宮谷県庁跡

     
<宮谷県とは> 
千葉県の前身となる地方統治組織で、明治2年2月から明治4年11月まで存続した。

県庁所在地は、現千葉県山武郡大網白里町大網2,996の本国寺。初代県知事柴山文平(典)、第二代県知事柴原和。 
慶応4年(1868)7月2日、明治新政府から安房・上総知県事に任命された柴山文平(典)は、安房・上総両国の天領(旧幕府領)、旗本領を管轄するため、市原郡八幡駅に進駐した。翌8月中旬長南宿に移り、浄徳寺を知県事役所と定めたが、更に明治2年2月9日、大網宿宮谷の本国寺に役所を移し、宮谷県と称した。宮谷県の管轄範囲は、安房・上総のみでなく、遠く下総・常陸の一部にも及び、37万石余であった。明治4年7月14日、廃藩置県の詔書が発せられて藩は県になり、更に県の整理統合が行われて、明治4年11月14日、安房・上総全域を管轄する木更津県が誕生した。
それまでの2年9ケ月余、新政府の布達はすべてこの宮谷県庁から発せられたので、千葉県政揺藍期を記念する場所として、本国寺境内が県指定史跡に指定されている。
       
 
 
 
 
 
 宮谷県庁跡の碑          「房総知縣事印」印影   「宮谷県印」印影
  
 
<初代県知事 柴山文平(典)>
 旧久留米藩士で、真木和泉と親交があった尊王攘夷派。文久3年(1863)の政変後藩内守旧派により4年間の幽閉生活を強いられたが、後、幽閉を解かれ、東征軍の上州鎮定作戦に従事した後、慶応4年(1867)7月明治新政府から安房・上絵知県事に任命され、明治2年(1868)2月初代宮谷県知事となった。
 尊皇棲夷思想に基づく仁政を理想とし、県政の基本方針として「一新確策」を著し、水事や長雨で窮迫した農民の救済、米の備蓄、新田開発、堀割工事の実施、人民教化策強化のため宮谷県学校の開設と郷校の配置など祭政一致の県政を推進したが、先納租税払戻金の一部を手元に留め置き、窮民救助や地元の開発に流用するといった独断専行もあった。
明治4年(1870)7月、中央政府の政策路線の転換を背景として、県幹部との対立から宮谷騒動が起こり、柴山は県知事を解任され、更に先納租税払戻金に係る公金横領の嫌疑を受け、従五位を剥奪され、専断の罪により謹慎30日の罰を受けた。 後、裁判官、宮内省御用係となり、明治17年(1884)10月逝去。従五位追贈。
 
 
柴山 典 柴山 典 書 柴山 典 著作

<第2代県知事 柴原和> 旧竜野藩士。柴山典のあとを受けて宮谷県知事となり、後に廃辞置県と県の統合により、木更津県知事から初代千葉県知事となった。
明治13年(1880)3月まで在任し、草創期千葉県の基礎を作る開明的な県政を行い
「三賢令」の一人と称えられる業績を残したが、半面厳しい弾圧も行ったといわれる。
後、元老院議官、山形県知事、香川県知事、貴族院議員を勤めた。

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