011 新幹線ネクタイ物語
平日の朝、新大阪から東京に向かうのぞみ号は、ビジネスマンたちで適当に埋まっていた。しかし満席ではなく、ところどころ空いている席もある。あたしは2号車16番C席に座った。通路側だ。窓側A席には紺のスーツを着た青年が座っている。若い。二十歳そこそこという感じ。間のB席にはまだ誰も来ていない。A席の青年は、ちらっとこちらを見て、ちょっと落胆した表情だ。 ふふん、悪かったな。ひょっとたらB席に妙齢の綺麗な娘さんが来るかも知れんよ。しかしB席は空席のままで、のぞみ号はするすると滑り出す。

余談。新幹線に関してはヘヴィー・ユーザだ。週に2、3往復乗ることもある。自分一人の時はたいてい禁煙席。あたしは他人の煙を吸う趣味はないし、澱んだ空気の中で喫煙しても旨くはないし、第一車両に染みついたタバコの臭いが嫌だ。古い車両などでは、禁煙車両なのに昔のタバコの臭いが染みついているものがあり、これにはげんなりする。
以前、喫煙席に乗り合わせ、ついタバコを吸い出したところ、隣に座っていたご夫婦連れのカミサンの方が、「だから禁煙車にしてっていったじゃない」とダンナさんに文句を言いはじめ、「忙しくてもうこれしか取れなかったんだよ」「だってもっと早くわかってたことでしょう」「もうやめろよ、しょうがないだろ今更」「なによ、その言い方。だいたいあなたはいつも」なんて喧嘩になったので恐ろしくて吸うのをやめたことがあった。そんなに席にこだわるなら自分で切符とれよな、カミサン。
今後JRにお願いしたいのは、禁酒車両、禁ガキ車両を作って欲しいということだ。別に、バー付きの車両、お子様優先車両を作ってくれてもいいんだけど。要は電車の中は公共の場であることをわきまえない酔っ払いとお子様が多いので。禁夫婦車両も要るのかもねえ。ビジネスマンだけしかいない時間帯なら静かなもんなんだけど。以上、余談終了。

余談をしている間に京都を過ぎ、名古屋に着く。名古屋で、B席に年輩の女性が乗ってくる。別に、おばさんという一般名詞を使ってもいいのだけど、あたしもおばさんといわれる歳になったのでつい避けてしまうのである。この場合は、50代と思しき女性。A席の青年は、と見ると、足もとのでかい鞄からネクタイを取り出し、白いワイシャツの首に掛けて何やらごそごそとやりだした。青と黄の斜め縞の境目に茶が入っている、まあありがちなレジメンタルタイというやつだ。

また余談ですけど、スーツってお金のかかる扮装だよね。オーソドックスなはずのトラッドスーツでも毎年ちょっとづつラインや色目が変わるし、それに合ったネクタイも1本というわけにもいかないし、毎年買ってたら結構大変だし。それに洗濯もきかないし。でも夏物はドライの前にいっぺん水通した方がいいよ。汗臭いのはドライクリーニングじゃ取れないから。最近電車の中がクサいのは、みんな汗が沁みたまましまっておいた夏物を出して着ているからなんだな。以上、余談終了。

いつまでもごそごそ、ネクタイをひらひらさせているなと思ったら、青年は意を決したように、隣の女性の方に向き直った。「あの、すいません、ネクタイの結び方わかりますか?」
なるほど、青年が待っていたのはネクタイの結び方を教えてくれる救世主だったんだな。ほんとはスーツ着た男の人の方が望ましかったんだなあ。しかし青年よ、いうなら「ネクタイの結び方ご存知だったら教えて頂けませんか?」ではないか?ちょっとそれ、ひとにものを聞くには不遜だぞ。
B席の女性、ちょっとおどろき、「えっ。あら、ええと。じゃあこうやって、でこうかしら」と親切に教えだした。なんとなく、あたしだってシングルノットくらいなら教えられるのに、ちぇ、という感じ。あたしもネクタイが好きで、家には4、5本ある。アイビー全盛の頃に高校時代を送ったので、ああ、歳がばれるな。まあいけど。
だいたい教わったらしく、青年は「わかりました」と、あとは一人でまたごそごそやっていたが、ええい、と立ち上がり、憤然とトイレ方面に移動。あー、なるほど。鏡を見に行くんだ。あたしも最初は何度も結び直したりしたっけ。うちの親父なんか器用で、左手でくるくると綺麗な結び目を作り、そこに右手で端っこをしゅしゅっと入れ、ものの5秒で終了。あれは未だに真似できない。10分ほどして、青年はなんとかネクタイの格好をつけて、妙に赤い顔で意気揚々と帰ってきた。「結べたのね」「はい、ありがとうございます」席に座り、でかい鞄から今度は何か印刷物を取りだして、熱心に読み始める。ちら、とその表紙を覗いたところ、それは、あー、やっぱり、というかなんというか、『就職の手引き』であった。
でもさー、青年よ、それってあんまり泥縄ってやつ。 (1998.05.23)


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