小澤征爾についての雑感

小澤征爾氏は現代日本が生んだ指揮者界のスーパースターであることは言うまでもありません。私自身クラシック音楽に興味を持ち始めた時期が小澤氏のボストン響の就任時期と同時期だったため、小澤氏の快進撃には諸手を上げて応援していた口です。小澤氏の生演奏は実際には二回しか聴いたことがなく、彼の演奏について云々するのはおこがましいですが、近年彼の評価がますます高まるのに反比例して、私個人の感動が薄れていくのがなぜだろうというのが下記の文章をまとめた動機です。私自身の変化なのか、彼の変化なのか?

○サイトウキネンフェスティバルについての疑問

WWWにはホームページを開設していなかった?(1998現在の検索)

現在はあり http://www.matsumoto.ne.jp/user/skf/

海外のクラシックサイトでも取り上げられていないようだ?
→ 世界的と言えるか? 国際音楽ジャーナリストの取材は?

TIMEで初年度に取り上げられたことがあるくらい?

桐朋学園の同窓会的な乗りが国内楽壇の嫉妬と反発を買っているのでは?(憶測)
排他性がある?芸大その他音大からの反発? (憶測)
開かれていない? 小澤がプロデューサー? (憶測)

チケットが取りにくいので聴きたくても聴けない人が多い
長野県内優先は販売は問題ではないか?(知事コネクション?前吉村知事時代)

松本の地理的条件の悪さもあるか? ようやくジェット機発着。

同時期に桐朋の先生だった吉田秀和氏、柴田南雄氏などはサイトウさんばかり持ち上げられたら面白くない(なかった)のでは?(憶測)

県、市、スポンサーの財政負担問題は(憶測)。

財団理事のスキャンダル。

CAMIの世界戦略。

 

○小澤の音楽性について

感覚的な表現に優れ、 武満、フランス音楽演奏の評価が高い。
しかしフォーレにしても透明度のない感覚的に澄んでいないので
評価は辛い。

アンサンブルを整えるテクニックが優秀なのではないか?
合わせ物も巧いと言われる。

以前はしなやかなフレージング、自然な呼吸を思わせた。


しかしメロディーを唸ることによってオケの立体的な表現が浅くなるのでは?
メロディー中心の音楽になり勝ちでは?

暗譜にこだわりすぎ? 全体の構成的な見通しはよくなるのだろうが、充実感に欠ける
要因か?

小澤の著書に書いてあるがカラヤン風の盛り上げをワンパターンに踏襲していないか?しかしカラヤンとは違い粘りがない。クライマックスでの息切れ畳みかける持続力が欠如

なぜか精神性、深さを避けようとする。 誠実に楽譜を音にするだけでは伝わらない何かが欠如? 残酷さ、醜さを避けようとすることで、深さや崇高さが欠如?音楽は美しい物、素晴らしい物という信仰に捕らわれすぎているのでは?

若い時の教育が小澤を作った(ドイツ古典、ロマンの交響曲を中心に教育
を受けた)というが、それらの評価が芳しくないのはなぜか?

オペラを勉強する機会がなかった?  Cf)若杉弘、小林健一郎

ヒッピースタイルを何時ごろからか辞めてしまった。(ベ平連の小田もとんと名前を聞かない。)

エスタブリッシュになってしまった。
普通の人間。天才性がない。神秘性がない。

欧米で評価されて、日本に凱旋。日本では権威のN響芸大派に嫌われる?
池田満寿夫などと同じ境遇? 多くの日本人デザイナーも欧米で評価され
てから日本でも商売になっている。

カロリーが低い(食べ物の差、体質の差?)。 体力、知力の強靱性の違い。
粘りがない。あっさりしている。

マーラー指揮者としての凋落。DGの1番を出したころ。8番を出した
頃までは良かった。全集は全く物足りない。

ベートーヴェン、ブラームス、モーツァルトといったオーソドックスなレパートリーの評判が良くない。

暗譜の勉強しかしていないのではないか?音楽のもっと深いところにある感覚だけではないもの、人の心を震わせるものへの洞察力が欠けているのではないか?

アバド、ムーティ、レバイン、小澤、マゼール、バレンボイムなど第一線の指揮者の音楽にもう一つ全人格的な魅力が感じられないのは、なぜか?現代の反映か?カリスマ性がない。万能。技巧的に達者すぎる。多くの音楽が彼らには簡単過ぎる?

加えて音として表現するのは、今やアマチュアでもできる時代になってしまった(FCLAのアマチュア奏者の会話を聞けばそれが当たり前のようだ)。それ以上の魅力は与えるものは何か。技巧的な巧さ。磨き抜かれた音色。感性や
思想は磨きようがない。没個性なのである。下手でも音楽を聴かせてくれる人はプロとして生き残れなくなってしまっている。なにもいじらないMIDIデータと同じだ。

演奏者自体に新鮮な感激が薄れてしまっているのも問題だろう。誰がどこでどんな演奏をしたのかが、直ぐに分かってしまう時代で、神秘性や深遠さなど持ちたくても持てない時代だ。神秘性を演出している?チェリビダッケやカルロス・クライバーには人気が集まる。

アマチュアリスナーでも聴きすぎると知識は増えるが新鮮な感激が薄れてしまう。FCLAはそういう意味で聴き過ぎの人々の集まりで、中高生が味わうような原初的な感激の文章が生まれにくい。周辺的な話題、コレクションの話題
等々感激とは別個の文章が多い。

小澤は唸るが、小澤節はオーケストラからは聞こえない。標準的過ぎる?むしろ機械的過ぎる?そこが小澤的と言えようが、それなら現代の他の巧い指揮者と変わらない。

○CD短評
ベートーヴェン 第三「英雄」 サンフランシスコ響 フィリップス
 : うねりのない整然とした演奏。優等生的?迫力に欠ける?

ベートーヴェン 第五 ボストン響 テラーク
 : 整然とした演奏。躍動的であるし、熱も欠けていないし高揚感もあるのだが、聴きおわった後の印象が散漫になってしまう。

同上 第五ピアノ協奏曲 ゼルキン ボストン響 テラーク
 : ゼルキンならではの特徴のあるピアノが聞ける。小澤の指揮はやはり特徴がない。

同上 第九 ロンドン響 フィリップス
 : 響きが薄く、そのせいか線が細い。整然としている。

ブラームス 交響曲全集 サイトウキネン フィリップス
 : 弦楽器のアンサンブルが冴えていて艶があるのが特徴だが、コクがない。音はよく鳴っているが、それだけ? テンポも快適だが、酔わすような、抉るような魅力がない。ハンガリアンダンスはただ元気がよくうるさい。

ドヴォルザーク 「新世界より」 サンフランシスコ響 フィリップス
 : すっきりしたケレン味のない演奏。それゆえ面白さがない。第四楽章での息切れ。唸り声。

ドヴォルザーク チェロ協奏曲 ロストロポーヴィッチ ボストン響 エラート
 : 録音に不満。自然な音かも知れないが、何だか弱々しい。空虚さが漂う。

チャイコフスキー 第四 ベルリンフィル DG
 : とにかく騒々しい演奏。しかし熱い血が通った騒擾ではなく、何だか白けたうるささ。

チャイコフスキー 第六「悲愴」 パリ管 フィリップス
 : あまり聴き込んでいないので何とも言えないが、さっぱりしたローカロリーのダイエット食品のような悲愴。木管が冴えている?

フォレ 管弦楽曲集 DG
 : 期待に反してオケの音が磨き抜かれていない。録音も不鮮明。これが小澤の求める音なのか?

ラフマニノフ ピアノ協奏曲第三番 キーシン ボストン響 RCA
 : とにかくオフマイク。もどかしい録音。欲求不満になる。キーシンのカーネギーホールのリサイタルとの差が大き過ぎる。

ストラヴィンスキー 春の祭典 ボストン響 フィリップス
 : 最近あまり聞いていないので特徴は忘れた。C.デイヴィス/ACOの充実感のある響きと迫力に比べたらおとなしい。

R.シュトラウス ドン・キホーテ マ ボストン響 CBS
 : 他の演奏と聴き比べたことはないが、手応えがない感じ。

マーラー 第一 ボストン響 フィリップス
 : 特に不満の大きい演奏。第四楽章だけ空しい大音量で、先行楽章の生命力のない響きにイライラさせられる。

マーラー 第四 ボストン響 フィリップス
 : クーベリックの素朴さと聴き比べると洗練された演奏だということがよく分かるが、歌わない。第四楽章の表情も愉悦感がない。カナワの歌唱も相変わらずの癖のある発声と発音の癖が気になる。

武満徹 ノヴェンバーステップス トロント響 RCA
 : 初演者だけのことはあり、自信に満ちた演奏。伸び伸びと指揮しているようだ。

メシアン トゥランガリラ交響曲 トロント響 RCA
 : 私が35歳前後に初めて聞いた曲なので、把握ができない。凄まじい音の洪水である。こんな大曲を指揮できる指揮者は当時余りいなかった。これがN響事件の発端となった曲である。

ストラヴィンスキー 火の鳥 パリ管 EMI(LP)
 : めくるめくような色彩的なオーケストラの運動を味わえる。小澤の代表作かも知れない。音に力がある。

こうしてみると結構小澤の演奏を聞いている。まだ一杯出ているのは知っているが今やどうしても聴きたい指揮者ではなくなっている。近くに来れば聴きたいが。

○小澤への過剰期待と過少評価について

 ずいぶん以前福永氏が存命だったころの音楽現代の小澤特集にあったが、過剰な期待が過少評価につながっている面もある。島国根性による傑出した才能の足の引っ張りという点からは小澤は超越している。世界で最も有名な指揮者の一人となったため、過去の大巨匠達の録音と比較せざるを得なくなっているのは確かだ。現代の一流指揮者の中で過去の大巨匠と並べられる程の演奏をする人は他にいるか?(魅力的な演奏家はいるが)
過去の巨匠達でさえ、同時代人からは散々なケチをつけられたりしていたのだ。故人となってから冷静な評価が可能になったのだ。
 「小澤なんて」ということで、自分の鑑賞眼(耳)の優越性を誇示したいというところがリスナーにはある。(「カラヤンなんて、ショルティなんて」と同じだ。) あまり周囲のディレンッタントが褒めそやすと天の邪鬼な気分になり、却って貶すことが多くなる。
 ボストン及び東海岸での小澤評の厳しさが時折聞こえてくる。マーラーは振るが、ブルックナーはあまり振らない。
モーツァルトは苦手意識を持っているようで(ザルツブルクデビューのコシファントゥッテの悪評)、演奏も録音も少ないようだ。オペラもオペラ通には変だと言われる。
 他のメディアで語り尽くされていて新たな発見や視点がないため、フォーラムでは二煎じの発言になりがちで発言しにくいため、発言が少ないということもある。
ボストン響までトントン拍子で出世したが、そこで行き詰まってしまった。豊臣秀吉的な立身出世物語の主人公としては、魅力がなくなってしまった。サイトウキネンを作り上げて親分になったことへの毀誉褒貶。N響事件の波紋。
小澤の才能を愛した大家たち ストラヴィンスキー、カラヤン、バーンスタイン、メシアン、武満徹といった人達が相次いで亡くなったのも彼の評判が落ちた理由かもしれない。


ボストン交響楽団
・シンフォニーホールの響きは低音が軽くて好きではない。小澤の録音だけではない。
C.デイヴィスのイタリアなども低音が弱くて不安定な感じが絶えずつきまとう。
・貴族主義的な楽団、フランス的な楽団、金持ち楽団等々の評判
・ビッグ5の座を落ちた? シカゴ、クリーブランド、フィラデルフィア、
ニューヨーク、ボストンと言われていたが。ロス、サンフランシスコ、
セントルイスなどなどがとって変わっているのか?
・クーセヴィツキーの録音はあるのか?
・ミュンシュ
・ラインスドルフ
・スタインバーグ
・小澤
・ハイティンク、C.デイヴィス
・学術都市としてのボストン ハーヴァード、MITIなどの存在
・タングルウッド音楽祭

日本人としての限界
サイトウキネンのブラームス全集を聴いてみて、その演奏が見事であればあるほど何か空虚なものが現れて来るのは何故か?
ヨーロッパ人の演奏でも近年の国際化したオーケストラの演奏ではそういうものが多いようだ。
一概に日本人としての限界とは言えない
いい人でありすぎる。セルのように周囲に敵をつくっても我が道を行くというのではない。
(1998/09/18 初稿、2000/01/13 改訂)


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