SAGAMI OHSAWA FOOT BALL CLUB  

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1971年、大沢中学校サッカー部は神奈川県中学校大会で準優勝を果たしました・・・・。卒業後1年が経過し、それぞれの進路でサッカーを続ける者がほとんどでしたが、そんな中、気のあったメンバーでチームを作り相模原サッカー協会に登録し3部リーグに参加することになりました。そして恩師を監督にしたチームは、すでに卒業していた先輩数人のほか、準優勝時ほとんどのメンバーが集まっていました。 

こうして1973年、相模原市サッカー協会の登録団体として大沢フットボールクラブ(大沢FC)が誕生しました(同時に大沢スポーツ少年団=現在の大沢FCの少年チームも同時に産声をあげました)。

高校でサッカーを続ける者は、二足の草鞋を履き、高校のサッカー部のスケジュールをこなしながら、市3部リーグの試合を戦い、この年、Bグループで優勝し、2部リーグの昇格を決めました。

そして翌年1974年は2部リーグ準優勝し、1部リーグ昇格を果たしました。1部リーグでは、3位、準優勝、優勝とチーム創設5年にして市の頂点を極めたわけです。最初の2年間は、午前中に市リーグを消化し、午後にそれぞれ高校での試合や練習というパターンは日常のことであり、よくぞ頑張ったものと選手諸君に拍手を送りたいと今でも思っています。なぜなら、このことが大沢FCの礎を強固のものにし、現在に繋がる大きな力となったと考えているからです。

1977年の市1部リーグ優勝を期に、今度は大沢FC自身が二足の草鞋を履くことになります。それは神奈川県リーグへの参加です。

井の中の蛙になることなく、自分たちの力を試すとともに、告ぐに続くもの達に大きな目標を持ってもらい、チームの活性化と来るべき世代交代をうまく進めるためにも必要なことと判断したからこそ、この県リーグ参加を決断しました。

幸いにも、1978年には3部地域リーグで優勝、2部昇格トーナメントで優勝、翌年には2部リーグ優勝、なんと3年で県1部という驚異的なスピードで昇格を決めました。翌年の1979年には神奈川県代表として全国社会人関東大会予選に出場し、あの横浜フリューゲルスの前身であった横浜トライスターに決勝で敗れ惜しくも全国大会出場はなりませんでしたが、着実に力をつけていきました(当時代表兼監督を任されていた私は、全国大会の開催地である鳥取に20名の選手を連れて行く場合、どれくらい経費がかかるのかを真剣に心配したものでした)。県1部リーグではなかなか常時上位進出を果たすことができていないのですが、197年から23年間、県及び市リーグに参加し、脈々と大沢FCのサッカーを受け継いで来ています。わが母校の校歌に「集まり通じて人はかわれど、仰ぎは同じ理想の光」という歌詞があります。サッカーを通じて様々な出会いがあり、その時々に、それぞれが果たす役割を果たすことによって30年の歳月を過ごしてまいりましたが、その根底には、サッカーを愛する気持ちがあり、それが支えになっていると思います。

大沢フットボールクラブはチームに参加するみんなのものであり、それぞれができる何らかの力をチームに与えてください。

ワールドカップ日韓共催の記念すべき年、30周年を迎える大沢フットボールクラブの扉をたたいてみませんか。新しい世界が見えてくるかもしれません。一つのボールを中心に人の和(輪)が広がること、そして永く永く続くことを期待しております。

大沢フットボールクラブ  
代表 松本 有二