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ブリリアントクラシックス ショスタコーヴィチ 交響曲全集 

ルドルフ・バルシャイ指揮WDR交響楽団 解説書(英文)の翻訳の試み

CD添付の28ページからなる演奏者、曲目解説を翻訳してみる。 2003/02/06開始。


P.3-P.6 RUDOLR BARSHAI ルドルフ・バルシャイ プロフィール

今日の偉大な指揮者たちのうちで、ルドルフ・バルシャイこそは、その指揮する音楽を作曲した作曲家たちと最も緊密に関与した指揮者の一人である。ショスタコーヴィチに作曲を学び、プロコフィエフとはオーケストレーションを議論し、アレクザンダー・ロクシンの音楽の有力な弁護者として彼自身を確立した。しかし、さらに多くの偉大な作曲家たちが、バルシャイが1955年に創立したオーケストラのために作品を書き、しばしばツアーに出た。そのオーケストラというのは、それによって彼を世界に知らしめた、モスクワ室内管弦楽団である。最初にロシアの聴衆にバロック音楽と室内オーケストラが何物かを知らしめたのは彼だった。彼は、作曲家たちから作品の委託を受けただけではなく、同様に彼等の曲を編曲した。恐らく彼の最もよく知られたオーケストレーションは、ドミトリ・ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲第8番による室内交響曲である。

P.4 バルシャイは、これらの作曲家全てと仕事をしたので、20世紀のロシア音楽の彼の解釈は、比べるもののないほどの正統性を持っている。彼は彼等の多くと共演し、しばしばショスタコーヴィチの音楽を作曲者とともにピアノで演奏した。指揮者としてだけではなく、ヴィオラ奏者として。というのは、バルシャイはヴィオラの比べることのできない巨匠だったのである。彼は定期的に室内楽をダヴィッド・オイストラフ、スヴャトスラフ・リヒテル、エミール・ギレリス、レオニード・コーガン、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ、イェフディ・メニューインと演奏した。

ショスタコーヴィチの死後、ルドルフ・バルシャイは西側へ移住し、そこで新しい業績を築き上げた。今やかれは世界中の偉大なオーケストラを指揮し始めている。クラシックのレパートリーは、バッハとモーツァルト、シューベルトとブラームスからマーラーとショスタコーヴィチに至るものである。彼は、ヴィーン交響楽団、ロンドン交響楽団、BBC交響楽団、フィルハーモニア管弦楽団、フランス国立管弦楽団、パリ管弦楽団、ベルリンドイツ交響楽団、バイエルン放送交響楽団、その他ヨーロッパ、アジア、アメリカの多くの偉大なオーケストラを指揮した。彼は、サザンプトン大学から音楽名誉博士号を贈られた。

ルドルフ・バルシャイは、数え切れないほどの録音を行ってきたが、彼の最近のプロジェクトの中で最も重要なのが、このケルン放送交響楽団(訳者注:WDR交響楽団の通称)とのショスタコーヴィチの15曲の交響曲全集である。彼はいつもマスコミから超然とし続けている。顕著なほどまじめに、彼はきらびやかであでやかなどんな形式も避け、リハーサル済みのプログラムを演奏しながら世界中を絶えず駆け回る類のジェット環境の指揮者ではない。バルシャイの名前は作曲家の意思の巨匠的な実現を象徴している。彼等の思想の主義を持った唱導者として、彼はその伝説的な能力を、オーケストラの音をある唯一の目的(透明さと焦点の達成)へと向かう彼の考えにすばやく合わせるために捧げる。しかしそれは驚くべき結果を招く。今日純粋にスコアをベースにして作曲の意味をこれほど強力にはっきりさせることができる解釈者はほとんどいない。バルシャイには曲を面白くするために余分な原料はまったく必要ではない。彼は、その音楽自体が言わなくてはならないものを示す。彼のベートーヴェンの交響曲の読み方は、その形式の明瞭さと力強い建築によりユニークである。バルシャイのベートヴェンの英雄の解釈を聞いて、ショスタコーヴィチは、以下のように書いた。「私たちは、クレンペラー以来あのようなベートーヴェンを聞いたことがない」。そして確かに、バルシャイの音楽作りはクレンペラーのそれに比較するのが最も容易であろう。正確な文体上の本能が、バルシャイがマーラーの交響曲のまさに核心に達すること、および未解決のままに残されがちなマーラー解釈の全ての問題に答えることを許している。多くの指揮者は、単に実現しやすい表面的な効果を追求するだけなのに。

このことに関する理由の一つは確実に、バルシャイが40年代と50年代にモスクワで受けた訓練である。この訓練が、20世紀の後半を形作るのに役だった有名なロシアの音楽家の全てを生み出したものである。バルシャイはヴァイオリンの勉強をモスクワ音楽院で伝説的なレフ・ツァイトリンとともに始めた。ツァイトリンは、ヴァイオリン演奏のロシア楽派の父、レオポルト・アウアーの輝かしい弟子だった。オーストリア人のアウアーはヴィーン古典派時代の正統的な魂をロシアにもたらしたのだった。

まだ学生だったとき、バルシャイは弦楽四重奏の演奏への熱狂的な気持ちを発展させ、ヴァイオリンからヴィオラに転向した。というのは彼は一級の四重奏団を設立したかったから。彼はその後、ボロディン四重奏団とチャイコフスキー四重奏団の両方の創立メンバーになった。これがまたショスタコーヴィチとの交友が始まった時期だった。そして強力なな官僚の抵抗に抵抗したのはバルシャイだった。そして作曲家との密接な創造的な強力によって、彼のオーケストラにより1969年ショスタコーヴィチの第14交響曲の初演をなしとげた。

数十年間、気乗りのしない「オーケストラ伴奏」に永続的に失望していたスヴャトスラフ・リヒテルが仕事をしようとしたのはたった二人の指揮者、ベンジャミン・ブリテンとルドルフ・バルシャイだった。バルシャイは、常時、作曲、オーケストレーション、編曲などの彼自身の創造的な仕事にっ没頭する機会を探している。そしていつも新しい音を探求している。彼は、最近、更にショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲を小管弦楽のために編曲した。2000年に入り、彼を長年支配してきたプロジェクトを完結しようとしている。それは、マーラーの第10交響曲の完成とオーケストレーションである。それは、立派な演奏用楽譜のなかで唯一このようにずっと存続してきたものである。バルシャイ版の初演は、疑いなく、交響楽レパートリーへの新しく意味のある追加となることだろう。

Bernd Feuchtner ベルント・フォイヒトナー  1999年4月 ベルリン。(訳者注:この全集が日本で発売されたのは、2002年春だが、地元ドイツでは、1999年にこの解説が書かれているので、1999年にはブリリアントレーベル以外、WDRレーベルなど?から発売されたものだろうか?)

P.7 CD1 交響曲第1番 へ短調 作品10

1906年サンクト・ペテルブルク生まれのショスタコーヴィチは、疑いもなく、ソヴィエト時代の最も偉大な交響曲作家であった。彼の同時代人プロコフィエフは、帝政時代のロシアに育ち、1914年にパリへ移住し、1933年にソヴィエト・ロシアへ戻って生涯を終えたが、それとは違い、ショスタコーヴィチは一生をロシアで送った。

故国への忠誠は、多くの場合、彼をソヴィエト当局とのトラブルに陥らせることになった。一度は、彼のオペラ「ムツェンスクのマクベス夫人」の公的な不承認の後、2度目はズダーノフ(訳者注:スターリンの側近で文化芸術関係を取り仕切った)による批判闘争の後、そして更に彼の交響曲第13番がソヴィエトの反ユダヤ主義を批判した後。後年の悪化した健康状態に追いまわされながらも、彼は政治的圧力のもとで書きつづける作曲家の第1の実例であり、時には高度に効果的な音楽−政治的なプロパガンダを創造する作曲家であり、その他の時には、強烈に個人的な世界に退却する作曲家である。

ショスタコーヴィチの最初の教師は母親だったが、ペトログラード(サンクト・ペテルブルク)音楽院に1919年に入学した後、彼はグラズノフ(8曲の完成した交響曲と未完成の第9番の作曲家)の翼のもとに招き入れられ、1926年この第1交響曲を卒業作品として卒業した。プロコフィエフとストラヴィンスキーからの影響と同様に師匠グラズノフの影響も示しながらも、この第1交響曲はショスタコーヴィチの多くの後年のスタイルの萌芽を含み、19歳の学生としては目覚しい業績である。これは、今もなお彼の最も近づきやすく、最も愛される作品の一つとして交響楽のレパートリーの中で確固とした地位を占めている。

第1交響曲の開始は、ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」の風変わりな世界の中にしっかり位置している。その雰囲気は、後年の多くの作品に浸透している。この気分は続くスケルツォにも持続している。このスケルツォは、またskelteringなピアノパートの導入部によってプロコフィエフへの賛辞ともなっている。アダージョは、もう一つのショスタコーヴィチの永続的な影響を紹介している。それは、マーラーの影である。一方、フィナーレは、最後のプレストへと続くクレッシェンドとアッチェレランドまで悲劇の調子を紹介する。最後のプレストでは再び、来るべきいくつかの交響曲の刻印が示されるのである。

P.8 交響曲第2番 変ロ長調 作品14 「10月革命に寄せて」

第1交響曲、それはレニングラード音楽院(訳者注:サンクトペテルスブルク、ペトログラードと同じ)における卒業作品として欠かれたオーケストラのための明らかに月並みの作品ではあるが、その疑いもない成功のほんの1年後、ショスタコーヴィチは、政治的宣言という新しいジャンルに手を染めた。これはスターリニストの芸術政策の厳しさの前の時代であり、若きソヴィエトは新しく気まぐれな芸術世界を創造していた。それは劇場監督のメイエルホリドや詩人のマヤコフスキーなどの「未来主義者」に指導され、西側からの新しい傾向と同様にプロパガンダとしての芸術の思想の両方によって影響を受けていた。ショスタコーヴィチは、第2交響曲によってこの新しい傾向のど真ん中に彼自身を投げ入れた。この交響曲は、1917年のロシアの10月革命の10周年の祝賀であり、国家からの委託だった。大掛かりなオーケストラとともに最終楽章には混声コーラスが用いられている。その詩は、ソヴィエトのプロパガンダ詩人であるアレクサンダー・ベズメンスキーによるレーニンを褒め称えたものである。その音楽は、前方を見つめ、騒々しく政治的であるが、彼の後年の試みである革命の熱狂を描こうとして第11、第12交響曲とは異なり、そこにはまったくプログラムは認められない。

この交響曲は単一楽章であり、それはかろうじて20分かそれ以下の長さしかない(訳者注:バルシャイ盤は18'47")が、神秘的なラルゴの導入部によって開始される。導入部は密度の上でバスドラムの独創的なドロドロ音により成長し、弦楽器のセクションによりますます高く速い縒り糸を加える。金管楽器群はここで入り、全オーケストラが変トの三和音に至るときに最初のクライマックスを形作る。アレグロ・モルトと指定された新しい部分が始まるが、そこではおのおのの楽器がそれ自身と戦うかのようである。ホルンによるはつらつとした主題ののち、もうひとつのクライマックスに到達する。そしてバスドラムのドロドロ音がもう一つのより緩やかな部分の開始を告げる。するとはっきりとした平和は、工場のサイレン(嬰ホ音)によって閉じられ、コーラスが参加し、ベジメンスキーの詩が歌われる。友人たちがショスタコービチに決して詩の言葉をまじめに取り過ぎないように忠告したにもかかわらず、彼は次第に増加する熱情をその曲に加えた。それはバスで開始され、全合唱による「レーニン」と「闘争」の叫びが加わる。オーケストラによる間奏の後、合唱は「10月」という言葉によるクライマックスに達する。そしてついにはプロレタリアートと闘争と同じ意味で、合唱は最後の言葉「10月、コミューン、レーニン」を叫びたてる。その後、オーケストラは作品を閉じるために急いで戻ってくる。

(この解説を書いたのはデイヴィッド・ドーティ博士 Dr. David Doughtyとなっているので、原文は英語だろうが、どうも訳しにくいところがある。)

 

P.9 交響曲第3番 変ホ長調 作品20 「メーデー」

第2交響曲に続く2年後、ショスコーヴィチの「メーデー」交響曲は再び単一楽章のプロパガンダ作品であり、今度はさらに闘争よりも祝賀に関係していた。その先行者(訳者注:第2交響曲のこと)と同様に今日演奏されることはほとんどない。そして再び真の交響曲形式の試みはほとんどなく、おそらくすべてのキャンヴァスが交響曲形式での作曲というよりもさらに革命的な宣言に似ている。初演は、1930年1月レニングラードで行われた。今度もこの曲は終結部に合唱を伴う。今度は、キルサーノフ(Kirsanov)作の詩が用いられている。その詩は、戦闘準備の命令というよりも賛美歌の思想へ方向を向けたものである。先行者とは異なり、これは基本的に肯定的であり、喜ばしくさえある。しかしモットーリズムの繰り返しの使用以外はほとんど独創性に欠けている。モットーリズムの繰り返しのアイデアは、戦時の第7交響曲の開始楽章により効果的に再浮上するものである。(続く)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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