| 平成大不況は大ウソ 〜すべては、金持ちをより金持ちにする ために仕組まれたことだった〜(後編) |
| 今回は、前回に引き続き平成大不況の真相を究明していきます。金持ちの最終目的は、新奴隷制度の樹立です。それを阻止することが急務なのです。 1999年5月1日 |
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| 第五章 「競争原理」、「機会の平等」のウソ | ||||||||||||||||||||||
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市場原理主義者がよく使う言葉として、「競争原理」、「機会の平等」がある。「今までの日本は、結果の平等の社会だった。それを機会の平等の社会に変えていかなければならない。競争原理を社会に浸透させることで、活力ある社会が生み出される」と市場原理主義者は主張する。 格好良く感じる言葉であるが、だまされてはいけない。実は、市場原理主義者は、「機会の平等」を否定する政策を主張しているからである。もし、「機会の平等」を完全に保証するなら、少なくとも、国公立大学・高校の授業料を完全に無料にすべきだろう。貧乏人でも金持ちでも平等に学べるシステムこそ、「機会の平等」だからである。しかし、教育の無料化を訴える市場原理主義者は、皆無である。 公教育の無料化は「機会の平等」のために必要不可欠であるが、競争原理・市場原理を強調し、「『健全で創造的な競争社会』の構築」を提言する経済戦略会議の答申である「日本経済再生への戦略」(1999年2月26日発表)では、そのことが触れられていない。そこで提言されているのは、義務教育への複数校選択制導入を柱とする「教育への競争原理導入」である(下段注1)。しかし、「教育への競争原理導入」は、公教育の退廃(偏差値が高い子供が行く学校と偏差値が普通の子供が行く学校、そして偏差値が低い子供が行く学校との三極分化が発生しかねない。三極分化が発生した場合、偏差値が低い子供が行く学校が荒廃する可能性がある)と「機会の平等」の形骸化を招きかねないものである (下段注2)。
また、「機会の平等」を実現させるなら、相続税の最高税率を今まで以上に上げなければいけない。その理由を以下に示そう。 相続する財産が多ければ、新しく事業を興す(おこす)にしても何にしても、有利である。また、資産を元手に大きな利益を得ることも出来る。さらに、資産が莫大ならば、働かずして豪遊することも可能だ。これらは明らかに「機会の平等」に反することだ。こうしたことを避けるためには、相続税の最高税率を上げなければいけない。そして、これは「機会の平等」に忠実な政策でもあり、「努力した人が報われる公正な税制改革」でもある。なぜなら、相続税率のアップは、「持てる者」と「持たざる者」の格差を縮小し、対等の条件での競争に近づかせるからだ。また、相続する財産には本人の努力や能力と関係がないことも重要で考慮されなければならない。しかし、競争原理・市場原理を強調し、「『健全で創造的な競争社会』の構築」を提言する経済戦略会議の答申である「日本経済再生への戦略」(1999年2月26日発表)では、そのことが触れられていない。そこで提言されているのは、「よりフラットな直接税の体系を目指した」相続税の減税である(下段注)。
相続税が高いというのはよく言われる話だが、それは、金持ちに限った話である。貧乏人の場合は、そうではない。相続税の基礎控除額は、「5000万円+法定相続人の数×1000万円」となっている。例えば、配偶者(夫もしくは妻)と子供二人が遺産を相続するなら、8000万円までは非課税なのである。むしろ、低く感じるぐらいだ。(金持ちからしてみれば)高率の相続税は、平和で安全、平等な日本社会を形成することに大きく貢献してきた。その良き伝統を破壊することは許されない。相続税の「フラット」化が行われれば、貧富の格差が増大する。そして、英米のような階級社会が造られるのである。 ここまで読んで頂ければ、金持ち優遇論者である市場原理主義者が、「競争原理」・「機会の平等」を唱える理由が見えてくるはずである。「結果の平等」を重んじる日本の良き伝統がいつまでも居座っていることは、金持ちの利益にならないからである。市場原理主義者は、「結果の平等」を重んじる日本の良き習慣を叩き潰す手段として、「機会の平等」を唱えているだけなのである。しかも、市場原理主義者の主張は矛盾に満ちている。市場原理主義者の主張が「機会の平等」を阻害しているのは、明らかなのである。 追補(2000年6月13日)・・野口悠紀雄氏(東京大学教授)は「市場の活用」を主張する一人(下段注1)であるが、相続税の最高税率の引き上げを主張(下段注2)している。これは筋道が通った考え方である。本来、「機会の平等」を唱える者はすべてこうした主張をすべきなのである。そうでなければ、主張が矛盾したものになってしまうからだ。 下段注1・・「経済構造の改革にあたって基本的なことは、『市場の活用』である。これまで政府によって管理され、抑圧されてきた市場機能を最大限に活用することである。」(『日本経済再生の戦略』 野口悠紀雄氏著、1999年10月25日発行、中央公論新社) 下段注2・・「『相続税は非常に高率で過酷だ』という意見がまったくの誤解であることです。 『相続税で七割(相続税の最高税率)とられる。非常に過酷な税だ。現行の相続税では事業も継承できない』と政治家やマスコミがあおり、世論にしてしまっている。しかし、七割の税率が適用される人は、年間に数人と言ってよい。一般の人には相続税はほとんど縁がない。」「相続税が非常に高率であれば、だれもがリバースモーゲッジ(住宅等の資産を担保にして、老後の生活のための資金の融資を受け、死後、その資産を売却して返却する仕組みのこと。中根注)を利用して自分で消費しようと考えるに違いない。リバースモーゲッジは公的年金の一部を代替するので、そういう社会なら、少なくとも資産を持つ人に公的年金は必要ない。公的年金について、資産の多少によって給付額を決めるような査定をしないのはおかしなことだと思うのですが、まったく議論されていません。相続税が高くなったら、日本の社会は一変します。さらに言えば、日本の将来、高齢化社会を乗りきる最大の政策は、相続税率をほぼ一〇〇%に上げるということですね(笑)。これは本当に真面目に考えるべき話です。」(『中央公論』平成12年5月号、中央公論新社刊。精神科医の和田秀樹氏との対談にて)
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| 第六章 「痛みを伴う改革」のウソ | |||
| 「痛みを伴う改革」も、市場原理主義者・構造改革論者が頻繁に使う言葉である。何か格好がよい響きがあるが、それも間違いである。痛むのは貧乏人だけである。そして、その陰で、金持ちは自分たちの取り分を増やすのである。消費税率の引き上げやリストラと称する解雇や賃下げで、貧乏人は痛みつけられている。しかし、その陰で、法人税の引き下げや所得税の最高税率の引き下げ、有価証券取引税の撤廃が行われ、金持ちは今まで以上に取り分を増やそうとしているのである。痛むのは貧乏人だけなのである。 それを象徴しているのが、銀行への公的資金注入(政府が日本銀行や民間金融機関から金を借り、その金で銀行の株式・債券を購入。他にローン形式もある)である。バブル時代、銀行は不動産業界と結託、超過剰融資でやりたい放題の地上げの原因を造った。裏社会とも結託した不動産業者の地上げは苛烈だった。銀行とて、そのことを知らぬはずがあるまい。貧乏人は、地上げで痛めつけられた。その銀行に、公的資金を注ぎ込んでいるのだから、常軌を逸しているとしか言いようがない。そして、市場原理主義者・構造改革論者は、銀行への公的資金投入を批判するどころか、逆に要求した(下段注1、2、3)。このことで、市場原理主義者・構造改革論者が単なる金持ち優遇論者であることがわかる。「痛みを伴う改革」は、たとえて言うならば、貧乏人の切りつけ、その生き血を金持ちが吸うようなものである。貧乏人が「痛みを伴う改革」を支持することは、自殺行為なのである。
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| 第七章 プラザ合意の真相 | ||||||
バブル経済が1985年9月のプラザ合意(ニューヨークのプラザ・ホテルで合意されたためその名がある)から始まったこと(日本はこのプラザ合意以降、プラザ合意の精神に沿った内需拡大を目的に、公定歩合の引き下げを繰り返し行い、自らバブル経済の泥沼を造り出していった)は、よく知られている。しかし、問題はバブル経済崩壊後のことである。バブル経済が崩壊することは自明の理である。当然、その後のことも話し合われたはずである。その後のこととは、バブル経済崩壊後の不況を利用した構造改革・市場原理主義政策のことである。金持ちのための構造改革、市場原理主義政策を行うことを目的にバブル経済は意図的に造り上げられたと私はみている。私はプラザ合意前後に以下の事項が合意されたとみている。
注・・日本の優秀な大蔵官僚は、バブル経済の発生とその崩壊を予測できなかったのだろうか。そんなことはあり得ない、と私は思う。大蔵官僚は頭脳明晰であり、優秀である。バブル経済の発生とその崩壊は予測していたはずである。
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| 第八章 橋本失政のウソ |
| 橋本龍太郎前内閣総理大臣が不況を悪化させたと思い込んでいる人が多いようである。確かに、その通りである。しかし、不況を悪化させることこそが橋本氏の責務だったのである。当時、金持ちをより金持ちにする政策(構造改革・市場原理主義政策)は、まだ完成していなかった。ここで景気が回復してしまうと、金持ちをより金持ちにする政策(構造改革・市場原理主義政策)が道半ばで終わってしまう。金持ちにとって、それはまずい。不況を造り上げたことが、無駄になってしまう。そこで、金持ち優遇派である橋本氏に消費税率引き上げを強行させ不況を長引かせた、と私は見ている。そのおかげで時間的余裕が生じ、銀行への際限なき公的資金注入・所得税最高税率の引き下げ・法人税引き下げといった金持ちのための構造改革ができたのである。橋本氏を責めるのはたやすい。しかし、その裏にある真実を探らなくては、何もわからないのである。不況が長引いたことで金持ちは将来の得を約束されたのである。 |
| 第九章 現代に甦(よみがえ)る女工哀史の恐怖 | |
まずは、第一章からの引用を御覧頂きたい。
ここからはさらに問題を掘り下げ、危険な労働改悪を明らかにしていく。先に記した改正労働基準法施行を柱とする労働改悪の一覧を御覧頂こう。 【1】 改正労働基準法施行・・女子の深夜勤務を禁じた保護規定を撤廃し、男女平等に。また、時間外・休日労働を制限する規定も撤廃。 【2】 労働基準法改悪・・裁量労働制の対象を大幅に拡大。現在、適用可能であるのは専門性が強い十一業種(新商品・新技術の研究開発等、情報処理システムの分析・設計、取材・編集、デザイナー、プロデューサー・ディレクター、コピーライター、弁護士、公認会計士、一級建築士、不動産鑑定士、弁理士)であるが、これをホワイトカラー業務(事業の運営に関する事項についての企画・立案・調査・分析)にまで拡大する。2000年4月より施行。 【3】 労働者派遣法の改悪・・現在、適用対象業務は26業務(ソフトウエア開発、機械設計、事務用機器操作、秘書、取引文書作成など)に制限されているが、これを、港湾、建設、警備、そして、当面の間の製造業を除くすべての業務を派遣労働の対象として自由化しようとするものである。(1999年6月30日、参議院本会議で可決・成立。) 【4】 職業安定法の改悪・・職業紹介事業の原則自由化。(1999年6月30日、参議院本会議で可決・成立。) 【1】の改正労働基準法施行については、先に記した通りである。【2】の裁量労働制の拡大は、実に恐ろしい。これは明らかに奴隷的ただ働きにつながるものである。裁量労働制に賛成する識者は、二重三重のセーフティ・ネット(安全網)が張られているから、ただ働きが増える等の懸念は杞憂であるとしている。しかし、それは間違いである。裁量労働制賛成論者の主張が間違っていることを、賛成論者の論文を引用しながら明らかにしていく。出典は『日本の論点'99』(文藝春秋、1998年11月10日発行)の中の「論点32」、論者は荒川春氏である。 「労働基準法改正案は、裁量労働制の適用範囲を『事業の運営に関する事項についての企画・立案・調査・分析の業務』、いわゆるホワイトカラー業務に拡大することとしている。この場合、第一には、ホワイトカラーであれば誰でもよいわけではなく、限定された業務の中で、裁量労働たりうる範囲となる。また、それを決めるのは新しく設置する労使委員会の全員一致の決議、すなわち関係者が全く対等の立場で裁量労働制を作り、運用するものであって、使用者が独自にできるようにはなっていない。」 まず、第一に労使委員会は対等ではなく、使用者が支配するものとなる。なぜなら、既に、多数の労働組合が資本家優遇論者に成り下がっているからである。そうでないなら、リストラと称する解雇や賃下げがまかり通るはずがない。三井造船労組は、99年度の一年間に限って、組合員の賃金を平均8%削減することに同意した。当初、会社側の要求は10%だったのだが、それが圧縮されて8%になった。まるで労組の手柄のように思えるが、そうではないと私はみている。最初から8%にする予定だったのではないか。労組に花を持たせるいつもの手口であったのではないだろうか。この事例のように、経営者との協調路線を採る労働組合が多すぎる。「ある大手機械メーカーの労務担当役員は『うちは組合を大事にしている。我々の言い分を従業員に徹底してくれるからね』と言っている。」という記事(1998年10月18日付日本経済新聞)もあったぐらいだ。こうした現状であるから、労使は対等ではないのである。労組や労働界に対し、納得できない事例は、もう一つある。元総評(日本労働組合総評議会)議長の黒川武氏に勲一等瑞宝章を授与することが決まったことだ。階級制度の象徴である勲章を労働運動の元指導者がもらうことには、疑問を感じる。労組や労働界は、階級制度に明確に反対するべきではないだろうか。本題に戻ろう。組合がない会社はどうなるのだろうか。労使委員会で絶対反対を貫けるだろうか。絶対反対を貫いても、危害(解雇、賃下げ、いじめ)が及ばないことを誰が保証するのだろうか。そして、組合があろうとなかろうと、裁量労働の基準は、一番能力がある者なのである。一番能力がある者が一日にこなす仕事量が絶対の基準になることは間違いない。それゆえ、能力のない者はただ働きを強いられる。裁量労働制導入の目的は人件費削減である。一番能力がある者を基準にしてしまえば、金持ちの取り分が自動的に増えるしくみである。しかも、能力主義をふりかざすことで、労働者を抑え込める。「能力がないおまえが悪い。努力を怠ったおまえが悪い」と言われると反論ができないからである。実に巧みなシステムである。能力主義は、金持ちが私腹を肥やすための仕掛けなのである。 「第二には、裁量労働制の実施にあたっては、前述の労使委員会において適切な制度の構築や、適正な運用(例えば健康や福祉を確保する措置や苦情を処理する措置など)まで同じく構成する全員の決議によって決定される。」 先にも述べた通り、労使委員会を支配するのは使用者である。荒川氏の論調は、机上の空論でしかない。全員一致が原則の労使委員会の仕組みは共産主義的なものである。何の裏も無しに、金持ちがそんなものを導入することはあり得ない。 「第三には、制度の適用について本人の同意も実施上の用件になる。労働者の了解なくしては裁量労働制の実行はありえないものになっている。」 一労働者が労使委員会の決定に抗し切れるだろうか。絶対拒否を貫いても、危害(解雇、賃下げ、いじめ)が及ばないことを誰が保証するのだろうか。もし、裁量労働制を拒否すれば、「能力がないからだ」とか「努力をしたくないからだ」といった陰口を叩かれかねない。そういった陰湿ないじめが起こらないことを保証できる者は誰もいない。裁量労働制は、新奴隷制度実現のための方策であることは明らかなのである。 【3】の労働者派遣法の改悪も恐ろしい。これは、新奴隷制度の根幹を成すものである。派遣元と派遣先の両方で二重に搾取をすることが本当の狙いなのだ。これを奴隷的制度と言わずして何と言うのか。1998年11月に自由法曹団労働法制対策本部が発表した「労働者派遣法改正案についての意見」が本質を示している。 「法改正により、派遣労働を原則自由化しようとするのは、対象業務の規制を取り払って、すべての業務で正規常用労働者を低賃金で無権利の派遣労働者に置き換え、極限まで利潤を追求する意図からにほかならない。正規常用雇用から無権利な不安定雇用に労働者を追いやり、人間らしい労働と生活を奪うこうした法改悪は到底容認できない。」 この見解は極端だ、と思われる方もいるかもしれない。しかし、金持ちがなぜ労働法制改悪を望んでいるのか、それをよく考えて頂きたい。人件費の抑制と労働市場の流動化が目的であることは、金持ちも認めている。人件費の抑制とは賃下げであり、労働市場の流動化とは(労働者の)権利基盤の弱体化を意味している。すべては、搾取の強化のためなのである。金持ちが新奴隷制度の樹立をたくらむのも、それが金持ちの私腹を肥やすことになるからである。強欲こそが金持ちのすべてなのである。本来、奴隷制度につながりかねない派遣労働者制度は全廃すべきなのである。 【4】の職業安定法の改悪で職業紹介事業の原則自由化、も恐ろしい。現行法制では、職業紹介を国の独占事業とし、民間は例外扱いになっている。これは当然のことなのである。民間に職業紹介を際限なく許可すれば、人身売買や二重搾取、奴隷制度が生じるかもしれないからである。「いくらなんでもそれはないだろう」と思われる方もいるかもしれない。私もそう思いたい。しかし、今、経済学の主流は、十九世紀型古典派経済学に先祖帰りしてしまったのである。それに呼応して社会制度や労働制度が先祖帰りすることは、不思議ではないのである。そもそも、少しでも奴隷制度につながる恐れのある制度は、採用すべきではない。民間が善であるとは限らない。バブル時代に、大暴れしたのは他ならぬ「民間人」である。特に、裏社会とも結託した不動産業者の地上げは苛烈だった。裏社会の人間であっても、何の裏付けもなく、「自発的」に執拗(しつよう)な嫌がらせをすることはないのである。さらに言えば、史上最大の金融事件と言われたイトマン事件である。これらの例からも明らかなように、民間人が善であると言い切ることは到底できず、民間にすべてを任せればよいという考え方は危険そのものとしか言いようがない。民間紹介会社が大暴れしないという保証はどこにもない。結論に移ろう。本来、なされるべきことは、国による無料職業紹介の大幅な拡充なのである。我々貧乏人は、二重搾取制度を形成しようとする策謀を許してはならない。 労働法制改悪の目的は、新奴隷制度の樹立である。そして、このまま事態が金持ちの思惑通り進めば、日本において新奴隷制度が樹立される。そうなれば、貧乏人は壊滅的打撃を受けることになる。だが、かすかながらも望みはある。それは、新奴隷制度樹立に至るまでの手順が民主的に行われるからだ。それゆえ、新奴隷制度を阻止することは可能である。労働法制改悪や金持ちのための構造改革に賛成する者には不信任を突きつけるべきである。貧乏人が労働法制改悪や金持ちのための構造改革を支持することは、自殺行為である。我々貧乏人は、新奴隷制度を阻止しなければいけない。 |
| 最終章 二十一世紀は「知性・理性・品性」の時代 | |||
最後に、『女工哀史(細井和喜蔵氏著、岩波書店、原本は1925年刊行)』、『職工事情(上)<農商務省商工局工務課工場調査掛(かかり)著、犬丸義一氏校訂、岩波書店、原本は1903年刊行、調査は1900年に行われた>』、『日本之下層社会(横山源之助氏著、岩波書店、原本は1899年刊行)』の一部を読んで頂く。これを読んで頂ければ、野放しの資本主義が危険なものであることを理解して頂けるはずである。
いかがだろうか。野放しの資本主義が危険なものであることを理解して頂けたことと思う。さて、先にも述べた通り、新奴隷制度への移行は、民主的手続きに則(のっと)って行われる。それゆえ、我々貧乏人が新奴隷制度を阻止することは、十分可能である。労働法制改悪や金持ちのための構造改革に賛成する者には不信任を突きつけるべきである。そもそも、金持ちのための政治がまかり通るのは、貧乏人が「愚か」だからである。「衆愚」から脱しない限り、正しい未来は訪れない。二十一世紀の世界がどうなるのかを決めるのは、我々貧乏人である。誤った判断をすれば、「暗黒、強欲、奴隷、搾取」の時代になるが、正しい判断をすれば、「知性・理性・品性」が生かされる時代になるのである。野放しの資本主義を阻止するには、多くの人々が「知性・理性・品性」を持ち合わせなければならないということである。なお、私が考える「知性・理性・品性」とは、正しい知識に基づいて物事の本質を知ること、私利私欲にかられないこと、「清貧」の生き方をすることである。野放しの資本主義を阻止するためには、こうした考え方が最も必要である、と私は固く信じている。 |
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