| nozomi-web diary | 2004年06月19日(土)23時17分44秒更新 |
| 不定期更新。掲示板に書いていたものをこちらに書きこみます。 現在までの書き込み全総数 118 件 内現在保存数 118 件(一度に 20 件 ずつ表示) |
サマータイム 2004年03月31日(水)04時58分05秒 |
No 118 |
| 週末にサマータイムへの時間変更が行われ、南仏のモンペリエは一気に観光シーズンへと 入っていく。 夜の8時半頃まで陽が射すようになる街にはヨーロッパやフランス中からやってくる 観光客に 徐々に埋め尽くされていくだろう。暖かくなるのと共に最近は休日を利用して 歴史のある古い街や、 近場の山や渓谷などに足を伸ばすようになった。 日本ではあまり知られていないのかも知れないが、 何処も素敵なところばかりである。 チームは13ものゲームを苦しんだ末にオセール戦で久々の勝ち点3を手に入れた。 この試合に出場することは出来なかったが若手中心のチームに切り替えてからの3試合は 結果がぎりぎりの所で伴わないものの、内容は良くなっている。 結果につながる後一押しの部分を 自分が補えればと思う。やれる手応えはあるのにチャンスに辿りつけないのはしんどいけれども、 痺れを切らさずにアピールし続けなければならない。シーズンは残り2ヶ月になった。 | |
新年モンペリエより 2004年01月01日(木)21時13分08秒 |
No 117 |
| 友人宅で数ファミリーが集まっての年越しパーティーにまざり新年を迎えた。
元旦も午後から練習があるため、最後まで付き合うことは出来無かったが、 各ファミリーそれぞれが腕を振るって持ち寄った料理を皆でつついて2003年最後の夕食を楽しんだ。 皆からのリクエストもあり近所の寿司バーから差し入れした寿司弁当もおおむね好評だったようだ。 モンペリエに来てから5ヶ月が経ち、シーズンの折り返し地点にいる。序盤戦で手応え感じたものの、 怪我からの復帰後はなかなかチャンスを与えられない状況にある。 良いときも悪いときもそれなりにきちんとボールを繋ぎ、連携から意図のあるプレーをする フランスのサッカーは自分にはあっていると思うだけに試合に出られないのは悔しい。 トップの試合にベンチ入りしないメンバーで、ほぼ毎週行われるCFAリーグに出場しているのだが 昨年最後の2試合では得点・アシストと結果が出ているので、 さらに日々の練習で好調さをアピールしていきたい。 6日間のクリスマス休暇では城塞都市カルカッソンヌを見て周ったり、 醤油持参で牡蠣養殖の街メズに行き新鮮な生牡蠣をご馳走してもらったりと良いリフレッシュも出来た。 いずれもモンペリエから車で行ける範囲にあり、改めてここモンペリエ周辺の地域を気に入った。 南仏地方は先月稀に見る大雨でスタジアムがプールになってしまうほどの被害を被ったが、 基本的に南仏の冬はカラッとした晴天の日が多くて過ごしやすいので助かる。 ポルトガルの冬のように毎日泥だらけになって練習しなくて良いし 何よりも練習の能率も下がらないで済む。グラウンドの土が軟らかいのは相変わらずだがさすがに慣れた。 この後もう少し気温が下がることはあるそうだが、寒さに凍えてグラウンドに出て行く事はなさそうだ。 | |
開幕
2003年08月04日(月)19時22分35秒 |
No 116 |
| 欧州の他の多くのリーグに先駆けてフランスリーグは開幕。
ワールドカップでも使われたホームスタジアム「ラ・モッソン」で レンヌを迎えたモンペリエの開幕戦に後半開始から出場した。 未だ見知らぬはずの自分に対し、モンペリエのサポーターは巨大な日の丸フラッグと 大声援で迎えてくれた。それは本当に嬉く、そして有難かった。 ポルトガルに戻りエストリルでキャンプをスタートしてから約1ヶ月。準備期間としては少し短く、 新チームと過ごした時間も十分ではなかったかもしれない。しかし思った以上に体は動いた。 このスタートまで来る間、自分を支え協力してくれていた仲間とスタッフに感謝したい。 リーグは全20チーム、38試合続く。 | |
モンペリエ 2003年07月28日(月)02時10分27秒 |
No 115 |
| モンペリヘの街にやって来て1週間が過ぎた。
メディカルチェック、契約や記者会見、それに練習や練習試合と多忙な1週間を過ごしたが 漸く少し落ち着いた気がする。 ホテル暮らしである事や車がまだ無い事など多少の不自由はあるが、 エストリルプライアとのキャンプを終えた直後にモンペリエに合流したので コンディションは悪くない。開幕までのあと一週間でチームに出来るだけ溶け込み、 万全の状態で開幕に望みたい。 幸いチームにはスペイン語とポルトガル語を理解する選手がそれぞれ1人ずつだがいるので、 助けてもらいながらコミュニケーションはとれそうである。 街の中心地区のホテルに滞在し練習に通っているのだが合間に散歩に出かけると、 広場はバカンスを楽しむ観光客や学生など様々な人で溢れている。 油絵のように印象的なパラグアイの街並とも水彩画のような落ち着いたポルトガルの街並とも違うが、 華やかで活気のあるこのモンペリエの街をとても気に入った。 | |
背番号 2003年07月13日(日)03時29分41秒 |
No 114 |
| 7月に入ってからポルトガル2部リーグの「エストリル・プライア」というチームで練習している。
8日からは200キロほど北へ移動して約2週間のキャンプに入った。 そのキャンプ3日目。2部練習を終えて夕食を食べた後、初めてミーティングが開かれた。 チームの副会長や役員が何人かこのキャンプ地まで顔を出してチームの決め事や予定等を話した後、 行われたのはなんと選手の背番号決め。 昨年からの番号を引き続けたい選手は優先権があるがそれ以外の番号は挙手制。 同じ番号に選手がかぶるとそこで10ユーロスタートの「せり」が始まり その番号が欲しい選手同士で値を上げていく。 一番高い値をつけた選手がその背番号をつける権利を得るというシステムだ。 収益金はもちろん選手会主催の昼食会等に使われるという。 シーズン前のキャンプなのでとにかくフィジカル練習が多くきついが コンディションは確実に良くなっている。 | |
カスカイス 2003年07月02日(水)09時27分19秒 |
No 113 |
| 2週間の休暇を日本で過ごした後、またポルトガルへ帰ってきた。1年間過ごしたブラガの部屋の荷物を整理して車でリスボンへ。次のチームが決まるまでこのリスボン近郊のカスカイスの街で過ごすことになった。今回日本に帰る直前にポルトガルを旅行して回っていたのだが、その時にもこの街に滞在してとても気に入っていたのでまたここに来る事が出来てうれしく思う。なだらかな斜面のある丘にピンクと白のマンション郡が建ち並ぶこの街には美しい海岸線やリゾート施設もある。その海岸沿いにはポルトガルリーグ2部に所属するクラブもあり今回はしばらくそのチームで練習に参加させてもらい体を動かす予定だ。
日本では毎日のように知人に会ったり美味しい物を食べたりしていたので休養もばっちりである。ポルトガルはこの時期午後10時くらいまで陽が照っているので1日がすごくゆっくり流れていく。次のチームが決まるまではここでしっかりと準備して体を作って行きたい。
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新スタジアム 2003年04月09日(水)05時41分34秒 |
No 112 |
| 先日、午前中の練習を終えた後にスタッフと選手、そして会長を含むクラブ関係者皆で
ブラガの新スタジアムを訪れてきた。 来年のEURO2004にむけて現在はまだ建設の途中なので、ヘルメットをかぶって工事現場を見て回っただけなのだがそれでも規模や皆の期待の大きさが良くわかった。山に埋め込むようにして出来ると言う。 メインとバックスタンドだけでゴール裏の無いスタジアムなのだが、素晴らしいスタジアムになるだろう。 リーグ戦も終盤戦に向かっているが、未だなかなかチャンスがもらえない状況だ。 チームは中位につけているものの下位から中位までに殆どポイント差が無いため、 降格圏からできるだけ早く遠ざかる事がチームの現状である。 安定した戦いが出来ていないチームの中でいつチャンスが来ても良いように準備するしかない。 | |
セール 2003年02月12日(水)02時53分04秒 |
No 111 |
| 2月に入ってからは晴天が続いている。
3ヶ月続いた雨の季節が終わったのかは疑わしいけれど、とにかく嬉しい。洗濯もはかどる。 何よりも練習が楽しい。芝生の養生のためにひどい時は週に5日も郊外のグラウンドへ 練習に行っていたが最近は毎日スタジアムで練習できる。 晴れて悪い事はひとつも無い。 雨が降っていた時は人気が無かったこの街にも、 晴天とバーゲンセールの開始とともに人々に活気が感じられるようになった。 ここの所試合から離れてしまっているが、次のチャンスを得るために 日々前向きに練習に取り組んでいる。自分のコンディションは昨年末に比べたらだいぶ良いし、 チームの試合内容も良くなってきている。 チャンスを得れば今まで以上のプレーを出来ると思うし、しなければならない。 今年に入り知人が立て続けに訪れてくれて、大変励ましになった。 | |
年明け 2003年01月12日(日)22時10分20秒 |
No 110 |
| 年が明けた。
思えば昨年は思いがけずであったが様々なグラウンドで色々な仲間とボールを蹴っていた。 選手のキャリアとしてカウントされ積み重ねられるものはその内少しだったかもしれない。 だが様々な環境、状況の中で常にサッカーをプレーし続ける事で得た事、感じた事は少なくなかった。 プレー以外の面で言えばノーマルなシーズンを送るよりもずっと多くの事を経験した。 怪我を含めていい事も悪い事もあったが今こうして自分に活躍するチャンスがある事を、 ここまで支えてくれてきた多くの人々に改めて感謝したい。 8月に始まったリーグ戦は現在折り返し地点を迎えている。 怪我で出遅れた事もありここまではあっと言う間だったが、日々最善を尽くしていきたい。 ここ数日、晴れ間が除く時間も多いのだが気温は急に下がってきている。 日本よりはまだ暖かいという事だがそれでも自分には耐え難い寒さが続いている。 | |
雨
2002年12月13日(金)06時53分30秒 |
No 109 |
| 12月に入りほぼ毎日雨が降り続いている。時折晴れ間が見えたかと思い喜んでも、気がついた時にはまた雨の中。雨が降っているのが普通だから再び降り始めたことに気づかない。こんな気候なので当たり前だが、毎日泥だらけになりながらサッカーをしている。
11月初めに復帰した後リーグ戦カップ戦含めて7試合 すべての試合ベンチには入っているが出場したのは4試合。 特に11月はまだまだ自分のリズムでプレーしていなかったと思う。 12月に入りプレーに切れが出てきたと思えるし、攻守にわたりボールに触る回数が増えてきた。 やはりボールに数多く触れるとリズムも出るしやってて楽しい。 ブラガのスペイン人監督カストロ・サントス、訪ねて来てくれたジーコの両氏に言われた事だが 「喜びをもってプレーする」という事の大事さを感じる。 ボールを受けずにまたはボールを奪わずにサッカーを楽しむ事はありえない。 復帰直後の11月はそういう事を忘れていたかもしれない。 | |
マデイラ島 2002年11月11日(月)06時39分55秒 |
No 108 |
| スポルティング・ブラガのプリメーラ(トップ)チームの選手構成はブラジル人5人、
スペイン、ナイジェリア人各2人ずつにアンゴラ、アルゼンチン、オーストラリア、 日本人が各1人の13人の外国人を含む24人ほどで構成されている。 また、外国人のうちEU国籍を持っていないのは7人でそのうち4人が 18人の試合用メンバーに登録が出来る。 セカンドチームにあたるセグンダ・ベーのチームとかけ持ちしている選手も3・4人いて、 メンバー外の時には国内3部リーグにあたるリーグ戦の試合に出場している。 土曜日はアフリカ大陸の近くに浮かぶマデイラ島で初のスタメン出場を果たした。 結果は3連敗となる0−3の敗戦。常夏の島でのデイゲームはしんどかったが、 90分走り続けた。 初スタメンの試合を飾れなかった事は残念だったが、10月初めのラクタートテスト (ランニングと血液検査による体力測定)ではチームでダントツの最下位だった事を考えると 思ったよりもやれる事がわかり自信にはなったしボールも前節と比べると倍くらいは 回ってくるようになった。 今後は一つの無駄も無くしチャンスをつかんでいきたい。 | |
フェジョン 2002年10月03日(木)23時40分51秒 |
No 107 |
| 前節に勝利したからか、または次節が強豪スポルティング・リスボンを
ホームに迎えるからなのか、皆で昼食をとった。 木曜日の午前練習後に選手と監督、現場スタッフ、クラブの役員が皆でレストランに集まり ブラジル料理を食べたのだ。ここはブラジルに数年住んでいたことのある夫婦が始めたピザ屋で、 フェジョアーダなどのブラジル料理も出すらしく試合後の夜にはチームのブラジル人が 家族総出で集まっているという事だった。そういう事もあり今回はチームに5人いる ブラジル人が中心になって皆を集めてくれた。かまどで焼いたピザトーストや海鮮リゾット、 久しぶりに食べたブラジルの豆料理フェジョンなどがとても美味しかった。 今週のスポルティング、その次のベレネエンセスとの対戦後に2週間の間があるので そのタイミングでの復帰を目指して現在はリハビリを続けている。 | |
旧市街 2002年09月11日(水)23時46分27秒 |
No 106 |
| ブラガに来てから早くも1ヶ月以上の時間が流れた。
7月末の膝の怪我の影響でリーグ戦開幕後も別メニューを続けている。 開幕に間に合わせようと復帰をあせった時期もあった。しかしチームドクターや フィジオセラピストと相談し完全に良くしてからの復帰を目指すことにした。 3週間ほど過ごしたセンター街近くのホテルからマンションに引越し車も手に入れて 普段の生活はすっかり落ち着いてきているが、毎日続く午前午後あわせて7時間以上の リハビリに拘束されて割と忙しい日々を送っている。 ノーマルな練習も日本のチームに比べて比べてもかなり長めの2時間半。 リハビリの選手は毎日他の選手より1時間早く来て約1時間半ほどの電気治療を受けるため 必然的に練習場にいる時間も長くなる。8月のほとんどの時間をリハビリに費やしてしまったが、 復帰する時に怪我前よりもコンディション的に強い状態で迎えられるように今は 前向きにリハビリを続けようと思う。 旧市街であるセンター街を仲の良いスペイン人選手の アリエッタと何度か買い物がてらに歩いてまわった。 落ち着いた綺麗な街と中心にある噴水広場のカフェを気に入っている。 | |
ブラガから 2002年08月04日(日)07時10分56秒 |
No 105 |
| 日本語だと一つ一つ別の意味を持ってしまうが、スペイン語では「命」も「人生」も「生活」も「la
vida」である。日々生活を楽しく過ごす事が人生を楽しく過ごす事であり、日々生活を充実させることが自分の限りある命を充実させる事であるという気持ちになるから僕はこの言葉が好きだ。昨年、1年間の海外でのプレーに協力してもらう事を条件にしてJEF市原と契約を結び南米へと渡った。
今回のスポルティング・ブラガへの移籍では、マスコミを含めほとんどの人に国際移籍をする経緯・システムが知られていなかったため沢山の誤解を生んでしまったと思う。誤解を少しでも減らせればと思い書くが今回までにJEF市原フロントとの数回の話し合いの中で結論としていつも出ていたのは、自分が海外クラブに所属した時にそのクラブの所属する国のサッカー協会から日本サッカー協会に要請する国際移籍証明書がそのクラブに届くのか、もしくはJEF市原の主張を理由に日本協会内で止められるかと言う事だけだった。その互いの主張に白黒がつけばお互いに結果は問題は無いという互いの認識を確認して自分は1月に南米に渡った。新聞等の報道で誤解されている方も多いかもしれないがその後ブラジルのスポルト・レシフェと契約した際にそこまで事態が到達しなかったのは国際移籍証明書発行依頼に必要な自分のブラジルでの労働ビザが、所属クラブの経営状態等の影響で下りなかったためである。その後パラグアイのクラブチーム、リバー・プレートに所属し国際移籍証明書依頼がパラグアイサッカー協会より日本サッカー協会に行った後、国際移籍証明書がパラグアイサッカー協会に無事届いた。それを受けてヨーロッパへの移籍を視野に代理人に複数チームとの交渉をしてもらい現在のスポルティング・ブラガとの1年契約したという状況になった。現在はポルトガルから国際移籍証明書の発行依頼も出ていてその到着を待っている状況である。
大雑把に状況を書いたがすべてを書こうとすると文章で表すには言葉が足りなくなってしまい、また更なる誤解を生む可能性もあるので現在の状況ではっきりしている部分を書いた。いずれ今回の推移をきちんと説明できる機会があればよいと思う。JEF市原との移籍交渉、またはその後の話し合いでは常にお互いの状況・考えを理解しあえていたと思うし、自分が市原というチームに対してどういう思いがあるかはJEF市原に伝わったと思っている。ただ契約として成り立たなかっただけなのだが数度と市原の社長や強化部長に話し合いの場を持ってもらえた事に感謝している。
現在スポルティング・ブラガに合流して1週間が経とうとしている。スタッフやチームメイトの中にスペイン語を話す人間が何人かいるおかげですぐに昔からのチームメイトのようになじむことが出来た。日本とも南米ともまた違う雰囲気があるが、古い建物の多いこのブラガの街もからりとした気候も気に入った。とにかく今は自分のプレーをアピールする日々である。また昨年のように日々の出来事、チームメイトとの事、試合の事などをここで報告できるようになれば良いと思う。
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アルビロッハ 2002年06月14日(金)10時04分02秒 |
No 104 |
| スペイン対南アフリカの中継に裏のパラグアイ対スロベニアを交えて放送していた試合を観た。
決勝トーナメント進出チームが勝ち点と得失点差によって決まると言う状況で、 実況もどちらかで点が入るたびに勝ち点と得失点を計算して順位を予想すると言う 忙しい展開の試合だった。結果的に前半に一人退場者を出して0-1で負けていた パラグアイが逆転勝利でスペインと共に決勝トーナメント進出を決めた。 それほど沢山の試合を観れていた訳ではなかったがこの試合は今回のワールドカップの 予選で観た中でももっとも観応えのある面白い試合だった。 セロでチームメイトだった選手が活躍した事も嬉しかったが、 パラグアイ人の不屈の姿勢とそれがもたらした最終的な結果に 何かを教えられたような気がした。 翌日にはブラジルがコスタリカに大勝して予選リーグ3連勝に。 街ではいよいよカナリア色のユニフォームが目立つようになった。 | |
国内リーグ 2002年06月07日(金)23時45分14秒 |
No 103 |
| ワールドカップが開幕した。街で見られるブラジル国旗はいよいよその数を増やし ショッピングに行けば応援グッヅがこれでもかと言うほど売っている。 初戦を逆転勝ちでスタートしたセレソンを応援するブラジル国内は まさにワールドカップ一色だ。 そんな中でもクラブチームは並行して国内リーグ(おもに州リーグ)を 週に2試合のハイペースで行っている。ひいきのチームへの注目は ワールドカップ中も変わらず、ライバル同士の対決となるクラシコでは 代表チームのことなどどこかに行ってしまったような熱狂の応援ぶりでチームを煽る。 サポーターはチームが常に攻撃的であることを望んでいる。 ワールドカップはここブラジルでももちろん全試合が生中継されているが、 放送は夜中から朝にかけてなので午前中に練習がある時は見たい試合を見る事も ままならないのが残念だ。 | |
チャリティーマッチ 2002年05月27日(月)05時03分13秒 |
No 102 |
| 少し前の話になるがブラジルからドイツに渡りチャリティーマッチに参加してきた。
元鹿島のジョルジーニョがメインオーガナイザーとなって企画されたブラジルの 子供達のためのチャリティーマッチで、ドイツチャンピオンなったばかりの ドルトムントとの対戦となったこの試合には自分にとって今までサッカーを やって来た中でも特別に意義のある試合となった。久しぶりのゲームであったことや 素晴らしい選手とともにピッチに立てた事はもちろん嬉しかった。 しかしそれ以上に南米の貧しい子供達を助けるためにピッチに立ったという事が嬉しかった。 パラグアイにもブラジルにも、この南米大陸には大人の助けを必要としている 沢山の子供達がいる。自分がプレーすることで彼らに希望を与え少しでも 助けることが出きるのならばのならばサッカー選手としてこんなに 嬉しいことは無い。このチャリティーマッチに参加する経緯で多大な協力を して頂いた関係者の方々に深く感謝している。 今回宿舎や食事の場でジョルジーニョやドゥンガと話をするなかで、彼らのブラジルでの 多くの活動を知りとても勇気づけられた。 彼らはそれを「トラバーリョ デ コラソン」(心の仕事)と言っていた。 素晴らしいと思う。 現在未だに試合に出場することの出来ない状態が続いているが、チームでは 日々元気に練習を続けている。ここレシッフェは南米のほかの多くの都市が 秋から冬に移り変わっている中で相変わらずの真夏の天気が続いていて気持ちが良い。 ワールドカップが近づきブラジルでは街中至る所にブラジル国旗があふれていて、 世間はサッカー一色になりつつある。 | |
ブラジル 2002年04月15日(月)12時12分41秒 |
No 101 |
| レシフェにやって来て早くも1ヶ月が経った。スポルトとの契約後すぐにチームに合流してまた毎日サッカー漬けの日々を送っている。労働ビザ等の書類が整わないために未だ公式試合に出場はしていないがチームにもレシフェの街にも完全に馴染む事が出来た。同じ南米とはいえパラグアイとは言語・人種・歴史が違うため様々な違和感があるがブラジルでも有数のリゾートビーチを持ち美しく比較的にのんびりしたこの街を僕は気に入った。そのパラグアイとの違いの中でもとりわけ想像以上だったのがスタジアムに来るサッカーファンの熱狂度だ。パラグアイでももちろんサポータの熱狂はものすごかったがゴール裏の一部を除けば雰囲気としてはサッカーを愛し楽しみに来ている感じだった。だがこちらはゴール裏はもとよりスタジアム1周サッカー狂。紳士も子供も若者も同じレベルでプレーヤーの動きとレフェリーの判断を追いそして叫ぶ。選手にしても明らかにそれを試合中に意識せざるを得ないようなサポーターの試合へ干渉ぶりである。新しい環境に来ると様々な友人や新しい感覚、知識を得ることが出来る。本当に沢山ある。また少しずつ書いていこうと思う。
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レシッフェ 2002年03月14日(木)09時54分57秒 |
No 100 |
| 契約が決まるまでの2ヶ月間を再びパラグアイで過ごしていた。
保有権フリーの選手を集めたチームで練習や試合を重ね、空いた時間には 個人的にフィジカルコーチとコンディションを上げていった。このチームは、 契約が決まり去る選手と契約が切れて新たにやってくる選手がどんどん入れ替わるので スタメンは不定だが、パラグアイの1部リーグのチームとの練習試合では ほとんど負けることは無かった。日本では考えられないチーム編成であったが この仲間とサッカーをして沢山のことをまた学んだ。昨年のこの時期と 同じ場所、そして全く同じ気持ちでスタート。サッカーは世界中どこにでもある。 プロサッカー人生が二度あるならば、その内一度はJEF市原で所属できる限り プレーし続けていたと思う。JEF市原は自分にとってそういうチームだ。 ただ自分には一度だけのサッカー人生。自分がサッカー選手でいられる間は 常に自分の可能性を広げて見たいと思っているし、自分にある可能性を最大限に 模索してみたい。今回に日本に戻らなかった事も、海外で自分を必要としてくれる チームがあるのならば日本でプレーする事は考えられなかったからだ。 パラグアイで1年間プレーして本当に沢山の事を学んだり感じた。それは日本では 感じ得られない事であり、自分がサッカーと言う世界の共通語を操る職業で あったからこそ得られたものだと思う。 今回も移籍に関して昨年同様沢山の人に心配と迷惑をかけてしまったが、 自分に出来ることはやって来るチャンスをものにして結果を残していくことだけだ。 言葉も違う自分のことを知らない人間を相手にまた一からスタート。だがやりがいはある。 結果を出せばまた得るものもあるだろう。とにかく精一杯頑張ろうと思う。 | |
帰国
2001年12月18日(火)00時42分43秒 |
No 99 |
| 本格的な夏が始まっているパラグアイについに別れを告げ地球の裏側、真冬の日本に向かっている。
サンパウロ、ニューヨークでのトランジットではいつも2・3時間ずつ待たされるので文章を書く のにちょうど良い。 完全優勝のおかげで最後の1ヶ月はリーグ戦終了後の2週間のオフとその後2週間のトレーニング をこちらで過ごしゆっくり南米のパラダイス、パラグアイを味わった。 選手主催のアサードでは午前練習の後の午後いっぱいを使って皆でプールやビーチバレーで遊んだり 日陰で集まってカードをしたりのんびりと過ごした。 パラグアイにはこうした週末をゆっくり仲間で過ごすための施設が数多くあり安い値段で利用できる ので、金土日曜日はあちこちで夜中までのパーティーを見かけることが出来る。 パラグアイを去る際に全ての友人そしてチーム関係者に1年間分のお礼と別れを告げて、自分が いかに彼らに助けられてやってきたかを再確認した。 彼らのエネルギッシュな陽気さと自分をいつも家族の一員のように受け入れてくれた懐の深さに 心から感謝している。彼らのような温かい人間でありたいと思う。 | |
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