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ワーグナー 「ラインの黄金」 (2004年9月10日〜2004年10月29日の日記より)
第一場 聖なる波の下で黄金は目覚める
コントラバスが大地の胎動を告げ、ファゴットが風のざわめきを伝え、ホルンがゆっくりと上昇し、重なり合い、やがて弦が水の揺らめきを描き出します。天地創造、キリスト教世界では「光あれ!」ですが、ゲルマン神話の世界では世界は水から始まります。
いつとも知れぬ時代、ライン川の水の底、水面の煌めきを映す薄明かりの中、ヴォークリンデ、ヴェルグンデ、フロースヒルデ、3人の水の乙女が戯れています。
聖なる波よ!ヴォークリンデの歌声にヴェルグンデが応えます、あなた、ちゃんと見張っているの?見張っているわよ、ホントに?水中を自由に行き交っては遊び戯れる二人。更に水面からフロースヒルデの声、「黄金の微睡み」をちゃんと注意して見守っているの?遊んでいると罰が当たるわよ!フロースヒルデが一人を追いかければもう一人がするりと現れ、こちらを追えばもう一人がゆらゆらと戯れ、3人の乙女は魚のように岩から岩へ泳ぎ回ります。
その美しい様をじっと見つめているのは小人のアルベリヒ。何て可愛いんだろう!俺はニーベルハイムからやって来たんだ、俺に惚れちゃくれないかい?
誰?暗がりに誰かいるわ、あの汚らしい男よ。
見惚れていただけさ、俺と一緒に遊ばないか?私たちがお前と?バカにするつもり?何てきれいなんだろう、一人だけでいい、この腕に抱かせておくれよ!何てことはない、ただの恋煩い男よ、いけ好かないヤツ!ここまで登っておいで!
岩に取り付いてよじ登るアルベリヒですが、水苔に覆われた岩はツルツルで悪戦苦闘。ご立派な求婚者が喘いでいるわ!笑うヴォークリンデに抱きつこうとするアルベリヒ、ここまでおいで!するりと他の岩に飛び移るヴォークリンデ、慌ててヨタヨタと後を追うアルベリヒ、こらこら、逃げるなよ。
私はこっちよ!ヴェルグンデの声、俺を呼んでいるのか?そう、私の方が良くってよ!おっしゃー、慌てて別の岩をよじ登るアルベリヒ、あんたの方がよっぽどきれいさ!そのほっそりした腕で俺を抱いておくれよ。美男気取りなの?嫌らしい道化のくせして、誰かゲテモノ好きの女を探しなさい、ほらっ、私は逃げるわよ!畜生、嘘つき女め!
三番目に言い寄ってみたらどう、妖怪さん、今度はフロースヒルデの声、誰かが俺を気に入ると思ってたよ、本気ならこっちに来ておくれ!お姉様方はホントにバカよね、あなたの美しさが分からないなんて、さぁ、歌ってちょうだい、私の愛しい方!そんなに誉められりゃ身も心も震えちまうよ。ヒキガエルのような有様にカラスのような声、もうシビレちゃう・・・。
俺を笑っているのか?とどのつまり、お前なんか誰も相手にしないのよ!3人の乙女の笑い声。畜生、何て情けない!俺を騙しやがって、情けを知らぬのか!
妖怪さん、そんなことじゃ恋はできないわ、恋している女なら捕まえなくちゃ、びくびくしないで、さぁ!怒りと恋が俺を駆り立て、狂わせる!捕まえてやるぞ!
やけくそというか火事場の馬鹿力というか、猛烈な勢いで岩から岩へ飛び移るアルベリヒ。不意に水を通して一筋の光が差し込みます。その光に応えるかのように一つの岩が金色に光ります。
太陽が眠れる黄金に挨拶しているわ、黄金が微笑んでいるわ・・・、ラインの黄金、ラインの黄金!
ありゃ何だ?一心に金色の光を見つめるアルベリヒ、水遊びの道具か?
このラインの黄金で指環を作れば、それは無限の力、世界の全てを与えてくれるの、だから私たちが守っているのよ、誰がこの黄金を鍛えられるか?それは愛を諦めた者、愛の喜びを諦めた者だけがこの黄金を無理矢理に指環にすることができるの、だから心配は要らない、誰も愛を諦められはしないから。あの好色な小人は勿論のことね、だって恋の炎に身を焦がさんばかりですもの。
世界の全てがこの手に?俺は愛を意のままには出来ぬ、だが情欲なら操れるとも!バカにしてるがいい!凄まじい勢いで黄金目指してよじ登るアルベリヒ。
あの男ったら、とうとう気が狂ったわ!3人の乙女が大笑いする中、岩の頂にしがみついた小人、恐れるがいい!お前達の光を消してやる、黄金を奪い指環を作る!よく聞け、俺は愛を呪ってやる!岩の頂きから黄金をはぎ取ったアルベリヒは、あっという間に水の深みに消えていきます。
辺りに闇が立ちこめて、3人の乙女の嘆く声、黄金を返して、誰か助けて!
ラインの流れと共に水の底へ落ちていく3人の乙女を見送るかように、アルベリヒの嘲りの声が暗い水を揺らします。
着想から完成まで28年、上演に四夜、十数時間を要する音楽史上最大の作品の幕開けは、実に簡素です。登場人物はたった4人、舞台は終始水の中、人物たちが繰り広げるのは鬼ごっこ、かつて世界はかくも単純だったのです。
前奏曲がクレッシェンドで頂点に上り詰め、幕が上がるといきなりヴォークリンデの原始の叫び、「ヴァイア!ヴァーガ!ヴォーゲ!ドゥー・ヴェレ!」、意味不明の叫びの中から古のドイツ語「wag(波)」が立ち上がります。
その所有者に、この世を思いのままにする力を与えるという黄金を守るのは3人の乙女、それほど大切なものなら武装した猛者どもを配置するのが当然かと思うのですが、この黄金はとっておきの最終兵器に守られております。それを行使するには愛を断念しなければならない、愛を断念できる者などあり得ない。ラインの守りが至ってお粗末なのは愛への信頼ゆえ、その愛が冒頭であっさりと敗北します。愛は復活の時を待たねばなりません。
その黄金、本来の所有者が不明です。乙女たちが「お父様」と歌うのですが、そのお父様が登場しません。ライン川は「男性」とされておりますので(これに対してドナウ川は「女性」とされています)、ライン川そのものが黄金の所有者なのでしょう。黄金はそもそもが自然の所有物だったのです。ところが人の文明がその黄金に権力と富という意味を与え、それを指環にする技術を開発し、ただの「光る石」に「世界を支配する力」を与えてしまいました。
黄金と人間のお付き合いは紀元前5000年くらいから始まります。精錬技術が発達する以前には黄金はおそらく砂金の形でしか手に入らなかったでしょう。川こそが人間と黄金の最初の出会いの場だったと思います。太陽のように目映く、決して錆びることのない黄金はたちまち人の心を虜にします。やがて黄金は権威の象徴として時の権力者の身を飾り、そして最強の交換手段として富の象徴となり、紀元前600年当たりからは公式通貨そのものとなります。何しろ供給量が自然という「中央銀行」によって決められているわけですから、インフレにもデフレにも強い、自然が生み出した最強にして最後の通貨です。
ラインの乙女たちが守る黄金はそのままでは意味をなしません。それを指環にすることで世界を支配する力がもたらされます。狩猟や農耕で生きていく人間には指環は邪魔だったでしょう。人の歴史に指環が登場するのは古代エジプト、要するに自分の手で労働する必要のない支配者の誕生が即ち指環の誕生です。西洋では指環は、人差し指なら大胆、中指なら分別、薬指なら愛情、小指なら傲慢の象徴とされています。つまり、指環には意味があり、その使い方によって、祝福ともなり、呪いともなり得るのです。
自然の懐に抱かれているうちは何の力も持たなかった黄金に、人は指環という支配者を象徴する形を与え、やがて、その指環は人間の欲望によって磨かれて輝きを増し、己を持つ者に権力を与え、持たざる者に屈服を強いる。この時以来、黄金は全ての人の憧れと怨嗟の的となり、いくら持っても満たされない飢餓感と、それ故の征服欲を植え付けます。黄金は愛(それは男女の愛とは限らない、あらゆる人間の絆です)を犠牲にしても手に入れたい力そのものに変貌しましたが、その力は所持する黄金ゆえ、そして、さらなる黄金はそれが与える力ゆえ、権力と欲望の無限連鎖の環、人が黄金に意味を与えてしまった瞬間、実は黄金は既に「指環」に変貌してしまっています。
そして今、黄金は、解き放たれました。
さて、「指環」と来れば「ライトモティーフ(示導動機・・・しかし、難しい訳語だ)」です。要するにあらゆる登場人物、登場アイテムに振られたテーマソングみたいなものです。「スター・ウォーズ」のダースベーダー登場の音楽を連想して頂ければ良いと思います。これが分からないと「指環」は歯が立たない・・・なんてことはありません。当のワーグナーだってそんなこと考えていなかったと思います。こんなもん一つ一つ覚えるヒマがあるなら、全曲を通して何度も聴いた方がずっと早いし楽しいです。そのうちにイヤでも耳で覚えてしまいます。
ワーグナーはライトモティーフ使いの天才です。彼はライトモティーフを生物学的段階まで使いこなした唯一の作曲家ではないかと思います。ある旋律が生まれ、それが別の旋律に移行し、転調し、組み合わされてまた別の旋律に発展する・・・、あらゆる形に変化し、あらゆる場所に登場し、しかし、本来持つ意味を失わない、それはまるで「黄金」そのものです。
しかし、ライトモティーフはあくまでも「音楽」であって「記号」ではない、それは読み解くものではなく聴いて楽しむもの、何度か聴いているうちに、ある旋律によってある場面が不意に脳内に再現される「デジャ・ヴ」の瞬間がやってきます。何しろこの作品、ライトモティーフが数十から登場するんで、気楽にお付き合いしないと息切れしますよ。
第二場 神々の山の頂で黄金は誘惑する
ラインの水が静まりかえり、ヴァルハラの巨大建築を表す動機が天高くそそり立ち・・・。
所は変わって神々の住む山の頂、神々の長ヴォータンが何やら楽しい夢を見ている様子。あなた、起きて!とヴォータンを揺するのは妻のフリッカ、目を覚まして、寝ている場合じゃないの!
ヴォータンの寝ぼけ眼に映るのは壮大なヴァルハラ城の偉容、城が完成したのか!夢に見たような出来映え、これこそ我ら神々に相応しい・・・。何を喜んでいるの?期限が来たわ、工事費用の支払を忘れたの?忘れちゃいないが心配もいらないよ。何ていい加減な男かしら、私の妹、可愛いフライアを報酬に約束したのはあなたよ、私の言うことも聞かずに、この恥知らず!男なんてみんなバカなんだから。
おい、おい、立派な城が欲しいとねだったのはお前だぞ。それはあなたが力とか支配とかのために留守ばかりだから、あなたのせいよ。あー、これが片目を犠牲にしてまでして手に入れた女房の言う台詞かい?
助けて!、フライアが走り寄ります。巨人のファーゾルトが私を連れて行くって!ローゲはどこだ?あなたはいっつもローゲ、あんな半分しか神じゃない男に丸め込まれるなんて。そのローゲの支払プランにはフライアの件も織り込み済みなのさ、しかし、ヤツはどこにいる?
ファーゾルトとファーフナーの巨人兄弟が登場、あんたらが寝てる時もこちとらはせっせと岩を積み上げてあの城を築いた、そして城は完成した、さぁ、突貫工事の代金を支払ってもらおうか。はっ?代金?何で支払うと言ったかな?しらばっくれる気か、ヴォータン!約束通りフライアを、豊穣の女神を頂く!フライアはだめだ、第一お前らとは釣り合わん。約束を破るのか?お前の槍に刻まれたルーン文字はハッタリか?あんたは神々の長、賢いから分かるだろう、契約を破るなら巨人族との平和も終わりだ!あれは冗談だったのに・・・真に受けるんだから。俺たちが汗水垂らして働いたのは優しい女房が欲しかったから、だからフライアは貰っていくとファーゾルト。それによ、兄貴、とファーフナーが入れ知恵、フライアだけが黄金のリンゴを育てられるのさ、あのリンゴは永遠の若さを恵んでくれる、だから絶対にフライアをゲットだ!
ローゲのヤツ、こんな時に何やってんだ?ヴォータンのイライラをよそにフライアを連れ去ろうとする巨人兄弟、それを阻止しようとフライアの兄フローと雷の神ドンナーが急いで登場、彼女を放せ!この槌でどやされたいか?
まぁ、待て、ヴォータンが割って入ります。ヴォータンは私を見殺しにするわ!とフライア、あなたってヒトは何て男なの!とフリッカ。
ローゲ!やっと来た!何やってたんだ?何って、そりゃ完成した城の納品チェックですよ、それを怠け者呼ばわりっすか?屁理屈こくな、ローゲよ、フライアを報酬に約束しても大丈夫、必ず請け戻すと保証したのはお前だろう!あのね、「出来るかどうか考えましょ」って言ったんで、「出来ます」とは言ってません。ほーら、ご覧なさい、とフリッカ、こんな食わせ物を信用するなんて。ローゲの嘘つき!おっと、今度は逆ギレっすかぁ?
ローゲが愚痴ります。私はいっつも損な役回り、ヴォータン、あなたのために、フライアの代わりになるものを探して世界中を駆け巡り、いくら探しても女の愛以上に男を惹きつけるものなんて世界にはありゃしません。ところがそんな愛を諦めた男がいる。そいつはラインの乙女から黄金を奪った、ヴォータン、その黄金を元の川底に返して頂きたい、これがラインの乙女からの伝言、はい、確かに伝えましたんで。あのなー、ローゲ、空気読めよ、私は今それどこじゃないんだ!
黄金?一同興味津々です。アルプの奴だな、あのこすっからい小人だ、しかしあのニーベルングが満足するなんて黄金ってのはそんなにすごいのか?と巨人兄弟。川底にある時は何の意味もない、しかし指環に鍛え上げれば、その持ち主は無限の力を得る、とウンチクを披露するローゲ、ラインの黄金なら私も聞いたことがある、その不思議な魔力を・・・とヴォータン、その黄金でこの身を飾ったらどんなに素敵かしら?とフリッカ、全員、フライアそっちのけ。
その黄金は神々の長たる私が管理するのが良いだろう、しかし、どうやって指環に鍛えるのだ?愛を断念すればたやすいこと、ヴォータン、だからあなたには無理でしょ、それにアルベリヒが既に指環を作ってしまったとか。指環を取り上げないと大変なことになる、でも、どうやって?
奪うんですよ、とローゲ。アルベリヒは抵抗するだろうから手際よくサクサクっとね、それがあの乙女たちの願い。ふんっ、あの性悪の川の精のことなんて聞きたくないわ、いっつも男を誘惑して!妻の焼き餅をよそに物思いに耽るヴォータン。
その黄金はフライアよりも値打ちもんらしい・・・、巨人兄弟は方針変更、ヴォータンよ、分かった、フライアの代わりにニーベルングの黄金をくれ。「くれ」ったって、私のものじゃない!そこを何とかしろって、神々の長なんだから。おい、その神々の長をお前らはパシリに使う気か?ともかく、城の代金は黄金ということ、それまでフライアは預かっておく!夕刻が期限、それを過ぎれば質草は流れちまうせ。
お兄様、お姉様、助けて!フライアの叫び声だけが残ります。
やれやれ、行っちまった、あれっ、神々の姿をまじまじと見つめるローゲ。ヴォータン、あなた急に老けましたね、フロー、元気がないぞ、ドンナー、槌を握った手がだんだん下がってきた、フリッカ、烏の足跡が・・・。分かった、フライアのリンゴだ、あのリンゴを毎日食べているからこそあなた方は永遠に若い。私は半分人間だから平気だけど、100%混じりっけなしの神となるとあのリンゴがないとじきにヨボヨボになって・・・。あなた、どうするのよ!全部あなたのせいよ!
ローゲ!ニーベルハイムへ行くぞ、黄金を奪うのだ!ヴォータンとローゲは地底世界を目指します。いってらっしゃい、気を付けて、早く帰って来てねぇ、見送る神々の姿を地底から吹き上げる硫黄の蒸気がかき消します。
支払の当てもないのに大きな箱モノを発注して一人喜んでいるヴォータン、日本の地方都市の議会にも、この手の箱モノやタワーの大好きなおっさんは大勢おります。ヴォータンは神々の長であり、天上、地上、そして地下を納める最高権力者ですが、この権力、タダで手に入れたわけではありません。運命を操るノルンが語るところによれば、世界樹の森に現れたヴォータンはその根を潤す水を飲み、知恵を手に入れた代償に片目を差し出したのです。そして世界樹の枝を切り、魔法のルーン文字を刻んだ槍を作るのですが、おかげで世界樹は干涸らびてしまいました。ヴォータンの権力基盤は自然を搾取するところから始まったのです。知恵を得たヴォータンは対立する者たちと様々な「契約」を締結することで今日の地位を得たわけですが、契約というのは双方を縛ります。で、巨人兄弟のゼネコンとの契約がこじれてこの有様、というわけ。
ゲルマン神話にも登場する「お城建築費不払い問題」ですが、神話の場合は至って簡単、巨人はドンナー(トール)の槌で叩き殺されて終わりです。神話の世界のヴォータン(オーディン)はキリスト教が「契約」をもたらす以前の神、気に入らなきゃぶっ殺すまでです。しかし、ワーグナーのヴォータンはそうはいかない、彼の槍に刻まれたルーン文字は「契約」なのです。ここが辛いところです。
自らの「権力」を世界中に誇示する壮大なヴァルハラ城の代償に「愛」の女神フライアを差し出さねばならない、このヴォータンのジレンマはアルベリヒと全く同じです。しかし、あっさりと愛を捨てて黄金を手にしたアルベリヒと違って、ヴォータンは愛を知っており、幾多の女を愛し、幾多の女に愛される男です。彼には愛を捨てることなどできはしない、当然に、愛の女神であり恋女房(ちょこっとおねだりが過ぎるし口やかましいけど)の妹を巨人兄弟にくれてやることなどできっこありません。できない約束をした彼が悪いのですが、その動機も妻への愛が半分なのです。
巨人兄弟の兄ファーゾルト、フライアに恋い焦がれる彼は頑として契約通りの支払を求めます。彼はフライアが、愛が欲しい、ひたすらきれいな女房が欲しい。愚かではあっても憎めない兄に対して、弟のファーフナーは、フライアよりも彼女の育てる黄金のリンゴが欲しい。それを奪えば神々は永遠の若さを失い、やがて死んでしまうことを知っているから。弟は、兄の愚かで実直な恋心を権力奪取のために利用することも平気な根っからの戦略家です。
この巨人兄弟が利害こそ違え方法で一致している以上、ヴォータンには彼らの支払請求を退ける手だてはありません。ドンナーの振り上げるハンマーは落としどころを与えられず、ヴォータンのルーン文字の刻まれた槍で抑えつけられてしまいます。何しろ契約の世界を作ったのは当のヴォータンなのです。
そこに登場したのがヴォータンの参謀である火の神のローゲ。いー仕事してますねぇと城の出来映えを褒めるものの、肝心の建築請負契約の支払条項はすっとぼけ。ローゲはいきなり何の関係もないラインの乙女の盗難届を一同に披露します。世界には女の愛以上のものはないと浮気者のヴォータンをやんわりと皮肉った後、声を潜めて語り出すのはラインの黄金がもたらす権力、それは全員を虜にしてしまいます。ヴォータンは「指環は私が持つが良かろう」と盗難届をさりげなく「曲解」し、フリッカはその黄金で我が身を飾れば夫の浮気が収まるかと再びおねだり癖が出て、女の愛にあれほど焦がれたファーゾルトすら陥落してしまいます。
地下深くでアルベリヒが鍛えた指環は、その姿を見せる前に既に世界を侵し始めています。
ここで彼らが熱中するのはいかにして自分が黄金を手に入れるか?です。ラインの乙女のところに返却することには全員無関心。ヴォータン自身が世界樹を枯らすことで権力を得たように、登場人物たちは既に自然を傷つけることで権力や富を得ることを当然としています。かつてラインの黄金は「愛の断念」によって守られているだけで安全だったのです。しかし、今や、小人も巨人も神々も、母なる大地が産みだし、父なるラインが守ってきた黄金を、聖なる水の下から奪い去られ、新たな意味を与えられた黄金を、己の手に握りたいという欲望で一杯です。黄金は今や、愛を断念しても達成する価値のある「権力」の象徴としての指環という新しい姿を得て、あらゆる者を誘惑しつつあるのです。
しかし、ヴォータンは既に二律背反に陥ってしまっています。「愛」(フライア、そして黄金のリンゴ)と「権力」(指環)、このつくづく相性の悪い二つの価値を前にして、ヴォータンは、フライアの代わりに指環で支払をしないと黄金のリンゴ、つまり永遠の命を(そしてフリッカの愛とドンナーとフローの友情を)失ってしまう状況に追い込まれてしまいました。彼には決して指環を、「権力」を選択することは許されないのです。
ローゲ、半分神で半分人間の男は、なぜヴォータンをここまで追い詰めた?彼の半身の人間の部分が既に目覚めつつあるのか?
第三場 暗い地の底で黄金は裏切る
ニーベルハイムの暗い地下、アルベリヒが泣き喚く弟ミーメの耳を引っ張って穴蔵から登場。痛いよ、放しておくれよ!ぐずぐずしやがって、あれをよこせ!アルベリヒがミーメから引ったくったのは謎の金属製品。出来てるじゃないか、変な時間稼ぎをしやがって!どれどれ、「夜と霧のように誰にも見えない!」、弟よ、俺が見えるか?兄貴、どこだ?そら、褒美をやるぞ!見えない鞭がミーメを打ち据えます。痛い!痛いよぉ!お前の仕事は上出来だ、これでニーベルングは俺のもの、俺はいつでもどこでも見張っているぞ、もうお前達に休息はない、俺への服従あるのみ!おらおら、ご主人様が行くぞ!
高笑いしつつ姿を消す(って、もう消えてますが)アルベリヒ、ミーメがしくしく泣いているところへローゲとヴォータン登場、何を呻いている?グスン・・・アルベリヒが作った黄金の指環、その力には誰も逆らえない。俺たちは女の身を飾る物をちまちま作っていたのに、今じゃヤツの奴隷さ、掘って、溶かして、鍛えて、休みなくこき使われてヤツの前に宝の山を築くだけ。頭巾を作れって言われてさ、出来上がってみれば恐ろしい魔力をもってやがる、だから俺はそれをくすねてあの指環を奪おうと・・・。それでしくじったってわけか?俺はこの目で見たんだ、ヤツは消えてしまった、で、見えない腕が俺をぶった、俺が作ったってのに俺をぶった・・・。
ヴォータン、こりゃ一筋縄じゃいきませんよ、ローゲよ、それを何とかするのがお前の役目だろ!気を付けて、旦那方!アルベリヒが来る!
おらー、もたもたすんな!宝を積め!隠れ頭巾を腰に下げ鞭を振り振りアルベリヒ登場。ミーメ、またサボってやがる、あっち行って鍛冶仕事を始めろ!どいつもこいつも俺の鞭からは逃げられない、指環の主の命令だ!・・・誰だ、お前ら?
ニーベルハイムのアルベリヒが不思議な力を得たと聞いたので見物さ、とヴォータン。ウソこけ、欲に駆られてここまで下りてきたくせに。おい、口のきき方に気を付けろ、私はローゲ、火の神、私がいなければ誰も火を使えない、お前の鍛冶屋も上がったり、私はお前の友人だろう?へっ、神々にへつらってイヤなヤツだ!今じゃ神様かよ、お前らなんか俺は平気だぞ!
お前は今では大変な実力者だな、とローゲ。そうとも、あの宝の山を見たか?うらやましい、あれでうらやましいって?あれは一日分さ、まだまだ大きくなっていく。しかし、地の底で宝の山を抱えて何になる?とヴォータン。はっ、世界をモノにするのさ、どうやって?あんた方神々をひっつかまえてくれるのさ、俺が愛を捨てたようにあんたらは全てを捨てることになる、黄金に組み敷かれ、黄金に焦がれて、俺の前に屈服する!見ていろ、ニーベルングの黄金が地の底から天へ昇るぞ!
大した羽振りじゃないか、しかし、ニーベルングの民がお前に尽くすのは指環の力ゆえ、その大切な指環を誰かに取られたらどうする?とローゲ。ローゲ、お前は自分一人が利口なつもりか?そんなことはとっくに考えた、それでミーメに作らせたのさ、この隠れ頭巾を。これがあれば何にでも姿を変えられる、探そうったって誰にも見えない、俺は安全さ、お前からもね。
そりゃすごい!そうと来ればお前は無敵だ!しかし、そんなヨタ話を私が信じると?あっと、それなら見せてやる、さぁ、何になる?得意絶頂のアルベリヒはヴォータンとローゲの目の前で大蛇に変身します。おぉ、怖いよ!大袈裟に震えてみせるローゲ。どんなもんだい!いやー、すごい!でも小さなモノにはなれまい?いー加減飲み込み悪いな、なれるとも!ヒキガエルとかは?簡単さ、見てろよ!アルベリヒの姿は消え、ヴォータンとローゲの足下に一匹のヒキガエルが這いつくばっています。
ヴォータン、今ですよ!あらよっとヴォータンがヒキガエルを踏んづけて隠れ頭巾を引っぱがします。畜生、何しやがる!ローゲがアルベリヒの手足を縛り上げます。これでよし、さぁて、上の世界へ帰るとしますか。ジタバタするアルベリヒを抱えてヴォータンとローゲは天を目指して昇って行きます。
アルベリヒの暴力の下、奴隷労働に駆り出されるニーベルング族、カンカンと耳障りな騒音を上げる鉄槌、火を噴く溶鉱炉、巻き上がる粉塵、むせ返る汚れた空気、ラインの優しい水の底で、たおやかな乙女たちに守られてひっそりと眠っていた黄金は、今や、自然を簒奪することしかアタマにない欲惚け資本家と化したアルベリヒの指に収まっています。黄金は「自然の賜物」から「資本」に変貌を遂げました。
そのアルベリヒは弟ミーメを殴りつけ、姿を消せる道具を手に入れ、見えない姿で見えない鞭を振るっています。見事な資本家ぶりです。こき使われる小人たちには彼らに労働を強いる者が見えない、彼らは見えない鞭に追い立てられて一生懸命働きますが、その労働は、彼らには見えない「資本家」アルベリヒをさらに富ませ、さらに強大にし、彼らの足かせをさらに強固にするだけ。富は富める者をさらに富ませ、持たない者をさらに欠乏に追い込む、大地から奪われるや、たちまちアルベリヒの元に積み上げられる黄金、誰かがアルベリヒを止めないことには、自然は奪い尽くされ、煤にまみれて息絶えてしまいます。
その救い主として登場したはずのヴォータンですが、神々の長はここであっさりと強盗に変身してしまいます。城(権力)とフライア(愛)の等価交換を自ら申し出て、その約束を反故にした時点で、ヴォータンは二者択一を避けようとして、自らが作り自らが守ってきた「契約」から逃れようとする「道義上の逃亡者」となり果てました。
こんな薄汚いちっこい暴君から絶対的権力を奪うことは正義ではないか、ヴォータンはそうこじつけたがっています。しかし、ヴォータンのここでの正義は自分の契約違反の尻ぬぐい、「奪う」という行為自体がルーン文字に刻まれた彼自身の契約を否定してしまうのです。そんなヴォータンのジレンマを和らげてくれるもの、それはアルベリヒの醜い有り様、ローゲはそれをことさら強調して見せます。ローゲは静かに、しかし確実にヴォータンを変えていきます。半分神で半分人間の彼は、ヴォータンの契約の神聖さの裏にあっさりと抜け道を見つけてしまいます。厳格な立法者であるヴォータンは、愛という移ろいやすい情熱を信じる男でもあります。愛を捨てたアルベリヒが醜ければ醜いだけ、ヴォータンは自己を正当化できる、ヒキガエルなんてうってつけじゃないかい?
しかし、アルベリヒは指環を手にするために「愛の断念」という正当な代償を払った正しい契約者でもあります。ヴォータンはその指環を巻き上げるに当たって何を支払った?ヒキガエルを踏んづけただけです。これなら私にだってできます。
しかし、指環、この指環に本当に世界を支配する力が宿っているのでしょうか?何しろその製作者にして所有者であるアルベリヒがあっさりと裏切られてしまうのです。調子に乗ってヒキガエルに変身して踏んづけられる絶対権力者、隠れていなければ安心できない絶対権力者・・・なんてありですか?
アルベリヒがしたことと言えば、指環の力を使って黄金を掘り起こしたことだけ、ラインの黄金がアルベリヒを、さらに彼を通じてニーベルング族をこき使って、ひたすら自己増殖を重ねているだけ、そして、この自己増殖こそが資本の唯一の目的です。絶対的な権力はアルベリヒではなく指環にあるのです。
その指環はなぜアルベリヒを裏切った?アルベリヒが愛を断念できなかったから?では、なぜ彼に指環を手にすることができた?それとも、そもそも「愛を断念云々」がガセネタだったのか?
愛を断念したつもりになって、絶対的権力を手にしたつもりになっていただけのアルベリヒ、実のところ何の力も持っていない「光る石」に恐れおののくミーメたち、持ち主に無限の力を与えるはずの指環を、その持ち主から奪うことができる自分、この間抜けな論理破綻に疑問を持たないヴォータン、指環は財宝の山と無限の権力をちらつかせて全ての者を魅了し、実は何一つ与えず奪うだけの存在ではないのか?
第二場から第三場の転換で登場した下降する旋律が、第三場から第四場の転換では上昇の旋律に姿を変えて登場します。しかし、その上昇の重苦しさ、軽やかに下降してきたヴォータンとローゲは、喘ぎつつ上昇していきます。それは指環の重さです。
第四場 神々の山から黄金は去る
冷たい霧に覆われた神々の山の頂、アルベリヒを引っ立ててヴォータンとローゲが岩の裂け目から登場。卑怯者!泥棒、詐欺師!俺を放せ!でないとただじゃおかないぞ!うるさい小人め、縛られていて何ができる?自由になりたければ身代金を払え!
何が欲しいか言ってみろ!勿論、あの宝の山と黄金だ。畜生、ヴォータンの強突張りめ、でも、宝なんぞいくらくれてやったところで、指環さえあればいくらでも手に入る、そうとも・・・、よし、宝をくれてやるぞ!ローゲがアルベリヒの右手の縄をほどくと地の底からニーベルングたちが財宝を担いで登場、ヴォータンの目の前にはあっという間に財宝の山が。おっと、これは身代金の一部だ、ローゲは隠れ頭巾を宝の山の上に放り投げます。
畜生、泥棒ども!でも、隠れ頭巾なんぞくれてやったところで、指環さえあればミーメにまた作らせりゃいい、そうとも・・・、よし、一切合切くれてやるぞ!
ヴォータン、これでよろしいですか?ローゲよ、ちょっと待て。おい、小人、お前の指に光っているその指環、それも置いていけ。指環?そうとも!これだけは渡さない、手よりも頭よりも目よりも耳よりも、ずっと俺のもんだ!
俺のもの?盗人猛々しい!お前はその指輪となった黄金をラインの乙女から奪った、どこが「俺のもん」だ?
そっちこそ泥棒のくせしやがって!バカにされながらこの俺が手に入れた、怒りに震えながらこの俺が鍛えた、それをお前に?気を付けろ、神々の長、俺から指環を奪えばお前は罪に堕ちる!
指環を寄こせ!ヴォータンはアルベリヒの指から指環を抜き取ります。
もう用済みだ、とっとと失せろ!ローゲがアルベリヒを追い立てます。最期に挨拶してやろう、小人の顔に不敵な笑みが浮かびます。今やその指環は持ち主に死をもたらす、それを持つ者は心痛に苛まれ、持たない者は嫉妬に焦がれる、そうとも、指環の主は指環の奴隷となり果て、そして死ぬのさ!せいぜい大事にするがいい!
やれやれ、何て毒舌だ。言わせておけ、ローゲよ、指環に見とれるヴォータンはアルベリヒの捨て台詞など気にもならないようす。
ファーゾルトとファーフナーがフライアを連れて登場、次いでドンナー、フロー、そしてフリッカも。支払の当てはできたの?ご安心を、代金はあそこに、ローゲが指さす先の財宝の山に一同、ほっ。
さぁ、財宝ならいくらでもあるぞ、いくら欲しい?とヴォータン。こんなきれいな女房を諦めるからには、もうその姿が二度と俺の目に見えないように黄金で隠して貰いたい、それを支払としよう、フライアに未練たっぷりのファーゾルト。
フライアの前に黄金が積み上げられます。おい、もっときっちりと積めよ!とファーフナー、うるさい、口出しするな!とローゲ。妹をこんな目に遭わせて、あなたはひどい人よ!夫を詰るフリッカ、厚かましい野郎ども、俺の槌でどやしちまえば簡単なんだとドンナー、おい、雷の神よ、耳元で怒鳴るなとフロー。
さぁ、フライアがすっかり隠れた、ちょっと待った、まだ髪の毛が見える、そこにその頭巾を乗せろとファーフナー、いいとも、くれてやれとヴォータン。まだあの輝く瞳が見える、愛しいフライア・・・、ファーゾルトの嘆き、すかさず弟ファーフナーは、ヴォータン、その指環でフライアの瞳を隠せ。えっ、この指環?
ちょっと待った、その指環はラインの乙女のもの、ヴォータンが彼女達に返すもの、とローゲ。返すだと?私は返さない!とヴォータン。それじゃ約束は?約束したのはお前だ、ローゲ、私は知らん、指環は私のものだ!
その「私のもの」を俺らに寄こせ、巨人兄弟が迫りますが、ヴォータンは頑として聞き入れません。それじゃフライアは頂いて・・・。
突然まばゆい光が走り、大地の女神エルダが登場します。ヴォータン、その指環を手にすればお前は滅びる、私には過去も未来も見える、世界の始まりから運命を見てきた、だから聞きなさい!滅びの日が近い、暗闇が迫る、その指環を捨てよ!
待て、エルダ、聞きたいことが・・・消えてしまった・・・、良かろう、フライア、こっちにおいで、さぁ巨人ども、指環をくれてやるぞ!
せっせと財宝を袋に詰めるファーフナー、兄貴はお宝よりフライアが良かったんだろ、だったらお宝は俺が頂くぜ。バカを言え!神々よ、公平に分けてくれ!ファーゾルト、あんなものはくれてやれ、お前は指環だけ持てばいいとローゲの入れ知恵。よし、こら、フライアの瞳の代わりだ、指輪を寄こせ!何しやがる、放せって!俺んだ!
ファーフナーの棍棒の一撃でファーゾルトは死んでしまいます。この指環は俺のものだ!一切合切をかき集めるファーフナー、その姿に神々は呆然。これが呪いか・・・。不安が心を締め付ける・・・、愁いに沈むヴォータンにフリッカが寄り添います。ご覧なさい、あの城は今や主を待っております!あの城は不吉だ、ヴォータンの不安にドンナーが答えます、それなら、この雷の神が清めて差し上げよう、雲よ、霧よ、ドンナーに応えよ!激しい雷雨が辺り一面を洗い流します。フロー、出番だ!嵐の去った空にフローが虹をかけます。神々よ、虹の橋を渡って、いざ、あの城へ。
真っ青な空に浮かび上がる巨大なヴァルハラ城、何という壮大な光景・・・、良かろう、不安や恐怖はこの城に相応しくない、妻よ、いざ、ヴァルハラへ、恐怖を克服した勇者の城へ!ヴォータン、フリッカに、フロー、フライア、そしてドンナーが従います。
終わりが始まった、彼らはそれを知らぬ、何とも浅ましい神々ではないか、さて、私はどうする?共に滅びるわけにはいかぬ・・・ローゲの思案顔。
深い谷の底からラインの乙女たちの嘆きが聞こえます、ラインの黄金、返して、純なる黄金を返して!あれは?ヴォータンが足を止めます。ラインの乙女たちが黄金を奪われて嘆いているのですとローゲ。うるさい女どもだ、ローゲよ、黙らせろ!
水の精よ、諦めろ、黄金が再びお前たちを照らすことはない。
ラインの黄金、純なる黄金、水の底に戻っておいで、そっちの世界には虚偽と裏切りしかないのだから・・・。
愛を断念して手に入れた全てを一瞬にして奪われるアルベリヒ、彼の凄まじい悪態に「正義」で対峙しようとするヴォータンですが、彼も既に指環に心を奪われています。アルベリヒがヴォータンの足下の地下深くで確立させた資本主義、それは、既に十分に富んでいる者(アルベリヒ)が、なお貧しい者(ニーベルング族たち)を搾取し、母なる大地を傷つけることで永遠にその富を増殖させていく世界です。
アルベリヒはあれほど恋い焦がれたその指環を呪います。自分から奪われるのならその持ち主を殺せ!しかし、指環は既にアルベリヒ如きに呪われるような存在ではありません。誰にも指環を呪うことはできません、なぜなら指環は、神々さえ魅了する姿となって、自らが世界を呪う存在となったからです。
ローゲは指環の存在を誰よりも早く知り、それを奪う算段までしておいて、自らは指環を欲しません。ローゲは知っています、指環は、己を黄金から指環に鍛えたことで既に用済みのアルベリヒを裏切ったこと、次の持ち主としてヴォータンを誘惑していることを。しかし、半分神である彼は神々が指環の前に屈することを恐れ、半分人間である彼は神々の力が無限となることを恐れ、そして、半分神である彼は神々の神聖な契約の及ばない世界の成立を嫌い、半分人間である彼は神々の世界の終焉をどこかで待ち望んでいます。
ローゲは、権力ではなくフライアの瞳としての指環に焦がれた無骨なファーゾルトに唯一、神々よりも神聖な愛を認め、彼に指環を託すことで黄金を再び眠りに就かせたかったのかも知れません。
ヴォータンは片目です。神々は実は世界の半分しか見えていなかった、その世界の半分はヴォータンが片目を担保に手に入れた「契約」の世界、与え、与えられる世界ですが、神々には見えなかった世界の半分はそもそもが指環のものだったのです。それは与えられ、しかし、与えることは拒み、奪い、しかし奪われることは拒む、ただひたすら黄金の自己増殖のためにあらゆる生き物が奉仕させられる世界、そんな世界が今立ち上がったのです。そして、指環はそれ自身が自己増殖を運命づけられた黄金であるが故に、当然にもう半分のヴォータンの世界にも手を伸ばしているのです。
指環に囚われたヴォータンの前に、豊穣の大地の声を伝えるエルダが登場します。あらゆるものが滅びに瀕している、指環を捨てなさい!大地は未だ涸れてはいません。ありとあらゆる生命を産みだしたエルダは、小人から巨人、人間、そして神々まで、常に変化し上昇しようとする生命の力のために、黄金しか産まない指環を否定します。そのエルダの声がヴォータンの心を権力から愛へ引き戻します。
ヴォータンの片目に映る世界の不完全さは、ファーゾルトとファーフナーの争いの場面で明らかです。未だに愛を求めているファーゾルトは古の通り神々の長ヴォータンに裁定を求めますが、今や愛も神も知ったことかの新しい指環の持ち主ファーフナーは躊躇いもなく殺人を犯します。今、ヴォータンは指環のものである世界の半分(ファーフナー)が彼の支配する世界の半分(ファーゾルト)を否定し、抹殺した瞬間を見たのです。
ローゲの痛烈な皮肉、「水の乙女たちよ、神々の新しき光のもとに暮らせ」、彼はその神々が一度は黄金に屈したことを知っています。既に黄金の前に神の世界の輝きは失われ始め、神たる彼はそれを憂い、人間たる彼はそれを喜んでいます。
神々の山の頂で指環は初めて血の味を知りました、神々さえ自分の前には心が揺らぐことを知りました、自分には兄弟間の殺人さえ引き起こす力があることを知りました。
そして、愛の否定によって生まれた指環は、今、神々の手を放れ、欲望が支配するそれ本来の王国を求めて山の頂から下りていきます。
神々は壮大なヴァルハラの偉容に見とれ、誰も指環を振り返りません、誰もファーゾルトの死を悼みません。そして、指環は探しています、己を限りなく増殖させてくれるどん欲な生き物を。
ヴォータンの片目は見ることになります、指環に属する世界の半分の有り様を。そして、神々の世界と指環の世界がやがて対立するであろうその時に、神々の世界を救う役目を託された一振りの剣を、それを握る若者の逞しい腕を、愛ゆえに流される涙と欲望ゆえに流される血を。
世界の揺りかごの歌
四夜に渡って上演される「ニーベルングの指環」、この「ラインの黄金」は「序夜」と呼ばれ、「第一夜」の名は次の「ヴァルキューレ」に譲られています。つまり、本題の前説ってことですね。音楽的にもドラマ的にも一番地味、四夜の中では一番人気がないように思います。
この「序夜」の役目、それは最初の「前奏曲」と最後の「剣の動機」を繋ぐことです。
コントラバスの低い響きで始まる前奏曲を、ワーグナーは「世界の揺りかごの歌」と呼びました。世界の「原始のスープ」であるエルダの子宮の羊水の揺らめき、そこで育まれることの温もりと、そこから外へ出ることの不安と高ぶりを、この短い前奏曲は的確に描き出しています。生まれたいですか?って聞かれて生まれてくる生命はありません。できればずっとママの胎内にいたかったのかも知れませんし、早いとこ外に出たかったのかも知れませんし、しかし、一度生まれた以上、生命は本能のままに高みを目指します。その頂点に立つ者、それが実は神々ではないってところが、この作品の「大トロ」です。
ヴォータンの支配する世界は、彼が片目であることから分かる通り、不完全なものでしかありませんでした。その不完全さは指環の登場によって明らかになります。愛を欲しながら愛を捨て、指環を手にしながら指環に裏切られるアルベリヒ、働き者だけど愚かしく強欲なファーゾルトとファーフナー、そして、世界で一番高い場所に君臨しながら地の底の指環に翻弄される神々・・・。この序夜で明らかにされるのは、ラインの黄金の目覚めと共に世界のありようが暴露され、その世界を支配できる者が舞台の上にはいないという現実、そして、これがこれから先の物語の前提です。
登場人物たちの「仮装」を剥ぎ取ってみれば、この作品、実に見慣れた世界です。
写真でしか見たことがなく、一度も口を利いたこともない社長さん、大株主は顔さえ持たない外国の機関投資家、管理職、社員、下請け、孫請けに至るまで、みんな見えない社長さんの一言で一生懸命働いて、金を生み出します。その金はどこやら分からないところに吸い込まれ、誰やら分からない人間を富ませていきます。
愛によって結ばれた関係も金に置き換えられてしまいます。保険会社はあなたの愛する伴侶を金銭に換算して値札を付け、住宅ローンの残高と伴侶の命が天秤にかけられます。そのための保険料は、二人で囲む食卓あるいは二人で過ごす時間を犠牲にして支払われます。喪失することへの不安が持っていることの幸福を凌いでしまう、これが指環の支配する世界の半分です。
しかし、あとの世界の半分はヴォータンのものです。愛する伴侶を手に入れるために己の片目を差し出した男が、大地の訴えに心を揺すぶられる男が、残された片目で見つめている世界です。愛する者のために自分の命を躊躇いもなく差し出し、富が決して与えてはくれない価値を知っている者の世界です。
そう、この二つに分裂した世界がリアルタイムの私たちの「世界」です。
この二つの世界、お互いに相手の存在を知りつつずっと並立してきた世界は今、とうとう対立する時を迎えてしまったようです。よって、ここから先の物語は、私たちにとっても未知の物語となります。二つに分かれている世界がどちらか知らないけど一つになろうとしています、あるいは両方が無惨に砕け散るのかも知れません。そんな現場に、私たちは立ち会うこととなります、望もうが、望むまいが・・・。
ファンタジックな登場人物たちの姿を借りて、ワーグナーは「今ある世界」の二面性を暴き出します。美しい姿と声で水の底の黄金を守っていたラインの乙女たちは、実は無力にして無慈悲であり、好色で強欲な小人は、愛と権力の両方から裏切られ、勤勉だけが取り柄だった愚かな巨人は、勤勉を嘲笑う無限の富の前にあっさりと屈し、そして不完全な世界を不完全なままに我がモノにしてきた神々には、世界の綻びをどうすることもできません。
ヴォータンの世界は指環によって無惨に奪われ、それを自分の手で取り戻すことがヴォータンには許されません。なぜなら肝心の指環を手にすることが、「今ある世界」の契約に縛られた彼にはできないからです。
神々は壮大なヴァルハラを前にそんなことはなかったことにしようとしていますが、神々は指環と妥協してしまいました、愛は権力に束の間の停戦を乞いました、豊穣は富によって測られるという屈辱に甘んじました、神聖な契約は指環の前に一時ではあっても打ち捨てられました。「今ある世界」は「終わりの始まり」を迎えました。
ローゲだけがその現実を知っています。彼の身体の半分がざわめきます。指環の主である小人を陥れ、指環に屈した巨人を殺人に駆り立て、神々を嘲笑うローゲ、そう、「次の世界」は、権力のために愛を捨てず、富の前に膝を屈せず、契約の前に意志を貫き、富では購えない豊穣を知る者でなければなりません。そんな者が存在するのか?
「剣の動機」がその存在を告げます。権力も愛も乗り越えてさらに高く登ろうとする存在、大地の息吹を己の体内に宿し、雲の上からあれこれ指図する不完全な支配に従うのではなく、自らの善によって、自らの責任によって、過去を切り裂き、より良い未来をたぐり寄せようとする者が存在することを。
ヴォータンは「今ある世界」を指環ではなく「そんな者」に引き渡すために、最後の勝負に出なければなりません、そして、今度こそ二者択一から逃れることなく選ばなければなりません、選ぶ以外にないのです、たとえその選択が彼自身の世界の終わりを導くとしても。
お薦め録音です。この作品は音楽的には地味ですが、ドラマ的にはここから三夜、見る人間、聴く人間を惹きつけなければなりません。表現力が要求されます。
ヴォータン、権力にも愛にも等しく強く、そして弱い、矛盾に満ちた神々の長、ハンス・ホッター(1956、57、58年バイロイト祝祭劇場、指揮はいずれもクナッパーツブッシュ)、野心満々でありながら気品高く、冷徹でありながらどこか哀しい、頂点にある強さとここから先は下るしかない弱さ、両方を存分に聴かせてくれます。テオ・アダム(1966年バイロイト祝祭劇場、指揮はベーム)、明るめの声が艶っぽく頼もしい。
小さく醜い身体で神々を脅かすアルベリヒ、悪役歌手のグスタフ・ナイトリンガー(バイロイトのクナ、ベーム盤、1968年のマゼール盤)がイチオシ、エッケハルト・ヴラシバ(1990年メトロポリタン、指揮はレヴァイン)はいささかハリウッド式でやりすぎの感も。
指環を巡る闘争の表向きはギャラリー、実は影のプロデューサーであるローゲ、ペーター・シュライアー(1978年ベルリン・フィル、指揮はカラヤン)が実に上手いです(演出も兼ねたカラヤンですが、絵的にはちょっと・・・)。
ファーゾルトとファーフナー兄弟、キャラが対照的ですので、同じようなバスだとちょっと悲しい、でも同じように聞こえてしまう録音が多い・・・。1956年のクナ盤のグラインドルとヴァン・ミルははっきりと性格の描き分けができていると思います。
映像ではメトのレヴァイン盤が一番オーソドックス、お金かけてます。ヴォータンのモリスが、コテコテのファンタジーの舞台でなぜか悲しいおとっつぁんって感じのリアリズムがあって楽しい出来です。
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