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MOZARTの本棚


 モーツァルトの隠し絵

K.550がK.467にいきなり現れるのは周知の事実。では、K.551がK.466に現れるのは?

   K.551の第一楽章の冒頭部のリズムが、K.466の低音部で何度も繰り返される!

 第九の「歓喜のテーマ」

モーツァルトの宗教曲 オッフェルトリウム「ミゼリコルディアス・ドミニ」ニ短調K.222(205a)にそっくりなモチーフが出てきて、何度も繰り返される。ちょうど、シューマンの序奏とアレグロに「赤とんぼ」が出てくるような感じ。

「英雄」の第1楽章の第1主題がジングシュピール「バスティアンとバスティエンヌ」に出てくることは夙に指摘されていた。ベートーヴェンは意図的にこれらのモチーフを用いたという仮説はどうだろうか?

第九の「歓喜のテーマ」は、同様の楽器声楽編成をとる「合唱幻想曲」にも登場するのだが、若い頃「主のおからだ」というような意味のK.222のモチーフをどこかで耳にしたことがあったのかもしれない。また、あのジャン・ジャック・ルソーが「バスティアンとバスティエンヌ」に曲をつけていたというが、フランス革命、ナポレオンとの連想で、同名のモーツァルトの曲のテーマを借りたとか…

小学館「モーツァルト全集」全15巻+別巻 視聴記

独身時代の小遣いをつぎこんで、全15巻+別巻の大部の全集を購入した。3ヶ月に一度の配本形式だったが、ボーナス一括かなにかで注文してしまった。オペラなどは半分以上じっくり腰を据えて聞いていない。時間をとって聞きたいものだ。

海老沢敏先生の文学部特別講義を聴講(1983年?)

学生時代、国立音楽大学の学長で著名なモーツァルト研究家の海老沢敏教授が大学に連続講義に見えたので、学部外聴講を申し込み、聴講したことがある。一応美学の単位になっているはずだ。

文献集

アインシュタイン「モーツァルト 人とその作品」

海老沢敏「モーツァルト」(白水社)

アンリ・ゲオン「モーツァルトとの散歩」

オカール「比類なきモーツァルト」

井上太郎「モーツァルトのいる部屋」

「モーツァルトの宗教音楽」

吉田秀和「レコードのモーツァルト」

河上徹太郎「ドン・ジョヴァンニ」

小林秀雄「モオツァルト」

等、結構文献は多い。

 草稿集

●Mozartの本名 ラテン名 ギリシャ名? アマデウスとテオフィールス

●プラートの五線紙研究。ある透かしの入った五線紙を使用しているからといって作曲年代がそこまでさかのぼれる可能性があったとしても、必ずしも同じ透かしの入った用紙が同時期に用いられたとは言えないのでは? また、清書用に用いたとすれば、それ以前の作曲だとすることもある得るのでは?

 

●絶対音感 Nifty FCLAへの投稿

基準音 Aの音の変遷について。モーツアルト全集の論文への反響が乏しいようだが?

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ところでこのレスを書いている内に小学館版のモーツァルト全集にモーツァルトの絶対音感に関する論文があったことを思い出し探したところ第12巻に音楽学者の戸口幸策氏の「17−18世紀のピッチと調をめぐって」という
大変興味深い論考を再発見しました。お読みになったでしょうか。この論文は1点イ音を現在の440Hzから約半音低めにとる古楽系の奏者にとっても非常に問題提起的なものなのですが、あまり話題にはならなかったようです。

その中に15−19世紀のヨーロッパのピッチ比較表が載っています。なんと360から506Hzもの開きがあります。そういえばこれは読んだ当初モーツァルト全集の中で最も驚愕した論文でした。ちなみにモーツァルト所持の音叉は421.6、現代的な意味での絶対音感はなかった(むしろない方が便利だった)との推測が述べられていました。とりあえず440が基準の現代のハ短調(例えばですが)と19世紀前半までの(ベートーヴェンも含まれる)のハ短調では、可能性としては半音低いだけではない大きな隔たりがあったようです。(偶然440という例もあったでしょうが。)調と視角的な色を対応させたのは例のスクリャービンだったと思いますが、これとて基準音が違えばそれも相対的になりますよね。

初演当時の演奏の再演を目指す古楽奏者にとってはむしろ絶対音感は邪魔なものではないかと感じますし、上がる一方のオーケストラのピッチですから、現代楽器奏者だって同じことが言えるかも。これからの幼児期の絶対音感教育も見直されるべきでしょうか?

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● モーツァルトとベートーヴェンのピアノ五重奏曲の比較。モーツァルトが会心の作と手紙で言及しているほど魅力的には聞こえない。むしろベートーヴェン作の方が、魅力的である。とはいえ両曲ともそれほどの魅力がない。

● モーツァルトの作品は、同時代の多くの名前だけ知られた古典派の作曲家の作品をどのような点で凌駕しているのか?天才の作品だから素晴らしいと刷り込まれているが、作品が素晴らしいから天才なのでは? 伝記作者はしばしば曲芸的な才能を発揮したことに言及するが、それは大した意味は持たない。3歳でピアノを弾き、5歳で
作曲したこととか、アレグリの秘曲を一回で聞き取ったとか、エピソードとしては面白いが、それが作品の素晴らしさを証明することにはならない。

ハイドン、ミハエル・ハイドン、その他ヨーロッパの同時代作曲家。

● モーツァルトが例えばベートーヴェン程度に50台まで生きていたら?同時代様式に合わせて作風を進展させていった彼だ。ロッシーニ風のオペラの大ヒットを目の前にして、ブッファの傑作をもっと残せたか?ベートーヴェンには、壮大な作曲プランがあったようだが、モーツァルトはどうだったのか?NIFTY-SERVEのFCLAで 議論になったことがあるが、モーツァルト何て大したことのない作曲家だという問題提起があった。

彼と同時代の多くの作曲家の作品が現代では、殆ど忘れ去られているのに、彼の作品は、幼年期の作品から断片までが演奏され録音されている。彼の作品と今は忘れられた多くの同時代の作品とはそれほどまでの優劣があるのだろうか? ライバルとされたサリエリを初めとして、彼の伝記に登場するちょっと先輩のクリスチャン・バッハ(ロンドンのバッハ)や、シューバルト(シューベルトではない)、マンハイムの音楽家達プラハの音楽家達、ドンジョバンニにも名前とメロディーが引用された某作曲家、もちろんヨーゼフ、ミハエルのハイドン兄弟。パリでモーツァルトを妨害した音楽家達。イタリアのオペラ作曲家達。ボッケリーニも。小学館のモーツァルト全集では、別巻でそのような作曲家達の作品を一部取り上げているし、私が所有するランパルによる古典派のフルート協奏曲集などでも部分的にそれらの作曲家達の音楽を聞くことができる。もっとも、それらの作品の演奏者は必ずしも一流の人とは言えないので、作品の真価は即断できないし、名作と言われるモーツァルトの曲さえ凡庸な演奏だと感動を与えてくれないこともあるので、優れた演奏家が優れた演奏をして初めて作品の真価が分かるということを留保しておかなくてはならない。評価が決まっている大作曲家の作品を、人が(世の中が)いいというからいいという鑑賞態度が問題だ。この問題は、古典はどのように成立するかの問題でもある。ケッヘルによる作品目録以来、どうも私たちは、知識的感心でモーツアルトに接しがちであり、彼の伝記があまりにも面白いのでついそのような態度で作品を鑑賞しがちである。受容の態度について、再考が必要ではないだろうか?もっとも、彼の多くの作品に感激し、音楽の素晴らしさに陶酔したことは私の音楽経験の基礎となっていることは主観的には紛れもない事実である。

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