| ◆8月21日〜29日まで、中国雲南省の西盟県で、ワ族文化の調査をしてきました。今回は、アジア民族文化学会の会員15名と一緒でした。 ワ族は、雲南省西南部のビルマ(ミャンマー)との国境沿いに居住していますが、大きく分けて3つの地域に分けられます。北部は滄源地域で、ここの調査は2006年7月に一度行ないました。中部は、西盟を中心とする地域で、ここが最もワ族文化の色彩が濃厚な所です。南部は、孟連を中心とする地域で、母系制が残っている地域です。この中部の西盟と南部の孟連地区は、1996年と2002年の計2回調査をしました。今回は西盟地域だけでしたが、この地域は3回目の調査になりました。 今回の収穫の第一は、系譜を唱えるときに、問答形式で行なう形があることがわかったことです。力所(リースオ)村で系譜を聞かせてもらっていたときのことですが、女性の歌い手が、モーパ(呪的専門家、「モーパ」はもともとはラフ族語だったとのことで、2006年からはワ族語の「バツァイ」という名称に統一されたとのこと)に「あなたの父の名前は何か」と問うと、モーパが「私の父の名前は○○だ」と答えるのです。しかも、このときは、問いも答えも、「唱える」のではなく、旋律を持った「歌」になっていました。 歌を掛け合う「歌掛け文化」は恋の歌掛けである「歌垣」のほかにも、裁判の被告と原告のやり取り、創世神話を問答形式で歌う、葬儀で死者の来歴を問答形式で歌う、訪問先で主人と客が挨拶を交わすなどの例があることはわかっていましたが、自分の家の系譜を問答形式で歌う例に出合ったのは初めてです。 収穫の第二は、「自民族の劣っている点≠語る神話」(詳しくは、工藤『日本・起源の古代からよむ』勉誠出版、2007年参照)の実例として、その定義の範囲を拡大させる新たな第一次資料が加わったことです。 ワ族の創世神話「司崗里(シガンリ)」によれば、洞窟の中にいたワ族の先祖が外に出てくるにあたっては、雀が洞窟をくちばしでつついて穴を開けたのですが、外に出てきた人間を虎が食ったので困っていたところ、虎のしっぽをネズミが噛んで虎を追い払ってくれたということになっています。そこで人間が雀に「何かお礼を差し上げたい」と言ったところ、雀は「お礼は要りません、そのかわり、少し穀物をついばませてもらいます」と言いました。 また、洞窟の外側に、つつく場所を唾液を垂らして印しにして雀に教えたのは蝿でしたので、人間が蝿に「何かお礼を差し上げたい」と言ったところ、蝿は「お礼は要りません、そのかわり、少し食べ物をなめさせてもらいます」と言いました。 また、ネズミに、「何かお礼を差し上げたい」と言ったところ、ネズミは「お礼は要りません、そのかわり、少し食べ物をかじらせてもらいます」と言いました。 雀、ネズミ、蝿という、人間の生活にとって困ったことをする動物・昆虫は負≠フ存在なのですが、この負≠フ存在はワ族がどれほど排除しようとしても不可能なものばかりでしたから、いわばこれらとの共存は宿命≠セったのです。その宿命を、悲しみとして受けとめるのではなく、ワ族の存在にとって必然なものなのだと神話の中で肯定的に受けとめるのですが、これは、なぜワ族が漢族やタイ族にくらべて劣った生活をしているのかを説明する「自民族の劣っている点≠語る神話」の延長上にあると考えて良さそうです。 ほかにも、「ヒル」についての神話(ヒルが登場する神話は大変珍しいので、『古事記』の「水蛭子(ひるこ)」の説明に援用できそうです)も採集できました。それは、神々の世界から穀物の種をしっぽに付けて人間界にやってきたのが「ヒル」だったのだが、その穀物の種を人間が奪ってしまったので、「ヒル」はその恨みで人間の血を吸うようになったのだという神話でした。「ヒル」もまた原始農耕段階の生活では困りものですが、それを絶滅させる手段はないという宿命を、その原因はワ族自身が穀物の種を奪うという悪事を行なったことにあるのだから、まあ仕方が無いじゃないかという風に受け入れる神話です。 話は変わりますが、「産経新聞」(2008年9月1日)の「神話を読み解く@」の内容が、私の談話を軸にした取材記事で構成されていました(出だしは、三浦佑之氏の談話)。 このシリーズは、「試行私考 日本人解剖」と題されたものであり、2007年7月2日に始まって、毎月曜日に連載されて継続中のものです。その「第3章 ルーツ」がついに神話の部に入ってきたのです。 この「神話を読み解く@」の内容については、「新聞・雑誌等掲載原稿」欄に転載しておきましたので、読んでみてください。 この記事の決定的に重要な点は、日本神話の「ルーツ」を論じるにあたって、中国などの少数民族の文化からスタートした点です。『古事記』を論じるには、中国などアジアの少数民族文化を素材としてモデル論的に〈古代の古代〉に迫る以外にないということが、少しずつ承認され始めたとしていいでしょう。 特に、記者が「歌垣の文化」の地域を図示化した点(「新聞・雑誌等掲載原稿」欄に転載したものには図はない)は、歌垣の分布地域が長江(揚子江)流域を中心とする地域に限定されていることがはっきりわかって、明快です。 産経新聞の記者(牛島要平氏)には次のようなコメントを伝えてありました。 @神話の「要素」は、直接の伝播関係が無くても、同じようなものが別の民族、別の地域の神話に登場することがある。 したがって、神話の「要素」が似ているからといって、生物体では絶対であるDNAのような扱いは、必ずしもできない。 しかし、過去に実態としての伝播があった場合もあるので、神話の伝播については、そのほかのいくつかの「状況証拠」を積み上げることで補強をする必要がある。 A記紀神話と、長江流域の、特に南・西部の少数民族(原型生存型民族)の神話とを関係づける「状況証拠」の有力なものとして、「歌垣」(中国語では「対歌」)の存在がある。 長江流域の少数民族のほとんどで、つい最近まで「歌垣」が行なわれてきたか、現に行われている。具体的には、ハニ族、チワン族、ミャオ族、ヤオ族、プイ族、タイ族、シュイ族、イ族、チベット族、ワ族など、ほとんど。また、ブータン、ネパールでも歌垣が存在している。 Bアフリカ、北欧、シベリヤ、アイヌ、インディアン、インディオなどには、「歌垣」に対応するような「恋の歌掛け」の習俗についての報告がない。 長江流域の民族が南下した東南アジア地域の少数民族には「歌垣」があるが、海を隔てたインドネシア地域などには報告例がない。 C記紀神話や『風土記』『万葉集』には「歌垣」関係記事が豊富である。ということは、〈古代の古代〉の日本列島民族(ヤマト族)もまた、長江流域の少数民族と同じく、「歌垣」文化を共有する文化帯の中にあったことになる。 Dアマミ・オキナワ文化にも「歌垣」がある(オキナワでは、「夕遊び=モーアシビ」)。 E日本列島に水田稲作技術を持ち込んだのは、長江流域の諸民族。 Fしかし、「歌垣」自体は、海によって大陸から分離されてからの時代である縄文時代にすでに存在していた可能性も否定できない。 もちろん、水田稲作文化とセットになって日本列島に入ってきた可能性も否定できない。 いずれにしても、〈古代の古代〉のヤマト族文化と、長江流域の諸民族との文化的類縁は濃厚である。 G長江流域の諸民族の文化は、縄文・弥生期的なムラ段階の文化の「生きた化石」として位置づける。 ついでに言えば、「神話を読み解く@」の内容(記者が完成させた最終原稿)では、以下の2点を補強しておくのがいいでしょう。 @「歌垣は稲作に伴う農耕儀礼として弥生時代に日本列島に持ち込まれ」という部分について この可能性が大ですが、「日本列島への、縄文段階あるいはそれ以前からの、長江流域の諸民族の流入の際に(つまり水田稲作文化以前から)、日本列島に持ち込まれていた可能性もある」という保留も必要でしょう。 A「南方から沖縄を経由し、海の道<求[トで伝わった可能性もある」という部分について 「南方」という用語は、インドネシア・ミクロネシア・メラネシアなどのニュアンスが強い。それに対して、中国大陸の上海・寧波など奄美大島とほぼ同緯度の地域からの船の移動は、直接に九州にたどり着くものもありました。したがって、「南方から沖縄を経由し」という場合の「南方から」の部分に曖昧さがあるということになります。 「中国大陸から直接に海路で九州に、あるいは、沖縄・奄美経由の海の道<求[トで」という言い方が正確でしょう。 (補) ──三浦佑之千葉大教授は、古事記神話の基層にある人間観は、北方より南方の色彩が濃いとみている。 インドネシアには「最初の人はバナナから生まれた」とする神話があるが、古事記では「葦かびの如くもえあがる物によりて成れる神」として人の元祖となる存在の出現が語られ、人は「うつしき(命ある)青人草(あおひとくさ)」と記述される。三浦教授は「人は“草”そのもので、循環する自然の中で有限の生命を与えられた存在と認識された。植物を人の起源とする発想は、環太平洋の特徴」と話す。── この部分についても補うと、工藤『四川省大涼山イ族創世神話調査記録』(大修館書店、2003年)に採録した創世神話「ネウォテイ」の中の「人類の起源」という段では、杉の木から精子と卵子が生じ、地面に落ちた杉の枝に日光、雨、露、霧、氷、星、風、雪がさまざまに作用して最初の人間が登場したと語っています。したがって、「植物を人の起源とする発想」を、あまり南方系だと強調するのは危険でしょう。中国の長江流域も含む「環太平洋の特徴」としておくのが無難でしょう。(2008年9月4日) ご質問・ご感想はこちら ◆3月24日〜3月30日、中国湖南省鳳凰県の苗(ミャオ)族の歌文化の調査に行ってきました。この地域には、すでに2006年6月26日〜7月4日に第1回目の調査に行ってきました。第1回目の調査については、この「最新情報」欄の「2006年7月12日」条に書きました(工藤『日本・起源の古代からよむ』のP174〜181にも収録)。 第1回調査のときに現地の人々とのあいだに交流関係を作ったので、今回は、創世神話の歌い手、女性シャーマンによる死者語り、歌垣の模擬演技などの手配が順調に進み、充実した調査になりました。しかも、今回は、奈良県明日香村の万葉古代学研究所(万葉文化館)の共同研究の一部としての調査でした。「万葉歌と声の歌との比較研究」というテーマですが、その現地調査として鳳凰県のミャオ族の歌文化が選ばれたのです。今回の調査には、私以外に4名の日本古代文学研究者が同行しました。『万葉集』研究の一環として中国少数民族の歌文化の調査が位置づけられ、しかも公的資金で調査費用も出たということは画期的なことです。 この地域には、来年の同じ時期にまた調査に入ることが決まりました。公的資金の支援ということもあって、一人での調査のときよりもさらに大きな成果を挙げられるかも知れません。 この地域でアルファベットを用いたミャオ語発音表記のできる唯一の人である呉根全氏(77歳)も健在だったので、第1回調査のときよりはるかに多い分量の翻訳を依頼してきました。この記録が完成したら、ミャオ族の歌文化の資料として貴重なものが加わることになるでしょう。今回の調査の成果は、1年数か月後に公的な報告書の形で公開される予定です。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 4月23日(水)に、NHK総合の「その時歴史が動いた」という番組で〈「古事記」誕生〜日本最古の史書の謎〜〉が放映されました。 私の『古事記の起源』(中公新書)の書名が、発売1か月前まで『古事記の誕生』だったことについては、『日本・起源の古代からよむ』にも書いておきました。『古事記』の誕生を論じるには、縄文・弥生期にまでさかのぼる「神話の現場の八段階」のようなモデル理論が必要です。しかし、このモデル理論は、旧来の研究方法の内側にいるほとんどの古代文学研究者のあいだでは、まだ“黙殺”の段階です。というわけで、「その時歴史が動いた」が〈「古事記」誕生〉というテーマを選んだことに、『古事記』研究における変化の兆しを感じました。 番組構成については若いディレクターと綿密に打ち合わせをし、また研究室での私の談話の撮影もしました。 シナリオ構成、ナレーションはディレクターの仕事ですから、最終的な内容は、放映された番組を実際に見るまで私も知りませんでした。 さて、完成版の番組について簡単に批評すると、そこには、旧来の方法ですでにわかっている知識についての「一般人への啓蒙、古事記への招待」といった性格と、「いま現在の最先端の古事記論」という性格とが同居していました。そして、この二つの、同時存在の難しい性質のものを一つの番組の中に入れようとした結果、番組全体に未完成感が漂ってしまったと感じました。 もちろん、『古事記』が「その時歴史が動いた」に登場したこと自体が画期的ですし、そのうえテーマがその「誕生」であったことはますます画期的でした。というのも、この〈「古事記」誕生〉というテーマは、実は学界でも『古事記』研究のいま最も高度な最前線だからです。逆に言えば、「啓蒙、古事記への招待」といった扱いをするには不向きなテーマでもありました。 というわけで、あえて言えば、どちらかといえばその最前線のテーマを掘り下げるという方向に力点を置いた方が、番組としての完成度は高まったし、スリリングな展開にもなったろうと思われます。しかし、旧来の研究方法が支配的な『古事記』研究の今の段階では、そこまでの冒険はできなかったのでしょう。 もちろん、学術番組ではないのですから「啓蒙、古事記への招待」という側面は絶対に必要です。それにしてもですが、少し、対象とする視聴者の水準を低く設定しすぎたのではないかと感じました。 一般の歴史愛好者のあいだでは、『古事記の起源』(中公新書)の刊行によって、工藤のモデル理論が少しずつ知られ始め、『古事記』論の最前線についてのイメージに変化が生じつつあります。というわけで、『古事記』の「誕生」をテーマにした以上は、「誕生」の内実にもっとこだわったほうがよかったと思いました。 たとえば、天武天皇が、壬申の乱以後に、諸氏族・官僚の心を一つにするために『古事記』のような書物を作成しようと意図したという把握はよいのですが、ではなぜ『古事記』がそのような力を持てたのかといったことを掘り下げれば、否応なしに、ヤマト的なるものの結晶すなわち「ヤマト族の情念の結晶としての歴史」を描いた『古事記』という性格が浮上してくるはずでした。そうすれば、「情念の結晶」としての「神話の歴史」の「史書・古事記」が、明治の文明開化のときにも皇国史観を突出させる役割を果たしたということに繋がるのです。 『古事記』以前の無文字の1万余年についての考察をもっと丁寧に行なわないと、この「ヤマト的なるものの結晶としての歴史書」という部分は浮かび上がりません。 もちろん、『古事記』の誕生までの過程を、縄文・弥生に発する〈古代の古代〉の側から論理づける立場がほんのわずかでもこの番組に登場しただけでも、大きな意味を持ったと考えています。象徴的には、四川省大涼山のイ族のビモが創世神話を唱えている映像(工藤『ビデオ編・四川省大涼山イ族創世神話調査記録』大修館書店)を用いたのは画期的です。 それにしても、『古事記』が多数の視聴者を相手にする番組に登場するには、現在ではまだかなりな程度において「啓蒙、古事記への招待」の部分を強めなければならないということでもあるのでしょう。ということは、『古事記』に対する一般の人たちの意識がもう少し成熟しなければ、「いま現在の最先端の古事記論」に力点を置いた番組は作りにくいということなのでしょう。いつの日にか、もう少し「いま現在の最先端の古事記論」に力点を置いた番組作りができるような時代が来るように、私もこれからの文筆活動で、粘り強く学界を動かしていこうと思っています。(2008年4月29日) 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日本との違いは、まず、ヨーロッパは石とコンクリートの文化なので、古代や中世の建築物の一部や全体が、そのまま残っていること。日本は、木と竹の文化なので、ほとんどの古代・中世の建築物は、朽ち果てるか焼けるかで、消滅してしまった。伊勢神宮は「御遷宮」で20年ごとに立て替えをして存続しているが、これと同じように、日本の建築物は誕生→消滅→再生の繰り返しである。要するに、日本文化には、四季の循環に代表される自然界の、誕生→消滅→再生のアニミズム的な感覚が根づいている。半年あるいは1年ごとに祓えと禊ぎをして過去を消滅させ、新たな誕生を迎えるいわば“水に流す文化”である。それに対してイタリアは、スペイン・フランス同様、過去の永続性が強調されるので、いわば“水に流さない文化”であることがわかる。 日本との違いの第二は、本格宗教の有無である。ローマのヴァチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂やヴァチカン博物館を見学したことで、ヨーロッパ人の意識の中に占めるカソリックの圧倒的な支配力を確認できた。中世暗黒時代にあれほどがんじがらめにカソリックによって心を支配されたのだから、ルネッサンスや宗教改革で自由度が高まったとはいえ、その後遺症が現代まで残っているのは当然という印象だ。アメリカとイラクの戦争が、キリスト教対イスラム教という、一神教同士の泥沼の戦いになっているのもよくわかる。イラク攻撃の際に、アメリカのブッシュ大統領が、演説の中でアメリカ軍を「十字軍」になぞらえたと記憶しているが、“水に流さない文化”同士の戦いは、日本のような“あっさりと水に流す文化”とは違って、泥沼になりやすいということがよくわかった。 日本との違いの第三は、イタリアの古代・中世の都市が、城壁に取り囲まれている点である。これは、先にこの欄で(2006年6月17日)、中国・西安の城壁(唐時代には約36q)と日本古代都市との比較でも述べたことだが、古代日本の場合は、異民族による侵入に対する恐怖が少なかったことがよくわかる。戦国時代の城は、武士(戦闘集団)だけが立てこもる軍事拠点であったのに対して、ヨーロッパや中国の城壁都市は、一般人も含めてその都市全体が城壁の内側に入ってしまう大規模さである。 日本との違いの第四は、建築物その他のデザイン全般の“美の体系”が日本文化と大きく違っている点である。特に、ルネッサンス期の絵画における遠近法やシンメトリー構図、また直線と円の幾何学的組み合わせなどを見ると、それらがのちの西欧的近代化と矛盾しないものであることがわかる。それに対して日本文化は、絵画・庭園などのどれにも、必ず西欧近代の基準から逸脱している部分がある。これは、ファジー、曖昧領域と言ってもいいものだが、別の言い方をすれば先に指摘したアニミズム的感覚の残存でもある。 アニミズムは、縄文・弥生期的な自然と密着したムラ段階の社会に顕著なものであり、私の言い方では「自然との共生」と「節度ある欲望」を生きる感覚である。日本社会は、現在でも、この部分の感覚を色濃く継承している。 日本との違いの第五は、人間の裸体に対する感覚についてである。ルネッサンスはギリシャ精神への回帰でもあったが、そこでは、人間の“純潔”が裸体によって示されるという精神があったようだ。フィレンツェの美術館だけでなく広場にも乱立する裸像彫刻や、街を歩いている普通の女性の胸元の露出度の高さを見ていると、日本文化とは違うなあという感じがする。日本文化は、“肉体を隠す”文化である。せいぜい“ちらりと見せる”ことによって想像力を刺激する“ゆかし(おくゆかし)”の文化である。 以上、簡単にイタリア旅行から得た感想を書きました。 ☆『日本・起源の古代からよむ』は再校が終わりました。11月中には刊行できそうです。 ☆『國文學』(學燈社)2007年10月号に「歌垣と万葉恋歌」という文章を載せました。「新聞・雑誌等掲載原稿」コーナーに転載しておきました。(2006年10月14日) ご質問・ご感想はこちら |
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| ◆『アジア遊学100号の提案』(勉誠出版、07年7月)に、「生きている神話や生きている歌垣の第一次資料が必要」という文章を載せました。
私が進めてきた少数民族文化の現地調査は、神話や歌垣の現場の、少数民族語に忠実な丸ごとの資料を作成するというところに力点を置いています。このような作業は、本来は文化人類学者が積極的に行なうべきことなのですが、実際は彼らのほとんどはこういった作業には不熱心です。彼らは、社会・儀礼・呪術などの構造分析を、高度に抽象化された用語を用いて論文化するのには熱心ですが、それらの根幹にある言語表現世界の忠実な記録を後世にまで残すという、手間のかかる地道な作業からは逃げています。そこで、今回書いた文章では、文化人類学などジャンルを問わず、意欲ある研究者に向けて、あらためてことば表現世界の第一次資料の獲得に向かって行動して欲しいというメッセージを送りました。「新聞・雑誌等掲載原稿」欄に転載しておきました。
刊行準備中の『日本・起源の古代から』の最終的な書名は、『日本・起源の古代からよむ』に決まりました。『日本・神話と歌の国家』(勉誠出版、2003年)の姉妹編です。10月刊行を目指しています。
その『日本・起源の古代から』に収録する書き下ろし部分、「起源の古代から現代をよむ──おわりに」が完成しました。400字詰め50枚強の、本格的な文章になりました。小見出しが、前回の予告から、以下のように少し変化しました。 起源の古代から現代をよむ──おわりに
古代文学と現代思想に両棲する 革新勢力はなぜ政権を取れないのか 右か左かの二分法思考を超える 美しい国、日本 訓詁注釈とモデル理論が手を携えなければならない 古代の日本像の把握には綜合的な知性がもとめられる
若手・中堅の古代文学研究者よ、辺境へ急げ 古代文学研究に月面着陸後のような変化が生じ始めている
この8月・9月は、私にとっては大変珍しいことですが、アジア訪問は休憩することになりました。1994年に中国雲南省を訪問して以来昨2006年まで、外国旅行は中国・タイ・インドネシアなどのアジアだけでしたが、今年の夏は久しぶりにヨーロッパを訪問します。ヨーロッパからアジアを見るという視線を、再確認してみようと思います。
来年は、3月の中国湖南省・貴州省訪問、8月の雲南省、9月のインドネシア訪問がすでに決まっています。 (2007.8.6)
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| ◆季刊雑誌『大航海63』(新書館、2007.6)が、「白川静と知の考古学」という特集を組み、私も「起源への意志──白川静の力動」という一文を寄せました(「新聞・雑誌等掲載原稿」欄に転載しました)。私以外にも14名のかたが寄稿・発言していて、そのどれもが興味深いものでした。これは、白川静の学問が、そのスケールの大きさゆえに、さまざまな視点からの検討に耐えうるものだからでしょう。 その中でかなり異質なもの(私のも異質ですが)として、小谷野敦氏の「白川静は本当に偉いのか」がありました。これは、挑発的な題名になっていますが、小谷野氏自身が自分の考えとしてそのような疑問を強く訴えるという趣旨のものではないようです。むしろユニークなのは、白川の仕事に対する当時の東大・京大の漢字学者の感情的な排斥や、それまでの『説文(せつもん)解字』主体の漢字学で名をなしていた学者たちの冷淡さを、活字で残されている彼ら自身の文章を証拠として提示している点です。そのうえで小谷野氏は、「白川を蔭でトンデモ呼ばわりしている人たちは、正々堂々と批判をしてほしいもので、白川が偉いかどうかより、表だっては何も言わずに蔭でこそこそ言う一部学界の風潮のほうがよほど問題だと、私は思う。」と結論しています。 要するに、「起源の実証は難しい」(小谷野氏)のだから、誰がやっても字源論は、学問的に困難かつ危険な領域に踏み込むことになります。しかし、『説文解字』主体の漢字学の場合でもそれは同じで、むしろ、後世的で質の悪い素材から字源を推定しているのだから、一見客観的には見えても本当はあまり威張れるものではありません。小谷野氏は、字源に迫ろうとするときの「白川の方法」自体をめぐって、「蔭でこそこそ言う」のではなく「正々堂々と」学問の場で議論すべきだと提言しているのです。 私は、「起源への意志──白川静の力動」で、私が推進しているモデル理論の根拠になっている「原型生存型民族」の歌掛け文化や神話の現場の実態資料は、「白川の学問で言えば甲骨文・金文に対応するものではないかと考えている」と述べました。ということは、白川の学問に対する既成の権威化された学界の側からの排斥、冷淡な扱いと同じことが、私のやっていることに対して生じるということを示しています。そして、この10年くらいの学界の反応を見ていると、実態として見事にそうなっているのです。 従来の日本古代文学研究における〈古代〉像は、中世・近世的な「後世的で質の悪い素材」からイメージされていました。それに対して私は、少しでも縄文・弥生期的あり方に近い、辺境の「原型生存型民族」の歌掛け文化や神話の現場の実態資料からイメージしたほうが、リアリティーある〈古代〉像を描けるのではないかと提案しているわけです。それに対する既成の学界の反応は、悲しいことに「蔭でこそこそ言う」が主流のようです。 私の論について、少数の先進的研究者はすでにその必要性を認めて自分の学問に取り入れ始めていますが、学界の圧倒的多数派は無視・黙殺を続けています。しかし、今回、『古事記の起源』がさまざまな分野で受け入れられたために、状況は変わりつつあるようです。要するに、私のモデル論的方法がついに、「出る杭は打たれる」の「出る杭」になってきたのでしょう。前から、海外調査費の公的援助(学術振興の助成)を求めても却下されていましたが、これからしばらくは、国文学系で特に旧来の訓詁注釈研究に固執する出版社では、私の本や私と共通の研究方法の本の刊行は難しくなるでしょう(すでにごく最近に、そのような現象が私の身の回りで起き始めました)。 旧来の訓詁注釈主流の研究方法と私の提起したモデル論的研究方法は“対立”ではなく手を携えて進むべきものであるのに、それを“対立”と受け取って排斥・自己防御という方向に向かってしまう学者が多いようなのです。しかし、こんなことはまったく無意味なことでして、この瞬間もアジアの原型生存型文化はものすごい速度で消滅に向かっているのです。せめて若手・中堅の日本古代文学研究者には、日本古代文学研究の風景が大きく変わっていると思われる30年後を心地よく過ごせるように、「今こそ辺境へ急げ」という言葉を贈ることにしましょう。 というわけで、2007.1.9のこのコーナーで、「月並みではありますが、年頭に当たって“健康で長生き”を目標に掲げることにいたしました」と書きましたように、あらためて私は今、白川静ほどではないにしてもある程度までは長生きして、私の理論の普及に努めなければならないと感じています。 刊行準備中の『古代から現代をよむ』(仮題)は、今の時点では『日本・起源の古代から』という方向の書名になりそうです。『日本・神話と歌の国家』(勉誠出版、2003年)の姉妹編という位置づけです。10月には刊行できそうです。『古事記の起源──新しい古代像をもとめて』が一般教養人のあいだでそれなりに受け入れられているようですので(5月25日に三刷が出ました)、『日本・神話と歌の国家』のときよりも少しは関心を持ってもらえるのではないかと感じています。 今、その『日本・起源の古代から』に収録する書き下ろし部分を執筆中です。「起源の古代から現代をよむ──おわりに」という文章ですが、今の段階でのその小見出しだけを紹介しておくと、以下のようなものです。 「起源の古代から現代をよむ──おわりに」 古代文学と現代思想に両棲する 革新勢力はなぜ政権を取れないのか 訓詁注釈とモデル理論が手を携えなければならない 右か左かの二分法思考を超える必要がある 「美しい国、日本」 古代の日本像の把握には綜合的な知性がもとめられる 若手・中堅の古代文学研究者よ、辺境へ急げ (2007.6.9) |
| ◆私は今まで、自分の著書にどのような反響があったかや売れ行きについて、あまり関心を持たないほうでした。売れ行きについて言えば、大学教員という身分で生活を保障されている人間は、今は売れなくても、学術的に後世の人々に感謝されるような本を刊行するのが義務だと考えています。この考え方は、今回刊行した中公新書『古事記の起源─新しい古代像をもとめて』においても貫きました。 ですから私は、「古事記の謎99」「古事記がよくわかる」といった方向の本は書きません。『古事記』は、肝腎なことがほとんどわからないという意味では、もともと「謎」だらけの本です。その最も肝腎な部分の「謎」に迫らずに、わかっている部分だけの「謎」を扱ってその「答え」を示すのなら、それは最先端の学問ではありませんから、私の仕事ではありません。 とはいいながら、今回は新書としての本です。私の理論を、学会という狭い世界だけでなく、広く一般読者にも理解してもらうのに絶好の機会ですから、少しは売れ行きのことも考えて、一般読者も読みやすいように、全体の構成、文体、用語などにくふうを加えました。 かつては新書と言えば、岩波新書・中公新書・講談社現代新書などが主流で、学術的に内容の確かなものが普通でした。しかし現在では、大量の「○○新書」が創刊され、主要目的がベストセラー狙いがである本が多くなりました。受けの良い題名、です・ます調など手軽に読める文体、短時間で読める少ない分量、「時代の流れ」に乗った瞬間的な話題性を重視したテーマ、すぐに役立つ実用性といった特徴が目立ちます。そういう現状にあって、私の『古事記の起源』は、これらのどの条件にも反しています。今風の新書≠ニいう「時代の流れ」に「遅れ」、「背を向け」、「抗している」わけです。この点は、『古事記』は〈古代の近代化〉という「時代の流れ」に「遅れ」、「背を向け」、「抗している」書物だとする私の把握と通じている部分があります。 にもかかわらず『古事記の起源』には、反響がさまざまな形で現れています。まず驚いたのは、「朝日新聞」の書評欄(2007.1.28)が、「文庫・新書のおすすめ新刊」というコーナーで『古事記の起源』を紹介したことです。朝日新聞学芸部は、私の1994年以来の新開拓の研究分野にほとんど関心を示してきませんでした。生きている歌垣や生きている神話に対する興味も、それらの現地資料が『古事記』など日本古代文学の研究はもちろん、日本論の全体にまでじわじわと変化をもたらしつつあることに、関心がなかったようなのです。朝日新聞・岩波書店が主導してきた敗戦後の革新系の知識世界にも、わずかとはいえ変化が生じ始めたのでしょうか。 次に驚いたのは、「日本経済新聞」の書評欄(2月4日)が、しっかりとした書評を載せたことです。日本経済新聞文化部記者の誰かが、私の古事記論では社会科学的視点からの国家論がセットになっていることや、文化人類学的なモデル論が用いられている点に、普通の国文学者の書く古事記論と決定的に違っていることを読み取ったのでしょう(書評の執筆者は『口語訳古事記』文藝春秋、で知られる三浦佑之氏)。 そうこうするうちに、意外にも売れ行きの点でも善戦して、刊行から2か月しか経っていない2月下旬に増刷が決まりました。これは、広く一般の教養人が、私の古事記論を全否定や無視するのではなく、とりあえずは知性の一角に置いてみようと思ったということでしょう。 続いて3月18日(日)に、NHKBS11の「週刊ブックレビュー」で市川森一氏の「おすすめ本」として紹介されました。私はこの番組を見落としましたので、どなたか見た人がいたら、どの点を評価してくれたのか教えてください。市川氏は、もう一冊『憲法九条を世界遺産に』(太田・中沢、集英社新書)を「おすすめ本」に挙げていました。私は、〈古代の古代〉のヤマト族文化に通じる少数民族文化(原型生存型文化)を「生身の世界遺産」と呼んでいます。市川氏の関心は、おそらく、「憲法九条」「少数民族文化」「世界遺産」のセットにあったのでしょう。 そしてさらに驚いたのは、3月25日(日)の毎日新聞書評欄に『古事記の起源』が大きく取り上げられたことです。新書の新聞書評が刊行から3か月以上を経過して出ることはほとんどないので、これは異例なことでした。この書評を書いた三浦雅士氏は、2月18日の毎日新聞に『ローマ人の物語』(塩野七生)の書評を書いていました。これは、あの膨大な分量の本を手際よく咀嚼したもので、書評の絶品だと感じました。その三浦氏が、『ローマ人の物語』で全エネルギーを奪われてしまわずに私の本の書評まで書き上げたのですから、プロの物書きの凄さを見た思いがしました。 三浦雅士氏の書評は、『古事記』を論じることは日本論全体に関わってくることであるという私の視点を、最も深い部分で受けとめてくれた評価でした。私のこれからの研究者としての人生で手抜きはできないぞと、あらためて責任を自覚させられました。2007.1.9の「最新情報」で、私は白川静の研究者人生を模範としている、したがってこれからがいよいよ本格的な研究者人生としての勝負になる、と書きました。三浦雅士氏の書評は、その私の背中をぐいっと押しました。 ほかにもさまざまな方面からの反響がありました。『古事記の起源』の刊行は、私やアジア民族文化学会が模索してきた研究方法を、広く一般教養人に知ってもらえるきっかけになったようだと感じています。 それはそうと、3月24日(土)には、大学時代の同じクラス(法学・経済学系)の同窓会があり、私は「革新勢力はなぜ政権を取れないのか」という題で話をしてきました。この講話(講演よりはくだけたもの)は、幹事が、『古事記の起源』を書店で買って読み、決めたのこと。『古事記の起源』から「革新勢力はなぜ政権を取れないのか」というテーマが出てくるのですから、我ながら自分のやっていることのオモシロサを感じています。もちろんこの演題は、裏返して言えば「こうすれば革新勢力が政権を取れる」という内容になります。 この春休みは、珍しく海外に出ずに家におりましたので、次の単行本の原稿を完成させることができました。書名は『古代から現代をよむ』(仮題)です。書き下ろしではなく、近年いろいろなところに書いた論文や短文を編集したものです。第一稿は3月22日にできました。順調にいけば、6月か、秋の10月に刊行です。 (2007年4月8日) |
◆白川静が96歳で死去しました(06.10.30)。白川は、遅咲きの学者でした。なぜ遅咲きになったかといえば、@中国古典籍の範囲にとどまらず『万葉集』そのほか多くの分野に視界を広げたうえに、A自分の専門の漢字研究においても既存の中国古典籍特に『説文解字』などに頼りすぎることなく、それよりはるか以前の甲骨文・金文という漢字の「起源」にまで遡って洗い直し作業を行なったからです。このように@やAのような手間のかかる作業を行なえば、その成果が形になるまでに普通の研究方法の学者より時間がかかるのは当然です。彼が、一般教養人のあいだで知られるようになったのは『漢字』(岩波新書、1970年)の刊行からだといわれ、それは彼が60歳の時でした。『字統』『字訓』『字通』(いずれも平凡社)の三部作は、73歳で着手して86歳で完成したものだということです。 実をいえば私は、ひそかにこの白川静の学究人生を模範にしたいと考えてきました。私の現在の専門は日本古代文学ですが、ここにたどり着くために歩んできた道は、白川に劣らないくらい変化に富んでいます。学部ではマルクス経済学を専攻し、しかし大学院では演劇学を専攻し、歌舞伎の研究をしました。同時に劇団を組織し、戯曲も書くし、演出もしました。並行して、日本国内の祭式・民俗芸能の探訪を続けました。演劇研究は、歌舞伎から入って能楽へ進み、演劇の源を探っているうちにやがて古代演劇にたどり着き、いつの間にか日本古代文学が専門になっていました。 ところが、古代文学は『古事記』より先の資料がほとんどないので、それからどうするかと考えたときに、白川静のAの方向に向かうことになりました。従来の古代文学研究では、『古事記』より以前の無文字時代の問題には触れないようにするか、触れても既存の文献資料や後世の祭式・民俗芸能から古代像をつくるのが常識でした。それに対して私は、『古事記』以前を想定するためには、少しでも縄文・弥生期的な日本列島文化と近似しているアジアの原型生存型民族の文化の実態を知らねばならないと思い、ついに1994年から辺境の中国少数民族の集落を訪問し始めたのです。 日本文化のルーツを雲南などの中国少数民族の文化に求める考え方は、私以前にも存在していましたが、私の独自性は、『古事記』は“ことば表現”の世界なのだからということで、少数民族文化の中でも特に“生きている神話”や“生きている歌垣”などの少数民族語に即した“ことば表現”を忠実に記録することに力点を置いた点です。そのうえで、それら“生きている神話”や“生きている歌垣”などの第一次資料を素材として“原型的な神話”や“原型的な歌垣”のモデルを想定し、その原型的な段階を「起源」と位置づけ、そこからの距離を測定しながら『古事記』の表現を分析するという方法を打ち出したことです。 このように、@さまざまな分野を遠回りし、しかもA『古事記』を「起源」から読むための素材を自力で獲得するという作業を開始した以上、時間がかかるのは当然なのでした。 ついでに言えば、大学時代に経済学部だったことは、社会科学的視点を身につけたということですから、これが私の『古事記』論に「国家論」の視点を加えさせたのだと思います。また、演劇・祭式・民俗芸能の研究をしたことは、『古事記』以前の、文字ことばとは異質な部分を持つ“音声ことば”の世界への接近を後押ししたのだと思います。 このような私の研究者経歴が背景にあって、『古事記の起源──新しい古代像をもとめて』(中公新書)が、去る12月20日に刊行されました。白川静を模範とすれば、私が64歳で出したこの本は、白川の『漢字』(岩波新書)にあたるはずなので、私にとってはこれからがいよいよ本格的な研究者人生としての勝負になるのでしょう。研究者の中には、40代でピークを迎え、あとは余生という人もいますが、白川静のように70代、80代にピークを迎える人もいます。なにはともあれ、私が白川の軌跡を追えるようになるためには、健康を維持しつつ長生きをしなければなりません。 というわけで、月並みではありますが、年頭に当たって“健康で長生き”を目標に掲げることにいたしました。 アジア民族文化学会の「あじみん通信8号」に載せた「図像考古学と“ことば表現考古学”を結びつける実態資料が必要」という文章を、「新聞・雑誌等掲載原稿」欄に転載しておきます。(2007.1.9) |
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| ◆9月22日に帰国して以来、さまざまな雑務が待ちかまえていて、その処理に追われる毎日でした。講義科目の集中講義が土曜日の午後に設定されていて、しかも板橋と高坂のキャンパスで週ごとに交代で行なっています。ところが、板橋と高坂では授業の開始時間が違っていることを忘れて、第1回の板橋校舎のときに大幅に遅刻しました。また、九段下に行こうと思って地下鉄の路線を間違え、お茶の水から歩いたこともあります。家を出るときに財布を忘れる、腕時計を忘れるなんてこともありました。1995年の雲南省1年間滞在のときと較べると、今回のは6か月滞在だったことにより、年度途中から一気に職場の現役生活に戻らなければならないので、案外に大変でした。 そのうえ、書かねばならない細かい原稿がいくつもあって、それにも追われました。その中の一つが、毎日新聞11月20日夕刊に掲載された「近代化で消えゆく〈古代の古代〉」という文章です。私がペー族歌垣について最初の現地報告を載せたのが毎日新聞(1995年10月16日夕刊)で、「生き続ける〈古代の古代〉──中国・雲南に原型的な歌垣を聞く」でした。それからの11年間で、改革開放政策による中国近代化の波及と、地元政府主導の観光事業化によって、若者たちの自然な歌垣が激減していました。しかし、救いは、現地の側のペー族歌文化の研究体制が整い始めていたことです。「新聞・雑誌等掲載原稿」欄に転載しました。 『古事記の誕生』の最終校正にも追われています。12月20日発売予定です。 ところで、書名が『古事記の起源──新しい古代像をもとめて』に変わりました。営業も入れた最終段階の会議での決定だとのことです。 「誕生」という語には、“『古事記』礼賛→皇国史観礼賛”という連想が働くかもしれないという危惧があったようです。旧来の「左翼」「革新系」「良心的文化人」といった層の人々が、書名を見ただけで遠ざかることを避けようとしたのでしょう。一方で、販売促進という点から言えば、日本古代史のファンはとても多く、その人たちには「起源」のほうがずっと訴えかける力が強いとのことです。私の『古事記』論は、国文学の書であると当時に思想の書にもなっていますので、『古事記の起源』という書名で多くの教養人に読んでもらえるようになるのなら、とてもよいことです。 それにしても、私以外の人が『古事記の起源』という書名で本を書く力はありませんから、実はこの書名は私の本にふさわしい書名でもあります。私以外の人が『古事記の起源』という書名の本を出したら、それは“上げ底”または“誇大広告”になります。今までの文献至上主義の研究方法では、無文字の『古事記』以前を視界に入れて、そこに「起源」を想定することは絶対にできないからです。原型的な神話や歌垣のあり方の実態資料を獲得したうえで、それらを根拠にモデル的に原型的なあり方を想定してそれを「起源」とし、その「起源」から712年の『古事記』に至る過程を把握するという方法は、私独自のものです。その意味でやはり、『古事記の起源』は、実はこの本に最もふさわしい書名だったということになります。 (2006.11.22) ◆今回の海外滞在報告の第5信(終)です。 この文章は、9月22日に帰国してから、自宅で書きました。 7月31日に寧波の宿舎を引き払い、日本に一時帰国しました。4か月分の郵便物の点検やさまざまな雑務を処理して、8月8日にインドネシア・バリ島に向かいました。拠点は、内陸部のウブドです。 バリ島には1996年以来8度目の滞在でしたが、8月のバリ島は初めてでしたのでその涼しさに驚きました。考えてみれば、北半球の日本が真夏のときには南半球は真冬なのですから、赤道より南に位置し、南極やオーストラリアから冬の風を受けるこの時期のバリ島が涼しいのは当然なのでした。半袖しか持って行かなかったので、テラスでは寒さに震えるようなときもありました。8月のバリ島は“避暑地”なのです。 バリ島での狙いは二つです。一つは、ヒンドゥー教の影響の少ないもともとのバリ文化の村であるトゥルニャン村の、歌う神話の資料を完成に近づけること。もう一つは、死体化生神話の「ハイヌヴェレ神話」で知られるヴェマーレ族をセラム諸島に訪問して、実際にその神話の実態に触れることです。 ハイヌヴェレという娘を殺してバラバラに切り刻み、それを地面に埋めたところ、そこから芋が生じたという「ハイヌヴェレ神話」は、アードルフ・E・イエンゼン『殺された女神』(弘文堂、1977年)でよく知られています。この書物は、イエンゼンによる1937年の調査に基づくものですが、私は、現在のヴェマーレ族の状況について知りたかったし、できるなら彼らに接触して「ハイヌヴェレ神話」そのほかの神話を実際に聞いてみたかったのです。中国少数民族の場合、神話は“歌う”のが基本ですが、ヴェマーレ族ではどうなのかも確認したい点でした。 また、「ハイヌヴェレ神話」では、殺される前のハイヌヴェレの排泄物から、珊瑚、中国製磁器皿、山刀、シリーという植物を入れる銅製箱、黄金製耳輪、銅鑼という、いずれも“製造物”が生じています。ところが、『古事記』のオホゲツヒメ神話では、オホゲツヒメの排泄物から生じているのは、「蚕」を除けば、稲種、粟、アズキ、麦、大豆という五穀つまり“食物”です。排泄物から生じるものが“製造物”か“食物”かの違いの原因の一つは、野放し状態の豚が人糞を食べる“豚の清掃局”が存在しているかいないかの違いにあるのではないかというのが、私の推論です(工藤『中国少数民族と日本文化−古代文学の古層を探る』勉誠出版、参照)。豚がいなければ、人糞は、単なる嫌われ者として廃棄されるか、日本のように農耕用肥料として活用されるかのどちらかです。豚が人糞を食べてしまえば、人糞肥料はできません。日本の場合は、弥生時代のあとの早い時期に何らかの原因で豚が姿を消したようであり、その結果人糞を肥料に転用するという“技術革新”が生じたようです。人糞の肥料としての役割が認識されれば、『古事記』のオホゲツヒメ神話のように排泄物から食物が生じる神話になるのも理解できます。しかし、ハイヌヴェレの排泄物から生じるのが“製造物”だということは、ヴェマーレ族では人間の排泄物(人糞)は豚に食べられてしまい、肥料として用いられることはなかったと私は推測しています。というわけで、セラム諸島では豚と便所のことも確認したかったのです。 セラム諸島訪問のための情報収集の過程で、実際に近年、ヴェマーレ族の集落に入ったことのある、スンバ島出身の材木商の青年に出会いました。彼の話だと、「ヴェマーレ族は、木の皮で作った服を着ている。豚は野放しで、便所は無い。人糞は豚が食べる」とのこと。「豚は野放しで、便所は無い」という点、まさに私の予測通りでした。また、イエンゼン『殺された女神』にも、服が木の皮だということや、生け贄にする動物の代表が豚だということが書かれています。 しかし、セラム島では、今年の初めごろにイスラム教徒とキリスト教徒が衝突して死者が出ていました。そこで、現地の役所、旅行社などからさまざまに情報を得た結果、今回は渡航が難しいという判断になりました。おまけにセラム諸島では、インドネシアからの独立運動も発生しているとのことです。そこで、セラム諸島訪問については、今後の可能性を求めて準備を継続するということにして、今回は断念しました。 トゥルニャン村には過去に4度訪問しています。昨2005年3月には、ロンタル(植物の葉を乾燥させたもの)に書かれたカウイ文字(ジャワ島伝来という)の歌詞を撮影し、その歌い手にそれをそのままノートに書き写し、カウイ文字の下にバリ語訳を書く作業を依頼しました。さらに、今度は別のバリ人の文化人に、そのバリ語訳にインドネシア語訳を付けるという作業も依頼してあったのですが、それらすべてが完成していました。これからは、そのインドネシア語訳に日本語訳を付ける段階にまでたどり着いたことになります。 仮に歌垣の場合のように一つのまとまりを「1首」と数えるとすれば、全体で261首もありました。1首は、これも意味の切れるところで「句」に分割すると、6句〜8句から成っています。 トゥルニャン村には9月13日に5度目の訪問をしました。湖畔沿いに村までの道路を造っているとのことですがまだ陸路では行けず、今までと同じように小舟でバトゥール湖を渡りました。昨年までは、船着き場に料金表があってそれで料金を支払えばよかったのですが、今年は料金所は閉鎖されていました。したがって、10数年前までと同じように船着き場の業者が高額な料金を言ってくる、それをこちらが値切るという状態に戻っていました。渡し船の劣化も歴然としていて、エンジンは心細い音の連続です。村から帰るときにはエンジンがかからず、応急の修理をしてやっと動き出したという具合でした。 しかし、トゥルニャン村の目指す家では、歌い手の75歳の父と36歳の息子が健在で、しかも在宅でした。電話連絡ができない家なので、歌い手父子がいるかどうかは行ってみなければわかりません。幸運でした。 今回の目的は、ロンタルに書かれたカウイ文字と、ノートに書き写されたカウイ文字を指で追いながら実際に声に出して歌ってもらい、それを録画することです。それが実現しました。1首を歌う時間は、3分弱でした。ということは、この神話を全部歌うには、261首×3分弱=783分弱=13時間弱かかることになります。 これからは、インドネシア語訳から日本語訳への作業です。これは、インドネシア語の専門家は身近にいるし、私も少しずつインドネシア語を学習中ですので、いずれは完成して、DVDの音声・映像付きで発表できるでしょう。ともかく、日本語訳に取りかかるその前の段階にたどり着くまでが本当に大変だったので、それが終了したことで、ホッとしました。 さて、8月18日には一時的にバリ島を離れて香港に行き、翌日の便で、中国雲南省昆明に行きました。そこでアジア民族文化学会の諸氏と合流して、雲南省剣川の石宝山に向かいました。私は、95年8月以来、石宝山歌会には連続5年間通いました。その後は、石宝山周辺の、ツービー湖の歌会やチャオホウ(橋後)の山上の歌会を調査しました。 石宝山歌会では、97年に広場の歌競べ台が木製の素朴なものから本格的なコンクリート建築に変わり、大音響のスピーカーも設置されたあたりから、林の中などでの若者たちによる自然な歌垣は減少に向かいました。地元当局による行政主導の観光化が進んだのです。石宝山歌会のその後がどうなったのか気になっていましたが、やはり今回は自然な歌垣は激減していました。 8月20、21日に雲南省大理で、中日ペー族歌謡文化学術シンポジウムが開催されたので、これを機会に7年ぶりに石宝山歌会を訪問したのですが、歌競べ台での芸能歌垣や、かがり火を囲んだ芸能大会だけはいっそう盛んになっていました。しかし、歌のワザを楽しもうとする中高年者の歌垣は散見されたにしても、若者たちの自然な歌垣はほとんどありませんでした。 一方で、ペー族の歌文化の研究自体は、この11年間に大きく進展しました。私や岡部隆志氏の発表したペー族歌垣の現場資料が日本の学会誌や単行本で発表されたこともきっかけの一つとなって、01年にはアジア民族文化学会が結成されました。雲南省の現地でも、02年に大理学院文学院・大理学院民族文化研究所が創設されました。そして、この三者の共催で今回、初の中日シンポジウムが開催されたのです。 中国側から約60名、日本側から15名が参加しました。私は、「ペー族歌文化と日本古代文学」と題して、ペー族歌垣の現場の資料が、他のチュアン族・モソ人・ミャオ族・リス族などの歌垣資料と共に、日本古代文学研究の前提を変えつつあることを報告しました。歌垣の現場資料をモデルとして、『古事記』(712年)以前の無文字時代の歌文化を考える研究方法が着実に定着しつつあり、従来の、日本の国境の内側の、後世の変質をこうむったあとの民俗資料でイメージされた歌垣像は、研究者の二世代くらいが入れ替わる3、40年後には根底から変化しているであろう、と述べました。 その際に、この6月に刊行された私の『雲南省ペー族歌垣と日本古代文学』(勉誠出版、06年)の紹介もしました。この本には、97年に石宝山歌会が変質し始める前年までの、95年、96年に録音・録画した若い男女の自然な歌垣2つを、ペー語(アルファベット発音表記)、中国語訳、日本語訳で全句収録しました。 また、私の「歌垣の現場の八段階」論も紹介しました。従来は、歌垣(中国語では「対歌」)という語で、原型的なもの、芸能化されたもの、文学の領域に進んだものなどが区別されることなくイメージされていたので、歌垣イメージに人によって大きなばらつきがありました。しかし「歌垣の現場の八段階」論が登場したことによって、原型性という点で最も重要なものは、《第一段階》の「配偶者や恋人を得るという実用的な目的を持って、即興的な歌詞を一定のメロディーに乗せて、歌の掛け合いをするもの」であることがはっきりしました。そして、この《第一段階》の歌垣の現場資料こそが、現在だけでなく後世の研究者のためにも最も重要なものなのですが、『雲南省ペー族歌垣と日本古代文学』の若い男女の自然な歌垣2つの資料が刊行される前までは、この段階の資料だけが中国側でも日本側でも欠落していたことを指摘しました。 今回のシンポジウムでは、ペー族出身の研究者の中からも、歌詞の韻律そのものを国際音声記号で分析する研究(段怜「白曲曲詞音韻格律」)が発表されるなど、少数民族語そのものから自分自身の民族の歌文化を研究しようという姿勢が見え始めました。また、私の共同研究者であるペー族出身の施珍華氏のように、自分自身が若い時期の《第一段階》の歌垣の経験者であるため、発表の最中に実演が混じるという発表者も何人かいました。いま消えゆこうとしている《第一段階》の歌垣の経験者が研究者の中に実在しているときに、ペー族歌文化の日中共同の研究が軌道に乗ったことの意義は大きいと思われます。 なお、石宝山歌会からは若者による自然な歌垣はほとんど消えましたが、チャオホウ(橋後)の山上の歌会のように、あまりに不便な場所なので観光化は絶対にできないような地域のものでは、これからもしばらくの間は存続する可能性があります。今からでもペー族の、若者による自然な歌垣を見たいと思う人は、チャオホウ(橋後)の歌会に行くことを勧めます。 さて、シンポジウムの日程には、日本人の参加者向けに麗江の観光旅行が入っていました。麗江は、明代のナシ族の古い都市で、静かな良い町でした。「でした」と言ったのは、それがそうではなくなったからです。現在は、喧噪に満ちた、カネ臭い町になっていました。麗江は、経済的にゆとりの出てきた階層の中国人の観光旅行のターゲットになっていました。麗江が1999年に世界遺産に登録されたのも大きな転機になっています。麗江の四方街の中心地域は、かつては、ナシ族住民の日常生活を尊重しながら観光客も古都の情緒を楽しませてもらうという雰囲気でした。それが今回は、まるで、渋谷の年越しの夜のカウントダウンのような興奮が満ち、ラッシュアワーのような人の波と、中国人男女が歌をぶつけ合う騒音(歌垣の伝統の発現という見方もできないではないが)が支配しています。 この騒音については、大理の洋人街でも同じで、もともとはコーヒーを飲みながら静かに歓談する西洋的な雰囲気の通りでしたが、今回数年ぶりに行ってみたら、両側の店から客寄せのすさまじいボリュームの音楽が鳴り響き、私は両耳に指で栓をしてそこを通り抜けたくらいです。中国人観光客が増えると、騒音がないと商売が維持できないのでしょう。 麗江では、四方街の入り口に、当時の主席だった「江沢民」自筆の「世界遺産」獲得の文章が大きく掲げられていました。また、ナシ族の保存村(束河古鎮)があると大々的に宣伝していたので行ってみたところ、入り口から奥までのほとんどが土産物屋で、肝心のナシ族の古村の生活に触れることはできませんでした。 中国では、「世界遺産」も政治的功績を誇示し、観光客を呼び寄せてカネを集めることが主眼になってしまうようです。私は、これほどに俗化してしまった現在の麗江は、世界遺産から外すべきだと感じました。 8月27日にアジア民族文化学会の諸氏が昆明から帰国し、私は香港経由で翌28日に一時帰国しました。中2日おいて31日に再びバリ島に向かいました。それから9月21日夕刻まで、バリ島に滞在して、トゥルニャン村を訪問したり、セラム諸島についての情報を集めたりしていたわけです。 帰国して9月25日から、大学での講義、会議に復帰しました。約6か月間“他界”に行っていた人間が“現世”に戻って来たわけです。“他界”には「黄泉(よみ)の国」もありますから、“他界”から帰ることを「黄泉(よみ)帰り」とも言うわけですが、“他界”で新たな力を得て帰ってくるときには、「甦」という漢字を用いて「甦(よみがえ)り」になります。“他界”である「根の国」に行って、スセリビメという巫女と聖なる太刀・弓矢・琴を携えて現世に戻って来たオホナムチは、現世では「大国主命(おおくにぬしのみこと)」となって地上の王になりましたが、これも「甦り」の一種です。今回の私の“他界”からの帰還が「甦り」になるかどうかは、これからの私の諸活動によって示されることだと思います。 (2006年10月1日) |
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| ◆寧波からの報告の第4信です。 7月19日〜7月26日は、雲南省のソウ(「さんずい」に「倉」)源地域のワ族文化の調査をしてきました。ワ族文化の調査は、すでに1996年と2002年の二度、西盟・孟連地域で行ないました。しかし、ワ族人口の最も多いソウ源地域の調査と、ワ族発祥の地と思われるミャンマー(ビルマ)は後回しになっていました。ミャンマーは、政府軍との戦闘が続いているとのことで断念せざるをえないのですが、少なくともソウ源は行ってみなければならないと思っていました。去年計画したときは、靖国問題による反日感情の波及で、地元政府の非協力の態度が歴然としていましたので、出発一週間前に中止しました。 今回は、地元政府に事前の連絡を入れずに、直接に現地に入りました。そして、“飛び込み”という形で民族宗教事務局、文化局、観光局を訪ねました。すると、反日感情の要素はほとんど表には出てこず、こちらの知りたいことをいろいろ教えてくれました。実際にもう来てしまっているのだから、その熱意を認めて、という気持ちでしょうか。それとも、事前に電話で連絡を取っている段階では、どうしても北京政府の「公式見解」に添った態度をとらざるをえないということでしょうか。 それはそれとして、ソウ源地域のワ族文化は、どうも生きた創世神話や生きた歌垣や系譜語りなどが無いのではないか、首狩りも盛んではなかったのではないかというのが事前の予測でした。というのは、雲南省編輯委員会編『ワ族社会歴史調査』(雲南人民出版社、1983年)を読んだ限りでは、そのようなことについての記載がほとんどないからです。この調査報告書は、1957年の調査に基づくものなのですから、すでにそのころにもう、それらはほとんど消滅していたのではないかと予測されたのです。そこで、今回は、「無いことを確かめるのも研究者の仕事」と割り切って訪問してみたのです。 結論としていえば、この予測はほとんど当たりました。しかし、「ほとんど」と言ったのは、例外もあったということです。 ソウ源地域といっても、地図上の左側、つまりミャンマーに近い側は創世神話・歌垣・系譜語り・首狩り(禁止される以前の記憶)のすべてがほとんど消滅しているようでした。そして、観光化が進んでいます。しかし、地図上の右側で西盟に近い地域には、創世神話・歌垣・系譜語り・首狩りなどの痕跡が見られました。特に、建設村のあたりではかつては首狩りも盛んだったことがわかりました。また、単甲という地域では、現在も歌垣を行なっていることもわかりました。 ただし、この地域に行くには、道路が悪いので相当の準備をしなければならないようです。現地の観光局で三菱パジェロやジープの手配を頼んでみましたが、電話の向こうで運転手が「二、三日前に雨が降ったので行かない」と言っているとのことで、結局実現しませんでした。そこに比較的近い岩帥(アイシュワイ)鎮まではタクシーで行けましたが、それ以上進むには、「トラジー」(日本では「バタバタ」)という農耕用の車に乗り換える必要があるとのことでした。 しかし、これらの地域は、むしろ西盟地域のワ族文化と同系統という感触でした。つまり、西盟地域を丁寧に調査しておけば、大体それと同じか、その衰微したものと考えていいようです。 岩帥鎮で聞き書きをした限りでは、西盟地域ではごく普通に聞くことのできた「歌う」創世神話「スガンリ」の伝統は消滅していました。「語る」人や「話す」人はいましたが、歌う人はいませんでした。また、系譜語りは、いずれも6代くらい前までで終わってしまいました。西盟地域では、現在の自分から始まって、ワ族がこの世に登場する「スガン」という洞窟の時代にまで20代前後を遡っていく、珍しい「父子連名」(普通の「父子連名」は古いほうから現在に向かって系譜を語る)をごく普通に聞くことができましたが、ソウ源地域ではまったくありませんでした。 というわけで、1996年と2002年の西盟・孟連地域の調査を中心に報告書を作ればいいのだという結論になりました。うまくいけば、3年後くらいには本にできそうです。 その本では、創世神話「スガンリ」を歌っている映像を、DVDで紹介しようと思います。これは、1996年に、西盟地域の岳宋村で長老に歌ってもらったものを私がビデオに撮ってありましたので、これを使います。しかし、これを発表するには、ワ語のわかる研究者に、まずアルファベット発音表記あるいは国際音声記号で記述してもらわなければなりません。そのうえで、それに中国語の直訳と意訳を付け、最後にそれを日本語訳します。 ということで、この作業を雲南民族大学(旧民族学院)のワ族出身の研究者に依頼することになりました。7月25日に昆明の雲南民族大学を訪問して、そのかたと具体的な打ち合わせをしました。8月19日〜27日まで、ペー族歌文化をめぐるシンポジウムで、剣川・大理・麗江・昆明に行くので、そのときに、DVDにダビングした映像を持って行ってそのかたに渡す、ということになりました。 というわけで、順調に進んで、2009年くらいに本ができたとすれば、最初の取材が1996年でしたから、本の刊行まで13年かかったということになります。今年6月に刊行した『雲南省ペー族歌垣と日本古代文学』(勉誠出版)の【歌垣A】【歌垣B】は1995年のものでしたから、これは刊行まで11年かかりました。 本格的な資料を作るには、10年前後の時間が必要です。というわけで、前回も書きましたように、これからの本格的な現地調査は、意欲ある若い研究者に委ねたいと思います。 なお、最初の報告でも書きましたように、どの時点かで拠点をバリ島に移すつもりでした。寧波で計画していた行動はほとんど実現しましたので、8月8日からはバリ島に移動します。8月19日〜27日までの雲南省でのペー族歌文化シンポジウムにも、バリ島から参加します。(2006年7月31日) |
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| ◆寧波からの報告の第3信です。 6月26日〜7月4日は、湖南省鳳凰県のミャオ族の「六月六」という祭りを中心に、ミャオ族の歌文化について調べてきました。 鳳凰県の鳳凰古城は明・清時代のものが多いのですが、町全体が古いままに保存されています。沱江という流れのゆったりとした川の両側に、古風な建物が並んでいます。ただし、沱江の西南側の岸には、長い城壁が設けられています。この城壁は、この地域にあとから侵入してきた漢族の側が、自分たちの行政府を守るために作ったものです。例によって文化大革命のときに城壁の一部が破壊されたとのことで、今その復旧作業が始まっていました。 ところで、城壁というと、北方の匈奴など騎馬民族の侵入に対するものという印象があります。北京の万里の長城がその典型ですし、前回の通信で書いた西安(長安)も、位置としてはやはり北方です。 ところが、鳳凰県は中国では南部です。そこに城壁があるのは、北方地域とは逆に、ここでは漢族が南下して、原住民族の領域を侵略したことによるものです。その原住民族こそがミャオ(苗)族でした。 万里の長城にあたる「南方長城」にも登ってきました。中国悠遊紀行36「貴陽と鳳凰」(小学館)の少数民族の項目の執筆を担当したとき、中国側の記述をもとにしてミャオ族を隔離した「南方長城」について書きました。しかし、実感がわかないでいたのですが、6月27日に実際に登ってみて、ミャオ族という異民族の中に入ってきた漢族の恐怖感が少し理解できました。明代に断続的に建設され、貴州省の銅仁県まで全長約190qです。今はそのうちの1.7q分が観光用に修復されていました。万里の長城にくらべると、通路の幅は4分の1くらいの印象で、しかもすべて石の階段なのでとても歩きにくいです。この通路を移動するとき、兵士はとても苦労しただろうと思われました。 この長城の内側に居住できたミャオ族は、漢族の同化政策を受け入れた「熟ミャオ」です。明朝に対して頻繁に反乱を起こしていたミャオ族は「生ミャオ」と呼ばれて、長城の外側に居住しました。日本古代でいえば、同じ隼人族の中でも、「熟ミャオ」は大和朝廷に恭順の意を示した隼人族にあたり、「生ミャオ」は700年代初頭まで反乱を起こし続けていた隼人族にあたります。なお、「熟ミャオ」も、中心部にある行政府のための城壁の内側には入れてもらえなかったということです。 ミャオ族は、今でこそ「少数民族」と呼ばれていますが、漢族のような強力な「国家」を作れなかったために、結局は漢族国家の支配に組み込まれてしまったということでしょう。「山江苗族博物館」の案内人はミャオ族のリーダーを「ミャオ王」と呼んでいましたが、この「王」は「国家の王」という段階にまでは達していなかったようです。 長くなってきたので、もう一つ、歌文化についてだけ報告しておきます。アジア民族文化学会の来年5月の大会での発表を申し込みましたので、詳しくはそのときに資料付きで報告します。 1995年に、貴州省凱里の香炉山にミャオ族の「爬坡節(パーポージエ)」(旧暦6月19日)を見に行きました。そこで今回も鳳凰県の「爬坡節」を見るつもりでいたのですが、この地域のミャオ族は「六月六」(旧暦6月6日、今年の新暦7月1日)を「爬坡節」として行なっていました。 現在のこの「六月六」の中心は、「歌競べ大会」です。11:30〜12:10、開幕式。会場の勾良村(標高630m)には、貴州省を含む30数か村からやって来た78名が、小学校の校庭で、合唱や独唱を競い合いました。審査員は10名で、第1位には奨金1000元(牛1頭を買える金額だそうです)が与えられます。その歌競べとは別に、開幕式の行なわれた小高い丘には、「対歌台」という表示が木に掛けられていましたので、そこにしばらく張り込んだのですが、歌垣(対歌)はありませんでした。しかたなく、15:30ごろから小学校のほうへ下りて行ったところ、通り道で男女が歌を掛け合っていました。急いでビデオカメラを回し、1時間半くらいの自然な歌垣を収録することができました。 歌い手はいずれも中高年者です。石宝山や?碧(ツービー)湖のペー(白)族の歌垣では、若い人たちの歌垣をいくつも目撃できましたので、ここではそれがなくて残念でした。 しかし、あとで、歌垣で相手を決めて結婚したという現在39歳の男性に聞き書きしたところ、鳳凰県のミャオ族の村の若い人たちは、夜、比較的少人数で林の中などに入り、小声で歌を交わすのが普通だとのこと。私が、「もし、私のような外国人がそばでビデオ撮影を始めたら、どうなりますか」と質問したら、即座に「歌うのをすぐやめます」という返事が返ってきました。 要するに、このあたりのミャオ族の若い人たちには、ペー族のように公開の場で多くの見物人に囲まれながら歌垣をする、という感覚ではないようなのです。以前から私が書いてきたように、一つの民族の事例だけで歌垣モデルを作るのは危険だということですね。 ともかく、自然な歌垣の収録が少しはできたので、これをなんとか記録に残さねばと、早速「苗学会」(鳳凰県政府の一部局)のかたに依頼して、ミャオ語を聞き取れる人を探してもらい、よく7月2日に私の泊まっていた賓館(ホテル)に来てもらって、私の部屋で映像を見ながらそれを文字化する作業をしました。ところが、このかたはミャオ語を漢字で表わす(日本の「万葉仮名」にあたるもの)ことと、それを中国語に翻訳することしかできないとのことでした。それでもいいからと依頼しました。次いで、ミャオ語を国際音声記号あるいは、アルファベットを用いたミャオ語発音表記のできる人がいないかと「苗学会」のかたに尋ねたら、たった一人、75歳の呉根全氏しかいないということで、7月3日(夕方には銅仁空港に向かわねばならない)の朝早く、呉氏のいる町まで車で迎えに行き(約30分)、ホテルまで来てもらって、ギリギリのタイミングで1首(15句)だけ、アルファベット表記、漢字音表記、中国語訳のセットを完成させました。 というわけで、本格的な資料を作るには、呉根全氏のいる町に1か月間くらい滞在して、じっくりと記録化作業をしなければならないでしょう。こういう仕事は、私の『雲南省ペー族歌垣と日本古代文学』の「はじめに」に「第一次資料獲得のための本格的な現地調査のこれからは、若い研究者たちの手にゆだねたいと思う」と書きましたように、意欲ある若い研究者に任せたいと思います。 ところで、この地域のミャオ族の歌垣について今回はっきりわかったことを列挙します。 @各句は、すべて7音。 A3句で1セット、七七七で1セット。 Bこの3句1セットをどのくらい重ねるかは、歌い手の自由。気持ちが表せたと思った ところで1首を終わりにするので、短いものも長いものもある。 C7音目で韻を踏むが、あまり厳密ではない。 D即興歌が原則だが、固定歌詞の既成の歌を交わすこともある。 詳しくは、来年5月のアジア民族文化学会の大会で、ビデオ映像・歌詞記録資料などを使いながら報告します。 7月10日(月)には、日本語学部の2、3年生と教員を中心とした約100名を前にして、「日本文化の二重構造」という題目で講演をしました(日本語で)。話したのは実質2時間、質疑応答が20分でした。こちら寧波から見たからこそ見えた日本の姿もありますので、新鮮な気持ちで論を展開できました。学生からの質問にも興味深い視点のものがあり、参考になりました。このときに印刷して全員に配った講演内容の概略がありますので、これを「ねこのいびき」コーナーに入れておきました。 7月19日(水)〜26日(水)は、雲南省滄源に、昨年靖国問題での反日感情の関係で中止したワ族文化調査に行ってきます。(2006年7月12日) |
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| ◆寧波からの報告の第2信です。 5月には、寧波大学日本語学部の3年生のクラスに招待され、ゲスト授業を2回(各90分)行ないました。第1回は「ヤマト語と日本語」、第2回は「日本経済成長の理由」というテーマです。 日本人は一般に、海外に出たときに外国人から「日本文化の本質は何ですか」といったことを質問されて、そのとき初めていろいろ考えてみるのですが、本当は自分が日本について語れることをほとんど持っていないことに気づきます。今回の授業は、聴き手がすべて日本語・日本文化専攻の外国人ですから、彼らがあとで日本についての多くの知識を持ったときに、私の話の信憑性が試されますので、いい加減なことは決して言えません。そこで私は、私の論理と知識のすべてを動員して、最高度の話をと目指しました。 この体験でわかったことは、実はこの授業は、日本人にこそ聞いてもらいたい内容のものだということです。知識人も含めて日本人の多くは、日本人としての自分自身の姿(本質)を、外部からの眼で把握したことがあまりありません。 学生たちには、「日本についての疑問・質問など何でもいいですから書いてください」とアンケート調査もしました。ここでは一々紹介しませんが、これがいろいろとオモシロイ。というわけで、外国人に語る形をとっているが、実は日本人に向けた“日本論”が書けそうだという感じがしてきました。そこで、早速パソコンで書き始めたら、まもなく400字詰めで100枚を越えます。9月末に帰国するころには、300枚くらいの本が1冊書けているかもしれません。 7月10日に、日本語学部の教員も含めた全学生に向けた講演を依頼されました。このときには、「日本文化の二重構造」というテーマで話すつもりです。 6月は、7日〜15日、西安(長安)に行って来ました。寧波から西安へという、〈古代の近代化〉の情熱の流れを追体験しました。遣唐使は1200q以上を長安まで歩きました。私は飛行機でしたが、一応は遣唐使の移動の道筋を動いたことになります。西安は、年間降雨量わずか600oという、乾燥した内陸地(標高は約500b)にあります。ちょうど小麦の収穫期でしたが、水田は、水が少なすぎるためほとんど無いとのことでした。湿潤で水田稲作が中心の寧波との違いがよくわかりました。 空海が修行した青龍寺(一部だけ再建されたもの、記念碑がある)、阿倍仲麻呂が玄宗皇帝に謁見を許されたという興慶宮(記念碑がある)、吉備真備を記念した吉備真備公園(城壁の外に城壁沿いに造った公園で、南門から東側の地域。記念碑がある)を訪問しました。「井真成」はまだ記念碑はできていませんでしたが、いずれ西安市がどこかに作るでしょう。 兵馬俑も見ましたが、自分の死後の世界のために、皇帝在位中の37年にもわたってあのように膨大な量の等身大の像を造ったとのことですから、まことに無意味な愚行ということになります。しかし、それは権力の巨大さの証しでもあったので、その権力の巨大さゆえに、度量衡の統一、漢字の統一、貨幣の統一などの大事業も成し遂げられたわけです。権力も使いようによっては、意味のあることを実現できることがあるということでしょう。 城壁にも登り、レンタル自転車で走ってみました。現在の城壁は明・清時代のもので、唐時代のにくらべるとはるかに規模が小さいのですが、全体の8分の1ほどを走っただけでもうたくさんという感じになり、引き返しました。日本の古代都市平城宮・平安京は長安を模倣したといわれますが、しかし城壁はいっさい採り入れませんでした。常に敵の侵入を想定する中国古代都市と、そういうことはほとんど考えないで済んだ日本の古代都市との違いを実感しました。これは、中国文化のリアリズム性の強さと、日本文化のリアリズム性の弱さとも関連しているに違いありません。 6月26日〜7月4日は、湖南省鳳凰県のミャオ族の「六月六」という祭りを中心に、歌文化を調べてきます。自然な歌垣が残っているといいのですが、辺境のフィールド調査はいつもそうですが“行ってみなければわかりません”。 さて、『雲南省ペー族歌垣と日本古代文学』(勉誠出版)が、ついに刊行されました。定価が高い(14910円)のが残念ですが、しかし基本的には、いわば後世の人たちへの贈り物として作った本ですから、仕方がないでしょう。この本は、ペー族歌垣に出会った1995年から11年を経てやっと完成しました。寧波で、翻訳協力の張正軍氏に現物を手渡して、固い握手をしました。思えば、1995年のジープ転落事故で私が死んでいれば、生きている歌垣の実態資料のこの本はこの世に存在しなかったわけで、すると、旧来の後世の資料から考えた後世的な歌垣像だけが日本古代文学研究の世界にそのまま生き続けたことになります。 生きている神話の実態資料は、『四川省大涼山イ族創世神話調査記録』(大修館書店、2003年)として刊行しました。旧来の日本古代文学研究は、生きている神話と生きている歌垣の実態資料が無かったがゆえに、それなりに安定した秩序ができていました。つまり、実態とはかなりずれた神話像や歌垣像のもとに、精密な論理体系が作られてきたのです。これからは、生きている神話と生きている歌垣の実態資料が揃ったことで、日本古代文学研究の前提に、じわじわと(数十年かけて)変化が生じていくでしょう。 新書『古事記の誕生』(仮題)の最終原稿もまもなく完成します。8月初旬に印刷開始、私が帰国したあとの10月か11月には刊行できそうです。(2006年6月17日) |
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| ◆4月5日、無事に寧波へ到着しました。 成田→杭州の全日空便(正味4時間前後)は楽ですが、杭州空港から高速バスターミナルまでタクシーで約30分走り、そこで高速バスのチケットを買って乗り込み、走ること2時間。到着した寧波南駅からさらにタクシーで約30分で寧波大学に到着。日本から地図上では雲南省昆明よりはるかに近いが、交通の点では昆明よりずっと不便だということを実感しました。大学構内の外国人教員・訪問学者専用の宿舎(専家楼404号室)に案内され、入室しました。 翌日、日本語学部の学生さんの頑張りで、インターネット接続が実現しました。これは、大学内の拠点にいったん入り、それからあらためて普通のインターネット接続になるという形式です。繋ぎっぱなしで1か月55元(約800円)です。それにしても、10年前の雲南滞在の時は、部屋に専用固定電話を入れるのだけでも、裏から手を回してもらって2か月以上もかかったのですから、当時とは比べものにならないほど便利になりました。しかもいまでは、海外用ケータイ電話(ボーダフォン)があり、パソコンに【Skype】をダウンロードしておけば、日本との直接会話やチャットが随時無料でできます。通信面で言えば、雲南時代と比べると隔世の感があります。 宿舎も、エアコン・冷蔵庫・洗濯機・電子レンジが最初から付いているので楽です。電気炊飯器・鍋・まな板・包丁、フライパン、ヤカン・箒・電気スタンドその他の生活用具の買い揃えも一通り終え、やっと落ち着いた日常生活を送れるようになりました。テレビは、雲南時代の宿舎にもありましたが、今度の宿舎のテレビで違うのは、NHKやBBCの海外向けテレビ番組が受信できることです。 合間を縫って、300年創建の天童寺に行ってきました。栄西(臨済宗)、道元(曹洞宗)も来た寺です。 また、282年創建の阿育王寺にも行ってきました。道元、雪舟もここに来ています。鑑真は、3度の日本渡航失敗後、この寺に泊まって4度目の準備をしています。 また、天台宗の総本山、598年創建の国清寺にも行ってきました(寧波からは約200q)。ここには、最澄が804年に入山して、日本に帰国してから比叡山延暦寺で日本天台宗を開きました。最澄の弟子の円珍も853年に入山しています。 天台山の中の華頂山には、936年創建の華頂寺(標高835m)があるので訪問してきました。この寺には栄西が訪れ、この地域特産の茶を日本に持ち帰り、のちの日本の茶道の源になりました。 日本からの遣唐使が6回到着したというここ寧波には、当時は発展途上国であった日本国が、当時なりの近代化を実現しようとしてどれほど強い情熱を傾けていたかを示す痕跡がたくさん残されています。仏教は宗教であると同時に当時は最先端の思想・哲学でもあったので、当時にあっては、古い社会体制を超えるための役割を果たしていました。当時の仏教は、古代の近代化の象徴であったことがよくわかりました。 私もここで約1か月暮らしてみて、当時のヤマト族国家知識人が、日本から見ればこれほど不便で遠いところに命がけでやって来た情熱の一部を追体験できました。遣唐使は、ここからさらに、地図上の直線距離だけでも1200q以上もある長安(今の西安)に徒歩で向かったのです。明治の近代化の時の日本人がヨーロッパ・アメリカに向けた情熱が、古代の近代化の場合は隋・唐に向かっていたのです。 そういうわけで、6月には、西安にも行ってくることにしました(徒歩ではなく、飛行機でですが)。 また、タクシーで1時間弱のカボト遺跡にも行ってきました。この遺跡は、紀元前5000年に水田稲作が本格的に行なわれていたことを示す重要な遺跡です。発見は1973年だそうですから、これは文化大革命(1966〜1976年)の末期に当たっていました。「古いものはすべて壊せ」という精神が支配していた紅衛兵たちが、よくぞこれを破壊しないで残してくれたと感謝の気持ちでいっぱいです。カボト遺跡の位置は、緯度でいえば沖縄より少し上で、しかもかつての雲南省稲作発生説に比べると、はるかに日本に近い、海に近い地域です。縄文末期あたりからの日本列島への水田稲作の流入を考えるには、強力な状況証拠の出現だとしていいでしょう。 湖南省のミャオ族文化の調査日程が見えてきました。また、去年、小泉首相の靖国公式参拝による反日感情で中止した雲南省のワ族文化の調査も行なおうという話が進んでいます。今度は前もって現地政府に連絡を入れることはせず、いわば飛び込みで現地を歩いてみようという考えです。 現在は、部屋で、新書『古事記の誕生』(仮題)の最終手入れをやっています。これが完成したらメールに添付して編集部に送ればいいのですから、本当に便利になりました。(2006.5.8) |
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◆4月5日(水)、成田空港発で中国浙江省杭州市に向かう。杭州市から高速バスで2時間の寧波市の寧波大学に滞在する。寧波は古くは明州といい、遣唐使が600〜700年代に6回上陸した都市である。〈古代の近代〉のヤマト族留学生の感覚を追体験してみようと思う。また、時々湖南省に出かけてミャオ族の歌垣調査をするつもりだが、自然な歌垣がまだ残っている可能性は低いので、この点は少々気が重い。帰国は、9月23日(土)の予定。 さて、昨年12月中旬から初校、再校と続けてきた『雲南省ペー族歌垣と日本古代文学』の三校が出てきたので、やっと校了にして出国できる。遅くとも8月初旬には刊行の予定。 同時進行の新書の『古事記の誕生』(新書は直前に書名が変わることがあるので、仮題である)の、ほぼ最終稿ができあがった。これは、帰国後の刊行になる予定。 『アジア民族文化研究5』が刊行された。私は「編集後記」を書いたが、これが案外に本格的な靖国神社論になっているので、新たな題名をつけて「新聞・雑誌等掲載原稿」コーナーに転載することにした。小泉首相の靖国公式参拝への固執は、日本文化の神話・呪術的伝統に支えられた“情念”に発しているものであり、これは、明治の文明開化の際の皇国史観の突出に対応する。彼のアメリカ的資本主義への傾倒は、第三の“文明開化”(第一は明治維新、第二は敗戦後の戦勝国主導の民主化)と言ってよく、文明開化と縄文・弥生の神話・呪術的伝統への回帰とが対になっていることを示しているという論旨。 なお靖国問題による反日感情は、今年の8月15日に向かってさらに深まっていくと思われるので、それが原因で調査が順調に進まないようなら、早めにバリ島に移動して、インドネシア諸島の神話調査に切り替えるつもりです。(2006.4.3) |
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| ◆ 昨年12月中旬からは、空いている時間のほとんどが、『雲南省ペー族歌垣と日本古代文学』の初校にとられました。ペー族出身の研究者施珍華氏の手書きの元原稿の、ペー語の発音表記、中国語訳の点検からやり直したので、校正に正味40日くらいかかりました。それがやっと1月末日に終了しました。同時進行で、新書の『古事記の誕生』の第二稿を完成させるのにエネルギーを使いました。編集者のアイディアを取り込みながら手を加えたので、今までの、研究者を主な対象として書いてきた古事記論よりも、一般の人にとって読みやすいものになったと思います。これを2月15日に出版社に発送したので、今やっと少し楽になったところです。 こういった時間のない日々に、私のゼミのゼミ誌『始原』の原稿も書かねばならず、仕方がないので、「“もったいない”と天皇文化」という文章を載せました。これは、どこかの新聞にでも載せようかと思って、さしあたり書いておいたものなのですが、ゼミ誌に載ったものをあらためて読み直してみたら、これがなかなか良い文章だと我ながら感じました。そこで、ゼミ誌だけで終わらせるのは“もったいない”ということで、そのまま「ねこのいびき」のコーナーに転載することにしました。 これからは、少しずつ、4月から9月までの海外滞在の準備に入ります。滞在地は中国浙江省の寧波市ですが、小泉首相の、日本文化の神話・呪術的伝統に発した“情念”による靖国への固執が、反日感情をさらに煽り続けるようでしたら、少し早めにインドネシアに移動しようかとも考えています。 (2006.2.17) |
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| ◆ いよいよ、『雲南省ペー族歌垣と日本古代文学』の具体的な刊行準備作業が動き出しました。これには、6時間弱にわたって若い二人の男女が即興で848首(1首は、七七七五+七七七五の51音)の歌を交わした歌垣の全歌詞を、ペー族語、中国語訳、日本語訳のセットで収録します。自然で実用的な歌垣は、急激に消滅に向かっていますので、この848首は、長時間の自然な歌垣の世界初にして世界最後の記録になるでしょう。丸ごとの記録の収録にこだわったたために、単行本全体としては400字詰め約1300枚という分量の多さになってしまいましたので、残念ながら定価が1万4千円台になりそうです。この記録の真の価値が認識されるのは、自然な歌垣が完全に消滅して、しかも研究者の世代交代が進んだ30〜50年後くらいからだろうと予測しています。それまでは、それほど多くは売れるわけのない本ですから、定価が高くなるのは仕方のないことなのでしょう。 『出版ダイジェスト』(図書館、出版社などに置かれている出版情報紙、11月20日号)に「古代文学研究の前提が変わりつつある」という短文を載せました。私は、『古事記』以前の無文字時代の言語表現を、中国などの原型生存型民族の言語文化資料を素材としてモデル的に把握し、それらを原型的な古層と設定して『古事記』など日本古代文学の表現の〈古代の近代〉の表層までの距離を浮かび上がらせようとしています。現段階では学会では少数派ですが、これもまた後世の30〜50年後くらいからは学会でも一般知識人のあいだでも常識になっているでしょう。「新聞・雑誌等掲載原稿」に転載しておきました。 7月初旬に、読売新聞の「愛・地球博」というコーナーの取材を受けました。岡部隆志氏と一緒に、ペー族などの、生きている歌垣についての話をしました。その簡潔な記事が、読売新聞のホームページ「Yomiuri On-Line」に掲載されています。こういう取材が入るようになってきたのは、生きている歌垣への関心が少しずつ広がってきていることの表れでしょう。内容については、次の「こちら」をクリックしてください。 こちら (2005.11.24) |
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| ◆本当なら、8月19日から9月2日まで、中国雲南省の滄源地域にワ族文化の調査で入る予定でしたが、手配を進めるうちに、靖国問題の余波で現地の非協力的な雰囲気が伝わってきたので、出発1週間前に急遽中止することになりました(詳しくは、ねこのいびきコーナーの「靖国問題で思いがけない影響を受けた」を読んでください)。 これはとても残念なことでしたが、しかし、この10年間は8月から9月にかけてはほとんど毎年、中国などアジア地域の調査に出かけていたので、今年は思いがけない形で、15日間の完全に自由な夏休みに恵まれたことになりました。そこで、じっくりと腰を据えて、来年刊行予定の『雲南省ペー族歌垣と日本古代文学』(400字詰め約1300枚)の決定稿を作りました。また、本格的に新書本『古事記の誕生』の執筆にも掛かっています。 季刊雑誌『学際』No.15(構造計画研究所)に、私の「演劇──異界と日常界を往還する」が掲載された(新聞・雑誌等掲載原稿コーナーに転載しました)。この文章は、久しぶりに「演劇」をテーマとする原稿の依頼だったので、引き受けたものです。 (2005.8.22) |
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| ◆去る7月31日の「毎日新聞」朝刊の「21世紀を読む」というコーナーに、私の「9条と“負を語る神話”」という文章が掲載されました。この元になったのは、『大東文化大学紀要』(43号、05.3)に発表した「“負を語る神話モデル”から見た海幸山幸神話」という400字詰め約80枚の論文です。この地味な論文にいち早く反応できるジャーナリスト(「毎日新聞」記者)がいたことに私は大変驚いています。 しかも、日本文化の根源に“少数民族的文化(原型生存型文化)”の存在を想定する私の論理は、今までの日本の知識人のあいだでは全くの未知の世界です。私自身も、論理の試行錯誤を繰り返しながら未開の道を進んでいる状態です。 それにしても、もともと新聞原稿は短く書かなければならないので大変なのですが、私の場合は論理が多面的なので、短くするのがとても難しい。そのうえ、新聞の活字が大きくなったために、執筆枚数がそれ以前の5枚くらいから4枚に減ってしまいました。80枚で書いたものをなんとか4枚にまとめました。「新聞・雑誌等掲載原稿」コーナーに収録しましたので、読んでみてください(2005.8.5)。 |
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| ◆「調査資料」というページは、当初から工事中状態が続いていました。というのも、私の調査資料が、幸いなことに単行本、学会誌、大学紀要などに次々に発表され、活字化されてきましたので、逆に言えば、このページで発表する必然性がなくなりつつあります。そこで、このページは当分のあいだ閉鎖することにしました。代わりに、「調査助手は楽し」というページを設け、私の調査のほとんどに同行して写真撮影、記録作成、資料整理などの点で「助手」役を務めている工藤綾子の文章を載せることにしました。 まずは、1995年4月〜1996年3月までの雲南省昆明滞在時代に、日本の友人たちに送った「雲南通信」を掲載します。改革開放の波があまり及んでいなかった、今は失われつつある“郷愁の雲南”を味わっていただけるでしょう。(2005.5.16) |
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| ◆『アジア民族文化研究4』が完成しました。この号には、私の論文が2つ掲載されています。1つは「中国雲南省ワ族文化調査報告」で、2002年9月6日〜16日の第2回ワ族調査の詳細な記録を発表しました。1950年代、中国軍が外部からやってこなければ、自らの力で首狩りをやめることができなかったところに、同じように外部からの力がもたらされない限り、内部からの自発的変革を極力避けようとする我がヤマト族と同じ文化構造を感じました。 もう1つは「日本古代──神話・歌と〈国家〉の共存」という論文です。日本古代国家が、原型生存型民族(少数民族のこと)の神話や恋歌文化を国家段階でも取り入れて成立し、そういったあり方が、現代日本にまで継承されてきている、日本社会の特殊性を分析しました。 ◆昨年10月、11月に、埼玉県の市民向け文学講座「古事記の誕生」を引き受けましたが、再度の要望に応え、今年も5、6、7月と10、11、12月の計6回行うことになりました。今回は、「古事記から読む現代」というテーマです。 前回の講演をもとにした『古事記の誕生』という単行本は現在執筆中です。それとは別に、今回の講座もいずれ新書本にする予定です。(2005.5.5) |
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| ◆論文「“負を語る神話モデル”から見た海幸山幸神話」(『大東文化大学紀要』43号、2005.3)が刊行されました。400字詰め約80枚で、だいたい以下のような内容です。 イ族、ハニ族、ワ族、ラフ族そのほか多くの中国少数民族には、自民族の劣っている点を、優勢民族である漢族のせいにするのではなく、自分たち自身の“知恵の無さ”と“人格的欠陥”に求める神話を持っている。古事記は、ヤマト少数民族の神話の本ではあるが、その中の優勢民族である天皇氏族の“優勢さ”を語る神話になっている。その中に、劣勢民族の神話がほんの少しあり、その代表的なものとしては、天皇氏族(山幸)に敗れた隼人族(海幸)の神話が記録されている。 ところで、近代ヤマト族は、1945年に民族滅亡の一歩手前まで行く敗戦を経験した。その敗戦の原因を、敗戦後のヤマト族は、自らの“知恵の無さ”と“人格的欠陥”に求める方向で受け止めたのではないか。その典型が、完全な武装解除条項である憲法第9条第二項を名誉あるものとして受け入れ、それを敗戦後60年にわたって、神の言葉のようにして守ってきた。このような心情は、イ族、ハニ族、ワ族、ラフ族などの“自民族の劣っている点を語る神話”と通じるものがある。(2005.4.2) |
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| *以下の文章は、大東文化大学工藤ゼミのゼミ誌『始原』(2005.2)に載せたものです。一般の目に触れることはない文章なので、このホームページに転載することにしました (2005.2.12)。 古代文学研究に変化の兆し 古代文学会の2005年1月例会の案内に、「古代文学改革(案)」(飯泉健司)という文章が載っていた。 まず、問題点として「従来の古代文学会らしい面(質の高い発表と議論によって、方法論を共同で徹底的に模索する点)が失われつつある」と述べ、その改革案の一つとして「例会・雑誌・セミナー共通の“年度テーマ”を設定する」ことを提起している。2005年度では、「われわれが、古代文学研究プロパーとしてすべきことは何か。逆に、われわれにしかできないことは何か。他分野との違いを明らかにして古代文学研究を相対的に見つめ直す」ことつまり「古代文学研究にしかできないこと」を“年度テーマ”としようという提案だ。 これは、「古代文学プロパー」の領域を純粋に規定しすぎることによって、極限まで狭められたいわば“古代文学原理主義”のようなものに辿り着いてしまい、最終的にはその閉じられた世界に自閉する危険を帯びるというマイナスの方向性を持っている。それは、絵画の例でいえば、“絵画プロパーの領域は色彩と線と構図だけだ”として、色彩と線と構図だけの“純粋絵画”以外は描かないというようなことが、古代文学研究でも起きかねないからである。 しかし、いったんは、その「古代文学プロパー」の領域を確認することは重要である。その結果、所詮“古代文学原理主義”だけでは古代文学はほとんどわからないということに気づき、その絶望感をバネにして、あらためて原理主義的古代文学研究から見て“外部”とされる領域にまで踏み出そうとする立場もあるだろうからである。 さて、「古代文学研究にしかできないこと」をテーマにして、2005年度は9月から翌年7月まで、「○○vs文学」という形式で、順に民俗学・宗教学(or人類学)・歴史学・考古学・歴史地理学・神話学・国語学・漢文学・平安文学・中世文学・近代文学との「違い」を明らかにして「古代文学研究を相対的に見つめ直す」のだという。ということは、それら「他分野」との“共通点”には目をつぶろうということだから、これはまさに“古代文学原理主義”の道まっしぐらという感じである。 私が期待しているのは、先にも述べたように、そのようにして辿り着いた原理主義的古代文学研究に、いずれはしっかりと絶望するときが来るだろうということなのである。絶望すれば次の一歩を踏み出すことができる。ただし、その絶望を味わうためには、この「改革」の動きが少なくとも十年は続くことが必要である。したがって、絶望を味わった十年後くらいからが、やっと次の一歩を踏み出す段階になる。それからまた、さまざまな模索が続き、今度はさらに二十年くらいが経過して、つまり今から三十年くらいが経ってから初めて、私の提唱している古代文学へのモデル理論的接近の意味がわかることになるのだろう。 ともかく、2005年度のテーマで私に最も縁が深そうなのは「宗教学(or人類学)vs文学」「神話学vs文学」の回だと思われるが、ここで問題になるのは、その際に素材として採り上げる“生きたアニミズム”や“生きた神話”の具体的な事例が、今、日々刻々と消滅・変質に向かっていることである。多くの古代文学研究者がやっとのことでその必要性に目覚めた三十年後には、それらは完全に消滅しているであろう。だから、その三十年後に備えて、いま直ちに辺境の少数民族のなかの特に原型生存型民族の文化の実例に接触し、それを映像と活字資料で残しておかなければならない。 私が1994年に初めて雲南省でミャオ(苗)族の村を訪問することになったのは、そのころすでに私が“古代文学原理主義”に絶望していたからである。しかし、一般の古代文学研究者はこの絶望感がわからないので、私の行動を無視することでこの十年間を無駄に過ごしてきた。先端的な理論に挑んでいたはずの古代文学会でさえも、ごく少数の人を除いて、反応は意外なほどに鈍かった。なぜこうなのかについて、最初はわからなかったが、最近は理解できるようになった。というのは、ヤマト族の知識人というものは、600年代、700年代の〈古代の近代〉期においても、明治の近代化以後の二十一世紀の現代においても、その体質は変わらないということがわかったからである。変わらない体質とは何かといえば、事実をリアリズムの眼で見るという能力が著しく低いこと、逆に言えば、事実と離れた“夢”の中でのおしゃべりには一段と高い能力を持っていることである。 にもかかわらず、古代文学会に「改革」の機運が出て来たということは、微かではあるが古代文学研究に変化の兆しが出て来たということであろう。もちろんこの変化がしっかりとした形を取るまでには、少なくとも今から三十年もかかるのだが、そのように変化の動きが遅いというのも、ヤマト族という原型生存型民族が遺伝子のようにして伝えてきた体質の特徴である。変化がゆっくりであることの良さもあるのだから、これはこれで面白いのではないかと、その三十年後を目撃することはないであろう私は思っている。 (2005.1.5) |
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| ◆季刊雑誌『大航海』(新書館)No.53(2005年1月5日発行)に「歌垣と身体」という文章を載せました。「身体論の地平」という特集で、編集部の求めた題名のままで書いてみました。こういうテーマを与えられたことにより、かつて『演劇とはなにか─演ずる人間・演技する文学』で、演劇や祭りなどの世界を生身の「身体」の動きが作り出す〈動きつつある観念〉として把握したことを思い出しました。生きている現場の歌垣はまさにその〈動きつつある観念〉として進行していることをあらためて認識し直しました。従来の歌垣像は、〈文字言語内観念の歌垣〉に偏っていたわけです。 ◆『中国悠遊紀行』の、少数民族に関する企画協力は順調に進んでいます。現物を手に取ってみると、その他のページの内容も含めて、リーズナブルな価格のわりにはなかなか充実しているように思います。私が担当している巻は以下の通りです。(2004.12.5) 第2巻 9/22発売 『桂林』 第5巻 10/21発売 『九寨溝』 第13巻 12/16発売 『麗江と大理』 第17巻 1/20発売 『成都』 第22巻 2/24発売 『シーサンパンナ』 第25巻 3/17発売 『武陵源と洞庭湖』 第27巻 3/31発売 『シャングリラ』 第28巻 4/7発売 『シルクロード(1)』 第30巻 4/21発売 『広州と海南島』 第31巻 4/28発売 『石林と昆明』 第33巻 5/19発売 『内モンゴル』 第36巻 6/9発売 『貴陽と鳳凰』 第39巻 6/30発売 『河西回廊と青海湖』 ◆8月27日に雲南省から帰国してから、ペー族歌垣【A】・【B】・【C】の最終翻訳を済ませ、第T部の論文・解説も書き上げて、来年6月刊行予定の単行本『ペー族歌垣 現場調査記録』(400字詰め約1400枚)の第一稿を完成させました。これにさらに手を加えて、来年1月末に出版社に渡します。特に歌垣【C】は、約4時間半の歌垣で、総数で848首に及びました。生の歌垣の記録としてこれほど長時間のものは、世界初ではないでしょうか。 ◆10月、11月は、隔週で、埼玉県の市民向け文学講座を引き受けました。タイトルは「古事記の誕生」です。50名の文学愛好者たちに話をしていますが、一般の国文学者のものとは大きく違っている私の古事記論に、“目から鱗が落ちました”といった反応が多いことに驚きました。少数民族の原型的な神話や生の歌垣などの第一次資料をモデルとして用いた『古事記』の分析が、質量共に一応の水準に辿り着きつつあるという実感を得ました。できれば、これを機会に『古事記の誕生』という単行本を作ってみようかなという気持ちが湧いてきました。 ◆小学館から『中国悠遊紀行』という週間本(全50册)が出始めました。私は、このうちの14册で、少数民族についての記述の部分で「企画協力」しています。私の少数民族文化調査も1994年以来11年となり、少数民族一般についての知識においても、それなりに専門家として認められつつあるということでもありましょうか。 (2004.10.17) |
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◆この3月から8月上旬まで、空いている時間のほとんどを使い、ペー族の歌垣詞章の翻訳と原稿入力を行っていました。取り上げた歌垣は、1995年と1996年に雲南省剣川県石宝山で採録した歌垣の中から代表的な3つを選びました。A.123首(約1時間10分)、B.41首(約30分)、C.845首(約4時間30分)です。各歌垣の全詞章は、アルファベットによるペー語発音表記、中国語訳、日本語訳で表記しています。1首は原則として8句ですから、合計で約8000句です。『四川省大涼山イ族創世神話調査記録』に掲載した、イ族の神話は5680句でしたから、今回の仕事量の多さがわかると思います。 できれば、来年中の刊行を目指したいと思っています。 ◆8月13日から27日まで、雲南省に行ってきます。今回は、第3回中日民俗文化学術シンポジウムへの参加が主で、私は「負を語る神話と古事記」というテーマで発表します。このシンポジウムの主催する旅行にも参加して、怒江沿いに北上し、貢山まで行きます。この地域は、1998年に次ぐ2度目です。 なお、このシンポジウムには、アジア民族文化学会員19名が参加します。 ◆上記の滞在期間中、昆明では、ペー族の歌垣研究者である施珍華氏、拙著ではお馴染みの張正軍氏と3人で、映像を見ながら、先の歌垣資料の最終検討会をします。 (2004.8.12) |
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◆『アジア遊学63』(勉誠出版、2004年5月発行、1800円+税)が完 成しました。まもなく書店に並ぶと思います。『アジア遊学』は不定期刊のムック本形式の雑誌です。この63号では、「少数民族とことば表現世界」という特集を組みましたが、そのテーマ設定と全体構成を工藤隆が担当しました。こ の雑誌は一般教養人向けですので、執筆者は一般読者にとっての理解しやすさを意識して書かれています。また原稿枚数は少ないのですが、その分だけ、各執筆者の主要フィールド調査のエッセンスが手際よく紹介されています。 以下に目次を示しますが、これだけ多様な現地調査が一冊に集まるのはなかなかないことです。ぜひ読んでください。 なお、工藤隆の「序言・少数民族のことば表現世界と古事記」と「あとがき」だけは文章が短いので、本ホームページの「新聞・雑誌等掲載原稿」コーナーに収録しました。 (2004.4.30) |
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特集「少数民族とことば表現世界」 目次 序言・少数民族のことば表現世界と古事記(工藤隆)、大涼山イ族の創世神話「ネウォテイ」─古事記以前への視点(工藤隆)、ペー族の歌垣─歌い手と聴き手が織りなす歌垣世界(岡部隆志)、修辞の極限─ チワン族の歌の掛け合いから(手塚恵子)、モソ人の歌喧嘩による裁判(遠藤耕太郎)、中国少数民族トン族の生活と音楽(薛羅軍)、ナシ族文化の象徴・東巴文字(佐野賢治)、満族と『尼山シャーマンの物語』(寺村政男)、ホジェン族の歌(于暁飛)、翁の語りに見える中国と日本(廣田律子)、台湾ヤミ族─負で中和する賛辞の歌掛け(皆川隆一)、ヒマラヤの民の結婚と歌垣(北村皆雄)、ハニ族アマト儀礼における儀礼的表現(稲村務)、ペー族の本主信仰(菅原壽清)、フィリピン・ボントック族の家屋落成儀礼と祭文(乾尚彦) ◆2004年3月にバリ島に行(2004年12月5日)って来ました。7回目の訪問になりました。今回の目的は、トゥルニャンでの調査がどの程度可能かを最終的に確認することでした。トゥルニャンには3回目の訪問になりましたが、調査のだいたいの展望が見えてきました。いずれ何年か先には、調査の成果を公開できるかもしれません。 (2004.4.20) ◆来る2004年5月8日(土)、午後2:30〜5:30、アジア民族文化学会第7回大会で以下の内容の発表をします。場所/共立女子短期大学(東京・神保町)。会員以外で聴講希望の方は、事前にメール等で申し出てください。当日配布する資料の量が非常に多いため、事前連絡をお願いします。 (発表要旨) ワ族首狩り文化調査報告─システムとしての〈浪費〉 私は、中国雲南省西盟・孟連地区のワ族文化の調査を、1996年1月20日〜1月27日および 2002年9月6日〜9月16日の2度行なった。ただし、ワ族の集住地域としてはもう一カ所、同じ雲南省の滄源地区があるのだが、私は未調査である。また、ワ族の居住地区はラフ族の居住地区と接していることも多いので、ラフ族居住地区の調査も必要であることがわかってきた。したがって、滄源地区ワ族の調査と、ラフ族居住地区の調査を経たうえで調査報告資料を公開しようと考えていた。しかし、その調査を行なう予定だった2003年にはSARS騒ぎが起きたために、以後の調査が不可能となった。そこで、今後においても、伝染病だけでなく、政治情勢や私自身の年齢問題などさまざまな不確定要因が生じて調査に行けなくなる場合もあるかも知れないので、中間報告として今までの資料を公開しておこうと考えるようになった。 今回の発表では、主として首狩りの実態と、その首狩り行動がいくつものワ族集落間において、ワ族社会全体の安定均衡システムとして機能していることを、聞き書き資料を通して報告する。首狩りに行く側の集落と、首狩りに来られる側の集落の両方を訪問することで、“首狩り相関図”的な把握もできたので、現地地図とともに報告する。 また、すでに工藤『中国少数民族と日本文化─古代文学の古層を探る』(勉誠出版、2002年)の「第一章 神話と系譜」でも紹介したように、ハニ(哈尼)族その他いくつかの少数民族は、各家ごとに「父子連名」と称される家譜を持っている。そこで今回、ワ族の家譜はどうなっているのかを調査してみたところ、父系を基本にしている西盟地区ワ族の家譜は、ハニ族・イ(彝)族などの「父子連名」と重なりつつもまったく別の独自性も持っていることがわかった。というのも、ハニ族・イ族などは源から現在の自分に向かって系譜を語るが、この地域のワ族は、現在から源に向かって遡って行く形式だからである。 一方で、母系を基本としている孟連地区ワ族の場合は、家譜を伝えようとする意識自体が存在していないことがわかった。この孟連地区ワ族の家族構成については、すでに鳥越憲三郎・若林弘子『弥生文化の源流考』(大修館書店、1998年)に詳細な報告があるので参照して欲しいが、私が家譜について尋ねても、自分を含めて三代くらいしか遡れないのが普通であり、しかもそれは不正確な記憶を辿りながらのものであった。つまりは、孟連地区ワ族の場合には、家譜という形で示される〈歴史〉観念も存在していないことになる。 父系の西盟地区ワ族の家譜が、現在から源に向かって遡って行くのは、この母系の孟連地区ワ族の、〈現在〉にしか心を注がないあり方と、ハニ族・イ族などの「父子連名」との融合によるものなのだろうか。 なお、父系の西盟地区ワ族の家譜が遡って行った源には、「司崗」という洞窟があったことになっている。この「司崗」とワ族の関係は、「司崗里」というワ族の創世神話に語られている。この「司崗里」の一部は、私の2度の調査の際にそれを歌ってもらってビデオ録画したものを公開する。ただし、その文字化作業はまだ進んでいないので、すでに活字化されているテキストして最良のものと思われる「懿族歴史故事“司崗里”的伝説」(『懿族社会歴史調査(二)』雲南人民出版社、1983年)によって、その概略を示したい。 ◆『日本・神話と歌の国家』(勉誠出版、2500円)の校正は、7月に刊行された『四川省大涼山イ族創世神話調査記録』(大修館書店)に比べると、とても楽でした。写真も入れませんので作業が単純で校正がぐんぐん進み、9月7日入稿なのに11月17日から店頭に出るというスピードぶりです。 装幀は、銅版画家の渡辺千尋氏。『天地楽舞』(ビクター)ほか多数の書籍等のデザイン・装幀でも知られていますが、私の本では『大嘗祭の始原』(三一書房、1990年)の装幀をしてくださったかたです。(2003.11.15) ◆12月6日(土)午後2時〜5時、古代文学会で発表をします。会場は立正大学です。 今は、その発表資料の作成に追われています。発表資料だけで、400字詰め80枚くらいになりそうです。司会は岡部隆志氏で、発表要旨は以下の通りです。 (2003.11.15) 「海幸山幸神話を読み直す──自民族の劣っている点を語る神話と語らない神話」 中国少数民族の神話のなかには、優勢民族漢族と比較しながら、自分たちの貧しさ、知恵の無さなど“自民族の劣っている点を語る神話”が多く見られる。 縄文・弥生期以来の日本列島民族(ヤマト族)は、当時の中国国家との関係では少数民族の位置にあった。しかし『古事記』は、少数民族的神話を継承しているとはいえ、全体としては“自民族の劣っている点を語らない”優勢民族の神話になっている。これは、海の防御壁のお陰で、漢族の直接侵攻に対する危機感を抱く必要がなかったので、安全圏の中で、少数民族ヤマト族の神話を、日本列島内での優勢民族である天皇氏族のまなざしのもとに熟成させることができたからであろう。 一方で、天皇氏族と接触したために、少数民族としての日本列島民族の範囲内のこととはいえ、相対的にさらに弱小の少数民族の位置に置かれた土蜘蛛・国巣・隼人そのほかの人々がいた。彼らの固有の神話を復元するのは不可能に近いが、『古事記』『日本書紀』に比較的多くの神話を残した隼人族にしぼり、中国少数民族の“自民族の劣っている点を語る神話”モデルを用いて、海幸山幸神話の読み直しを試みたい。 ◆7月15日に『四川省大涼山イ族創世神話調査記録』が刊行され、大学も夏休みに入って、少し楽になりました。今年は8月に、雲南省へ、国際シンポジウムへの出席とリス族のムラの調査で、21日間行く予定だったのですが、SARSの影響ですべて中止になりました。そこで、思いがけない日本滞在夏休みになったので、「神話と歌の国家」という文章を一気に書きました。400字詰め160枚です。そこで、これを中心に据えて、今までに書いたものも加えて単行本にすることになり、計450枚の原稿を9月7日に出版社に渡しました。早ければ、12月中旬には刊行されそうです。書名は、『日本・神話と歌の国家』に決まりました。 ところで、ねこのいびき欄の「共同性と個人性の分裂─近代社会とタバコ」ですが、これもこの単行本に入れることになりました。そこで、内容的にかなりいじりましたので、ねこのいびき欄の文章もその完成原稿と入れ替えました。タバコ論としては、かなりの高水準のものになったと自負しております。読者から、どのような反応が来るのか楽しみです。 (2003.10.11) ◆ついに『四川省大涼山イ族創世神話調査記録』(大修館書店)が完成しました。7月15日発売。総枚数は最終的に、400字詰原稿用紙2100余枚になりました。総ページ数762頁。重さ、なんと1.1sという、まさに重量級です。 古事記研究にとってもっとも重要なのは、縄文・弥生と似た文化的背景を持つ少数民族の、歌垣や神話の生の言語表現資料ですが、困難を承知であえてその領域に踏み込んだのが本書です。 最も主軸となるのは、現在もイ族のムラで生きている創世神話「ネウォテイ」で、5680句すべてを国際音声記号、中国語、日本語で表記しています。さらに巻末にはそのイ文字表記も付けました。日本、中国のみならず、当のイ族の人々にとっても、いずれこの出版が貴重な記録になるでしょう。 創世神話「ネウォテイ」の収集はたいへん手間と時間のかかるものでしたが、地元:美姑の民族委員会の方々の熱意ある協力の結果、このように「ネウォテイ」の完全収録本が刊行でき、うれしい限りです。 本書と同時に、2時間半のビデオ版も出版されました。本書と共にひもとくと、調査記録と神話が臨場感溢れる映像で味わえます。 それにしても、あまりの原稿の多さと繁雑さに、校正は困難を極め、校了までに相当手こずりました。しかし、現在の古事記・神話研究者はもちろんのこと、後世の研究者たちも依拠できるだけの資料水準の高さは確保できたと思っています。 少数民族の生きている歌垣や生きている創世神話を、私は「生身の世界遺産」と呼んでいますが、こういったものは、あと20年もすればほとんど消滅していることでしょう。後世の人たちが、21世紀初頭にはまだ、このように素晴らしい創世神話の最後の姿が見られたということを知ってもらうために、妥協なしの本にしました。 (2003.7.15) |
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大修館の一冊/『四川省大涼山イ族創世神話調査記録』 (『しにか』2003年8月号掲載) 古事記の分析には、それ以前の無文字時代の言語表現資料が必要だが、無文字ゆえにそれが残っていない。しかも、六、七〇〇年代の〈古代の近代化〉の過程で縄文・弥生期以来の〈古代の古代〉の文化は大幅に変質したので、日本国内の後世的な習俗・祭り・昔話などだけに頼っていれば、古代のイメージは変質後の中世・近世を主とするモデルにとどまってしまう。このようにして定着した“誤イメージ古代”に対し、もう少 し現実的な〈古代の古代〉像を描こうと、私はあえて国外の、より原型性の強い少数民族文化に素材を求めたのである。古事記研究にとって最も重要なのは、縄文・弥生と似た文化的背景を持つ少数民族の、歌垣や神話の生の言語表現資料だ。困難を承知であえてその領域に踏み込んだのが本書である。 校正では、国際音声記号、中国語、旧漢字の選別、固有名詞の中国語音・イ語音のルビの確認、日本語訳の最終調整などに腐心した。四〇〇字詰め約二〇〇〇枚という分量の多さと、ビデオ編の編集もあったので、校了まで相当手こずった。しかし、後世の、また現在の古事記・神話研究者が依拠できるだけの資料水準までは、どうにか持っていけたと思っている。(2003.7.22) |
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| ◆現在、6月末刊行予定の『四川省大涼山イ族創世神話調査記録』(大修館書店)の校正に追われています。写真約170枚。ビデオ編は約2時間30分で、編集が終了したところです。四川省大涼山美姑イ族の、現在を生きている長編の創世神話「ネウォテイ」を全編掲載。1997年来の調査の集約で、400字詰原稿用紙1600枚の大作となりました。乞うご期待。 (2003.3.22) ◆季刊雑誌『大航海』NO.46(2003.3)に、「少数民族語としての“日本語”ーー〈国家〉と少数民族的文化の共存」が掲載されています。(2003/3/22) ◆『歴史読本』2003年1月号に、《『新撰亀相記』が語る古代》と、《『先代旧事本紀』が語る古代》が掲載されました。(2002.12.22) ◆『武蔵野文学』50号に「歌詞の定型とメロディーの定型」という論文が掲載されました。(2002.12.10) ◆工藤隆編『声の古代−古層の歌の現場から』武蔵野書院が、2002.11.25刊行されました。本書には、少数民族調査を基にした日本古代文学論が執筆されています。工藤は、《声の神話と文字の神話−古層モデルで古事記を読む》。そのほか、岡部隆志・遠藤耕太郎・手塚恵子・皆川隆一・真下厚の諸氏が執筆しています。(2002.12.10) |
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