『沖縄文化論』を読んで


沖縄文化論-忘れられた日本(中公文庫) を読んで
 
 著者は、太陽の塔などで有名な岡本太郎。私には、晩年のTVでの「バクハツだー!」など独特の言動と風貌でなじみ深い人物である。その奇怪とも映る言動から、私は、彼は単なる「変わり者」ではないかという誤解を長年に渡って抱いていた。沖縄という愛すべき土地を介して、その誤りを正してくれたことに関して、改めて沖縄の偉大さを痛感した。
 
 彼もまた、沖縄に恋いこがれ熱烈に愛した、ひとりの日本人であった。その虚飾のない純朴な文化にとことん惹かれ、そこに日本文化の原型を見出そうとしている(副題は「忘れられた日本」である)。奈良や京都に咲き誇った豪華絢爛たる文化は、むしろ大陸から輸入されたものであって、生活から切り離された帝国主義的な力の誇示にすぎない。それに対して、沖縄の文化には、そのような虚飾は一切見られない。沖縄に於ける美なるものは、全てが生活に根付いていている。
 この沖縄への熱烈なラブレターともとれる書物(「一つの恋の証言者」と、岡本敏子は解説を付けている)は、「何もないことの眩暈(めまい)」という体験で一貫している。質実で素朴な沖縄の人々の生活の一コマ一コマに、溢れんばかりの圧倒的なエネルギーを体感し、そこにこそ本質的な美しさを見出しているのである。台風に備えて積み上げられたゴツゴツした石垣、頭に乗せるクバ笠や籠、阿檀葉(あだんば)のむしろなど。彼は、無条件にこれらを美しいとする。意識された美などではなく、生活の必要から生み出されたギリギリの状況の中から、閃光のように弾き出された美しさだからである。
 その美しさの究極が「八重山悲歌」に見られる。もちろんここにも虚飾は一切ない。薩摩藩や明治日本政府による過酷なまでの圧政下、八重山諸島の人々は、文字を習得することまでも禁じられたからである。つまり、八重山悲歌には、楽譜にも記録にも残されることなく、ただただ口承されるだけである。人頭税などで過酷な取り立てられるギリギリの限界状況の中で、八重山の人々は、叫び、呻き、喚いた。決して、形に残るような洗練された歌を唱ったのではないのである。そこにも意識された美、つまり見られるための美は全くない。そこにこそ、著者は格段の美を見出し、虚飾が一切ないことに眩暈をおぼえたのであろう。
 
 興味深いことに、彼はまた、沖縄のお婆さんにも惚れ込んだ。着るものは粗末ながらも、慎み深く、皺くちゃの笑顔をふりまくお婆さんにこそ、純朴な沖縄人の完成を見たのかもしれない。「のろ」という巫女にあたる老婆にも彼は久高島で会い、娘のまま気品高く老いたようだと絶賛している。「のろ」まで行かなくとも、那覇の国際通りの路地裏などで見かけるお婆さんには、何とも言えぬ味がある。動かぬ存在感がある。
 ここでふと思い出すものがある。沖縄本島は読谷村出身のKiroroでキーボードを担当している金城綾乃が昨年リリースした「おばあちゃん」という曲である。病床にある自分のひいおばあちゃんへの大切な思いを歌う心に染み入る名曲であるが、そこで歌われている「おばあちゃん」の姿が、典型的な沖縄のお婆さんを思い起こさせてくれる。
 散歩が好きでよく歩き、曲がった腰をさすりながら野菜をくれ、「命は大切だよ」と飾らぬ言葉しか語らない。しかし、いつもくしゃくしゃの笑顔をふりまいて彼女を迎えてくれた。だからこそ、彼女にとっては唯一無二の大切な存在となっていったのであろう。その思いが、ゆったりとした飾らない曲調に現れている。この曲を聴くと、彼女の原風景を見るとともに、飾らぬ沖縄の純朴な美しさを見る思いで、胸がいっぱいになる。
 
 衆議院選挙も終わり、いよいよサミットも沖縄で開かれる。先日6月23日は、慰霊の日であったが(昨年のこの時期コラム「今日は何の日?」でも書きましたね)、私も含め、あまりにも多くの本土の人間が沖縄について無知である。そんな中、沖縄の飾らぬ素朴な美しさにぞっこんに惚れ込み、日本文化の原型をそこに探ろうとした岡本太郎のこの労作は、今こそ読まれるべきである。沖縄と本土の間のどうしようもないギャップを少しでも埋めてくれるであろう。特にそのような関心はなくとも、「癒し」ブームが蔓延する中、人間の原初的なエネルギーを目覚めさせてくれる、本当の意味で元気が出る一冊でもある。
 
 2000/6/28記
 
 
「Kiroro&沖縄」トップへ戻る