1−G ベルナデッタが故郷ルルドを離れるまで

1858年

(14歳)

7月

 この年の始めまで、ベルナデッタは、自分の山あいの方言しか話したことがなかったし、フランス語は彼女にとっては外国語だった。だからベルナデッタと訪問者との間には、分からないところも出てくるし、勘違いも起こる。彼女はそれに気づいたので、七月からは出来るだけ、フランス語を使おうとした。それでも、ある新聞記者の話によると、ベルナデッタのフランス語は間違いだらけであった。

 新聞記者    「フランス全国で、お前の話ばかり出ているんだから、嬉しいだろうね

   
   ベルナデッタ  「私は全然気にしていない」    
   新聞記者    「でも、幾つもの新聞に、お前の名が出ているよ。それは聞いているだろう?」    
   ベルナデッタ  「はい、聞いています」    
   新聞記者    「新聞を読んだ?」    
   ベルナデッタ  「いいえ、私は殆ど字が読めないから

 

   
9月半ば  ベルナデッタの健康を気づかった医師の忠告に従い、スビルー一家は牢獄跡(カショー)を出て、菓子屋で飲み屋のドリクという人のところの一部屋を借りた。    
11月17日  タルブの司教に任命された「ご出現」調査委員会が発足した。11月17日、ヘルナデッタは初めて教会からの正式な尋問を請けた。    

1859年

(15歳)

 この年の始めに、グラの水車小屋が空いたため、フランソワ・スビルーは再び水車小屋で働くようになった。    
9月  この頃、ベルナデッタは、いろいろな事のためにひどく忙しい毎日を送っていた。第一に、家の者を助けるために、子守をしたりして働いた。第二に家事手伝い、長女としての務めを果たしていた。特にいたずらばかりする妹のトワネットを監督しなければならない。第三は、毎日思うように学校へ通えないので、アントワネット・タルディヴァイユ女史のところへ行って勉強していた。第四は、訪問客の質問に答えなければならなかった。    

1860年

(16歳)

7月15日

 ベルナデッタは、何十人、何百人もの訪問客の殺到を避けルために、ルルドの病院のシスターのところで、生活するようになった。病院に補助金を出しているルルドの村長ラカデ氏は、ベルナデッタのために、例外の措置を、講ずることにした。彼女を入院費の払えない患者として、入院させることである。ベルナデッタの両親も、ベルナデッタと同じぐらいに、別れを嫌がった。しかし、ベルナデッタが、これからもいつも、一人のシスターと一緒に家に来られると言ったので、やっと両親は承知した。

 7月15日の日曜日、ベルナデッタは病院に移った。そして、後にルルドの土地を離れるまで、この病院がベルナデッタの住まいとなった。ようやく、ベルナデッタの保護されるところが見つかったのだ。

ルルド写真集 NO.4

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1861年

(17歳)

 この年の終わりに、初めてベルナデッタの写真が撮られた。小神学校の化学の先生であったベルナルドゥ神父が、ペラマール神父からの許可をもらって撮った写真である。多分、病気がちのベルナデッタは長生きしないと人が思っていて、その写真を形見として、とっておきたかったのではないかと思われる。

 激しい喘息の発作が起こることがしばしばあった。この発作が最初に起きたときには、ベルナデッタの両親が呼ばれたほどである。

   

1862年

(18歳)

1月18日

 タルブの司教は、司教教書を出して「私たちの考えでは、神の母、けがれのないマリアは実際にベルナデッタに現れたことを信じ・・・・・そこでこれを発表する」と声明した。    

1863年

(19歳)

 

この年は、ベルナデッタにとって、今までと同じような学校での寄宿舎生活と、訪問客にしばしば会わされる毎日の一年であった。

 9月27日、ヌベールのフォルカード司教◆がルルドに来たとき、彼はベルナデッタに「たとえ、持参金がなくても、本物の『召し出し』があると認められれば、修道院に入る道はありますよ」と言った。しかし、ベルナデッタは反論した。「持参金がなくても入れることがあると、司教様がおっしゃるのは、恐らく非常に頭がよくて、手が器用で、役に立つ人のことでしょう。私は何も知らない、何も出来ない者なのです」それを聞くと、司教は言った。「今朝、私が見たところによると、お前には何かが出来る、ということを確認出来た。それはね、にんじんの皮をむくことだよ

 10月には、ベルナデッタの第二回目の写真が撮られた。

 

◆このフォルカード司教は、1844年、フランスの軍艦に便乗して、日本布教のため、琉球那覇に上陸し、二年間滞在、。彼は長崎上陸には失敗した。マカオで日本司教に叙階されたが、健康を害し、後フランスに帰って、ヌベール教区の司教となどを歴任、エクス大司教となった。

 志村辰也「ルルドの出来事」P192による

教文館「キリスト教大事典」P.899

1864年

(20歳)

3月5日

 ベルナデッタと結婚したいという人が、現れた。名前はラウル・ド・トゥリックビルといい、ナントの医科大学でインターンをしていた。「これについて、ベルナデッタがどう思ったかは知られていない。」とローランタンは言っている。しかし、青年自身の言葉によると、タルブのローランス司教は「この願いが全く不謹慎なもので、聖母マリアのお望みに反することだ」と答えたそうだ。

   
4月4日  ルルドの聖母マリア像の除幕式。制作はファビッシュという彫刻家。この像(現存)については、ベルナデッタは「似ていない」とかなり厳しいことを言った。ベルナデッタも、ペラマール神父も、この除幕式に出ることが出来なかった。

 同じ日、4月4日にベルナデッタは自分の一生を決める大決心をした。ベルナデッタは修道院長シスター・アレキサンドリーヌ・ロックのところへ行った。「院長様、私は今になってやっと、どこの修道女にならなければならないかが分かりました」院長が「どこでしょうか」と聞くと「院長様と同じところです」◆と答えた。

  ◆ヌベール教区のフォルカード司教が、サン・ジルダール修道院の総長メール・ルイズ・フェランに「ベルナデッタを受け入れては」と提案していた。(「聖ベルナデッタ−その体について P3)

10月14日

11月19日

 

家族と一緒の休暇を、モメール(タルブ市の南5kmにあるMomeresであろう・・・大魚)で過ごすことが出来た。

 11月19日、ルルドに帰ってきたベルナデッタは、ヌベールの修道院入会志願が受け入れられたことを知る。

   

1866年

(22歳)

5月19日

 ベルナデッタ、洞窟の大聖堂の地下道の落成式に参加する    
7月3日  この日の晩、ラカデの水車小屋に、家族全員が集まった。この時、母ルイーズは既に病気にかかっていた。ベルナデッタが別れたのは、夜の十一時頃であった。    

7月4日

(水曜日)

 タルブの駅から汽車に乗って、ヌベールへ出発した。ルルドとその山々は遠くなって行った。    

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