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国務省の戦後計画と沖縄
このような政治的な問題を考えるのは,やはり国務省でありました。
国務省が軍部と正反対の立場を取っています。結論から言いますと国務省が早い段階,
少なくとも1943年から沖縄を返還すべきであると言っています。
この時期にはまだ沖縄を占領していませんが,万が一沖縄を占領,
日本の沖縄を占領することになれば,早期返還が望ましいというふうに考えていました。
国務省は早い段階から戦後計画を開始しました。つまり1939年,まだ戦争が始まってない時期から,
戦争になりそうだから,戦後を計画しなければならないと考えていました。
沖縄についての議論が1942年からスタートしますが,先ほど言いましたように,
少なくとも1943年の段階に,ある程度の結論が国務省にはできていました。
つまり返還すべきである。なぜ返還すべきかと言いますと,国務省は,1941年8月に,
ルーズベルト大統領とチャーチル首相によって表明された大西洋憲章,
つまり「領土不拡大」原則を極めて重視していました。これは41年の8月ですから,
アメリカがまだ戦争に参加してない時期ですが,戦後領土の拡大を求めないことに強い支持を表明するのです。
ですから国務省にとって大西洋憲章が極めて重要な原則であります。
後で触れますが,もう1つの原則や考え方が国務省にありました。
それは戦後の日米友好関係の重要性でありました。
大西洋憲章の原則と戦後の友好日米関係の重要性の2つの柱を国務省は重視していました。
先ほど言いました1943年の国務省の一応の結論ができていますが,1つの案としては中国に沖縄を返還すること。
もう1つの方が国連の下に沖縄を置く。3番目の選択が非武装化,非軍事化した上で日本に返還すること。
3つの案が出ていますが,実は3番目,つまり非武装化,非軍事化した上で日本に返すべきという考え方が,
本当は国務省の方針であって,国務省の中の極東局の人たちの考え方でありました。
ですからこの43年の文書,つまり Masland(マスランド)メモというのは作成者が Masland という人ですが,
この文書に基づいて国務省の考え方が,例えば次の方,
44年の文書では沖縄を日本に返還すべきという結論に至っています。
ですからこの時期,1942年から46年ぐらいには,国務省が沖縄を返還すべきという考え方を持つようになりました。
先ほどの軍部の考え方と正反対であります。国務省が43年からの政策というか段階から沖縄が復帰するまで,
72年まで一貫としてそのような考え方を持っています。
沖縄をめぐる国務省と軍部の対立
よく国際政治というか政府の研究をするとき,軍部と軍部以外の組織の対立がよく紹介されています。
小説のようなものですが,沖縄の領土処理ほど軍部と国務省が激しく対立したことがないと思います。
つまり沖縄の処理,あるいは沖縄の運命,を巡る対立が本当に激しかったのです(図1/省略)。
最初に衝突するのはだいたい1946年の段階です。つまり戦争中(計画の段階)には
あまり議論しなくていいのですが,戦後(政策実施の段階)になると今度領土問題をどのように処理するかが,
大きな議論になります。その議論を調整するために,SWNCCという組織ができますが,
それは国務省(State),陸軍(War),海軍(Navy)という3つの組織による調整委員会ができます。
議論において沖縄を信託統治にするか,しないか,つまり沖縄の領土問題の処理をどうするか,
議論しますが,先ほど触れたように,太平洋地域の旧日本委任統治のところは,それは問題なかったのです。
そもそもそこは日本の領土ではなかったのですが,沖縄の場合は日本領土ですので,簡単に切り離すことはできないのです。
結局,46年の秋に当時のトルーマン大統領が,太平洋地域の旧委任統治を国連の信託統治下にしますが,
沖縄をどうするかという結論が出ていませんでした。いわゆる棚上げということになりました。
ある学者たちがこういう棚上げの決定あるいは未決定を批判しますが,この時期は極めて微妙な時期でした。
トルーマン大統領自身が植民地化しようと一切思っていなかったのです。ですから彼の回想録を読めば,
沖縄という名前が,地名が出ていませんが,植民地のような扱いにならないようにいろいろ努力していったのです。
しかし軍部がこの段階,かなり沖縄に対する愛着といいますか,戦略上厳しい姿勢を見せていましたから,
簡単に国務省の方針を支持できなかったのです。この段階,つまり46年の秋の段階では,激しい対立でしたが,
結論としては沖縄の決定を後ですることです。もう1つの合意は,沖縄の処理を巡る議論は政策に反映させないように,
つまりお互いに相談した上で新しい政策を作ることにしたのです。
しかし後で触れますが,47年の段階に早期講和の動きがありまして,
当時,講和条約案が47年の夏にできますが,その講和条約案には沖縄返還を定めているのです。
軍部がものすごく反対しまして大きな衝突が始まります。
日本政府の講和条約研究と沖縄の領土的位置
その話を紹介する前に,日本政府がどのように領土問題をみていたのかについて紹介したいと思います。
実はこの時期,1945年から48年の時期についての日本政府の見解を,『中央公論』(1999年8月号)に論文を書きました。
そこに詳しく紹介していますので,ここでは省略することとします。
敗戦,終戦直後に外務省を中心に講和条約がどういうものになるのか,
いろいろ準備の研究が始まります。極めて早い段階でありまして45年の11月からでしたが,
日本政府の見解では,もちろん沖縄が日本の一部であるという考え方を持っていました。
ですから沖縄の返還を強く希望していました。しかし連合国,
そしてアメリカが沖縄を極めて戦略的に重視していたことも,外務省が分かっていたのです。
ですから,いかに返還の希望とアメリカの安全保障のニーズを,両立させるかが大きな問題でありました。
特に47年の時期には外務省がかなり悩んでいて,結局,
47年の7月7日に当時の外務次官岡崎勝男の「岡崎メモ」というものができます。
これも『中央公論』に紹介していますが,わたしが知っている限り,
今までの研究者がこの文書を発見したことがなかったのです。この文書によれば,
この段階からアメリカに基地権,沖縄における基地の権利を提供しながら,
日本が領土を,あるいは沖縄に対する主権を残してもらうというような案ができるのです。
主権だけではなく,普通の行政権,福祉,教育などの普通の行政を日本に任せる,
要するに現在の形,つまり基地がありながら日本の領土であり,
日本の行政下にあるという新たな段階を示すある種のポジション・ペーパーがこの段階にできるのです。
しかし外務省がアメリカ側に対してこれを提出しませんでした。
それはなぜかというと,おそらく連合国が日本に対してかなり厳しい見方を,
この段階では取っていました。例えば47年6月の始めの方に片山内閣で,芦田均が外相になりまして,
彼はいきなり外国人特派員と記者会見をやりまして,「沖縄の返還を希望します」というような発言をしました。
それはもちろん正当な発言ですが,当時日本は外交権がなかったですし,
そして被占領,占領されているのですから,将来の講和条約においての日本の希望を言う立場ではないと,
連合国は思っていました。その直後にダグラス・マッカーサー司令官がかなり厳しいことを言っています。
すなわち沖縄は日本の一部ではありません。つまり芦田の発言を否定しようとしていたのです。
また岡崎メモができた直後に芦田が当時のマッカーサーの政治顧問のジョージ・アチソンという人に会いに行きます。
彼が領土問題とか,講和条約における日本の希望をまとめている,ごく簡単なメモをGHQに渡しますが,
次の日にその覚書が返却されるのです。それはなぜかというと,やはり連合国が今,
日本の希望あるいは要望を受け入れる立場ではないのです。日本側がそれを要請する立場ではないというような,
極めて厳しい姿勢を取るのです。ですから割合穏健な覚書を提出したにもかかわらず返された。
もっと現実的な岡崎メモみたいなものを,とても提出できなかったことが考えられます。
その4年後,吉田茂が特にジョン・F・ダレスに対して交渉する際,
この岡崎メモを生かそうとしていたのではないかと思っています。またその話をしますが,
吉田だけではなく,もしかすると昭和天皇もこの覚書を生かそうとしていたのではないかと思っています。
皆さんもご存じと思いますが,1947年9月19日に昭和天皇の御用掛の寺崎英成という人が,
マッカーサーの新しい政治顧問のウィリアム・J・シーボルドに対して,
いわゆる天皇メッセージという内容のものを提出するのです。
その会談記録が1979年に発見されましたが,それが沖縄の世論をかなり刺激しました。
内容としてはアメリカに例えば25年,あるいは50年間,沖縄を占領してもいいというような話ですが,
わたしはその天皇メッセージの中のもう1つの言葉の方が重要であると思います。
すなわち天皇は沖縄が日本の一部であり,日本の主権下に置くべきということも主張しているのです。
したがって外務省にしても,天皇周辺にしても,アメリカがどうせ沖縄をずっと占領したい,
あるいは基地を置きたいというのなら,最悪のシナリオである沖縄の分離を避け,
基地権のみを提供する取り決めをした方がいいのではないかというようなことを考えていたのではないかと思っています。
当時,寺崎は御用掛でありながら,彼は外務省の一員でもありましたので,
外務省の考え方をよく知っていたはずです。
実はこの天皇メッセージというものがマッカーサーだけではなく,
ワシントンの方にも転送されるのです。後でちょっと触れますが,
ワシントンに届いた日に国務省において,会議を開くことになります。
軍部と天皇メッセージの話はしなかったのですが,国務省の案として,基地権を確保した上で,
沖縄を返還しましょうという話を軍部の代表に対して提案しましたが,
軍部はこれが不十分だという厳しい否定的な返事をしました。
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