007 はじめてのおつかい
「バイクで来なよ」
「え」
思わず受話器を握る手が汗ばむ。年甲斐もなくバイクの免許を(泣きながら・かろうじて)取って、もうそろそろ数ヶ月になるのに、いまだに伴走者がいないとバイクで出歩けない気弱なあたしをもどかしがって、電話の相手はこれから一人でバイクで家まで来いという。
「大丈夫だって。そっからシモキタなんてすぐじゃん」
「…」
それはそうなんだけどぉ、ほらぁ、もう暗いしぃ、といった類の言いわけの出だしを飲み込む。これは挑発で、しかも試験だ。バイクの師匠でもあるこの年下の友人に、あたしは後ろを見せたくなかった。
「わかった。今から出るね」

ヘルメット、手袋、免許証、サイフ、キー。迷ったときのためのポケット地図。駐輪場からバイクを引っ張り出し、3箇所に付けたU字ロックをはずす。はぁ(ため息)。メインキーをONし、セルを廻す。一発始動だ。はぁ(ため息)。なんだなんだ。
つまり、緊張しているのだ。

道は憶えている。千歳通りから環八を渡って赤堤通り。環七をまたいでこちゃこちゃと路地を入り、踏み切りが見えればあとは楽勝だ。頭の中で経路をおさらいする。OK。全部思い出せる。教習所でならった『ネンオシャチエブクトオバシメ』(転ばないおまじない。ではなく運行前点検。ネンは燃料でオはオイル、シャは…、ええっと…、もういいじゃんよ)もOK。問題は、一旦正しい道をロストしたら最後、二度と復旧できないのではないかという、いわれのない、いや結構いわれのある、恐怖だ。フォーマットし直しか。何をだ。
そういえば学生の頃、家から学校へは左折だけだから来れるけど、学校から家までは右折が怖くて帰れないよー、といって学校に寝泊まりしていた、やはりバイク乗りたてのやつがいたな。北川くん元気?

わりかしスムーズに千歳通り。赤堤通りをめざす直線で、周囲を見回す余裕も出てきた。それまでいったいどこを見て運転していたのだ。赤信号で二輪用停止線までのたのたと出る。隣にバイクが並ぶ。HONDAのバイクだ。どうやらあたしのと車格が同じくらいだ。信号が変わる。心持ち回転数が普段より高くなっているのがわかる。あっ。だめだ、出遅れた。ちっ。見てろよお、次の信号じゃ負けないぞ。
はて?「だめだ」とは?「次」とはいったい?
なんとあたしはいつしか隣のバイクのやつに勝負を挑んでいるらしい。ひとりで出かけるのもはじめて、跨るまでにさんざんくよくよ思い悩んだこのあたしが、他人に勝負を挑むとは片腹痛い。でもこの異様な気分の昂ぶりは。
スタートで出遅れるとなんだか悔しい。人の背中見て運転するのは嫌だ。ええい、どけどけ。おがん様のお通りである。頭が高いわ。
あ、ひょっとして。こぉれがいわゆるハンドル握ると人格がジャガーチェンジ現象ってやつですかあ?そうかあ、これかあ。ふむふむ。普通免許すら持っていないし、なにしろエンジンの付いたものを運転するのはこのバイクがはじめてだから、話でしか知らなかったがこれか。ひとり納得するがまだ昂揚は醒めない。怖いわ。

次の信号。空吹かしはしないものの、信号を見つめ、右手に神経を集中する。シグナルはレッドからグリーン。ばしっ。(自分では)会心のスタートを切った(つもりな)のだが、相手の方が全然余裕で速い。なんでよー。フライングじゃないのー。ずりー。ちぇ。といいつつ、なおも離されまいと乱暴にアクセルを開ける。今のなし。うそんこ。次の信号がほんとっこだぜ(ほんとっこってなんだよ?)。

勝負の信号。異様なほどの集中力で信号を見つめ、アクセルを開けるタイミングを頭の中でシミュレーションする。シグナルはレッドからグリーン。ぐおんっ。唸りを上げてスタート。やった。勝った。相手は視界の左隅に後退していく。
と、あれれ?なんでテールランプが見えるの?ぬおお。敵(敵?)に後ろを見せるとは卑怯なやつめ。違うちがう。実は相手の方はその信号で左折しただけだったのだ。こっちが前に出てあたりまえだ。あたしの生まれてはじめての勝負はアンドロメダの向こうまでお預けになってしまった。テールランプはみるみる遠ざかり、夕闇に赤く滲んでぼやけていく。(1998.03.26)


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