黒の指輪
メジナの雫通り。
力を失った人間が雫のように死んでいく事から付けられたという、貧民街。
その中に、簡単な地図を持って割り入っていく男があった。
男は武装していた。
幾多の戦いで体を守ってきた、胴と頭を守る鎧を身に纏っている。
背中には、ボコボコの丸い盾と柄の色あせた長剣を携えていた。
町を歩くのには必要のない装備である。
だが、彼…傭兵にこの依頼を持って来た口入れ屋は、「武装して来い」と言った。
言われた通りの戦装束。
入り口の外観からして場末の雰囲気を漂わせる町に、その姿は似合わない。
それは、町中のみすぼらしい光景に、傭兵の武装が立派に見えるからだった。
傭兵は雫通りの中程にある、ボロボロの宿にたどりついた。
口入れ屋によれば、ここの2階に依頼人がいるという。
宿の2階の一番奥の寝室、というよりは物置に近い部屋に、依頼人はいた。
ノックをして扉を少し開けた。
扉の先から、何やら冷たい気のようなものが漏れてくる。
(なんだ?)
目をしかめる奥から、男の細い声がした。
「御待ちして居りました。『貪欲なスウィフト』様ですね」
「あんたが依頼人か」
「この宿の持ち主をしております。中へどうぞ」
スウィフトと呼ばれた傭兵が、中に入る。
部屋の中には、黒い緑に汚れきった全員鎧一式が、鎧掛けの棒に納まっていた。
「これか?」
「はい。この鎧がこの宿に運び込まれましてから、幽霊が見えるやらたたりがあるやらで、客が立ち退いております。そこで、どうしたら良いものかと口入れ屋に相談致しましたところ、貴方様を紹介されました」
「俺が?」
「はい。私もてっきりまじない師の方を紹介されるかと思いましたが、アーヤンテル様はスウィフト様を御指名なさいました」
アーヤンテル。
メジナにいる口入れ屋の中で、もっとも危険な依頼を紹介しているともっぱら評判の男。
『銀龍亭』の奥に机を構えるその男は、銀の仮面を常に身に付け、誰もその素顔を知らないという。
スウィフトは鎧に近付いた。
鎧から発せられているであろう冷たい気がスウィフトにまとわりついてくる。
「いかがでしょう?」
主が怪訝そうに様子を伺う。
「相当使い込まれた鎧だ。何より、血の匂いが今でも漂っている」
「血…でございますか?」
「あぁ。長く戦いに身を置いてるとな、戦うのに必要な感覚が磨き込まれていくんだ。目、耳、鼻…あんたの客の扱いと同じようにな」
スウィフトが、鼻を利かせて丹念に鎧を見定めていく。
戦で鋭さを養った嗅覚に、さまざまな匂いが入り込んでいく。
人間の返り血。
馬の血。
黒魔の甘い体液。
ヴァルトの障気。
土鬼独特の強い血の匂い。
そして…股ぐらの辺り、一際強い人間の血の匂い。
「女か?」
だが…鎧全体からにじみ出る、この冷たいものは何だ?
「主人、この鎧はどこから運び込まれたか覚えているか?」
主人は細い声ながら、はっきりと答えてくれた。
「はい、一月ほど前、スイネからこちらに持ち込まれた物でございます。しかし、この鎧を御持ちになりました…」
「離れろ」
突然離れろといわれた主は、物事を理解できていない。
「危険だ。すぐに宿を出た方が良い」
「は、はい」
主が急いで部屋を出て行く。
「それから、この辺りに退魔師か破魔の射手がいるなら、すぐに呼んでくれ」
「退魔師様か破魔の射手様でございますね、すぐに手配致します」
スイネから持ち込まれた物だったら、この冷気はすぐに見当が付く。
龍の血。
スウィフトが鎧から一歩離れ、背中の盾と長剣…いや、部屋の中では狭くて振り回せない。
腰の中剣を引き抜き、防御体制を取る。
スイネから来たとなれば、『龍殺しのギルサス団』が着ていた鎧か?
だが、ギルサス団に女はいなかったはずだが?
だとすると『獅子王教団』?
一体、どんな女がこの鎧を着ていたというのか?
(嫌)
嫌?
誰だ?
それとも、この鎧が嫌と言ったのか?
(嫌…私を汚さないで)
「汚す?そんなつもりはない」
女の声にならない声。
その声に、思わず声を出して答えたスウィフト。
「俺は…お前、いや、おまえの着ていた鎧を調べに来た。汚そうとも、壊そうとも思わない」
(私を汚さないで…その腕で、その足で、その言葉で)
スウィフトは腕を見た。
町にいる時はきちんと体を清めている。
足もだ。
言葉が汚いのは…傭兵の性分だから仕方がないのだが。
だが、相手を汚す物はしっかりと身に付けている。
「これか?」
スウィフトは持っていた剣と盾を床に置いた。
ついで、鎧も脱いだ。
「これでどうだ?」
女物の全身鎧の前には、平服の男が立つ。
(ありがとう…)
鎧から流れる冷気が、ふっとなだらかな流れになる。
「なぁ、あんた…男の前で鎧を脱ぐことがなかったんだろうなぁ…」
(………)
鎧の冷気が少しずつ上に立ち登り、人間の姿を作り上げていく。
少しして、スウィフトより少し背の低い、髪の短い女のシルエットが出来上がった。
「お前は…龍にやられたのか?誰を殺された?」
(私は…)
「そうか…」
傭兵の姿を脱いだスウィフトと、鎧から出た女の、まるで満たされぬ魂を埋め合うかのような、心の会話が続く。
スウィフトは鎧に向かって声を出す。
鎧は傭兵の言葉に想いを膨らませていく。
思いを決めたあの人は傭兵だった。
あの人に思いを伝えようとしても、連日の転戦で会うこともままならない。
なら、私もあの人と同じ戦びとになって、せめて戦場だけでも一緒になりたかった。
やがて、あの人がスイネの龍退治に加勢すると聞き、私も馳せ参じた。
そして、やっとあなたに巡り合うことができたのは…
ドタドタと床の軋む音が近付いてくる。
「スウィフト様!」
宿の主が、スウィフトに言われた通りの破魔の射手(戦車座の魔道師)と、万一のために死霊使い(翼人座のまじない師)を連れて戻ってきた。
ドアが開くと同時に、スウィフトの前にいた『女』は姿を消してしまった。
主と魔道師たちの前にいたのは、汚れた全身鎧の前に立つ、装備を外した傭兵の後ろ姿だった。
「スウィフト様、魔道師様を御連れしましたが、これは…」
部屋の中を一瞥した破魔の射手が、死霊使いと共に部屋を後にする。
「我らの出番はなかったようですな…」
スウィフトは大きく深呼吸をした。
「主、この鎧はもう安全だ」
一体何があったのか分からない主。
「この鎧の持ち主は、恋い焦がれた男に会うために戦場に身を投じた女だ。よほど惚れたのか、逢いたい一心が鎧に移ったようだ。そして、その男に会うことができたのは、女が死ぬ間際だったんだろう。恐らく、ここに持ってきたのもその男だ」
「では、なぜ貴方様が…?」
「戦う男に恋をした女だが、普段の戦っていない自分に未練を残していた。目的を果たすために戦っていたら、普段の自分が空しくなったというところか。同じ境遇の誰かに聞いてほしかったんだろう。まったく、アーヤンテルも泣けてくる依頼を持ってくるもんだな…」
鎧が安全になった、と聞いて、主はほっと胸を撫で下ろした。
「さてスウィフト様、この鎧はいかが致しましょう?」
「そうだな、綺麗にして花でも持たせてやれ。女の鎧に血の匂いは不相応だ」
* * *
後日、鎧職人がこの全身鎧を洗浄し、修理したところ、銀のエングレービングが美しい緑色の全身鎧に仕上がったという。
その鎧は、雫通りの古びた宿の中にあって、異彩とも言える輝きを放っているという。
その横には、同じく想いを果たせぬままに帰らぬ者となった歩兵の鎧が並べられている。
戻る
夢の終わり