文芸評論評家&バードウォッチャー
各務三郎

ウグイス(鶯)
間もなく根岸の里になるわけだが、ものの本に、
「呉竹(くれたけ)の根岸の里は上野の山陰(やまがけ)にして、幽婉なるところ。 都下の遊人これを好む。この里に産する鶯(うぐいす)の声は世に賞愛せられたり」
と、あるように、諸家の寮や風流人の隠宅がすくなくない。

[1―1 女武芸者]p45 新装版48

井関道場・門内の柘榴(ざくろ)の樹が、深紅の花をつけ、崖の上の木立のどこかで、老鶯(おいうぐいす)が鳴いている。
[1―4 井関道場・四天王]p178 新装版p194

他に、
[2―4 三冬の乳房]p201 新装版p220
[2―6 不二楼・蘭の間]p281 新装版p308 など


各務:作者の引用は『江戸名所図会』からのもので、上野山に近い根岸の田園地帯は、「神田社寺、小石川鴬谷、谷中鴬谷」(『東都歳時記』)などとともにウグイスの名所だった。
西尾:『江戸名所花暦』は、寺社として西福寺(台東区蔵前 4- 16-16)、小石川鴬谷では金剛寺坂(文京区小日向。金剛寺は中野・上高田へ移転)、谷中鴬谷では法住寺(台東区三崎坂にあったが廃寺?)の支院7ヶ寺をあげている。
各務:三冬の生母の実家である和泉屋の寮も根岸にあり、「女武芸者」のころの三冬は、その寮から市ヶ谷の井関道場へ通っていた。
西尾:根岸の和泉屋の寮は、池波さんが入学した根岸小学校の運動場の奥あたりに設定されている。
各務:『江戸名所図会』の説明後半……「花になく鴬、水にすむ蛙(かわず)も、ともにこの地に産するもの、その声ひとふしありて、世に賞愛せられはべり」は、『古今和歌集』序ある紀貫之の「…花に鳴く鴬、水にすむ蛙の声を聞けば、行きとし生けるもの、いずれか歌をよまざりける」を受けたもの。
「井関道場」の〔老鶯〕は、「夏・秋の末まで老いごえに鳴きて……」(『枕草子』)というように、そのころのウグイスを老鴬、夏鴬と呼ぶ。立春のころから囀りはじめ、五月には山野の林床のササ藪などで繁殖する。都内の公園や人家の庭に現われるのは初冬で、藪鴬と呼ばれるようにチャッ、チャッという笹鳴き(地鳴き)をしている。
ホー、ホケキョウ(法、法華経)のききなしは江戸時代からはじまった。幕府と仏教の強い結びつきもあって、ウグイスはありがたい法華経をとなえる鳥としていっそう有名になった。

春きぬと人はいへどもうぐいすの
鳴かぬかぎりはあらじとぞ思う
              (壬生忠岑『古今和歌集』)

ウグイスには歌よみ鳥、人来鳥などのほかに春告鳥がある。

西尾:岡山鳥『江戸名所花暦』の鶯の項では、つぎの4か所があげられている。


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そして、『花暦』には記載されていないが、地元では知られている鐘ケ淵『江戸名所図会』


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亜種ハシナガウグイス。小笠原のウグイスは社交的。地鳴きを真似ると1メートルの距離で音の主を探し回っていた。 小笠原諸島・母島 1999.11


ツル(鶴)
三冬は、庭を掃く手をとめ、朝空をわたって行く引鶴の群れを見送っていた。見も知らぬ寒い国からわたって来る鶴は、秋の末に日本のへあらわれ、翌年の早春に西北をさして飛び帰る。
[6-7 道場破り]p283
(季節:天明元年(1781) 3月)

桜花が咲くには、まだ、いささか間もあるけれども、引鶴がわたって行く空の色は、まぎれもなく春のものであった。
[10-5 名残りの雪]p193
(季節:天明2年(1782) 春)

他に、
[9-5 討たれ庄三郎]p201
[12-5 同門の酒]p186

各務:[道場破り]で三冬が根岸(台東区)の寮で見あげたツルは、中国北東部・ロシアの湿原で繁殖のために帰るナベヅル、マナヅル、タンチョウ(日本の道東では留鳥だが、江戸にも渡ってきていたかもしれない)の3種のうちのどれかだろう。
 [春の嵐]の説明のように、桜が咲く前に渡去。旧3月まで居残るツルは引き残る鶴といい、引鶴と同じように季語になっている。引とは帰る意で引鶴も同じ。
西尾:[道場破り]は天明元年(1781)、三冬が23歳の早春。前年の11月に秋山大治郎と挙式し、橋場で秋山大治郎と暮らしているが、寮番の嘉助がさみしがっていると聞き、夫・大治郎とともに泊まりがけで根岸へやって来た翌朝の情景。
 [春の嵐]は、天明元年暮れから翌2年の晩春へかけての事件。
各務:ツルはその優美な姿・声によって万葉人の心を惹きつけてきた。

  桜田へ鶴(たづ)鳴き渡る年魚(あゆち)
   潟潮干にけらし鶴鳴き渡る
 (高市黒人)

  和歌の浦に潮満ち来れば潟を無み
   葦辺をさして鶴鳴き渡る 
(山部赤人)

 クルルー、クルルーと鳴くツルの声は、広い湿原や干拓地によく響く。あまり音楽的ではないが、長い鳴管のために音量がすごい。荒涼とした冬の干潟では独特な雰囲気をかもしだしていたろう。
 中国から伝わった〔鶴は千年〕のいい伝えで、ツルは平安期には瑞鳥とみなされるようになる。
 江戸時代には、将軍の鷹狩りで捕らえられ、京都の朝廷に献上されるほどに高貴な鳥に出世する。
 江戸の河川敷・海岸地帯はアシやマコモなどの水生植物が茂っていた。カエル、魚、穀物、水生昆虫などを食べる水辺の鳥ツルにとって住みやすい環境だし、周辺の水田には二番穂もあった。江戸城五里四方は将軍の鷹狩りのフィールドで、江戸川区・台東区・荒川区などの湿地帯には、ツルの餌付場があり、厚く保護・管理されていた。
 ガン・カモ類の狩猟も制限されており、市井人は水鳥問屋を通したものしか食べられなかった。もっとも、秋山小兵衛の時代には、養生のためならとってもよいことになっていたから、さぞかし、元気な病人がたくさん出たことだろう。
 絵画の世界でもツルは人気のある鳥だった。浮世絵では大胆な構図と色使いで知られる広重の「蓑輪 金杉 三河島」(『名所江戸百景』)のタンチョウは印象的。いまの荒川区、三ノ輪のあたりは昔は三河島田圃といい、荒川水系の氾濫原であり、餌づけされたツルの群れがスポットだった。


『名所江戸百景』「蓑輪 金杉 三河島



マナヅルの飛翔 鹿児島県出水市 2002.01.02



タンチョウヅルの家族 北海道阿寒町 2002.02.20



タンチョウヅルの求愛ダンス 北海道阿寒町 2002.02.20



マナヅルの求愛 鹿児島県出水市 2002.01.06



ガン(雁)
 不忍池の彼方(かなた)の、本郷の台地に日がかたむき、
夕空に雁(かり)が渡っている。

[8-3 狂乱]p165

各務:悲運の剣客・石山甚市が亡師を偲びつつ、上野の山で一日を過ごし、帰路についたときの情景である。田圃で二番穂を食べた鴈たちが、夕方、塒(ねぐら)の不忍池(しのばずのいけ)に列をなし、鳴き交わしつつ帰ってきたのだろう。
西尾:物語は天明元年(1781)中秋。小兵衛63歳、大治郎28歳。四谷の〔武蔵屋〕の弥七が41歳のとき。
各務:夏は蓮見客でにぎわった当時の不忍池は、「見わたし3,4町、長さ5,6町」といわれるほど広かった。森鴎外『雁』では石つぶてを打たれたが、明治までのこの池ではカモの群れにまじっていたと思われる。


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 鴈は、江戸時代までマガン、カリガネ・ヒシクイなどの総称。
 マガン(約70センチ。体色・茶)は、東部シベリアから江戸へ来て越冬していた。『江戸名所図会』の「品川駅」の絵では、「品川もつれにめづらしかりのこゑ」(其角)の句と飛び立つ7羽の雁が描かれている。海面の杭にはカワウ。


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 江戸の名所に雁行をそえる趣向は、『名所図会』のほか歌麿、北斎、広重など浮世絵師たちが好んで取りいれた。「白雲に鳥の遠さよ数は雁」(其角)


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『名所江戸百景』「日本堤
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 宮城県伊豆沼・蕪栗沼は数万のマガンの越冬地として有名である。「秋の田の穂田の雁が音闇けきに夜のほどにも鳴き渡るかも」(聖武天皇・万葉集)の光景が1300年の時空をつないで展開されている。
 未明の寒気のなか、沼のマガンの鳴き交わしがはげしくなる。やがて羽音・声が遠い夜汽車の遠い響きとなってあがる。いくつもの黒い筋雲が湧きあがる。すべてマガン。
 キャハハッ、キャハッと鳴きながらの総立ち――すざまじい音が頭上ひくく通過していく。



マガン 宮城県伊豆沼 1994.10
雁行して餌場へ向かう。




マガン 1994.10
餌場の田圃へ向かう。




オオヒシクイ 茨城県桜川村 1997.02



ツバメ(燕)
今戸川を待乳山(まっちやま)・聖天宮(しょうてんぐう)の下へわたりきった小兵衛の頬(ほほ)を掠(かす)めて燕(つばめ)が一羽、矢のように大川(隅田川)の方へ飛んで行くのを見送り、
「もう、すぐに夏か……」
と、小兵衛がつぶやいた。

[3-4 嘘の皮]p124

他に、
[1-4 井関道場・四天王]p164
[13-2 波紋]p56
[13-3 剣士変貌]p132
[13-4 敵]p213


各務:「ツバメが一羽では夏とはいえぬ」(アリストテレス)が、小兵衛は、苗売りの声、青空にツバメをからみあわせて、夏を感じたのである。
西尾:[嘘の皮]は安永8年(1779)の初夏の事件。
各務:ツバメは本シリーズ最多登場の鳥。俳句……春の初燕・川燕……夏の子燕・親燕……、秋には帰燕、秋燕……冬なら越冬燕……。
 軒下に巣づくりするのは、天敵からヒナを守るためだが、「ツバメが巣をかけると家が繁盛する」という喜ばしい鳥とみなされてきた。「土食って虫食って口渋い」というききなしは、泥と枯草を唾液でねって巣を造る習性の観察から生まれた。
 万葉の時代から和歌にもうたわれ,『竹取物語』のツバメの子安貝などでも知られてきたツバメ。江戸時代には、柳にツバメの柳燕図が広く受け入れられ、夏鳥ツバメの生態が巧みに描かれるようになる。広重『名所江戸百景』の「八ッ見のはし」もそれだし、「鎧の渡し小網町」は向う岸に並ぶ蔵・日本橋川・渡し舟・町娘に4羽のツバメをあしらっている。凡兆(元禄期)の「蔵並ぶ裏は燕のかよい道」にならったものかもしれない。


『名所江戸百景』「八ッ見のはし」
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『名所江戸百景』「鎧の渡し小網町」
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西尾:『江戸名所図会』では「本町薬種店」に人の顔を掠めるように飛んでいるツバメが描かれているが、さて、何羽?(正解はこの項の末尾)。


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各務:「海づらの虹を消したる燕かな」(其角)は、一瞬のツバメに幻視を見た現代感覚の優れた句。江戸時代には腰が赤く、腹に縦斑がある夏鳥コシアカツバメも知られていたが、今では郊外で少数が繁殖するにすぎない。


ツバメ・若鳥 杉並区善福寺川 2002.07



ツバメ・親子 杉並区善福寺川 1993.06
一番仔にホヴァリングしながら餌を与える。



ツバメ・成鳥 杉並区 2002.07

正解:4羽



キジ(雉)
「雉子の宮は、山神(やまのかみ)の祠(ほこら)だったものを、慶長のころに徳川将軍が放鷹(ほうよう)に来たとき、その祠の中へ雉子が一羽、飛び入ったのを見て、
「以後は、雉子の宮と名づけよ」
と、いったために、その名が残っている。

[5-3 手裏剣お秀]p135


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各務:キジにはひたむきな印象があり、また悲運な印象を受ける。帰国を促す使者として使われた雉(きじ)の鳴女が使いの相手・天若日子に殺されてしまった話(『古事記』)とか、「焼野の雉子(きぎす)、夜の鶴」〜鶴が翼の下にわが子を抱えこみ、夜の寒さから守るのに対し、抱卵中のキジのほうは卵を守るために野火に焼かれて死んでしまう〜といういい伝えもある。教訓では「雉子も鳴かずば撃たれまいに」がある。キジにはこんな悲歌がふさわしい。

北寿老仙をいたむ」
君あしたに去(さり)ぬ/ゆうべのこころ千々(ちぢ)に/何ぞ/はるかなる
君をおもふて岡のべに行(ゆき)つ遊ぶ/をかのべ/何ぞ/かくかなしき
蒲公(たんぽぽ)の黄に薺(なづな)のしろう咲きたる/見る人ぞなき
雉子(きぎす)のあるか/ひたなきに鳴くを聞(きけ)ば/友ありき/河をへだてて住(すみ)にき
へげのけぶりのはと打(うち)ちれば/西吹(ふく)風のはげしくて/小竹(おざさ)原真すげはら真すげはら/のがるべきかたぞなき
友ありき/河をへだてて住(すみ)にき/けふはほろろともなかぬ
君あしたに去ぬ/ゆふべのこころ千々に/何ぞはるかなる
我庵(わがいほ)のあみだ仏(ぼとけ)/ともし火もものせず/花もまひらせず/すごすごと佇(たたず)める今宵は/ことにたうとき

行・字間は、わたしなりに変えてみた。この鮮やかな挽歌は、秋山小兵衛と同時代の延享2年(1745)に、30歳の與謝蕪村(ぶそん)によって生みだされた。高校生だったわたしは、たちまち蕪村に惹きつけられた。
 藤村をはじめとする明治の新体詩よりも瑞みずしく、七・五調の韻律を超えて美しく響きあう日本語。浄土真宗の家に生れた方なら、読経(正信偈)の最後に蓮如上人の御文(おふみ)が誦まれるのをご存じだろう。御文は耳目に親しみやすい文章として知られている。そのなかに「白骨の御文」がある。「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」とはかない人生を説いたもの。
 「北寿老仙をいたむ」は、少年だったわたしに、「白骨の御文」を思い起こさせたが、それよりもはるかに思春期の精神をゆさぶった。
 教えてくれた教師は、詩人の萩原朔太郎、教科書は『郷愁の詩人與謝蕪村。』
 今でも、河川敷や草原、休耕田の草むらから顔をのぞかせるキジを見かけたり、ケン、ケーンと空にひびく声をきくたびに、「君あしたに去ぬ/ゆふべのこころ千々に/何ぞ/はるかなる」と、条件反射のように口のみが動く。


キジ・雄 埼玉県東松山市 1993.11.13
畑に積まれたワラ山。繁殖期( 4〜 6月)ではないが、5,6羽の雌を連れていた。


キジ・雄 千葉県印旛沼 2002.04
繁殖期で顔も赤みが増し、よく鳴きほろを打つ音(羽を震わせ、ドドッという音を発する)もきこえた。


キジ・雌 石川県片野鴨池 2000.11.20
観察舎ガラス窓越し。池端のアシ原を雄といっしょに歩いていた。



ヨタカ(夜鷹)
柳原の堤は、神田川に沿って、筋違橋から浅草橋へつづく長さ十町ほどの堤だ。享保(きょうほう)のころに、この堤へ柳を植えたものが、いまは堤いっぱいに繁茂して、夜に、この堤へかかると安全地帯どころではなくなる。追い剥(は)ぎも出るし、夜鷹(よたか。道端で客を拾う下級の娼婦)も出る」
[15 二十番斬り]p172

各務:柳原堤は、神田川下流の南岸にあり、筋違橋から10丁(約 200メートル)と称されていた。土手には小屋掛けの古着屋・古道具屋があったが、夜には無人になるので、淋しい場所になったという。
 初夏、月のない夜。田沼屋敷を出て和泉橋にさしかかった秋山小兵衛に、五人の覆面浪人が襲いかかる……。
西尾:[二十番斬り]は、天明4年閏3月から初夏へかけての物語。小兵衛66歳。おはる26歳。
 筋違橋はいまの万年橋のあたり御門とともにあった。古着屋・古道具屋のたたずまいは『江戸名所図会』でうかがうことができる。


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各務:夜鷹とは、ヨシ簀小屋とか露天で客をとる売春婦。辻君ともいった。夜行性のヨタカに由来する。夜ふかし・夜歩きをする人も意味する。英語でも夜鷹 Nighthawk は後者の意味を持つ。米国の画家ホッパーの作品「ナイトホークス」は、深夜のコーヒーショップに立ち寄った人をガラス越しに描いて寂寥感がにじんでいる。
 東南アジアからの夏鳥ヨタカ(約30センチ)は、体色が樹皮のような茶色。夕方から飛びはじめて、蚊や蛾などを食べる。鳴き声は、キョッ、キョッ、キョッ……の連続音。山地から平地に棲み、横枝と平行にとまる習性がある。


ヨタカ・雌? 東京都大井野鳥公園 1998.09
雨の午後、現場から携帯電話による連絡。友人の四駆でかけつけると、トレイルのわきの石柵の上でうたたねをしていた。渡りの途中で翼を休めていた個体。



モズ(鵙)
何処(どこ)かの木の上で、鵙(もず)が鋭く鳴いた。
秋山大治郎を囲む三人の浪人者の刃(やいば)が、晩秋の午後の日ざしに煌(きらめ)いた。

[9-4 秘密]p147

女のほうは体を反らせるように立ち、浪人を睨みつけつつ、一言二言、何かったようだ。
どこかで、鵙(もず)の鋭い鳴き声がした。

[8-5 男と女]p225

あるときは、狩りの途中で水死人が引きあげられる場面かあった。
すると吉宗は、気軽に馬から飛び下り、水死人の躰(からだ)をしらべ、
「まだ、のぞみがないではない。どこぞで鵙(もず)を手に入れてまいれ」

[黒白]下p147
他に、[小さな茄子二つ]p66


『名所江戸百景』「目黒太鼓橋」


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各務:[秘密]は、目黒・行人坂下の相唐橋(太鼓橋)の上。百姓女に悪さをしかけた浪人たちの一人は、すでに大治郎によって目黒川へ放りこまれている。そこへモズの高鳴き。
緊迫した場面だが、モズの鋭い声は、奇妙に明るく、浪人たちを嘲笑している感じがある。
 [黒白]溺死人にモズの肝を呑ませると蘇るという知識は、吉宗が紀州で冷飯を食わされていたころ、領民から教わったものの一つ。
モズは漂鳥だが、東京でも多摩川の河川敷や葛西臨海公園でも繁殖している。
 10月に入ると市街地の公園で、キーッ、キーッ、キチキチ……と高鳴き(囀り)して冬季におけるテリトリーを主張。モズは秋の使者である。
西尾:[秘密]は天明元年(1781)の陰暦10月の事件。
[男と女]は天明元年(1781)晩秋の事件。
[黒白]は宝暦2年(1752)の晩秋で、小兵衛35歳の時。
各務:赤茶の体(約20センチ)。枝先にとまって、長い尾を回すように動かす習性。モズの早贄(はやにえ)は、捕えた昆虫・トカゲ・カエルなどょ枝に突きさした状態をいう。
「春されば百舌鳥(もず)の草潜(くさぐ)き見えずともわれは見やらむ君が辺(あた)りをば」(万葉集・作者未詳)
草潜きは、春になってモズが山へ去って姿が見えなくなること、と解釈されている。草潜きがのちに草茎(早贄)に転じたらしいが、こんな和歌がある。
「たのめこし野べの道芝夏ふかしいずくなるらんもずの草ぐき」(藤原俊成)
俊成の歌は早贄の意味。『俳諧歳時記栞草』(曲亭馬琴編)の〔鵙の草茎〕の解説を紹介しよう〜野で男が女に会う。家をたずねると、その草茎のある道をたどった所との答え。あとで訪ねると約束した男だが、公けの仕事にかまけて、翌年の春、ようやく出かけたが、草が繁茂して草茎がみつからず空しく帰った。
 この物語を思い浮かべると、万葉の歌の草潜きも早贄と考えたほうが自然に思える。
 モズは百舌と漢字を当てられている。いろいろな鳥の鳴き真似をするからだろう。モズの性格はあらく、小鳥を襲うこともある。こどものころ、飼っていたメジロが何度もモズに襲われた。竹籠に飛び移り、メジロにパニックを起こさせる。たいていは気づいて追いはらう。だが、留守のときだと運のないメジロは脳天を鈎状の鋭い嘴で一撃されて即死。当時、わたしにとってモズは天敵だった。
 アカモズという明るい赤茶の夏鳥は高原で繁殖。現代でも東京の郊外でも繁殖の記録あり。江戸で見られた可能性が高いモズにチゴモズがいる。頭から背にかけて灰色の小型のモズ。アカモズと同じように東南アジアから渡ってくる夏鳥である。ギジギジ……と濁った声で鳴くところもアカモズと似ている。


モズ・雄 杉並区和田堀公園 1995.02



チゴモズ・雄 神奈川県藤野町 1996.07



ヒバリ(雲雀)
家は、木立と竹藪(たけやぶ)に囲まれている。家の向うの竹藪を突き抜ければ、隅田(すだ)村の田地(でんち)がひろがっているはずだ。
そのあたりから、雲雀(ひばり)の声が高らかに空へ舞いあがってゆく。

[15 おたま]p14

各務:家出していた白猫たまは姿を見せるなり、鳴きなから、小兵衛を誘いだした。綾瀬川のほとり。藁屋根の風雅な家。たまは、その家の裏手へ消えた。小兵衛は「戸口の内側の気配(けはい)に耳をすました」
 怪しい事件に導かれた小兵衛。うららかな春日のなかのヒバリの囀りと緊迫した空気の対比がいい。
西尾:[おたま]の舞台は、天明4年(1784)の春。小兵衛66歳、おはると三冬は26歳、大治郎31歳、小太郎 3歳。ついでに書くと御用聞きの弥七が44歳、傘徳43さい町医者・小川宗哲は77歳。
各務:日本ではヒバリを告天子(こうてんし)と標記することがある。このコウテンシ、中国では鳴き声を楽しむ飼鳥として知られているが、ヒバリではない。
 ヒバリは揚るときにピーチク、ピーチク、降りるときにはクチュ、クチュとかグジュ、グジュという感じで鳴く。ただ、じっさいは複雑で美しい。
囀りは繁殖期の鳴き声だが、10月に囀るのを聞いたこともある。春は2月ごろから囀りだす。寒い野原でタゲリを見ていると、頭上でヒバリの声。春の到来を感じ感じさせる一瞬。
 「うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思へば」
大伴家持はメランコリーを感じたのだが、麦秋のころになれば、「一日一日麦あからみて啼雲雀」(芭蕉)のように、初夏を思わせるヒバリの明るすぎるほどの囀りもある。
 ヒバリはユーラシア大陸に分布している体長17センチほどの野鳥。東京近郊には周年生息。体色はうす茶で、しばしば冠毛を立てる。冬には乾いた田んぼなどでカラワヒワ、スズメなどに混じっていて、驚いてひくく飛び立つときも、一枚の田に6,7羽もいた! とこちらが驚くことがある。保護色なので気づかないのだ。そんなとき、彼らはピュルッと捨科白を吐く。


ヒバリ 佐賀県横島干潟 2002.01.01



ヒバリ 茨城県波崎新港 2002.04



スズメ(雀)
雀の囀(さえず)りに、ようやく目ざめたとき、庭づたいに二人の足音が近寄ってきて、
「もし……もし、お目ざめでございますか?』

[2-6 不二楼・蘭の間]p254

春の夕焼け空に、群雀(むらすずめ)が音をたてている。
何百何千といってよいほどの群雀がおのれの身で羽で打ちつつ、舞い狂ってしるのだ。

[12-7 罪ほろぼし]p269
他に、[12-7 罪ほろぼし]p272
    [15 二十番斬り]p39
    [黒白]下182,304

各務:引用の[不二楼・蘭の間]は、早春・如月(きさらぎ)。浅草・〔不二楼〕の離れ。小雨坊に隠宅を焼かれた秋山小兵衛が身を寄せている――春眠をむさぼっていた小兵衛も、ようやく雀の声で目ざめる。
西尾:[罪ほろぼし]は、安永8(1779)年1月から2月へかけての事件。小兵衛61歳。おはるは21。
各務:この時期、繁殖期に入る鳥は、声が甘くなる。ヒヨドリもピーッ、ピーッと叱りつけるような声から、複雑なピュル……に変化している。スズメも単調なチュン、チュンから甘い節まわしで囀りはじめる。
 [罪ほろぼし]のほうは、雑木林の中の一軒家。女の乳房に顔を埋めていた永井源太郎は、異様な羽音に気づく。これに慣れている女は、群雀とあっさり答えた。
 塒(ねぐら)入りスズメたちの騒ぎ。秋から冬、スズメ、とくに若いのは草原・芦原などで群れの生活をする。夏、東京の街路樹でも若鳥たちが塒をとる。けっこう騒がしいもの。秋口、彼らは遠くへ旅立つのである。
西尾:この篇の季節は天明3(1783)年春の事件。小兵衛65歳。大治郎30歳。三冬25歳。
各務:スズメは人家から離れては生きていけない鳥。人に近しい鳥なので、伝説説話・文芸・絵画に多く登場してきた。
 「はるさめのあがるや軒(のき)にくる雀」(羽紅)。雨やどり中の雀が、やむのを察知して鳴きはじめる。蕉門の女流俳人らしい細やかな観察眼が光る。
 わが家のベランダには、6月から親鳥が巣立ちビナを連れて現れるようになった。仔は親とちがって警戒心が薄く、室内で遊んでいたりする――「うつくしきもの 爪をかきたるちごの顔。雀の子の、ねず鳴きするにをどり来る」(『枕草子』)
 日本にいる別種のニュウナイスズメは、体長14センチとスズメより1センチ小さい。雄雌の羽色も異なる。雄は頬に黒斑がなく、赤っぽく、腹も白味が強い。新嘗(にいなえ)――つまり新穀を食べる雀、あるいは頬の黒斑(にゅう)がない雀(柳田国男説)などが鳥名の由来。
 江戸期には、にうない、にいなめなどと呼ばれていた。北海道・本州高地で繁殖。冬には、多くが東南アジアへ渡去。
 秋に乳熟した米を群れで食べるので、古くから害鳥視されてきて、近年は数が減っている。東京近辺では、酒匂川近辺で越冬する群れがいるらしい。
 写真のニュウナイスズメは、電線に 2,000羽くらい休んでいて、細く甲高い声で騒ぎ、いっせいに飛び立っては、また別の電線に休む行動をくり返していた。


スズメ 千葉県船橋海浜公園 撮影年月不明
このスズメはやたら人慣れしていた。突堤を歩いていると、数メートルの距離を置きながら50メートルほどついてきました。



スズメ 佐賀県横島干拓 2002.01.02
人家の庭。同じ木に7,80羽とまっていた。
「むきむきに雀すぼまる枯木の枝夕さり寒し陽のかげりつつ」
(北原白秋)



群スズメ 石川県河北潟 2000.11
干拓地に数百羽の群れ。群れは一つになって行動する。鳴き声、羽音がかまびすしい。



ニュウナイスズメ(左から雄、雄、雌、雄) 佐賀県横島干拓 2002.01.02
2,000もの群を見たのははじめて。友人が運転する4駆であちこち追いかけ、群が落ち着いたときにようやく撮影。スズメの群とは別行動。



シラサギ(白鷺)
白鷺(しらさぎ)が一羽、ゆっくりと田の面へ舞い下りて来た。
[8-1 毒婦]p28


画面内をクリックすると、要所拡大画面が表示されます。

各務:三囲(みめぐり)稲荷社のあたり。小兵衛は、尾行してきた料理屋〔元長〕の長次をとがめ、掛茶屋で尾行の理由を問いただす。隅田川八景の一つで言問橋に近い三囲稲荷は土手のすぐ下にあった。
 其角の雨乞いの句「夕立や田を見めぐりの神ならば」をはじめとして、多くの句碑が遺っている。
 まわりは田んぼ。水を張った青田にゆったりと白鷺が舞いおりてきた。
西尾:物語は天明元(1781)晩夏。
各務:白鷺(しらさぎ)は白いサギの総称で、コサギ、チュウサギ、アマサギ(冬羽)の4種がいる。さらに数は少ないがカラシサギ、クロサギの白色型。
 サギの仲間は熱帯から温帯にかけて生息。日本では17種ほど観察されている。白鷺はツルに似るが、飛ぶときには首を折りたたむので、首をのばして飛ぶツルとは見分けられる。
 水田、川の瀬などで魚、蛙、水生昆虫を食べる。10年ほど前、新潟の米どころを列車で旅して、渡り鳥の中継地で有名な粟島(あわしま)へ出かけたことがある。ところが、5月の青田に一羽のサギもいない。農薬散布のために餌がいないのである。米生産農家の多くは自家用米には農薬をギリギリまで減らす。しかし、農協を通じて出荷する米には抑制力が働かない。
 白い鷺の姿は見ているだけで心のびやかになるが、枕草子では「さぎはいとみめも見ぐるし」という。清少納言はまぢかに白鷺と向きあったのだろう。「まなこなども、うたてよろずになつかしからねど……」と彼女はあとをつづける。白鷺の紅彩は黄色で、憎々しげな印象を与えかねないのだ。
 コサギは60センチほど。夏には、頭に2本の長い冠毛。嘴と足は黒で、足指は黄。その足で水中をかきまわしてドジョウなどを追いだす。
 ダイサギ(約90センチ)も留鳥で、夏羽では嘴が黒く、目先は青。しかし、これは短期間で、黄色い大きな嘴を見ているほうが多いはず。
 チュウサギ(約70センチ)は、大部分が夏鳥。田や草原にいて、干潟や川ではあまり見られない。
 アマサギ(約50センチ)は、東京郊外では夏鳥。水田・田畑・草地などが好み。牛が追い出すバッタなどを食べているが小型トラクターのあとで数十羽が虫探しをしている光景をよく目にする。英語でCdttle Egret(家畜サギ)と呼ばれるのもうなづける。夏羽は顔、頭、胸が明るい茶(亜麻色)で、冬には白くなる。しかし、真夏にも白い個体がたくさんいる。若鳥かもしれない。


ダイサギ 冬羽・3羽(小型のコサギは首をちぢめている)。
千葉県船橋海浜公園 2002.09



チャウサギ 冬羽。嘴が黄で先端のみ黒。
熊本県上江津湖 1999.01



コサギ 夏羽。長い冠毛が2本。
千葉県谷津干潟 1994.05



アマサギ 冬羽。
愛知県汐川 2000.09



カラシサギ 夏羽。コサギとよく似ているが、多い冠毛が房に見える。
長崎県対馬 2000.05.03



クロサギ(白色型は沖縄地方でよく見る)
鹿児島県笠沙 2002.01.03



ヒタキ
庭の何処かで、コツコツと、小石を打ち合せているような鶲(ヒタキ)の鳴き声がした。
[2-5 三冬の乳房]p173
(季節:安永7年(1778)冬)

各務:ヒタキは、江戸時代、夏はキビタキを指す。漂鳥であるルリビタキも考えられるが、声高に「コツコツと鳴く」のはジョウビタキであろう。
西尾:[三冬の乳房]は安永7(1778)年冬の事件。
各務:田園風景が拡がる根岸の和泉屋の寮(別荘)。師走の一日。小判50両入りの菓子箱を前にした三冬と秋山小兵衛。三冬が誘拐から救ったむすめの親・山崎屋の主人が礼として置いていったもの。大店の商家にはどうやら裏の事情があるらしい……日ざしが弱まるなか、庭でジョウビタキの声がしている。
 秋も深まるころ、ジョウビタキがシベリア・中国などの繁殖地から日本へ渡って来る。いつも1羽で市街地、公園、田畑や河原などで乏しい虫をあさっている。
 テリトリーを回っているらしく、いつも同じ時間に同じ場所で見かける。
 明るい赤茶の腹、銀白の頭、次列風切の白い斑。スズメ大の鳥でとても美しい。漢字で尉鶲(じょうひたき)。尉(じょう)も鶲(ひたき)も老人のイメージで、ヒッヒッという地鳴き。散歩していてもすぐに耳に入るほどよく透る。あとにカッカッとくぐもった声がつづくこともある。
 火打石を打ち鳴らすような声から火焚(ひた)き。そこへ鶲の漢字があてはめられたのだろう。
 おじきをしながら鳴く姿は、白い斑と重なって、紋付きと呼ぶ地名が多い。警戒心が薄いためにバカッチョというありがたくない名で呼ぶ地方もある。
 冬に高山から人里へ下りて来るヒタキにルリビタキという青い鳥がいる。こちらは茂みの中が好きで、ヒッヒッ、カッカッとショウビタキに似た地鳴きをするが、ジョウビタキほど透る声ではない。
 夏、東南アジアから繁殖に来るキビタキ。こちらは前の2鳥(ツグミ科)とちがいヒタキ科。眉斑、背、腹が黄色い鳥で5月ごろ通りすがりの公園で囀っている。
 写真のジョウビタキ(雄)は近くの公園で冬越しした固体。人家近くは暖かく、虫も多いので生活環境としてもってこいの空間である。
 この固体はミールワームで餌づけされいたが、とくに人を恐れず、見ている人の足元に来てこぼれている餌の虫を食べていた。
 3月下旬、グゼリ(囀りの前段階)をはじめた。口をつぐんだまま喉を震わせて鳴くのだが、声が細くて耳をすまさないと聴きとれない。そのグゼリは高みにある揚雲雀(アゲヒバリ)の声に似通っていた。
 4月中旬、彼は北国をめざして飛び去った。


ジョウビタキ・雄 杉並区和田堀公園 2002.03



ジョウビタキ・雌 杉並区和田堀公園 1994.01



キビタキ・雄 杉並区和田堀公園 1997.05



ホオジロ
庭の南天の、ふさふさとたれた赤い実に、秋の陽が光っている。どこかで、しきりに頬白(ホオジロ)が鳴いていた。
[2-2 辻斬り]p69
(季節:安永7年(1778)秋日和)

建て直したばかりの隠宅には、木の香がにおい、何処かで頬白(ホオジロ)が鳴いている。
[4-4 天魔]p126
(季節:安永8年(1779)秋)

各務:[辻斬り]での光景。大身の旗本が放った刺客を追い払った秋山小兵衛は、息子の大治郎とともに善後策を練ろうとしている。隠宅の南天の実を食べに来たのか、ホオジロの地鳴きがひびいている。
[天魔]では、秋の昼さがり、まどろむ小兵衛を謎の美男剣客が庭先から凝っとみつめている。危険な静けさのなかに、ホオジロの地鳴きが鋭くあがった。
 2シーンとも秋。秋から冬の季節、ホオジロは田畑や林のふち、河原などの草の実を食べるから、チチッ、チチッとよく透る声で鳴く。この時期、明るい山道のブッシュや野道のわきなどでこの声がしていたら、それはホオジロ。同じ場所でチッ、チッという声がしたのなら、アオジかシベリアから渡って来たばかりの冬鳥カシラダカである。ホオジロとアオジは留鳥か漂鳥(国内を季節によって移動する鳥)。
 ホオジロは長い尾をした明るい茶色の体色。胸から腹は薄茶。白い眉斑・黒い過眼線が目立つ小鳥。
 よく似たカシラダカの冬羽は薄い茶でしばしば冠毛を立てる。腹は脇をのぞいて白。アオジは体色が緑っぽく腹がやや黄味をおびた小鳥で、薄暗いブシュの中を好む。繁殖期にさしかかると、ホオジロは虫を食べるようになる。3月ごろにはさえずりはじめる。
「高槻のこずゑにありて頬白のさへずる春になりにけるかも」
(島木赤彦)
 大正13年(1924)の『大虚集』のこの歌は、アララギ派が範とした万葉集の「石走(いははし)る垂水(たるみ)の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」(志貴皇子)を思い起こさせる。
 二首とも、早春のよろこびが横溢する名歌だが、朝日を浴びながら天空をあおいで囀るホオジロは鋭い寒気のなかに赤く輝く。ゆるやかにチッチ、ピーッ、チーチョチョと囀りつづけるその声は、昔から「一筆啓上仕(つかまつ)り候(そうろう)」と聞きなしがされてきた。関西では「源平ツツジ、白ツツジ」と聞きなしがされるらしい。
 ホオジロはスズメよりも数が多いという全国での調査結果があるそうである。今年7月末、銚子にアジサシ類を見に行ったが、背丈ほどの高さの海岸の防風林でホオジロが囀っていた。すぐ近くに雌もいた。そんな防風林でも営巣しているのだ。


ホオジロ・雄 軽井沢・小鳥の森 2002.02



ミヤコドリ
桜もほころびかけ、どんよりと生あたたかい曇り空の何処かで、しきりに都鳥が鳴いている。
[3-2 赤い富士]p53

各務:料亭〔不二楼〕の亭主・与兵衛から見せられた池大雅(いけ・たいが)の赤富士に未練を残す小兵衛。おはるは、そんな小兵衛にあきれながら、小舟をあやつり大川をくだっている。
 大川ではミヤコドリのギューイ、とかキューイという鳴き声がひびいている。
 都鳥とは東京都の鳥に指定されているユリカモメである。10世紀初めの『伊勢物語』つまり藤原業平の和歌を軸にすえた歌物語にある「名にし負はばいざこととはむ都鳥わが思う人はありやなしやと」が指定の根拠と思われる。
 その鳥の描写。「白き鳥の嘴(はし)と脚と赤き、鴫の大きさなる、水のうへに遊びてつつ魚(いを)を食う。京には見えぬ鳥なれば皆人見知らず」
 渡し守の答は、都鳥。そこで、都鳥よ、わたしの大切な人は京で無事に暮らしているかどうか、教えてくれ、と歌った。その渡しは浅草の言問橋のあたりにあったと考えられている。
 ユリカモメは、体長約40センチ。日本で見られるのは、冬から春の季節。夏はユーラシア大陸北部で繁殖するから、小兵衛とおはるがその鳴き声を聴いた都鳥は、渡去まじかのユリカモメだったであろう。
西尾:[赤い富士]の季節は、桜もほころびかけ(p53)ている3月下旬ごろ。
各務:体色は、背が淡いブルー・グレイ。スマートで、遠目には白い鳥に見える。冬羽は白い頭にヘッドフォン状の斑があるが、桜の季節になると頭が黒頭巾をかぶったようになる。嘴と脚は赤。
 小魚、生ゴミが常食。埋立地では何千羽の群れが乱舞している。東京ではカラスと並んで、生態系をこわす鳥としてやっかい者視されている。きれいでかわいらしいので上野の不忍池(しのばずのいけ)ではカモ類にまじって見物人からパンくずをもらっている。
 餌さえあれば、海岸から数十キロも内陸へ飛んでいって冬をすごす。そこが他のカモメと異なる点である。コナン・ドイルの『パスカヴィル家の犬』の舞台となったダートムアの湿原で飛んでいたカモメは、恐らくユリカモメ。
 日本では、ミヤコドリという和名のシギがカムチャッカ半島や中国東部から越冬しに来る。かつてはこちらのミヤコドリが〔都鳥〕だという説もあったが、現在では、ユリカモメ説に落ちついている。
 大型のシギで、ユリカモメより大きく、約45センチ。体の上面は黒く、嘴は赤く、脚はピンク。英名はOystercatcher、つまりカキ食い鳥。フロリダでカキがびっしりついた岩礁にAmerican Oystercatcherが三、四羽休んでいるのを見て、思わず笑ってしまったことがある。
 貝殻ひろいで有名なサニベル島の海浜でも数羽が貝をとっていた。数メートルの距離に近づいても逃げない。カルチャー・ショックを受けた。
 日本の海岸でもミヤコドリたちは岩場や干潟で冬をすごす。ただ、その数は少なく、バードウォッチャーの見てみたい鳥の一つ。(略)
 都鳥がユリカモメかミヤコドリかの議論にもどると、「白き鳥」の記述は、黒っぽい印象のミヤコドリとは異なるし、19世紀の『柳多留』にも「名所とてかもめも住めば都鳥」があり、江戸時代から都鳥がカモメであると認識されていた。
 冬鳥のユリカモメは、夏には繁殖地のユーラシア大陸へ飛び去る。夏に海辺で見られるカモメはほとんどがウミネコ。ミャァ、ミャァと鳴くことから名づけられたカモメ。こちらは日本沿岸で繁殖する。冬には南下するものが多く、東京湾では冬のユリカモメ、夏のウミネコが通り相場である。
 英名がユリカモメのBlack-headed Gullに対して、Black-tailed Gull。つまり尾に黒いバンドがあるカモメで、日本で見られるカモメの成鳥で、バンドがあるのはウミネコだけ。


ミヤコドリ 茨城・波崎港 1999.02



ユリカモメ・冬羽 千葉・谷津干潟 1993.12



ユリカモメ・夏羽 茨城・出島 1995.04.23



ウミネコ 千葉・谷津干潟 1995.09.04



カラス
その、あざやかな夕焼けの空に、鴉の鳴き声がしている。
[ないしょ、ないしょ]p211
(季節:安永6年(1777)冬から7年の年初)

「いや、凄まじい声で、見ていたこっちの肝も縮んだが、空を飛んでいた鴉の野郎が、その声で目をまわし、大川へ落っこちたよ」
[13-5 夕紅大川橋]p305
この他
[2―3 悪い虫]p152
[3―2 赤い富士]p67
[4―6 鰻坊主]p226
[12―1 白い猫]p21
[12―5 同門の酒]p207
[黒白]p450,448
(季節:安永6年(1777)冬から7年の年初)

各務:『ないしょ、ないしょ』のシーンは、秋日和の暮れがた、尾行に気づかぬまま、五平が両国橋を渡ている時の光景。恐らくねぐらへ急ぐカラスだったのであろう。
[夕紅大川橋]のほうは、浅草の花川戸にかかる大川橋(吾妻橋)の渡り初め見物に、小兵衛とおはるが出かけたときの小事件。橋上でのヤクザの喧嘩を小兵衛がおさめる。
 カラスはスズメとならんで、人間の生活と深く結びついてきた鳥である。そのために伝承説話、文芸などに多く登場してきた。
 日本サッカー協会のシンボル・マークもボールをつかむカラス。これは三本足の八尺鳥烏(やたがらす)。
 初代天皇にあたる神武天皇が東征のさい、熊野の山中で道に迷った。そのとき、天照大神(あまてらすおおみかみ)が道案内役として遣わしたのがこの烏だった(『古事記』)。
 (あた)とは長さの単位。掌をひろげたときの親指と中指のあいだの長さ。ふつうの人なら20センチくらいだから、体長 160センチの大ガラスだ。
 サッカー協会のマークは最近有名になったが、1931年つまり、軍国主義の時代に制定されたもの。戦意高揚のマークだったというわけ。
 古代中国では、太陽に三本足のカラスが住むと信じられていた。「そのころから太陽の黒点を観測していたのか」と現代のわたししたちは考えてしまう。
 「可良須(からす)とふ大軽率鳥(おほおそどり)の真実(まさで)にも来ませぬ君を児(こ)ろ来(く)とそ鳴く」(万葉集・東歌)に、カラスの名前の由来があるという説がある。コロクからカラスへの転訛だが、鳴き声が特徴的な野鳥は、その鳴き声が鳥の名になるケースが数多くある。ヒヨドリ、カッコウなどは好例。
 イギリスでも古英語のCraweは、その鳴き声に由来するといわれている。黒ろしからカラスへ転移という説よりも自然だろう。
 現代の東京23区で見られるカラスはハシブトガラスがほとんどだが、江戸時代には町なかでもハシボソガラスが共存していたそうである。ホソガラス、ハシブトガラスと呼んでいたらしい。その他に2種があると分類していた。
 現代の日本ではハシブトガラス、ハシボソガラス、ミヤマガラス、コクマルガラス、ワタリガラスの5種が観察されているが、江戸時代には、ほとんどの市井人はカラスという認識しかなかったはず。
 「枯枝に烏のとまりけり秋の暮」(芭蕉)はハシボソガラスにふさわしい風景である。
 ガーガーと濁った声で鳴くハシボソガラスは、この数十年のあいだに東京の郊外へ追われてしまった。おでこの張った、カーカーと澄んだ声で鳴くハシブトガラスに生息環境を奪われたのである。
 ミヤマガラスは、冬には中国大陸から九州地方へ渡ってくる小型のカラス。成鳥は嘴の基部が白っぽく見える。田畑で群れになって行動している。近年は日本海側に沿って北上する傾向にある。
 A・クリスティーの短編に凶器としてrook gun(ミヤマガラス)が使われてる。作物を害する烏として駆除されていたことがうかがえる。
 日本でもカラスはゴミをあさり農作物を食べる害鳥として、年に数万羽ものカラスが駆除されている。東京でも2002年から都の公園に罠小屋を設置しているが、成果は今一つ。カラスは最も賢く、タカよりも強い鳥なのである。海岸で貝を上空から落して割ったり、自動車にひかせるほど頭が良い。
 ポーの長詩「大鴉」で有名なraven。和名はワタリガラス。日本では冬に北海道へ渡って来るが、その数は少なく、わたしはこれまでに6回もフラれている。
 カラスのなかでは最も大きく、体長は約70センチ。ハシブトガラスは約60センチ、ハシボソは約50センチ、ミヤマガラスは約45センチ。ユーラシア大陸、北アメリカ大陸にも生息している。
 比較的寒い地方にいるけれど、それでもわたしは暑いアリゾナの化石の森で、ビーフ・ジャーキーにつられてすぐ近くまで来るravenを見ている。
 このカラスはアニミズム信仰の民族では天地創造主とかトリックスターとして扱われてきた。北欧神話のオーディン神の〔つかわしめ〕もこのカラスである。
 ワタリガラスという和名には日本における特殊な事情がからんでいる。カムチャッカ半島から北海道に渡来するという習性はravenには珍しいものなのである。一般にワタリガラスは生息域で周年生活する留鳥。ravenを翻訳書でワタリガラスと訳すのは、ravenの習性に反した訳語になってしまう。「大鴉(レイヴン)」としたほうが妥当ではなかろうか。


ハシブトガラス 福岡・和白干潟 2001.12.31



ハシボソガラス 栃木・渡良瀬遊水池 2001.12.15



ミヤマガラス 鹿児島・出水 2000.01.08



ワタリガラス アリゾナ・化石の森 1996.10.31



ミソサザイ
石井戸のあたりに先刻から、鷦鷯(みそさざい)がしきりに飛びまわってい、澄みとおった声でさえずっているのを、この家の若い主は身じろぎもせずに眼で追っていた。
[1-1 女武芸者]p7
(季節:安永6年(1777)冬から7年の年初)

各務:初冬の井戸端で敏捷に飛びまわるミソサザイは、山地から降りてきたばかりだろう。掌中にすっぽり収まる焦茶色の手毬(約10センチ、日本最小の野鳥の一種)。よく見ると江戸小紋のような黒い斑があり、シックな感じ。ただ、この時期、さえずりはしない。チャッ、チャッとしかツィッ、ツィッといった地鳴き(非繁殖期の鳴き声)を繰りかえし、ウグイスの笹鳴き(地鳴き)にちょっと似ている。

 「鶯に啼て見せけり鷦鷯」(許六)

 わたしの散歩ルートにあたる杉並区善福寺川沿いにある大宮八幡宮で、低い植えこみのなかを動きまわるこの鳥を見ると、冬の到来を感じる。「みそさざいちっといふても日の暮る(「文化句帖」)のひそやかで、わびしい句調に通じるものがある。三月初旬には山にもどり、沢沿いの傾斜地にコケと細い小枝で巣の外装をこしらえ、雌が気に入れば、彼女が内装を受けもつのである。ピピピーチクル・ピーチクルル、ピリピリピリ、チュルチュル…ピリリ… と複雑で沢にひびきわたる声で雌を呼んだり、縄張りを主張したりする。お気に入りのソング・ポスト(渓流の岩の上や、張りだした横枝の苔むした倒木)で、のどがはり裂けるのではないか、とこちらが心配になるほどの大きく美しい声でさえずる。春から夏、細い渓流沿いの山道を歩いていて、運よくさえずるミソサザイを見かけた方は、その圧倒的な声量とその姿の愛らしさ、小ささに驚き、感動するはずである。

'02・4・26 軽井沢
 軽井沢の野鳥の森にあるひとまたぎできる細い沢。ミソサザイは、囀るときよく尾を立てますが、この個体はあまり立てない。五月下旬、三頭山(都民の森)に登って撮影した個体は一度も尾立てなかった。翌日、ふくらはぎがはれあがった。





トビ
西にひろがる浅草田圃の上を一羽の鳶(とび)が悠々と舞っているのが見えた。
[2-3 老虎]p86
(季節:安永7年(1778)晩秋)

どんよりと曇った空に鳶(とび)が一羽、ゆっくりと輪を描(えが)いている。
[7-2 徳どん、逃げろ]p81
(季節:天明元年(1781)晩秋)

ほかに……
[5−3 手裏剣お秀]p129 季節:安永9年(1780)春
[6−7 道場破り]p310 季節:天明元(1781)年春
[12−2 密通浪人]p77 季節:天明2年(1782)晩秋
[黒白]下p93,307,329

各務:現代の東京ではトビが上空を舞う姿は見られなくなった。猛々しいタカの仲間とは異なり、ハゲタカ類のように死肉やゴミをたべるので、同じ生き方のハシブトガラスから追い出されたのだろう。
 神武天皇の長髄彦(ながすねひこ)征伐のさい、弓に止ったのが金色の鵄(とび)だったという伝説がある。この故事から明治中期に武勲いちじるしい軍人に授けられる金鵄勲章(きんしくんしょう)が制定された。
鳶に油揚げをさらわれる、とか鳶が鷹を生むという諺があるが、雑食性の鳶はほんとうに油揚げを食べる。英語ではkite。のびのびと舞うという意味の動詞にもなり、また凧を揚げるや世論をさぐることも意味する。
 雄は60センチ、雌は70センチ(タカの仲間は雌のほうが大きい)、翼開帳は約 160センチ。かぎ状のくちばしで立派な姿をしているが、性格はおだやか。田畑でハシボソカラスにかこまれて尾を突っつかれても無抵抗。はがゆい思いをした記憶を持つ方もいらっしゃるはず。リヤ王が「いまいましい鳶野郎、きさまは嘘つきだ!」と相手をののしるのにトビが使われているが、がいして英国文芸では死肉を食らうものとして印象はよくない。もっともこのトビはアカトビ Red Kite で、トビ Black Kite はイギリスにはいない。
 ともあれ、トビの帆翔を眺めていると、とがった心も、しばしのびやかになっていくのが感じられる。

'01・12・31 志賀島
 狙っていたタコブネ(貝の一種)は拾えなかった。海上に浮かぶアビ類をさがしているとき、頭上で二十羽ほどのトビが飛んでいた。
'01・2 風連湖
 氷った湖での刺し網漁のおこぼれを狙って、湖畔の樹々で数十羽のトビがじっと待っていた。冬のトビたちは集団で眠る習性があり、その光景はこの写真と似ている。







クイナ
どこかで、しきりに水鶏(くいな)が鳴いている。雨はあがりきって、夕闇もこころなしか明るい。おはるは、さも満足そうに、小兵衛の体を洗いつづけている。
[5-5 雨避け小兵衛]p246
(季節:安永6年(1777)冬から7年の年初)

どこかで、水鶏(くいな)が鳴いている。気温が、急に上ってきたようだ。
[7-5 大江戸ゆばり組]p234

各務:江戸時代、水路沿いのアシ原で、初夏、コンコンと鳴くヒクイナは現代の東京では幻となった(埼玉にはいる)。九州以南では冬でもヒクイナが見られる。叩くクイナとはヒクイナを指し、冬、葛西臨海公園にいるのは写真のクイナで「クィッ、クィッ」と鳴く。あいにくヒクイナ(リュウキュウヒクイナ)の写真は遠くてボケている。






ヒクイナ 水鶏(亜種リュウキュウヒクイナ)  沖縄県金武 2001.07
水田地帯でタマシギを見ていたら里芋畑から、ヒクイナが現れた。
7,800メートルと遠く、あわてていたため、ピンボケ。




ムクドリ(椋鳥)
曇り空に夕日もさえぎられ、どこかの木立で椋鳥(むくどり)がけたたましく鳴いている。
[8―6 秋の炬燵]p300 新装版p330



杉並区和田堀公園 約24cm。2003.01
         田畑、町の公園などで虫や木の実などを食べる。



ムクドリのねぐら入り 宮城県伊豆沼 1995.10
           夕方、集団でねぐらをとるために、次第に集まってきて飛びまわる。
           しまいには5,000羽ぐらいになった。


各務:寺島村の畑道を、子どもを背負ったおはるが歩いている――その子を狙う殺し屋をおびき出す作戦だった。椋鳥の群れがキュル、キュル……と騒ぎ立てる声がひびいている。
西尾:天明元年(1781)の紅葉どき。小兵衛63歳、おはる23歳。
各務:東京の街では年中見られる留鳥。秋口になると群れが大きくなる。夕方には数百羽が電線などに密集する。そのあと、竹藪にそろって飛びこむ。いわゆる集団ねぐらである。10年ほど前まで、善福寺川周辺で見られた光景だが、竹藪はアパートに変わってしまった。かつて東京のムクドリは漂鳥だったがメジロなどと同様、留鳥になった。夏、若鳥たちが芝生に集まる光景をよく目にする。体長は25cmくらい。茶色い体色。嘴と足があざやかなオレンジ。江戸時代、冬に地方から出稼ぎに来る人たちは数万人いたという。武家の中間、商家の下男・下女など下働きの職種は多岐にわたった。農作業が終わる11月から翌年2月までで稼ぐのである。近国の訛り、また多勢で来て一斉に帰国するので、江戸の人は彼らを椋鳥にたとえた。

椋鳥と人に呼ばるる寒さ哉 蕪村


チドリ(千鳥)
風もなく、あたたかに晴れわたった冬の午後である。石の上に腰をおろした秋山小兵衛は、まるで、鋏(はさみ)で紙を切るように薪を割っていた。(略)
大川に沿った岸辺の枯蘆の上を、千鳥の群れが飛び去って行くのが見えた。

(1―1 女武芸者)p50 新装版p53


イソシギ  愛知県豊橋市 2002.11 約20cm。留鳥。
      ピューイ、ピ、ピ、ピ…と鳴く。夕暮れによく鳴く。1羽でいることが多い。



イカルチドリ 東京都調布市 2003.01 約21cm。留鳥。
       ピュー、ピュー。



コチドリ(若) 茨城県河内町。2002.09約16cm。イカルチドリとそっくりだが小さい。
        目のふちか金色。日本
        繁殖するが、冬、東京では見られない。



ハマシギ(冬羽) 千葉県・谷津干潟 2003.01夏をのぞいて干潟・河口などで群れている。
         ビーッと鳴く。



ハマシギの飛翔 千葉県・谷津干潟 1995/05 一糸乱れぬ群れの飛行ぶりは圧巻。


チロチドリ 千葉県・谷津干潟 2002.12約17cm。
      ピルッ、ピルッ。切れている首の輪。東京近辺では留鳥。



「南品川鮫洲海岸」(広重『名所江戸百景』)
          帰雁とノリヒビの上を飛ぶ千鳥(ハマシギ?)の群れ。



「鐘が潭 丹頂の池」(長谷川雪旦・画『江戸名所図会』)


「行徳鵆(ちどり)」(長谷川雪旦・画『江戸名所図会』)


トウネン(夏羽) 千葉県・谷津干潟 19982.09約15cm。
         ピョ、プリッ、チュリッなどと鳴き、東京近辺では干潟で越冬する個体
         もいる。



ミユビシギ 茨城県波崎 2002.02約19cm。
      チュッ、チュッ。キュ、キュ…などと鳴く。浜辺で群れていることが多い。
      夏羽は遠目ではトウネンに似ているが、冬羽は白っぽくなり肩羽のあたりが
      黒い。


各務:還暦をひかえて秋山小兵衛が隠棲したのは鐘ヶ渕。わら屋根の小さな百姓家で裏は松林。庭先には大川(隅田川)の流れを引きこんだ小さな舟着場がある。
西尾:舞台は安永6年(1777)年の暮れ。小兵衛は翌年が還暦の59歳。2年前からいっしょに暮らしているおはるは19歳。
各務:鐘ヶ渕は、隅田川、荒川、綾瀬川の三俣地点。ここで蛇行した荒川は、その下流から隅田川と名が変り、そこへ綾瀬川が合流する。
西尾:いまも合流している綾瀬川は旧綾瀬川と呼ばれて、『剣客商売』のころよりもうんと短くなった
各務:広重の『名所江戸百景』の「綾瀬川 鐘ヶ渕」は合歓(ねむ)の花の名所だが、秋には水月を愛でる地としても知られていた。つまり流れのゆるやかな湾処(わんど)になっていたのである。

  淡海の海夕浪千鳥汝が鳴けば心もしのに古思ほゆ   柿本人磨呂
  思いかね妹がりゆけば冬の夜の川風寒くちどり鳴くなり   紀貫之

千鳥のもの悲しげで透明な鳴き声は人恋しさをつのらせる。姿よりも声の鳥だったといえる。芭蕉の句にも闇と鳴き声を対比させた、

  星崎の闇を見よとや啼く千鳥

があるが、やがて千鳥の姿が現れるようになる。

  あら磯やはしり馴れたる友鵆(ちどり) 去来
  打ちよする浪や千鳥の横歩き 蕪村

江戸時代、先人の美意識をなぞって楽しむ文化が定着する。江戸後期の『東都歳時記』には、深川洲崎、隅田川沿いの今戸、橋場あたりが千鳥の名所となっていた。佃島、品川も有名で、『江戸名所図会』では行徳の海を飛ぶ千鳥と風流人たちが描かれている。行徳は江戸小網町から3里8丁の航路であった。
江戸時代には、千鳥は冬のものになっていた。ただし当時の冬は旧暦の10〜12月。現代でも千鳥は冬の季語とされているが、多くのシギ、チドリは、春秋の渡りの季節に干潟・田畑などを通過しており、冬に限定するのは正確とはいえない。
江戸の冬、風流人たちが愛したチドリは、かならずしもチドリ目チドリ科の限定されていたわけではない。比較的小さいシギも千鳥とみにしていたはずである。チドリは3本指で多くはややずんぐりした体形の水辺の鳥。コチドリ、シロチドリなどが相当する。シギは後趾という小さな足がかかと部分にある。

  無数の友だちが智恵子のなをよぶ。
  ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
  砂に小さな趾(あし)あとをつけて
  千鳥が智恵子に寄って来る。

  高村光太郎『千鳥と遊ぶ智恵子』

この千鳥は、渚で波と 追いかけっこしているミユビシギだろう。このシギは例外的に3本指。九十九里浜の渚で、彼らはハマトビムシを食べている。フロリダのサニベル島の渚でも貝殻拾いの人たちの足元でコオバシギの群れがこの虫をあさっていた。
江戸の冬で見られた千鳥は、海辺ではシロチドリ、ミュビシギ、ハマシギが代表格。

  浦風や巴をくずすむら鵆(ちどり) 曽良

一糸乱れぬ方向転換をするハマシギの群れの生態をよくとらえている。季語では浜千鳥、浦千鳥などがこれら。川千鳥と呼び親しまれたのは、河川、河原などにいるイカルチドリやシロチドリ。シロチドリは浜辺などにもいる。コチドリはもっと西の地方で越冬するから、冬の江戸では数が減る。イカルチドリは冬には小さな群れをつくって生活している。秋山小兵衛が目撃したのはイカルチドリの群れだったかもしれない。

タカ(鷹)
この年、安永八年(1779)で十八歳になった家基は、死の三日前の二十一日に新井のあたりへ鷹狩(たかが)りに出かけたが、急に不快をもよおしたので、すぐさま江戸城へ帰り、手当をつくした。
(3―3 陽炎の男)p79 新装p86

雉子の宮は、山神(やまのかみ)の祠(ほこら)だったものを、慶長のころに徳川将軍が放鷹(ほうよう)に来たとき、その祠の中へ雉子が一羽、飛び入ったのを見て、
「以後は、雉子の宮と名づけよ」
と、いったためその名が残っている。

(5―3 手裏剣お秀)p135 新装p149

吉宗は将軍であったとき、鷹狩(たかが)りに出て、気に入った百姓女などにも手をつけたといわれている。
(13―4 敵)p227 新装p248

他に『黒白』[下]p144 新装p157
       〃 p147 新装p160
       〃 p199 新装p217



オオタカ  調布市 2003.01 。約50cm。
      ブッシュノ陰に隠れ、ハシブトガラスの目をのがれながら、コサギを狙ってい
      た。距離130m。望遠鏡にデジタルカメラを押しつけて撮影。みごとにブレてい
      る。



ハヤブサ 鹿児島県出水市。2001.01.03。約45cm。


イヌワシ 「深川洲崎十万坪(『名所江戸百景』広重)
      筑波山を背景にした江戸湾埋立地の荒涼とした冬景色。近景のイヌワシは深山の
      タカ(タカもワシも同じ仲間)で、江戸の空に現れる可能性は低い。



チョウゲンボウ  茨城県渡良瀬遊水池。2002.11.22。約35cm。
         崖に営巣する小型のタカ。揚水機場によくとまっていた。



ツミ 三鷹市 2003.06 。約30cm。
   雄がスズメをつかまえてきた。



ノリス 山梨県八ヶ岳高原。2001.11.28。約55cm。
    低くゆっくり飛びながらネズミを探している。


各務:『剣客商売』に登場するタカはすべて鷹狩り。江戸と近郊には、将軍家が鷹狩りをする鷹場があり、許可なく鳥を捕らえたり、追い払ったりすることは禁じられており、その範囲はご府内から五里四方(実質的には十里四方)であった。
西尾:家基が行った新井はいまの大田区大森あたり。
各務:鷹狩りとは、タカ(オオタカ、ハイタカ、ハヤブサなど)を飼い馴らし、野鳥をとらえさせるゲーム。日本には4世紀半ばに百済(くだら)から伝えられたといわれている。
ツルや白鳥は将軍家しか捕らえることが出来ず、とくにツルは朝廷への献上品で、将軍家の権威の象徴ともなっていた。
鷹狩りの獲物はヒバリ、ウズラなどの小鳥もあるが、多くは水鳥だった――タンチョウ、マナヅルなどツル、コウノトリ、トキ、クイナ、バン、マガン、ハクガン、ソシクイ、カモ類。
水鳥の猟場は現在の隅田川上流、荒川、江戸川の流域。江戸時代には湿地帯で水鳥の生息地として絶好の環境にあり、水田、田畑はその餌場であった。


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