質疑・応答


櫻井 溥(元日本学術会議事務局長)

元沖縄開発庁に勤めていました櫻井と申します。 今日の先生のお話は1945年から52年ということなのですが, わたしが沖縄に関与しましたのは,復帰当時でございます。 お話の時代の20年後となっております。 さかのぼっての古い話を今,承ったのですが,戦勝国とそれから戦争に負けた国との関係ですから, これはアメリカの事情も分かりますけれども, 1つだけ照準を絞って,質問というよりも先生の感覚をお伺いしたいと思います。

あの当時の米軍はアメリカの国際戦略として必要としておったのは, 沖縄だったし,または統治しなければならない軍事基地だろうと思います。 これが最優先だろうと思います。その前に沖縄返還すべしという考えを持っていたら, 国務省としては,日本へ返してもいいだろうという意見もあったようですが, しかし現実的にはやはり沖縄は米軍の基地というのが,国際戦略としては必須のものだろう。 避けられない必要なものだろう。しかし,軍はそういうことを求めたかどうか……。

結果的には基地ばかりではなくて,全体として,そこを統治しようということになったわけです。 それはなぜかという疑問が1つあります。 もう何をされても仕方がないという立場でありました日本としては, あえて問題としてこう考えてみますと,自由にと言いましょうか, 基地を使用できる権利さえ持っていれば,80万,90万という県民, 住民を全部トータルとして,行政も何も一切合切を責任を持って治めるということまで, 踏み込んだ意見を持つ,結果的には持ったわけですが,なぜなのか。 こういう感じが先生の今日のお話を聞いて誘発された形での質問になるわけですけれども, 差し支えなければお話をお願いいたします。

ロバート・D・エルドリッヂ

それは,非常にいい質問です。簡単に言えば,2つの未確定の要素があったと思います。 例えば日米安保条約が初めての条約でありまして,うまく運用できるかどうか,大きな疑問がありました。 1952年の3月,4月に沖縄返還に向けてその議論が行われていたとき,軍部が分かるのは1つの妥協案, 提案が,取りあえず1年このままでしましょうという意見がありました。 残念ながらちょうど1年後の53年の5月に,ホノルル会議というものがありまして, そのとき奄美のみの返還が非公式に合意されるのです。 正式に合意されるのは6月26日のNSC会議ですけれども, あとの2つの領土,小笠原諸島と沖縄は現状維持という方針が決まるのです。 それは残念な結果だと思います。

ですから,まず安保に対する運用そのもの,そしてあとは,日本に対する不信もあったと思います。 特に政治的な行方が講和条約後どうなるか,今まで吉田保守政権がありましたが, もしかすると革新系になるのではないかという不安があったのです。 ですからそれがもう少し後にその議論がされますが,果たして信頼できる政治基盤が確保されるかどうかが, 大きな2つ目の問題だったのです。

もう少し後になると,わたしは今,奄美大島の復帰返還について本を書いていますが, 奄美返還の際に,取引ではなかったのですが,大きな期待があったのです。 それは日本がちゃんと再軍備することが奄美そして沖縄返還の前提であったのです。 実はダレスが期待していたほど日本側が再軍備しようとしなかったのです。 ダレスはその点ものすごく吉田に対して不満に思っていまして,沖縄まで返還することを止めました。

具体的な話をしますと,奄美の返還が53年の8月8日に声明されますが, ダレスがアメリカに帰って,当時の駐ワシントン大使,日本大使の新木栄吉さんがダレスに会い, 奄美返還の感謝の言葉を言いに行って,その直後に彼が,「さあ,沖縄をどうしましょう」という, いきなり沖縄返還の話を持ち出すのです。ダレスがそのときとても怒ったのです。 「なぜ日本が一方的に要請する,何も自由世界のために何にも役割を果たしてないのに,要請,要求ばかり」, という不満があったのです。それがある種の外交の何て言いますか,建前だったかもしれないです。 しかしそれはダレスの本心でもあったと思います。

それが53年の12月28日の文書でありますが,ラスクが当時ロックフェラー財団の会長か理事長をしていたときに ,奄美が無事に12月25日に返還された。それに対してラスクはダレスに「ご苦労さん」というような手紙を書いたのです。 ラスクが「残念ながら沖縄までできなかった, でもきっと軍部に対して頑張っていたのでしょう」というような内容を書いていたのに対して, ダレスは「実は沖縄までも返還したかった,53年に沖縄まで返還したかったが, 日本側がドイツのように自由世界のために役割を果たしてないから, わたしは極めて不満に思っています」と返事しました。

ですから少なくとも53年の段階には安保の運用,日本に対する不信, そして日本の役割が,まだアメリカが期待していたほどの役割ではありませんでした。 その2つの要素が53年の段階になると,3つの要素になったのではないかというふうに思っています。

仲間直樹(沖縄県東京事務所付研修員)

沖縄県庁の仲間と申します。今日のお話を伺いまして,改めて沖縄と日本の安全保障の関係について, 研究されていることに敬意を表します。またこの時代に, その後の日米安全保障条約が現在のような形になっていく流れができたのではないかと感じております。 戦後のさまざまな時期に,日米関係,日米同盟関係をどういうふうに変えていくかという動きがありますが, そういう所で今日のテーマと何か似ているような気がします。 こういった動きを考えると,やはり沖縄の問題というのも日米関係の中で話題になりましたが, 安全保障,安全保障上の同盟関係を実現する意味で, この時代から現在につながっているその問題として考えておく必要があるのではないかと思いますがいかがお考えでしょうか。

エルドリッヂ

いい質問,いいお考えだと思います。やはり先の奄美の話を取り上げましたが, よく皆がなぜ奄美まで研究しているのか,いろいろ疑問というか質問をされます。 やはり日本側がどこまで役割を果たすかに対するアメリカの期待, あるいは希望の取引ではないのですが,そのお互いの安全保障における役割の相互性をどこまで続けるのかが, ずっと1つのテーマであると思います。 多分,51年,52年の段階では,日本に対する期待がまだはっきりしなかったと思います。 しかし53年の段階になると,もっとはっきりしてきたのです。 あと安保改定の際に沖縄を入れるか,条約の範囲内に入れるか入れないか, 日本国内,そしてアメリカ政府内で,いろいろ議論がありました。 まだ詳しく分析してないから何とも言えないのですけれども, そういう相互性への追求はやっぱりあると思います。

わたしは例えば奄美の場合が,今とかなり関連しているのではないかと思います。 つまり今の沖縄における米軍のプレゼンスを考える際,真の相互性の関係ができなければ, やはりアメリカが安心してなかなか撤退はできないと思っています。 つまり日本から撤退したら空白が生まれるのではないかというような心配があるのです。 先ほどおっしゃったACSA(物質役務相互提供協定)とかあるいは新ガイドラインとかが欠かせないと思います。 あえて基地を拡大,沖縄とかあるいは本土に拡大しなくてもいいと思います。 米軍のプレゼンスを減らしながら,新ガイドラインの実施をちゃんと確保する形でアメリカが安心して, 少しずつ減らすことができるのです。ですから歴史の検討,研究に基づいて今の議論展開していこうと思っているのです。

玉城正保(沖縄文化通信編集長)

わたしは,沖縄文化通信編集長の玉城と申しますが, 51年ごろと言いますとダレスが来たときには,吉田総理が再軍備の問題を主張するのがメインで, まずは沖縄返還とあんまり新聞にも出なかったのです。 今のお話で国務省の方にそんな話もあったと聞きまして, びっくりしたのですが,日本の外務省というのは,あの頃からずっと, あまり沖縄返還に熱心でなかったように思うのです。 昭和47年の返還のときも,佐藤総理は,実際は民間パイプでまとめた感じがしますので, わたしは外務省が沖縄の復帰に対してそれほど当時から熱はなかったと思いますが,いかがでしょうか。

エルドリッヂ

まず『中央公論』の論文を是非お読みになれば,もっとはっきりとした答えができますが, 1947年の段階,この時期の段階では結構熱心に検討していました。 つまり講和条約の問題をすべて検討しましたが,一番大きな課題がやはり沖縄と領土問題でありまして, さらに安全保障の問題もあります。それらは緊密に絡み合っています。

47年の段階では国連中心の安全保障でしたが,47年の後半から今度は日米中心の安全保障になります。 例えば50年の6月に外務省が沖縄の処理をどうするべきかについての意見書をまとめています。 先ほど言いましたが,吉田があまりにも甘いような考え方であるというふうに思っていたのです。 彼が自ら全部手直ししたのです。つまり基地権をカットして,基地権と領土返還というか, その主権,そして普通の行政権。ですから外務省がたまたま弱い文書を提出したのか, あるいは情熱がなかったのか,そこのところは分かりませんが, 50年の12月,51年の1月,2月の頃から,それ以後ずっと熱心でありました。

特に西村熊雄さんとか,吉田が首相と外務大臣の両方をやっていた頃です(ワンマン的ですが), あと井口貞夫さんとか,太田一郎さんとか,その人たちが結構熱心にやっていましたので, 毎日のようにシーボルド政治顧問局のところに行っているのです。 その話が一切知られてなかったのですが,それはかなり細かく今日太田さんが来たりとか, あるいは井口さんが来て第3条どうなってるのか,尋ねたとか, あるいは吉田が国籍を是非日本国籍にしてほしいとか(書かれていました)。

あと読売新聞の記者であった堂場肇という有名な人で, 彼の個人文書には,それは外務省の資料で,今非公開になっていると思いますが, その非公開の資料を彼が持っていて,その中にはどういう接触が行われていたのかが書かれています。 ですから,わたしは結構情熱を持っていたというふうに思っているのです。 残念ながらこのような歴史が今まで知られてなかったのです。 それがどういうことなのかは分かりませんが,ほとんどみんな日記を残せなかったこともあるし, とにかくこの時期の領土問題に関しては,日本政府は熱心にやっていたと思います。


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