伝 記 年 譜
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1936年(昭和11年) |
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4 月29日 東京市麻布区六本木町一丁目一番地で出生。(「自筆年譜A」に「父重康、母田鶴子の長男として東京(母方の祖父の家 麻布区六本木町一番地)に生まれる。東京帝室博物館勤務の父は折から奈良に出張中、宿で「タロウ、ウマル」の電報を受け取ったという。以後、長男は両親から弟妹を与えられることなく「ひとりっ子」として成長する。」とある。)
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1939年(昭和14年) |
3歳 |
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12月 ジョニー・ワイズミュラー主演の『ターザンの猛襲』を帝劇で見る。
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1940年(昭和15年) |
4歳 |
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春、世田谷区羽根木町一六六二番地に転居。近くの中原幼稚園に通う。
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1941年(昭和16年) |
5歳 |
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4 月 四谷の私立雙葉幼稚園に入園。
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1943年(昭和18年) |
7歳 |
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4 月 四谷の学習院初等科に入学。
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1944年(昭和19年) |
8歳 |
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10月 母方の祖父の出身地である長野県上伊那郡小野村字上町に疎開。
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1945年(昭和20年) |
9歳 |
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4 月 小野村国民学校に転校。この間、六本木の自宅は焼失、羽根木の家は不発の焼夷弾を被り住居不能。 10月 親もとを離れ、静岡県沼津市桃郷の学習院沼津游泳場に設けられた仮設校舎に入寮、小学校三年次の授業を受ける。
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1946年(昭和21年) |
10歳 |
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4 月 羽根木の家を改装して戻り、学習院初等科での四年次の授業を受け始める。
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1949年(昭和24年) |
13歳 |
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4 月 戸山の学習院中等科に進学。陸上競技部と演劇部に入部。
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1952年(昭和27年) |
16歳 |
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4 月 目白の学習院高等科に進学。陸上競技部、演劇部に加えて美術部に入部。講師の石川滋彦画伯の指導を受け、風景画を描きまくる。
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1953年(昭和28年) |
17歳 |
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4
月 二年次よりフランス語を第二外国語として選択、管野昭正講師ほかから初級の手ほどきを受ける。 10月18日〜24日 日仏文化協定記念行事の一つとして、フランス映画祭が開催される。(「自筆年譜@」に「戦後初のフランス映画祭。ジェラール・フィリップと同じエレベーターに乗りあわせる。同じエレベーターに、東和商事社長とその令嬢 (川喜多和子)が乗っていて、胸もとに『陽気なドンカミロ』の翻訳をかかえる令嬢の横顔に強く惹かれる。」とある。ちなみに18日に第一生命ホールで『夜ごとの美女』が上映されている。) |
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1954年(昭和29年) |
18歳 |
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10月19日 試験のあいだをぬって、封切りの日に『大砂塵』(この日から25日まで公開)を見に駆けつける。試験後さらにもう一度見に行く。 |
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1955年(昭和30年) |
19歳 |
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4 月 東大の入試に失敗し、一年間、研数学館の数学コースに通う。 |
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1956年(昭和31年) |
20歳 |
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1 月 3日 NHK第二(ラジオ)で座談会「昭和三十年外国映画ベストテン」が放送される。(「マリ・クレール日本版」(第7巻第3号)の「ヴィスコンティの映画は豪華で、華麗で、モダンで、そのくせとても残酷で……、映画の中の最高の贅沢だ!」に「『夏の嵐』が封切られた年に、NHKの作品選定委員という人たちが、ベスト・テンをラジオで選んだんですよ。【中略】飯島(正)さんのベスト・ワンは、『夏の嵐』なんです。ところが当時はヴィスコンティなんてあまり有名ではなかったので、ほかの誰も入れてないんですよ。【中略】それでどんどん、どんどん、順位が落ちてって、ついに十位以下に落ちちゃった。それ以後映画評論家は信用しないと腹を立てたことがあるんです。」とある。 4 月 駒場の東大教養学部文科二類(現在の三類)に入学。各科各類共通の第二外国語既修クラスで二年間を過ごす。フランス語は山田爵。(「自筆年譜@」に「コンパの席で、山田先生が「てめえら、フローベールの感情教育を知らねえだろう。感情教育ってのは終らねえんだ」と威勢よくタンカを切られ、その一言が将来を決定する。」とある。) 11月 5日 第二回銀杏並木賞の詮衡結果が「学園」編集部より発表され、『エドウワール・デユ・コペエ氏の行動の記録』が第三席に選ばれる。
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1957年(昭和32年) |
21歳 |
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11月24日 学習院大学フランス会による原語劇『アンチゴーヌ』にクレオン役で客演。会場は国鉄労働会館。
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1958年(昭和33年) |
22歳 |
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4 月 本郷の東大文学部フランス文学科に進学。 12月13日 アンドレ・マルローが東京日仏学院を来訪。
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1959年(昭和34年) |
23歳 |
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5 月 9日 仏文の四回生を中心とする、フランス演劇研究会による東大で初めてのフランス原語劇『人間ぎらい』を上演。演出(松浦伶と共同)とフィラント役での出演(主役アルセストを保苅瑞穂が演じる)。会場は九段・千代田公会堂。
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1960年(昭和35年) |
24歳 |
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4 月 東大大学院人文科学研究科フランス語フランス文学研究科修士課程に進学。 5 月 世界デザイン会議(東京)に出席のため来日したソール・バスの通訳として付き合う。 春、『勝手にしやがれ』をのちに同僚となる先輩の加藤晴久とニュー東宝(3月26日封切、4月15日まで公開)で見てうちのめされる。 6 月15日 全学連主流派が安保改定阻止統一行動で国会突入を図り警官隊と衝突。(「自筆年譜@」に「アルバイト先の田中千禾夫氏宅の玄関さきで、田中澄江氏から、女子学生が一人死にましたと聞き、それが樺美智子であると直観。とって返して溜池のあたりをうろつく。助手清水徹、頭を機動隊に殴打され仏文研究室は沸きたつ。興奮の日々が続く。」とある。)
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1961年(昭和36年) |
25歳 |
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7 月29日 大映の日仏合作映画『涙なきフランス人』のシナリオ・ハンティングのためアラン・ロブ=グリエが来日(8月15日離日)。滞在中の2週間、夫妻の通訳として過ごす(監督に市川崑が予定され、その後日本側シナリオには中村真一郎の名も挙がっていたが、企画は実現せず)。
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1962年(昭和37年) |
26歳 |
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4 月 東大大学院博士課程に進学。 6 月 東大新聞に映画評が掲載される。(「自筆年譜A」に「同級の天沢退二郎らと語らい、東大新聞に匿名で映画評を書き始める。」とある。『ハスラー』を絶賛したこの映画評の末尾には(鬼蓮・映画批評同人)と記名されており、ほかの号には渡り鳥(渡辺武信)、天兵(天沢退二郎)といった映画批評同人の映画評も掲載されている。) 9
月 フランス政府給費留学生としてフランスに渡る。フランス郵船ヴェトナム号、同室は、のちに立教大学教授となる稲生永。同船上で川田順造と知り合い、四十四日間の旅の後、マルセイユに上陸。 10月 パリ十四区ジュルダン大通り七のC パリ国際大学都市日本館に入寮。パリ大学文学人文学部博士課程に登録、ロベール・リカット教授の指導を仰ぐ。 |
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1963年(昭和38年) |
27歳 |
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春、ボン大学で日本美術史を教えていた父、母を伴ってパリを訪れる。 夏、スカンジナビア三国、南仏に遊ぶ。 この頃、小津安二郎を愛する女性シャンタルと知り合い親交を深める。 12月14日 「ル・モンド」の記事により小津安二郎の死(12日午後0時43分、頸部悪性腫瘍のため、東京・文京区東京医科歯科大で死去。享年60歳)を知る。 |
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1964年(昭和39年) |
28歳 |
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イースターの休暇をローマ、フィレンツェで過ごす。 冬、小学校時代からのクラスメイトたちとグリンデルヴェルドでスキー。 |
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1965年(昭和40年) |
29歳 |
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この年、パリで天沢退二郎の紹介によって山田宏一と相識る。 11月
5日 封切りの日に『気狂いピエロ』を見に駆けつける。 11月 パリ大学に博士論文『「ボヴァリー夫人」を通してみたフローベールの心理の方法』を提出、審査に合格ののち直ちに帰国(パリ第4大学文学博士)。 12月 1日 東京に戻る。 |
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1966年(昭和41年) |
30歳 |
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3 月 東大大学院博士課程を中退。 4 月 東大文学部助手、学習院大学文学部フランス文学科非常勤講師に就任。 4 月28日 ジャン=リュック・ゴダールが日本のシネアストに会うため(およびロケで滞日中のマリナ・ヴラディーと次回作の打合せのため)不意の来日(5月8日離日)、何日か通訳としてつきあう。その折、ユニフランス・フィルムに勤務していた柴田駿と相識る。 30日 ゴダールの通訳として「映画芸術」誌主催の座談会に参加。 5 月 8日 東京日仏学院長モーリス・パンゲの招きに応じてロラン・バルトが初来日(28日離日)。 10日 東京大学でロラン・バルトの講演「現代における文芸批評の諸問題」の通訳を行う。 20日、23日〜27日 東京日仏学院で行われた「言語学と文学」と題されたセミナーを聴講。 7 月 2日 天沢退二郎の『時間錯誤』の出版記念会が田町の藤田治の家であり、金井美恵子と相識る。(「現代詩手帖」(第30巻第9号)の金井美恵子の「ささやかな感情教育」に「まだ二十九歳の青年だった天沢さんに、フランスから帰って来たばかりの、とても身体の大きな同級生に紹介された。(「凶区」の)同人たちはゴダールとアントニオーニとトリュフォーの話しをし、大きくて落着き払った人は、日本映画では誰が好きか、という同人の質問に、渋谷實なんかいいですね、と答え、私は、あの「もず」や「現代人」や「本日休診」の? とびっくりして訊ね、大きい人はたいそう重々しく、そうです、と答えた。」とある。) 7 月 シネクラブ研究会が発足。後に会長の川喜多和子と知り合い、その上映資料などの翻訳を手伝う。 12月 マリー=シャンタル・ヴァン・メルケベークと東京で結婚。
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1967年(昭和42年) |
31歳 |
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12月 7日 長男重臣誕生。 |
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1968年(昭和43年) |
32歳 |
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2 月 東大文学部助手を辞職。 4 月 立教大学一般教育部講師に就任、文学部フランス文学科へも出講。父、京都大学定年退職し東海大学に新たな職を得て母とともに帰京。それにともない、妻と長男とともに中野区東中野五の二三 小滝台マンションに転居。 5 月頃 岩崎力により紹介された安原顯から雑誌「パイデイア」に翻訳を依頼される。 6 月12日 シネクラブ研究会の企画した鈴木清順特集の上映会が日活の貸出し拒否にあい、解雇事件に発展、抗議デモの先頭に立つ。大島渚、篠田正浩、藤田繁矢(敏八)、金坂健二、若松孝二、足立正生らの映画作家グループ、國學院大映研の学生らと共に事務局のある東光ビルから帝国ホテルまでの日比谷映画街を行進した。 秋、柴田駿の仲介により波多野哲朗、手島修三、山根貞男が、映画批評誌「シネマ69」創刊の話を持って訪れ、アラン・レネ特集のための原稿執筆を依頼される。それに応じて書いた、「鏡を恐れるナルシス」によって、映画批評執筆活動が始まる。 |
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1969年(昭和44年) |
33歳 |
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1 月頃 「シネマ69」編集部の波多野哲朗、手島修三、山根貞男と上野昂志とで鈴木清順に3回に分けて計8時間を超えるインタビューを行なう。 4 月 立教大学一般教育部助教授に昇進。 4 月から翌年1月にかけて、立教大学は文学部フランス文学科人事問題に端を発した学園紛争を体験する。(「自筆年譜@」に「何度もくり返し行なわれた徹夜の団体交渉の折に学生諸君と交したやりとりの言葉や言いまわしの数かずは、直接的、間接的にその後の文章の文体や修辞に影を落すことになる。紛争時における言語的実践がなければ、その後の批評活動はなかったと思われるほど、個人的には深いインパクトを紛争から受けとめているのだが、そのことはあまり指摘されていない。」とあり、また、辻邦生は「海燕」(第11巻第9号)の「ある思い出に」の中で「学生たちとの団交の席で、教師たちがつぎつぎと野次り倒されたが、蓮實重彦だけは、ほとんどポーカーフェースで、静かに、学生たちと討論した。私は蓮實の説得術を見て、いままでとはまったく異なるパラダイムで物を読み出す方法があるのに驚嘆した。もちろん学生たちは誰一人として蓮實重彦に太刀打できず、団交はいつも学生たちの空振りに終った。」と回想している。) |
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1970年(昭和45年) |
34歳 |
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3 月 立教大学一般教育部助教授を退職。 4 月 東大教養学部講師に就任。この年より立教大学で映画表現論を開講。 |
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1971年(昭和46年) |
35歳 |
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5 月 家を新築してもとの住所(世田谷区羽根木町一の二九の七)に戻る。 9 月30日 立教大学非常勤講師辞職。 10月 学習院大学文学部フランス文学科非常勤講師辞職。 10月19日 パリ着。パリ第7大学に日本語講師として着任。家族とともに一年間をフランスで過ごす。 11月16日 パリ訪問中の中村光夫とともにルーアンに行き、市立図書館でフローベールの原稿を読む。 11月24日 ミシェル・フーコーのコレージュ・ド・フランスにおける1971-1972年度の最初の講義。以後毎週木曜に行われた講義「刑罰の理論と制度」に出席。 |
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1972年(昭和47年) |
36歳 |
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9 月27日 パリにてミシェル・フーコーにインタビュー。 |
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1973年(昭和48年) |
37歳 |
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4 月 1日 立教大学文学部、学習院大学文学部フランス文学科非常勤講師(学習院大学には妻マリー=シャンタルと共)に就任。 9 月 1日 ジョン・フォードの訃報(8月31日、カリフォルニア州パーム・デザートの自宅で死去。享年78歳)。 |
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1974年(昭和49年) |
38歳 |
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4 月 東大教養学部助教授に昇任。 この頃、ある実現しなかった企画の準備のため山田宏一と親しくなる。(「月刊イメージフォーラム」(第2巻通巻第12号)の山田宏一へのインタビュー「映画体験のサイクルをひとつずつ閉じていく」に「蓮實さんの東大仏文科時代の級友で僕の知り合いでもある人(松浦伶)が、本屋をかねた映画館をつくろうという計画をたてて、映画雑誌を出して、その雑誌の特集と合わせて映画をやるというようなことを考えてね、それで蓮實さんに映画雑誌の編集長をやらせて、僕に映画館の館主をやらせようという話を持って来たんです。」とある。) 5 月 「言語生活」6月号(特集=フランス語に学ぶ)発行。同年2月号に掲載した論文「私の息子の受けたフランス語教育――言語の一般概念なる非一般概念をめぐって」の反響を受けてこの特集が組まれた。 6 月21日〜28日 スリジー・ラ・サルのシンポジウム「フローベールにおける意味の生成」に参加し、レイモンド・ドゥブレ=ジュネットらと親交を結ぶ。 |
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1975年(昭和50年) |
39歳 |
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4 月 黒沢清、立教大学入学。この年より東京大学で映画論ゼミを始める。(「シネマグラ」(第7号)に「宮下順子、モンキー・ビジネス、十字路といった20項目について解説(?)するのが入ゼミ試験。開講一番、「映画にできないことは何でしょう?」という蓮實氏の質問。【中略】ゼミでは『ガルシアの首』『レニー・ブルース』などが過激に論じられる。」とある。) 4 月12日 『ドラブル』ロードショー(この日から25日まで池袋劇場などで公開)。(『映画愛 監督編』(大栄出版)の黒沢清へのインタビュー「師は蓮實、めざすはハリウッド」に「まず、「この映画を見てきて下さい」っていくつか映画を挙げて。挙げる映画がとんでもない。『戦艦ポチョムキン』とか言うのかなと思ってたら、ドン・シーゲルの『ドラブル』って。「ええっ!!」と思いました。だって『ドラブル』は、まさに次の日見に行こうとしていた映画だったんです。それで次の週に、蓮實さんが「みなさん、映画で何が見えたか言ってください」って。端から当てていくんですよ。大体要領を得ない人はね、「主人公がすごく勇気がある行動をとったと思います」とか言ってしまう。するとたちまち、「勇気はどこに見えたんですか? 勇気は画面のどこにありましたか」って。「すごくキレイだった」なんて言うとね。「キレイだったっていうのは一体何を見てそう思ったんですか」「画面です」「画面というのはどこにあるんですか」「スクリーンです」「スクリーンはもともと白い布ですよね」とかすごいわけですよ。目からウロコが落ちましてね。僕もまあ最初はとまどったんですけど、そのうちもうコツを覚えちゃって。「何が見えましたか?」「扉が5回見えました」「はい、そうでしたね」って。こりゃもうすごいですよ。」とある。) 9 月27日 清水徹と対談(「エピステーメー」誌のため)。 11月 『フーコーそして/あるいはドゥルーズ』を出版。(「自筆年譜@」に「まだ無名の浅田彰より多くの誤訳を指摘された。」とあり、また、「新潮」(第34巻第7号)の浅田彰と島田雅彦の対談「悦ばしき回帰」(『天使が通る』(新潮社)所収)に「(以下、浅田の発言)学生時代、蓮實重彦によるドゥルーズ論の訳が出たとき、数十ヵ所におよぶ訂正リストを送りつけるという、信じ難く悪趣味な行為に及んだことまであって、【後略】」とある。) |
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1976年(昭和51年) |
40歳 |
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4 月 万田邦敏、周防正行、立教大学入学。 12月16日 大岡昇平にインタビュー(「日本読書新聞」の新春インタビューのため)。 |
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1977年(昭和52年) |
41歳 |
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2 月頃 三浦雅士の仲介で柄谷行人と相識り、「現代思想」誌のために最初の対談を行う。 夏、三ヵ月間家族とともにヨーロッパに滞在、フランドルの海岸の避暑地で『陷沒地帶』の着想をうる。 8 月10日 パリで鈴木啓二、松浦寿輝と鼎談(「シネマグラ」誌のため)。 10月13日 パリでミシェル・フーコーにインタビュー。(10月7日と記載された文献もある。) 12月28日 ハワード・ホークスの訃報(26日、脳卒中のため、カリフォルニア州パームスプリングスで死去。享年81歳)。
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1978年(昭和53年) |
42歳 |
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1 月11日 山田宏一と対談(「エピステーメー」誌の特集〈映画狂い〉ため)。 2 月 1日 第29回読売文学賞が発表され、『反=日本語論』が評論・伝記賞に選ばれる。 2 月14日 第29回読売文学賞の贈呈式に出席。 2 月25日 『未知との遭遇』全国拡大ロードショー。(「キネマ旬報」(第1110号)の黒沢清と周防正行の対談「われらライバルどうし」に「(以下、黒沢の発言)蓮實さんが「この映画を見てきて下さい。スピルバーグの『未知との遭遇』を、次週までに」と言うんです。次の週行きますと生徒たち一人一人に「何が見えましたか」って当てていくんですよ。で、授業の要領をわかっていない人はですね、「円盤の特撮が凄かった」なんて言うわけですね。するといきなり蓮實が「特撮というのはどこに映ってたんですか」「でもあの特撮はやっぱり凄かったですよ」「特撮か特撮でないかはどうしてわかるんですか。本当の円盤かもしれないじゃないですか」とか言って、突っ込んでいくわけですよ。「でもパンフレットに特撮って書いてありましたから」「それはパンフレットに書いてあったんでしょ。映画には映ってないはずですよね」とかですね。こういう授業なわけですよ。で、僕なんか大体要領がわかってくるとですね、「この映画、何が見えましたか」「ドアが十五回見えました」「はい、そうでしたね」とかね。ほとんどこういう問答が続くわけですよ。禅問答のような。そういうのはやっぱり強烈でしたね。映画というものをそのような角度で捉えられうるのだというね。単に面白い、つまらない、作者はこれを言いたかったのだと、そういう言い方も勿論できるんですけど、何が映っていたかっていう見方もまたできるんだなっていう。あまりにも当たり前であり、あまりにも誰も言わなかったものですから驚きましたね。」とある。) 3 月 「エピステーメー」3+4月号(全頁特集=映画狂い イマージュのアナルシーあるいは制度的知への挑発)発行。山田宏一と山根貞男とともに編集協力という名のもとに誌面を乗っ取る。 4 月20日 東大教養学部フランス語教室と教養学科フランス分科共催のミシェル・フーコーを囲む研究会〈<性>と権力〉に出席。 4 月25日 ミシェル・フーコーと吉本隆明の対談に通訳として参加(「海」誌のため)。於虎ノ門福田家。 11月 6日 金井美恵子、久美子姉妹の「話の特集」誌の連載〈マッド・ティーパーティー〉のため金井宅に招かれる。 12月16日 東京外国語大学講堂での小津映画を観る会のディスカッションに出席。上映作品は『秋刀魚の味』。 12月 「現代思想」誌に『マクシム・デュ=カンまたは凡庸な芸術家の肖像』の連載始まる(1979年1月号から1986年1月号まで)。 |
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1979年(昭和54年) |
43歳 |
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2 月14日 ジャン・ルノワールの訃報(12日夕、ロサンゼルス郊外ビバリー・ヒルズの自宅で死去。享年84歳)。 3 月 学習院大学文学部フランス文学科非常勤講師退任。 7 月 「エピステーメー」7月臨時増刊・終刊号に、『陷沒地帶』を発表。(『夏目漱石論〈福武文庫〉』の安原顯の解説「蓮實重彦的「存在」についての説話論的回想」に「この『陥没地帯』、初め「こんなものを書いてしまったんですが」と、古今東西、作者の死後に初めて「傑作」とかと呼ばれることになる小説が辿ったであろう数奇な運命を予感させつつ、しかし実にさりげなく小生に手渡されたのだが(昭和五十三年頃のことだろうか)、「天才ヤスケン」ともあろうこの私めが、【中略】、あっさりと机の中にしまい込んでしまったのだ。」とある。) 7 月 6日 山田宏一と対談(「シナリオ」誌のため)。 12月 6日 『緑色の部屋』公開に際して来日したトリュフォーに山田宏一を介して紹介され、インタビューを行う。 |
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1980年(昭和55年) |
44歳 |
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1 月 9日 中村光夫と対談(「海」誌のため)。於虎ノ門福田家。 1 月25日 磯田光一と対談(「現代詩手帖」誌のため)。 4 月18日 吉本隆明と対談(「海」誌のため)。於虎ノ門福田家。 5 月30日 大岡昇平と対談(「ユリイカ」誌のため)。 10月 6日 金井美恵子と対談(「現代詩手帖」誌の金井の連載対談のため)。 10月12日 「書店・話の特集」の十月の特集として「山田宏一・蓮実重彦が選んだ一○○冊の映画の本」が西武百貨店渋谷店B館地下1階で10月1日から30日まで行われ、この日と19日の二度、『トリュフォーそして映画』のサイン会を開く。 12月18日 山根貞男、山田宏一、かわなかのぶひろと座談会(「月刊イメージフォーラム」誌のため)。 12月22日 上野昂志、山根貞男と座談会(「現代詩手帖」誌のため)。 |
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1981年(昭和56年) |
45歳 |
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3 月31日 松田政男と対談(「別冊シティロード」誌のため)。於新宿葡萄屋。 6 月 8日 自宅にてかわなかのぶひろからインタビューを受ける(「月刊イメージフォーラム」誌のため)。 6 月20日 日本映像学会第7回大会の第1日の夕刻、大会とは別企画の〈メッツ氏を囲む会〉が早稲田大学大隈会館内の完之荘にて開かれ、司会を務める。20氏ほどの会員及び学会以外から仏文学の平岡篤頼、言語学の丸山圭三郎が参加。 6 月26日 自宅にてクリスチャン・メッツと対談(「月刊イメージフォーラム」誌のため)。 7 月30日 鈴木清順と対談(「話の特集」誌のため)。 9 月16日 『鱒』撮影のロケハンのため来日したジョセフ・ロージーにインタビュー(「海」誌のため)。於帝国ホテル。 9 月17日 アレクサンドル・トローネルにインタビュー(「月刊イメージフォーラム」誌のため)。 10月16日 日仏会館のフランス文化講座シリーズで「フランス文化における外国人たち」と題する講演を行う。 12月21日 佐々木幹郎と対談(「現代詩手帖」誌のため)。山根貞男、山田宏一、かわなかのぶひろとの座談会(「月刊イメージフォーラム」誌のため)。 |
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1982年(昭和57年) |
46歳 |
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2 月21日 『アレクサンダー大王』公開に際し来日したテオ・アンゲロプロスにインタビュー(「月刊イメージフォーラム」誌のため)。於帝国ホテル。 3 月 2日〜4日 伊豆山・桃李境にて渡邊守章と対談(エッソ石油のPR誌「エナジー対話」のため)。 4 月15日 PFF'82(ぴあ FILM FESTIVAL 1982)の〈フランソワ・トリュフォー全集〉のため来日したトリュフォーに山田宏一とインタビュー。於銀座三笠会館。 7 月15日 井上雪子(『美人哀愁』の主演女優)にインタビュー。 10月18日 ベルナルド・ベルトルッチにインタビュー(「海」誌のため)。於帝国ホテル。 10月29日 アテネ・フランセ文化センターでのダニエル・シュミット映画祭のため初来日したシュミットにインタビュー(「海」誌のため)。於日航ホテル・ロビー。 11月17日 阿川弘之宅を「海」編集部と訪ね、志賀直哉について訊く。 |
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1983年(昭和58年) |
47歳 |
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1 月23日 池袋のスタジオ200での〈映像の魔術師 ダニエル・シュミット監督集〉にて講演「シュミットにおける映画的記憶」を行う。 2 月 4日 柄谷行人、三浦雅士と座談会(カルビーのPR誌「Harvester」のため)。 2 月12日 墨田区駒形コミュニティ会館で「小津安二郎の世界」と題する講演を行う。上映作品は『麦秋』。 3 月 1日 青木保と対談(「國文學」誌のため)。 3 月 在仏日本大使館主催の第2回日本映画週間が10日から2週間、パリとヴァンドゥーブル(ナンシー)で開かれ、国際交流基金の派遣で講師として参加。パリでは、『日曜日が待ち遠しい』の早朝の試写をトリュフォーとネストール・アルメンドロスとともに見、真夜中のイングリット・カーフェンのリサイタルにシュミットと出かける。 4 月 第1回ドイツ映画祭のゲストとして来日(4月18日離日)したヴィム・ヴェンダースと川喜多和子の紹介で知り合う。その折の依頼によって筑摩書房の間宮幹彦と『東京画』の撮影を手伝う。 16日 厚田雄春による小津の撮影の再現とインタビューの撮影に立会う。 4 月27日 東京日仏学院で「70年代フランス・シネアストたち 蓮實重彦氏の選んだ5作品」と題する企画のため、作品の紹介解説を行う。第1回の上映作品は『壁戸棚と子供たち』。 5 月10日 伊丹十三と対談(「話の特集」誌のため)。於伊丹十三宅。 5 月11日 東京日仏学院での第2回。作品は『いちばんうまい歩き方』。 5 月20日 武満徹と対談(「海」誌のため)。於銀座三笠会館。 5 月25日 東京日仏学院での第3回。作品は『祭は始まれ』。 6 月 1日 東京日仏学院での第4回。作品は『頭の中に指』。 6 月15日 東京日仏学院での第5回。作品は『ペリカン』。 7 月15日 『ヘカテ』公開に際し来日したダニエル・シュミットにインタビュー(「ブルータス」誌のため)。 8 月上旬 『フレディ・ビュアッシュへの手紙』の舞台であるローザンヌで数日を過ごした後、第36回ロカルノ国際映画祭に出席、「成瀬巳喜男」特集のための2度の討議にオーディ・ボック、マックス・テシエらとともに参加。7日には『楢山節考』の野外上映に先立つ舞台挨拶に駆り出され「ロベール・ブレッソン監督の『ラルジャン』にグランプリを与えなかったカンヌ映画祭の審査員たちに天罰が下らんことを」と口走る。 10月 6日 シネ・ヴィヴァンのパンフレットのため、武満徹と『パッション』をめぐる対談。於渋谷ロアール。 10月 7日 朝日新聞の〈真相 深層〉欄に「西武百貨店が東京・六本木に十一月オープンする「シネ・ヴィヴァン六本木」の作品選定に映像作家松本俊夫氏や蓮実重彦東大助教授ら数人のブレーンが助言する、という強力な布陣を敷いた。」という誤報が掲載される。 10月 8日 シネ・ヴィヴァン六本木11月オープン記念としてスタジオ200で開催されたゴダール作品連続上映〈ゴダール・1983・東京〉にて講演を行う。当日の上映作品は『気狂いピエロ』。 10月29日 東京堂書店が文化サロン開設一周年を記念して企画した「エスパース・デポック」に講師として招かれ、「現代文化における批評の役割」という講座(以後11月5日、13日、20日の計4回)を開く。開講にあたり参加を希望する応募者には「批評について─現代の批評的書物一冊をとりあげ具体的に論ぜよ」というレポートの提出が課せられた。また、他に中上健次、別役実、沢木耕太郎、赤瀬川原平が開講。 11月12日 2月に引き続き墨田区駒形コミュニティ会館で「小津安二郎の世界」と題する講演を行う。上映作品は『東京物語』。 11月20日 多摩美術大学主催〈二十世紀文化論講座〉で講演を行う。 12月 7日 ロバート・オルドリッチの訃報(5日、腎臓病のため、ロサンゼルスの病院で死去。享年65歳)。 12月 9日 シネ・ヴィヴァンのパンフレットのため、武満徹と『コヤニスカッティ』をめぐる対談。於渋谷ロアール。
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1984年(昭和59年) |
48歳 |
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1 月27日 シネ・ヴィヴァンのパンフレットのため、武満徹と『ヴァーリャ!』をめぐる対談。於渋谷ロアール。 2 月 3日 リノ・ミチケ、マルコ・ミュレールがペサロ映画祭の日本映画特集への協力依頼のため来訪。 3 月 1日 シネ・ヴィヴァンのパンフレットのため、武満徹と『ノスタルジア』をめぐる対談。於渋谷ロアール。 4 月 青山真治、立教大学入学。(「はすみ庵日記B」の4月16日付けに「立教、映画表現論第一回授業。無知に徹しながら明るいのが救いという新たな映画的野蛮人を迎えて当惑を新たにする。」とある。) 4 月28日より土曜日(以後5月4日、19日、26日)に四週連続講座「エスパース・デポック」を前年に引き続き開講。会場は神田・東京堂書店。「マス・カルチャー@V泳」と題し講演。 5 月10日 午前、アラン・ロブ=グリエと対談(讀賣新聞のため)、於京王プラザホテル。午後、東映化工試写室で周防正行の処女作『変態家族・兄貴の嫁さん』の初号を見る。(『Shall we ダンス? 周防正行の世界』(ワイズ出版)の周防正行へのインタビュー「「できる!」と思うことが僕の映画作りの第1歩なんです。」に「 1本監督をしたので初号の時に良かったらご覧になってください、とハガキを出したんですよ。【中略】そうしたら本当に来て下さって。僕は前の席に座って、蓮實さんは後ろのほうで美術の種田陽平さんの隣に座られたんですけどね。上映が終わったら蓮實さんがすぐ帰っちゃったんですよ。そうか、駄目だったのかな……って思ってたら、「周防さん、蓮實さん笑ってましたよ、喜んでましたよ」って種田さんが教えてくれて。僕はそれだけでも本当に嬉しかったんです。そうしたら何の前触れもなく『話の特集』で大絶賛でしょ。もうこの映画はこれで十分だと思いましたよ。というのは、この年に蓮實さんが小津安二郎論を書いた本を出しているんですね。で、端的に言えば、僕の映画は蓮實さんの小津安二郎論に対する論文だったと思うんです。結果としては蓮實教室の卒論だったわけです。それで『話の特集』で書いてくれた評価がAだったんですね(笑)。やっと本当の意味で卒業したって感じでした。」とある。) 5 月12日 シネ・ヴィヴァンのパンフレットのため、武満徹と『カルメンという名の女』をめぐる対談。於西武百貨店渋谷店。 5 月17日 アラン・ロブ=グリエにインタビュー(「マリ・クレール」誌のため)。於京王プラザホテル。 夏、家族とヨーロッパで過ごす(7月12日〜9月4日)。 8 月10日〜19日 第37回ロカルノ国際映画祭に参加。 8 月20日 ダニエル・シュミット、ジュリエット・ベルトらとルガノにダグラス・サークを訪ねる。 9 月 5日 シネ・ヴィヴァンのパンフレットのため、武満徹と『特別な一日』をめぐる対談。於池袋ビストロ・ド・パリ。 9 月20日 東宝試写室で『お葬式』を見る。(「映画芸術」(第48巻第1号)の蓮實重彦へのインタビュー「蓮實重彦97年の映画を語る 『身も心も』は良質のプログラムピクチャーだ」に「試写室の出口に伊丹さんが来ていて「どうですか」って言うから、正直に「最低です」と言って別れました。たぶん、それが彼と言葉を交わした最後だと思う。」とある。) 10月11日 厚田雄春と三宅邦子にインタビュー。 11月 5日 早稲田祭にて浅田彰と対談「学問のススメ」を行う。 11月 9日 厚田雄春、レナート・ベルタの対談の通訳を務める。夕食後にベルタにインタビュー。 11月15日 淀川長治、山田宏一との時間無制限大座談会。於銀座三笠会館。 11月28日 シネ・ヴィヴァンのパンフレットのため、武満徹と『ラ・パロマ』をめぐる対談。於新宿中村屋。(「はすみ庵日記O」では12月1日と記載されている。) 12月 6日 山田宏一と対談(「ユリイカ」誌の〈トリュフォー特集〉のため)。 12月 9日 シアターゼロ主催〈監督の味シリーズ3・周防正行の味〉にて講演と周防正行との対談。会場は法政大学学生会館大ホール。 12月29日 シネ・ヴィヴァンのパンフレットのため、武満徹と『ミツバチのささやき』をめぐる対談。於渋谷ロアール。
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1985年(昭和60年) |
49歳 |
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1 月17日 来日中のビクトル・エリセに赤坂プリンスホテルでインタビュー、親しくなる。 3 月15日 第15回高見順賞の贈呈式が赤坂プリンスホテルであり、『〈地獄〉にて』により受賞した天沢退二郎を日本一の詩人とスピーチする。 4 月 8日〜9日 中央公論社の勝田量之より江藤淳に紹介され、東京ステーションホテルにて『オールド・ファッション』のもととなる対談を行う。 4 月27日 多摩美術大学主催〈二十世紀文化論講座〉で講演を行う。 5 月 8日 アテネ・フランセ文化センターの特集上映〈ロードムービー・放浪三昧の映画〉にて梅本洋一とオープニング対談を行う。当日の上映作品は『さすらい』『東京流れ者』。 5 月30日 〈山中貞雄まつり〉にて講演を行う。会場はアテネ・フランセ文化センター。 6 月 5日 アルド・タッソーネ、マックス・テシエと『乱』と黒澤明をめぐる討論(「リュミエール」誌のため)。於渋谷清香園。 6 月 6日 東京国際映画祭の『パリ、テキサス』を見に駆けつける。会場はNHKホール。 6 月 8日 シアターゼロ主催〈モンテ・ヘルマンまつり〉にて講演「地獄男(ヘルマン)の逆襲」を行う。会場は法政大学学生会館大ホール。 6 月22日 NHKラジオ第二の番組「現代キーワード探検」(22時20分〜23時00分)で渡部直己との座談会「プロ野球症候群」が放送される。 6 月26日 山根貞男、山田宏一と鼎談(「リュミエール」誌の映画季評のため)。於新宿中村屋。 7 月 4日 ビクトル・エリセについて澤井信一郎にインタビュー(「リュミエール」誌のため)。於帝国ホテル。 7 月30日 ヴィム・ヴェンダースにインタビュー(「リュミエール」誌のため)。於帝国ホテル。 8 月 4日 ジュネーヴのシャンドリエ・ホテルにてダニエル・シュミットにインタビュー(「リュミエール」誌のため)。 8 月 8日〜18日 第38回ロカルノ国際映画祭に参加、「ボリス・バルネット」特集に興奮する。 8 月20日 フレディ・ムーラーにチューリッヒのムーラーの自宅でインタビュー(「リュミエール」誌のため)。 9 月12日 シネ・ヴィヴァンのパンフレットのため、武満徹と『エル・スール』をめぐる対談。於銀座三笠会館。 9 月20日 個人責任編集による季刊映画雑誌「リュミエール」創刊第1号刊行。 9 月22日 季刊『リュミエール』創刊記念セミナーにて講演を行う。上映作品は『センチメンタル・アドベンチャー』。会場は新宿紀伊國屋ホール。 10月 3日 山田宏一と対談(「リュミエール」誌のため)。於新宿中村屋。 10月 7日 スタジオ200で開催された〈「ドレミファ娘の血は騒ぐ」―公開前夜―〉のシンポジウムで黒沢清と対談を行う。 10月18日 池袋・文芸地下劇場で開かれた加藤泰監督の追悼上映会〈加藤泰ワンマンショー〉にて舞台挨拶をする。上映作品は『陰獣』『みな殺しの霊歌』。 10月23日 山根貞男、山田宏一と鼎談(「リュミエール」誌の映画季評のため)。於新宿プチモンド。 10月25日 山根貞男とともに倍賞美津子にインタビュー(「リュミエール」誌のため)。於銀座三笠会館。 11月23日 慶應義塾大学三田祭にて講演。上映作品は『落第はしたけれど』『宗方姉妹』。 11月30日 明治学院大学フランス文学科20周年記念講演会にて講演「凡庸さについて―晩年のマクシム・デュ・カン」を行う。 12月15日 草月ホールで開かれた〈エーリッヒ・フォン・シュトロハイム生誕百年記念祭 エーリッヒ・フォン・シュトロハイムとウィーン派の巨匠〉のマックス・オフュルス特集にて講演を行う。上映作品は『忘れじの面影』『たそがれの女心』。 12月20日 映画日和主催の上映会にて講演。上映作品は『宗方姉妹』。会場は東大教養学部図書館4階 視聴覚ホール。
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1986年(昭和61年) |
50歳 |
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1 月14日 武満徹と対談。於日比谷シーボニア・メンズクラブ。 1 月31日 山田宏一と対談(「リュミエール」誌のため)。於銀座三笠会館。 2 月 6日 山田宏一とともに原正人にインタビュー(「リュミエール」誌のため)。於新宿中村屋。 3 月20日 淀川長治、山田宏一との座談会。於銀座三笠会館。 3 月21日 三省堂書店新神田本店五周年イベントにて講演「'50年代アメリカ映画を語る」を行う。 4 月 6日 淀川長治、山田宏一との座談会。於銀座三笠会館。 4 月16日 アテネ・フランセ文化センターの特集上映〈ハリウッド50S'〉にて講演。当日の上映作品は『暗黒への転落』『にがい勝利』。 5 月 1日 柄谷行人と対談(「現代詩手帖」誌のため)。 5 月 6日 淀川長治、山田宏一との映画を語る世紀の大座談会。テーマは幽霊とお化けの映画について。於銀座三笠会館。 5 月14日 山根貞男、山田宏一と鼎談(「リュミエール」誌の映画季評のため)。於銀座三笠会館。 7 月 8日 〈三百人劇場映画講座vol.1 成瀬巳喜男特集〉にて講演を行う。当日の上映作品は『妻よ薔薇のように』『鶴八鶴次郎』。 8 月 1日 宮川雅青にインタビュー(「リュミエール」誌の山中貞雄特集のため)。 8 月 6日 山田宏一と対談(「リュミエール」誌のため)。於新宿中村屋。 8 月11日 深水藤子にインタビュー(「リュミエール」誌の山中貞雄特集のため)。 9 月 6日 磯田光一と対談(「現代詩手帖」誌の吉本隆明特集のため)。於新宿中村屋。 9 月13日 キネカ大森3での吉田喜重特集の『嵐を呼ぶ18人』上映時にティーチインを行う。 9 月28日 第23回紀伊國屋セミナー 季刊『リュミエール』創刊1周年記念〈映画の世紀末に向けて〉にて講演「ロベール・ブレッソンと呪われた作家たち」を行う。上映作品は『白夜』。会場は新宿紀伊國屋ホール。 10月11日 季刊『リュミエール』創刊1周年記念〈映画の世紀末に向けて〉にて講演「山中貞雄とその時代」を行う。上映作品は『丹下左膳・百万両の壺』。会場は神戸ポートアイランド 田崎ホール。 10月13日 淀川長治、山田宏一との映画を語る世紀の大座談会。テーマは誰も語らなかった男優の話。於銀座三笠会館。 10月17日 玉井正夫(成瀬巳喜男作品のキャメラマン)宅に三百人劇場の福島治夫と行く。 10月22日 ジム・ジャームッシュと対談(「リュミエール」誌のため)。於帝国ホテル。 10月23日 山田宏一と対談(「リュミエール」誌のため)。於新宿中村屋。 11月 2日 『今宵かぎりは…』公開記念トークショーを行う。会場はシネ・ヴィヴァン六本木。 11月 3日 早稲田祭の〈CINEMA EN FUITE〉にて『ディアポロ・マント』と『小さな赤いビー玉』上映の間に梅本洋一と対談を行う。 11月 8日 〈三百人劇場映画講座vol.2 成瀬巳喜男特集パート2〉にて講演を行う。当日の上映作品は『晩菊』『あらくれ』。 11月17日 淀川長治、山田宏一との映画を語る世紀の大座談会。テーマは「悪女・悪役」の妖しい魅力について語る。於銀座三笠会館。 11月25日 レナウンのCF撮りを行うジェーン・バーキンに伴い来日したジャック・ドワイヨンにインタビュー(「リュミエール」誌のため)。於帝国ホテル。 12月 4日 淀川長治、山田宏一とのヴィスコンティ映画を語る大座談会。於京橋ざくろ。 12月13日 ポンピドゥー・センターで開かれた「前衛芸術の日本」展に関連した「KOTOBA――日本のエクリチュールとパロール」と題する催しの口火を切って行われたシンポジウム「日本の近代批評とポストモダン批判」に柄谷行人、浅田彰、フェリックス・ガタリと出席。その後引き続き行なわれた中上健次とジャック・デリダの対談「賎民――周辺性と伝統」を傍聴。 12月14日 前日のシンポジウムの第二夜。中上健次も参加。 12月23日 淀川長治、山田宏一との映画を語る世紀の大座談会。テーマは親子・兄弟・姉妹俳優の知られざる裏話、大公開。於京橋ざくろ。
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1987年(昭和62年) |
51歳 |
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1 月14日 中古智(成瀬巳喜男作品の美術監督)にインタビュー(「リュミエール」誌の連載のため)。於新宿中村屋。 1 月16日 淀川長治、山田宏一との映画を語る世紀の大座談会。テーマはしゃれた犯罪映画とうまいミステリー。於銀座三笠会館。 1 月23日 スタジオ200での〈土本典昭フィルモグラフィー展+記録映画連続講座〉にて講演を行う。 1 月28日 大島渚にインタビュー(「リュミエール」誌のため)。於東京ステーションホテル。 2 月 3日 土本典昭にインタビュー(「リュミエール」誌のため)。於新宿中村屋。 2 月 7日 磯田光一(5日、心筋梗塞のため死去。享年56歳)の通夜に参列。 3 月13日 淀川長治、山田宏一との映画を語る世紀の大座談会。テーマは雨と風のシーンにみるもう一つの映画史。於銀座三笠会館。 4 月 この年より東大教養学部に発足した表象文化論分科での映画の授業を始める。 4 月 6日 淀川長治、山田宏一との映画を語る世紀の大座談会。テーマは異常心理映画の凄み。於銀座三笠会館。 4 月12日〜23日 第11回香港国際映画祭の「成瀬巳喜男」特集に招待され、成瀬作品の紹介を兼ねた講演を行う。 4 月24日 中古智にインタビュー(「リュミエール」誌の連載のため)。於筑摩書房。 4 月25日 アテネ・フランセ文化センターの〈ダグラス・サーク追悼上映会〉にて講演。当日は『翼に賭ける命』『わが望みの全て』『人生の幻影』の上映と梅本洋一、武田潔の対談も行われる。 4 月26日 〈土本典昭フィルモグラフィー展+記録映画連続講座〉にて講演を行う。会場は大阪・扇町ミュージアム・スクエア。 4 月28日 山田宏一と対談(「リュミエール」誌のため)。於新宿中村屋。 5 月10日 侯孝賢(ホウ・シャオシェン)にインタビュー(「リュミエール」誌のため)。於渋谷ロゴスキー。 5 月13日 若尾文子にインタビュー(「リュミエール」誌のため)。於東宝砧撮影所。 5 月14日 表象文化論連続シンポジウム〈今、アヴァンギャルドとは〉の第1回「ポストモダンの地平」に浅田彰、小林康夫と参加し、司会を務める。 5 月15日 シアターゼロ主催〈Sam's Movie〉にて講演「サミュエル・フラーとともに生きる」を行う。当日の上映作品は『赤い矢』。会場は法政大学学生会館大ホール。 6 月15日 淀川長治、山田宏一との映画を語る世紀の大座談会。テーマは四季を描いた映画の楽しみ。於銀座三笠会館。 6 月16日 小林一博、田邊聰と鼎談。 7 月 7日 〈三百人劇場映画講座vol.4 伊藤大輔特集〉にて講演を行う。 7 月 8日 淀川長治、山田宏一との映画を語る世紀の大座談会。テーマは私の好きな銀幕の美女≠スち。於ざくろ京橋店。 7 月14日 「東京の夏」音楽祭'87で同時開催されたアメリカ映画特集の〈カントリーロードへの誘い〉にて講演。当日の上映作品は『忍冬の花のように』『センチメンタル・アドベンチャー』。会場は草月ホール。 8 月13日〜14日 第40回ロカルノ国際映画祭で『ゴダールのリア王』を見る。深夜、ヴィム・ヴェンダースから「カイエ・デュ・シネマ」誌400号記念号の協力を依頼される(小津安二郎の『遙かなり父母の国』のシナリオをフランス語に訳すというもの)。午前、ジャン=リュック・ゴダールのもとへインタビューに出かける。 8 月15日 レマン湖畔のロールにゴダールを訪れ、最初の質問「九○分の作家ゴダール」について訊く。 9 月 8日 アテネ・フランセ文化センターの特集上映〈映画は一本で勝負する その一〉にて講演。当日の上映作品は『ボール・オブ・ファイア』。 9 月26日 第29回紀伊國屋セミナー 季刊『リュミエール』創刊2周年記念〈究極のB級映画が見つかった!〉にて講演を行う。上映作品は『恐怖のまわり道』『クリムゾン・キモノ』。会場は新宿紀伊國屋ホール。 10月31日 アテネ・フランセ文化センターの特集上映〈映画は一本で勝負する その三〉にて講演。当日の上映作品は『大砂塵』。 11月 6日 中古智にインタビュー(「リュミエール」誌の連載のため)。於筑摩書房。 12月 4日 三菱商事、クラウンレコードが筑摩書房と提携し、山田宏一との監修によるビデオ・シリーズ「リュミエール・シネマテーク」を発売することを発表。(旧友である三菱商事の川田雄基の映像部門への異動によって実現、翌年5月に発売された。また、当初は少なくとも六期まで続ける計画があり、第二期としてエドガー・G・ウルマー、アンソニー・マンの作品が予定されていた。)
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1988年(昭和63年) |
52歳 |
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1 月17日 第31回紀伊國屋セミナー〈ヴィスコンティと映画大国イタリア〉にて講演を行う。上映作品は『ベニスに死す』。会場は新宿紀伊國屋ホール。 1 月19日 アテネ・フランセ文化センターの特集上映〈新春のシネクラブ〉にて講演。当日の上映作品は『ハイ・シェラ』。 2 月 1日 吉田喜重に山根貞男とインタビュー(「リュミエール」誌のため)。 3 月15日 『ベルリン・天使の詩』公開に際し来日したヴィム・ヴェンダースにインタビュー(「リュミエール」誌のため)。於帝国ホテル。 4 月 東大教養学部教授に昇任。 4 月20日 田中裕子に山根貞男とインタビュー(「リュミエール」誌のため)。 4 月22日 『デ・ジャ・ヴュ』公開に際し来日したダニエル・シュミットにインタビュー(「リュミエール」誌のため)。於帝国ホテル。 4 月27日 坂本龍一と対談。於原宿重よし。 4 月28日 「中沢問題」の渦中にあった東大教養学部で六人の教官有志によるシンポジウム「アカデミズムの再定義に向けて」を開く。他の出席者は本間長世(英語・アメリカ史)、村上陽一郎(科学史・科学哲学)、義江彰夫(日本史学)、竹内敬人(化学)、杉本大一郎(天体物理学)。 5 月13日 高橋源一郎と対談(「國文學」誌のため)。 5 月14日 チェット・ベイカーの訃報(13日未明、演奏旅行で宿泊したオランダ・アムステルダムのホテルの二階の窓から路上に転落、死亡した。享年58歳)。 5 月28日 東大五月祭にて西部邁と対談「大学はいかにして死ぬか」を行う。会場は東大経済学部一番教室。 5 月29日 『闘争のエチカ』刊行記念〈ポストモダン空間を批判する〉の講演とシンポジウムに参加。会場は新宿紀伊國屋ホール。講演「『鋏』について」と題して、フローベールの『感情教育』の主人公は「鋏」であるという視点から「フィクションの擁護」について語る。シンポジウムには柄谷行人の他、絓秀実、高橋源一郎、丹生谷貴志が出席。 7 月13日 中村光夫(12日、肺炎のため死去。享年77歳)の通夜に参列。於鎌倉市の中村宅。 10月19日 ナタリー・バイにインタビュー(「リュミエール」誌のため)。於帝国ホテル。 11月14日 ルビッチの『生きるべきか死ぬべきか』について山田宏一とともに澤井信一郎にインタビューを行う(「リュミエール」誌のため)。於新宿。
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1989年(昭和64年平成元年) |
53歳 |
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2 月21日 昭和63年度(第39回)芸術選奨文部大臣賞が発表され、評論等部門で『凡庸な芸術家の肖像 マクシム・デュ・カン論』が選ばれる。 3 月22日 昭和63年度(第39回)芸術選奨文部大臣賞の授賞式に出席。於上野・日本芸術院会館。 6 月25日 「リュミエール叢書」発刊記念 講演と映画の夕べにて講演「小津・厚田・ヴェンダース」を行う。会場は新宿紀伊國屋ホール。 6 月28日 〈黄金のシネマテーク〉オープニング記念講演「「ルビッチ・タッチ」について」を行う。上映作品は『生きるべきか死ぬべきか』。会場はシネセゾン渋谷。 8 月16日 〈黄金のシネマテーク〉アンコール上映記念にて淀川長治と対談「ルビッチに胸ときめいて」を行う。上映作品は『生きるべきか死ぬべきか』。会場はシネセゾン渋谷。 8 月26日 磯崎新と対談(「季刊都市U」誌のため)。 9 月 テニスの最中に左足ふくらはぎに肉離れ、松葉杖の生活を余儀なくされる。 10月 6日 『霧の中の風景』公開に際し来日したテオ・アンゲロプロスにインタビュー(「マリ・クレール」誌のため)。於赤坂全日空ホテル。 10月12日〜15日 山形国際ドキュメンタリー映画祭'89に参加。 10月17日 『ミステリー・トレイン』公開に際し来日したジム・ジャームッシュにインタビュー(「マリ・クレール」誌のため)。於六本木プリンスホテル。 10月19日 「季刊思潮」誌の連載〈近代日本の批評〉のため浅田彰、柄谷行人、三浦雅士と昭和前期の批評について討議を行う。 10月28日 第2回ノーベル賞受賞者日本フォーラムの文学賞分科会が「小説の現在と未来」をテーマに青山学院大学総合研究所で行われ、パネリストとしてクロード・シモン(85年受賞)、大江健三郎(後に94年受賞)とともに参加。報告と各氏の報告を受けた討論を行う。 12月28日 三浦雅士からインタビューを受ける(『饗宴T』のため)。 12月29日 浅田彰と対談(「エイティーズ」誌のため)。
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1990年(平成2年) |
54歳 |
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1 月 平成元年度(第40回)芸術選奨文部大臣賞・芸術選奨文部大臣新人賞の評論等部門の選考審査員を務める。 1 月21日 リヨンのモーリス・ラヴェル劇場で吉田喜重演出の『蝶々夫人』初日を吉田、岡田茉莉子夫妻と観る。この頃、吉田喜重にカブリエル・ヴェールの曽孫のフィリップ・ジャキエを紹介。(この出会いがきっかけとなり、『薔薇のリュミエール』(企画のみ)、『夢のシネマ、東京の夢』に発展する。) 1 月30日〜2月4日 第19回ロッテルダム国際映画祭に参加。 2 月 9日 「季刊思潮」誌の連載〈近代日本の批評〉のため浅田彰、柄谷行人、三浦雅士と昭和後期の批評について討議を行う。 2 月18日 『悲情城市』公開に際し来日したホウ・シャオシェンにインタビュー(「マリ・クレール」誌のため)。於帝国ホテル。 3 月 5日 三好行雄と対談。 3 月28日 第42回紀伊國屋セミナー「季刊思潮」終刊イヴェント〈終わりをめぐって〉のシンポジウムに三浦雅士、浅田彰、柄谷行人と参加。会場は新宿紀伊國屋ホール。 6 月 2日 後藤明生と対談(『スケープゴート』の付録のため)。 6 月30日 水戸テアトル西友で開かれた〈東京という名の物語と画〉で講演「小津・厚田・ヴェンダース」を行う。当日の上映作品は『東京画』(前日は『東京物語』)。 8 月 9日 シードホールでの『天国は待ってくれる』公開に際し「ルビッチとスクリューボール・コメディ」と題する講演を行う。 8 月25日 渋谷PARCO SPACE PART3で開かれたサミュエル・フラー映画祭のため来日したフラーと夫人のクリスタ・ラングに劇場の楽屋で会う。 9 月 4日〜15日 第47回ヴェネチア国際映画祭に参加、「コード以前」と題された社会主義リアリズム成立以前のソ連映画の特集に圧倒される。 | |