038 Good-bye
その日の気分は最悪だった。前髪はうまくセットできなかったし、久々に取り出したおとっときのスカートはちょっとフックがきつかった。おろしたての黒いブーツを履いていたのだけれど、履き慣れなくて歩くたびに足下に神経がいった。デートだというので普段はしないそういうあざとい形而下的な配慮をする自分がイヤでちょっと自己嫌悪した。その上生理が始まったばっかりで、下腹は引きつれるような鈍痛がしていた。彼のチェックのシャツは安っぽくてかっこ悪かったし、彼が選んだ映画は、コミカルなアクション映画だったのだけれど、端的に言ってつまらなかった。映画館を出たらもう日が暮れていて風が冷たく、その日のスカートに合わせた薄手のコートではもう寒くて、最悪なことにお腹が空いていた。彼はその辺りで気の利いた食べ物屋を知らず、ちょっと距離があるけれど駅前の方まで歩いて戻るはめになった。渋谷の街は嫌いだった。

冷たい空気の中を歩きながら、なんでこうなんだろう、なんでこんな風にうまくいかないんだろう、一緒にいるだけでいいはずなのに、素敵なデートってどんなんだろう、彼のせい、いや、あたしのせいかも知れないけれど、でもこんな日にデートなんて、とか考えていた。でも彼もつまらないデートだったと思っているかも知れないし。彼の腕はあたしの肩口につかず離れず寄り添っているけれど、でも腕は組まない。手も繋いでくれない。ブーツのかかとが高いのに慣れないあたしが、坂を下るときちょっとぐらついて、彼の肩にあたしの前髪が触れたらどきどきしたけど、彼はすっと離れた。気を遣ってくれてるのか、それとも。うつむいたら溜まっていた涙がこぼれそうになったのは空気が冷たかったせいばかりではない。あたしたちはつき合い始めたばかりで、相手の気分にぎこちなく、必要以上に心を巡らす時期だったのだ。

眩い光が暗闇を割いた。レーザー光線が一筋浮かび上がり、ビルの壁面に、夜目にも鮮やかに文字を描き出した。

Good-bye,Lennon
繰り返し、繰り返し、その光の文字は描かれた。
Good-bye,Lennon
Good-bye,Lennon
夜の坂道に立ちつくしてあたしたちはその文字を見ていた。そうして、やっと、その文字が伝えたがっている何ごとかを、ぼんやりと理解した。ジョン・レノンは行ってしまって、もう帰って来ないのだ。
Good-bye,Lennon

行こうか、彼がそういって、あたしの手を彼の温かい手でしっかりと掴んだ。あたしたちは、賑やかな渋谷の街に降りていった。

(1999.12.11)


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