプリンス・エディーと婚
約することになったと考えるのは、うがち過ぎでしょうか?
ジョージが回復したためプリンセス・メイとの婚約が復活し、プリンス・エディーは亡くなったとされたと考えるの
は途方もないことでしょうか?
もともとプリンス・エディーはイギリスのプリンスであることに喜びを感じていないようでした。亡くなったことにし
てどこかでひっそりと暮らしたと考えるのは考え過ぎでしょうか?
ケンブリッジのキングス・カレッジでプリンス・エディーの個人教師であったジェムス・ステファンは精神病院入
院後、プリンス・エディーの肺炎が公表された日、ハンガーストライキに入り、プリンス・エディーの永眠前死去
したとされます(デニス・フリードマン著「王家の遺産 英国王室心理歴史」 近代文芸社P72による)が、これ
も疑わしく思えます。プリンス・エディーの世話をしていくための作り話ではと疑いたくなります。
エレーヌ・ド・オルレアンはその後誰と結婚したのでしょうか?気になります。
プリンス・エディーと結婚し幸せに暮らしたとしたら、とても素晴らしいことに思えるのですが...。
(参考文献:「王家の遺産 英国王室心理歴史」デニス・フリードマン 近代文芸社、「切り裂きジャックの真
相」ブルース・ベイリー 原書房、「切り裂きジャック」パトリシア・コーンウェル 講談社、「切り裂きジャック最
終結論」スティーブン・ナイト 成甲書房、「世界の都市の物語 6 ロンドン」小池 滋 文藝春秋、「切り裂
きジャック」コリン・ウィルソン&ロビン・オーデル 徳間書店)
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