| 小泉「市場原理主義」政権への批判 |
| 今回は、小泉政権の政策・思想への私の批判を紹介します。どうぞ、御覧下さい。 2001年7月11日 |
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※ ここからは、枠内の文章が小泉政権の人々の発言並びに文書、枠外の文章が私の批判である。
「競争的な経済システム」は二十一世紀にはふさわしくない。「環境保護」、「生産・消費の縮小(これが環境保護に貢献する)と、それに伴う労働時間の大幅な短縮」、「自給自足型経済」、「搾取の排除」、「完全雇用政策」、「安全で快適な職場の確保」、「万民の安寧な生活の構築・維持」のため、規制や管理を強化することが二十一世紀にふさわしい経済政策だ。
「自立型の日本経済」を目指すことには異議はない。しかし、小泉総理自身、2001年6月30日に行われたブッシュ大統領との日米首脳会談で「日本は自立すべきで日米関係を損なっても他の国との関係で補えばいいという人もいるがそれはあり得ない。」(共同通信社配信の発言要旨から抜粋)と発言しているのだ。これはいったい、どうしたことだろうか。
「今の痛みに耐えて明日を良くしよう」という発言は、自分が決して痛むことがないから言えることである。もし、国民に痛みを強(し)いるのならば、小泉内閣を構成する大臣、副大臣、政務官はすべての私財を、法改正の上、国庫に供出するべきだ。痛みを共有するというのはそういう事だ。まず、自らが痛んでみてはどうか。
確かにその通りだ。小泉政権が進める市場原理主義に「国民一人ひとり」が不信任を突きつけることこそ、「希望に満ち溢れた未来」につながる。
よくぞ言ったものである。「自己責任原則」が銀行に適用されなかったことを、銀行に対する公的資金注入を声高に唱えた経済戦略会議で委員を務めた竹中平蔵氏と奥田碩(ひろし)氏(両氏はこの文章を作成した経済財政諮問会議の議員である)はどう説明するのだろうか。一言で言えば、この人たちが言う「自己責任」は都合のいい時だけ使われるということなのである。
これは市場原理主義者お得意の「民間性善説」である。しかし、民間が善であるとは限らない。バブル時代に、大暴れしたのは他ならぬ「民間人」である。特に、裏社会とも結託した不動産業者の地上げは苛烈だった。裏社会の人間であっても、何の裏付けもなく、「自発的」に執拗(しつよう)な嫌がらせをすることはないのである。さらに言えば、史上最大の金融事件と言われたイトマン事件である。これらの例からも明らかなように、民間人が善であると言い切ることは到底できず、民間にすべてを任せればよいという考え方は危険そのものとしか言いようがない。また、「民間金融機関をはじめとする民間部門の活動の場と収益機会を拡大する。」とあるが、今までに民間金融機関は十分すぎるほど活動してきた。バブル時代には不動産業者に超過剰融資を行った。裏社会とも結託した不動産業者の地上げは苛烈だった。金融機関とて、そのことを知らぬはずがあるまい。さらに、超低金利時代の現在、ノンバンクは高金利で顧客への貸し出しを行い、暴利を貪(むさぼ)っている。昔も今も、民間金融機関は大暴れしているということだ。これ以上活動させる必要があるのだろうか。
「医療、介護、福祉、教育など従来主として公的ないしは非営利の主体によって供給されてきた分野に競争原理を導入する」のは危険だ。これらのものを市場化し、金儲けのためのものにすることは許されない。また、教育に競争原理を導入すれば、学校間の格差が増大し、「平等」が崩れていくことになる。なお、教育や福祉への競争原理の導入については、二宮厚美氏がその著書『現代資本主義と新自由主義の暴走』(新日本出版社、1999年12月25日初版)の第6章(218ページ〜239ページ)で的確に批判している。御一読いただきたい。
市場原理主義者が得意とする「消費者・生活者」を使った論法である。「消費者・生活者」のために規制を撤廃し、「自由な経済活動の範囲をできる限り広げる」というわけだ。しかし、現実には金持ち以外の「消費者・生活者」には従来よりも良い生活が待っているわけではない。それは、アメリカやイギリスの例を見れば明らかだ。規制撤廃で多少価格は下がるだろうが、効率化や能力主義を名目とした給料の引き下げや解雇、安定性の喪失(終身雇用の崩壊、正社員から有期雇用への転換)が一般国民を襲い、その損失の方が大きいからである。市場原理主義というのはそういうものである。一般国民にとっては、利益(規制撤廃による価格低下)よりも損失(給料の引き下げ、解雇、終身雇用の崩壊、正社員から有期雇用への転換、富の金持ちへの集中、貧富の格差の拡大)の方が大きいのだ。
問題は、経済の効率化による利益がどう分配されるかである。効率化を名目にした搾取の強化や万民の安寧な生活の破壊がないようにしなければならない。政府主導の経済により効率化による利益がすべての国民に等しく分配されるようにするべきである。すべての国民に等しく分配することにより効率化が最も有益なものになる。「労働時間の大幅な短縮(政府の指導による完全雇用により実現できる。国民みんなで労働を分担するということである)」や資源の最適利用による「環境保護」も可能になる。
国家政策の基本である「所得再配分」を否定する人を経済財政政策担当大臣にしていてもいいのかどうかをよく考えてみる必要がある。このような人に国の経済や財政を任せれば、貧富の格差の縮小や万民の安寧な生活、平等な社会構造はまったく期待できないことになる。つまり、低所得者には利益はないということだ。また、「日本人はもっと誇り高くて、自分のことは自分できちんとやる民族だった」、「いまの社会システムは結局、困ったことがあったら人からもらえという社会なんです。『所得再配分』という制度を使って強奪を正当化するシステムなんです。」と主張する竹中氏が銀行への公的資金注入を支持(下段注1、2)していたことにも注目する必要がある。竹中氏は、「困った」銀行に対して公的資金を注入せよと言っていたのである。 下段注1・・「金融システムの健全化については大胆かつ速やかに公的資金を投入する意思を政府が表明すべきだ。法制度上難しい面はあるが、強制注入が必要だ。」(1998年10月14日の経済戦略会議の第六回会合後の竹中氏のコメント) 下段注2・・「日本の金融機関は全体として債務超過に陥っている可能性があり、強制的な資本注入が必要。経営がどうしようもなく悪く存続できない銀行は特別公的管理(一時国有化)に移し、存続可能な銀行には強制注入していく。政府が日本債権信用銀行に取った措置はいい前例となる。」(1999年1月9日付日本経済新聞に掲載された竹中氏の発言)
フラット税や人頭税を究極とする累進構造の緩和は金持ちにとっては大いに魅力的だが、低所得者にとってはそうではない。フラット税や人頭税が導入されれば、貧富の格差が拡大する。貧乏人はますます貧乏になり、金持ちはますます金持ちになるということだ。果たして、それでよいのかということだ。金持ちが竹中氏を支持するのは理にかなっているが、露骨な金持ち優遇政策を主張する竹中氏を一般国民が支持するのはまったく理にかなっていない。
この発言は重要である。一つずつ批判していく。 (1) 「経済全体のパイを大きくする」→経済全体のパイはむしろ、小さくしなければならない。「環境保護」や「労働時間の大幅な短縮」のため、経済全体のパイを小さくしていくべきである。 (2) 「官主導型から民主導型の経済システムに切り替える」→私が二十一世紀の社会像として掲げる「環境保護」、「生産・消費の縮小(これが環境保護に貢献する)と、それに伴う労働時間の大幅な短縮」、「自給自足型経済」、「搾取の排除」、「完全雇用政策」、「安全で快適な職場の確保」、「万民の安寧な生活の構築・維持」のためには、より「官主導」を強めなければならない。民主導の場合、「生産・消費の縮小(これが環境保護に貢献する)と、それに伴う労働時間の大幅な短縮」、「搾取の排除」、「完全雇用政策」を実現するのは難しいからだ。 (3) 「市場原理と自己責任原則に基づいて、経済効率を向上させる」→問題は経済の効率化による利益がどう分配されるかである。効率化を名目にした搾取の強化や万民の安寧な生活の破壊がないようにしなければならない。政府主導の経済により効率化による利益がすべての国民に等しく分配されるようにするべきである。すべての国民に等しく分配することにより効率化が最も有益なものになる。「労働時間の大幅な短縮(政府の指導による完全雇用により実現できる。国民みんなで労働を分担するということである)」や資源の最適利用による「環境保護」も可能になる。 (4) 「市場原理を阻害する規制はなくしますが、公正でオープンな競争を促進するためには、新しい、厳格なルールが欠かせません。」→宮内氏が信じる「市場原理」や「自己責任原則」には弊害が多い。それを以下に示しておく。
所得税のフラット化や相続税の引き下げは貧富の格差の拡大をもたらす。貧乏人はますます貧乏になり、金持ちはますます金持ちになるということがいいとは思えない。宮内氏には、一人の金持ちとしてではなく、社会に対して責任を負っている立場で発言してもらいたい。
牛尾氏は労働者に対する温かい思いやりがなさすぎるのではないか。特に「終身雇用を求めるのは怠け者」という発言はひどすぎる。安定を求めるのは人々の一般的心理であり、「怠け者」だからではない。さらに言えば、牛尾氏の発言からは「ノブレス・オブリジー」(高い地位にある者の責務)をまったく感じ取ることができない。なぜ、ここで「ノブレス・オブリジー」を持ち出したのかというと、牛尾氏が第3分科会委員として参加している教育改革国民会議(リンク集・参考ページ一覧参照)の「第3分科会の審議の報告」に以下の記述があるからだ。 「戦前、高等教育を受けたエリートたちが大きな過ちを犯したという反省から、戦後、エリート教育は徹底的に罪悪視され、我が国ではノブレス・オブリジーを実行できるエリートやリーダーの育成が十分できなくなっている。」 牛尾氏自身が直ちに「ノブレス・オブリジーを実行」することこそ、必要である。牛尾氏が「ノブレス・オブリジー」を実行するのかどうか、これからの言動に注目していきたい。
この発言に対しては一つずつ批判していく。 (1)「日本経済の活性化のために中堅層と高所得層でもう一段、税率の平準化を進めるべきだ。七段階を四段階にして、最高税率は四〇%、最低は一〇%程度にするのが理想だ。」→貧富の格差を拡大する金持ち優遇税制をこれ以上進めるべきではない。むしろ、貧富の格差の縮小(=結果の平等の促進)を目指して、金持ち層に対する課税を強化すべきだ。最高税率の引き上げ、贅沢(ぜいたく)品への課税強化、株式や土地の売買による利益への課税強化が必要だ。既に十分恵まれている金持ち層をこれ以上優遇する必要はないからだ。また、課税最低限の引き上げや消費税の廃止で低所得者層を優遇すべきだ。 (2)「非常に少ない一部の人が高額所得を得ていることを、一種の目標や活力の源とするように価値観を変えることが重要だ。」→これは金持ちを半(なか)ば神格化しようというもので、肯定できない。そもそも、たくさんの所得を得ている人間が皆、能力を磨き努力をした人であるとは限らない。莫大な遺産を相続したり、創業者の一族ということで高額所得者になっている人もいる。さらに言えば、株式や土地の取引で得られる利益への課税強化や莫大な遺産を引き継いだ場合の相続税の強化がなければ「一種の目標や活力の源」にはならないだろう。批判の対象になるだけである。最後に一言。「一種の目標」にされるような素晴らしい人ならば、自分が高額所得を得ていることは自分一人の力ではなく、社会全体のおかげであることを自覚しているだろうし、自分を育ててくれた社会へたくさんの還元をすることを拒否することはないはずだ。また、社会全体のおかげで自分が高額所得を得ていることを自覚しているのだから、自らが特別扱いされること(=半ば神格化されること)を決して望まないだろう。 (3)「みんなが閉そく感を持っていては、勤労所得者から起業も出ない。これまで稼ぐ人、一生懸命頑張る人にエールを送ってこなかった。」→「一生懸命頑張る人」にエールを送ることは必要だが、問題は何を基準に「一生懸命頑張る人」を決定するかだ。私は、厳しく辛い仕事をしている人が「一生懸命頑張る人」であると考えている。道路工事の現場で交通整理をしている人や炎天下で土木作業をしている人、工場で同じ作業を延々と繰り返す人は間違いなく、「一生懸命頑張る人」だ。しかし、こうした人たちが高収入を得ていることは少ない。こうした人たちに税制面でエールを送ることは絶対に必要だ。なお、株式や土地の売買で巨利を得る人が「一生懸命頑張る人」ではないことは当然のことだ。 (4)「レーガン税制が社会の価値観を根底から揺り動かし、大きな原動力になったのは確かだ。短期的には財政赤字を出し、非難されたが、八〇年代後半から米国はデジタル化の波に乗り、社会システムの改革に成功し、経済のパイの拡大に役立った。」→レーガン税制は金持ちに対してひたすらに金儲けに励むことを奨励した。「私利私欲」や「強欲の赴(おもむ)くままの金儲け」を肯定したのだ。その結果、貧富の格差が拡大した。また、「八〇年代後半から米国はデジタル化の波に乗り、社会システムの改革に成功し、経済のパイの拡大に役立った。」としているが、その陰で、貧困や飢餓が蔓延していること、不安定かつ不均質な社会が形成されていることを忘れてはならない。金持ちや高能力者にとっては楽園だったが、そうではない人には地獄絵図だったということだ。
「民間」が間違いを頻繁に犯している(不動産業者への金融機関の超過剰融資、不動産業者の地上げ、イトマン事件)のだから、「民間が引っ張り、政府は調整役を果たすという形の経済」は認められない。また、奥谷氏は「今までは民は官に規制をつくってもらって既得権益を守るというパターン」としているが、この例に当てはまらない業界もある。それは自動車業界で、行政による「無規制」な運転免許の乱発(飲酒運転者や暴走族、歩道・横断歩道に駐停車する者にまで運転免許が配布されているのだ)のおかげで発展していくことができた。 最後に今後の日本社会の姿について記しておきたい。今のまま、市場原理主義が横行すれば、日本は現在のアメリカのような荒廃した国になっていくだろう。貧富の格差が拡大し、貧困が増大する。金持ちや高能力者は優遇されるが、一方で、能力のない人々や貧乏人は厳しく辛い生活を強いられるだろう。果たして、それで良いのかということだ。山家(やんべ)悠紀夫氏も、今後の日本について、「企業にとっては人も資材と同じになる。必要な時に人を雇って、いらなくなったら、それでおしまい。働く側にとっては、不安定な社会だ。」、「(今後の日本社会は)非常に厳しい。労働条件も労働環境も厳しくなる。全体的にぎすぎすしていくだろう。」(2000年1月4日付中日新聞)と警告を発している。このまま日本社会を荒廃させていいのかどうかが、今、問われているのである。 |
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