ラクデス

吾亦紅1

「水銀燈」

優しい声で呼ぶのは――お父様?違う、この人間は、私の…。
でもとても心地良い。もっと聴かせて。
今はもう失ったその声を。焦がれてたまらないその声を。
「銀糸の髪、白皙の頬、炎のように冷たい瞳」「水銀燈、君は素晴らしい」
――だから私は、この男に体を開いたのかしら。

「水銀燈、行ってくるよ。良い子にしているんだよ」
大きなお屋敷。男は私にキスをしてドアを閉める。
その向こうからは使用人たちの囁き。
「坊ちゃんは変わってしまわれた」
「あの気味の悪い人形が贈られてきてから」
「あの羽根をごらん、まるで悪魔のようじゃない」
お部屋の掃除をするときは、穢れたものを扱うように避ける者と、
好奇心に逆らえず私を覗き込む者がいた。
「綺麗…まるで生きているみたい」

夜になると、男は狂ったように私を求めた。
「水銀燈…愛しているよ」
私は体で応える。いつしか、声に反応しているのか――男に反応しているのか、
分からなくなっていた。この男に抱かれていると、私の中が満ちていく。
この時の私は、この熱の正体を、まだ知らなかった。
確かに男は日増しに変わっていった。
穏やかで優しかった性格は獰猛な獣のように
空を映した青い瞳は澱んだ沼の色に。
たくさん酒を飲み、ささいなことで使用人に八つ当たりし、
仕事をせず私と部屋に閉じこもった。
「いいんだ、ここでお前と過ごすんだ。永遠に僕達は…」
一番古い使用人がうなだれて扉を叩く。
「坊ちゃん、とうとう会社が…大だんな様の遺された会社が…」
最後の使用人もこの屋敷を去った。この瞬間、男は守るものを全てなくした。
――己のこころさえも。でも、それはきっと私と出会った瞬間になくしていた。

その日、「酒を買いに行く」と最後の銅貨を握り締めて、男は部屋を出て行った。
帰ってきたのは、知らない男達だった。
慄く私を見て、彼らは下品な笑みを浮かべた。
「これか、ヤレる人形ってのは」「綺麗なもんじゃないか」
緊張の熱が一斉に静まり、次の瞬間背筋が凍った。あの声が聞こえたのだ。
「ああそうだよ、そこらの女とは比べ物にならないくらいの――
水銀燈、少しの間だけ、我慢してくれたら、すぐ終わるから、ね?」
一番後ろで卑屈な笑顔を貼りつかせた男――だった。
「本当にできるのか?」「肌の感触は本物の人間みたいだ」「髪も…」
私の顔や体を撫で回していた男達の表情は、ただの好奇心から
少しづつ本気なものに変わっていく。
「まあ酒代くらいは楽しませてもらえそうだな」
「大切に扱ってくれよ、頼むから壊さないで――」
強く臭う安物のアルコール。こんなもので、マスターは私を。
私に何本もの太い腕が伸びる。私は最後の悲鳴を上げる。
彼にその声は届いたのか、分からないまま――
次に気が付いたとき、薄暗い部屋は、干からびた数人の男の断片で満たされていた。
その中に、あの男がいた。まだ少し息がある。ひゅーひゅーと喉が鳴っている。
目は震えて命乞いをしている。
私はためらわず羽根でその胸を突いた。

血塗られた体で屋敷の外に飛び立つ。
見下ろすと、そこにはいつかの使用人の女がいた。
私をじっと見上げて、ゆっくりと手を伸ばした。焦がれるように。
「待っていたの」
彼女の目の前に降り立つ。そして手を取り、彼女は目を閉じる。
私はそれに応えよう。静かに微笑んで、彼女の最後の命を飲んだ。

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