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Leafプッチーニ  「トゥーランドット」 (2000年1月20日〜2000年1月26日の日記より)


バカをやるなら若いうち

 おバカ男の宝庫、プッチーニの作品の中でも、「な〜んも考えていない」と言えば、「トゥーランドット」のカラフでしょう。

 昔々、広い広い中国のどっかの国に、それはそれは美しい姫がおりました。その名をトゥーランドット。この姫、列をなす求婚者に3つの謎を出し、全問正解だと結婚して下さるのだそうですが、一つでも間違えると首をちょん切るという冷酷美女。姫の勝率は今まで10割、パーフェクト、切られた首は無数という有様。物見高い群衆の中には、タタールの王子カラフもおります。流転雌伏の時というのに、こんなところで野次馬やっているんですね。そこでバッタリと父王ティムールと再会。盲目の父王の手を引くのは可憐な娘リュウ。目下のところ親子共々国を追われていますから、王子とはいってもカラフは住所不定無職です。そこに姫の登場。遙か彼方に小さくリカちゃん人形サイズにしか見えない(だって中国ですよ、あの天安門広場を想像して下さい)姫ですが、カラフはたちまち熱烈恋愛。なんと美しい・・・(って、いくら美人でも首をちょん切るのが趣味の女でっせ?)。やっと再会を果たした父も、「王子様は宮殿である日私に微笑んで下さった」って理由だけで父についてきた何ともいじらしいリュウもほったらかしにして、カラフは謎に挑むと宣言します。臥薪嘗胆、一日千秋、捲土重来、そんなこんながテンコ盛りの王国奪還を目指す身の上も、あっ、すっげぇ美人!で忘れてしまったらしい。な〜んも考えていないんです。宮廷に仕えるピン、ポン、パンのお笑いトリオ(この3人はただのお笑いではありません。その言葉は実に鋭い。人間の本性も見抜いています。シェイクスピア劇に登場する道化と同じ、「賢い愚者」なのです)の止めるのも聞かず、リュウの「お聞き下さい、王子様」も聞かず、老いた父の願いも聞かず、もう姫に向かって突進します。「泣くな、リュウ」、父を頼む、ってあまりにも無責任。やっと再会した息子からこの言葉を聞いた時の父王ティムールの心中は、察して余りありますね。

 姫の男嫌いというか冷酷さは、先祖の姫様の恨みらしいのですが(「この宮殿の中で」)、もう脳味噌がピンク色に染まったカラフは、命を賭けて謎に挑みます。簡単に命を賭けるというのは若さの特権ですね。命の残りが少なくなるにつれ、人間そんな大それたことはできなくなるものです。3つの謎の答えは「希望」「血汐」「トゥーランドット」。全問正解のカラフに対して今度は姫がゴネます。カラフといい、姫といい、全く親はどんな躾をしてきたんだと思いますね。片や簡単に命を賭けて、親を泣かせるバカ男、片や自分で言い出しておいて、負けた途端にイヤじゃと言い出す自己チュウ女・・・困ったもんです。ゴネる姫に今度は逆にカラフが謎を出します。「夜明けまでに私の名を当ててみよ!」

 町中に今夜は誰も寝てはならぬとお触れが出ます。誰にも分かりっこないって、と自信満々のカラフは、夜明けとともに姫にキスするぞとワクワク(「誰も寝てはならぬ」)しています。そこに、ピン、ポン、パンが登場。何でもやるから、どっかへ行ってくれ、我乞君即刻退去。名前を知るためには、姫はどんな酷いことだってやるんです。この場合、どうしたってピンポンパン組が正しい。カラフの恋は多くの人を死に追いやるわけですから。なのにカラフは、「たとえ世界が崩れても姫が欲しい!」・・・自分のことしか考えられないようです。こんなのが王座に就いた日には、タタールの人たちも悲劇ですね。帝王学というのが全く身についていない。いえ、王様じゃなくても誰だって、自分の恋のために他人を死なせる権利なんてありません。

 そこに父とリュウが連行されてきます。カラフと一緒のところを見られてしまったんですね。父王を庇うリュウは拷問されながらも、咲かないうちに萎れてしまったカラフへの想いを押し包み、必死の自己犠牲を切なく訴えます(「氷のような姫の心も」)。ここまでされて、まだ自分から名乗らないカラフって何なの?リュウはカラフの名を言わないために自分から命を絶ちます。茫然自失の父王は、動かないリュウの手をとって、「また一緒に歩こう」と亡骸と一緒に去っていきます。もうバカ息子に愛想が尽きたように見えますね。カラフはというと、「この清らかな血汐はあなたのために流された」と姫に迫ります。私はおまえのせいだと言いたいのですが、何しろ「な〜んも考えていない」ので、自分のことは棚のうんと上の方らしいです。カラフが姫を抱きしめると、姫はなぜか人格が裏返ってしまい、涙を流します。ここでカラフは名乗りを上げます(だったら、リュウが死ぬ前に言わんかい!)。賭けに勝った姫の口から出たその名は、「愛」・・・


 カラフのおバカぶりに呆れますね。でも彼は若いんでしょう。若いうちに出来るだけバカやっておく方がいいです。若いうちのバカはその後の人生の糧になります(稀にならないこともありますが)。30歳過ぎてバカやるのは真性バカですから、これはもう手遅れですが。姫はというと、これはもうエイリアンとしかいいようがありません。「未知との遭遇」のエイリアンとは、音を通してコミュニケーションがとれましたが、この姫には全く話が通じませんから、あれ以上ですね。そして、なんて可哀想なリュウ・・・、年老いてから息子に失望させられる哀れなティムール、辛辣にして楽しいピンポンパンの3人組、娘を制御できないという情けないアルトゥム(それでもあんた皇帝か?)。

 若さに任せてバカ街道を暴走するカラフとエイリアン・プリンセスのトゥーランドット、何ともものすごい組み合わせの恋物語のこのオペラ、これがどうしてだか、本当に美しくて、切ないんです。なんで?というわけで、続きは次回に。


記号で描かれた愛の賛歌

 「トゥーランドット」はプッチーニの最後の作品です。彼は完成させることができずに、リュウの死の場面を書き上げたところで奇しくも彼自身も死を迎えました。「マノン・レスコー」で始まり、「ラ・ボエーム」、「トスカ」とどんどん音を刈り込んでいったプッチーニ(「マノン」にはいささかの過剰感がありますが、「トスカ」には贅肉をそぎ落としたきりきりした緊張感があります)は、その後短い3部作(「外套」「ジャンニ・スキッキ」「修道女アンジェリーカ」)を経て、この「トゥーランドット」で彼なりの新しい地平線を開こうとしていたように思えます。

 この作品は寓話です。寓話というのは、抽象的な真実を具体物の形を借りて映すものですから、ストーリーは単純で人物にも矛盾や二面性がありません。登場人物は何かを表す一種の記号と化します。氷の姫君トゥーランドットは冷酷非情から一瞬にして愛に目覚めますが、どちらの時も一つの性格しか持ちません。極端から極端に一気にワープします。カラフはひたすら愛を求める若者の一途さのみを体現し、王国を追われた苦悩や目の前に突きつけられた死の不安から全く自由です。あの脳天気な「ラ・ボエーム」のロドルフォや「蝶々夫人」のピンカートンにだって苦悩はあったのに、です。リュウにあるのは自己犠牲のみ、他のプッチーニ・ヒロインに見られるような楽しげな若さ(あの可哀想なミミだって夜のカルティエ・ラタンではしゃいで見せました)もありません。彼女がその強さを発揮するのは身を挺してカラフを守ることだけです(トスカだったら、トゥーランドットを刺してカラフの首根っこを押さえていたのではないかと思います。トゥーランドット対トスカ、こっ、怖い・・・)。

 彼らがそれぞれ拒絶、愛、犠牲という概念を表現する記号であるのに対し、矛盾を孕んだリアルな人間として登場するのが、ピン、ポン、パンです。彼らには相反する二つの側面があり、それ故に悩みがあります。こんなことしたくないのにやらなくちゃならない、本当はイヤなのにそれが言えない、という現実の人間としての本音と建て前が、コミカルな旋律に合わせての愚痴あり、故郷への郷愁ありで歌われます。


 トゥーランドット、カラフ、そしてリュウの声は絡み合うことがありません。拒絶の記号であるトゥーランドットの重たく強い声、愛の記号であるカラフの(プッチーニにしては珍しい)ヒロイックな高音、犠牲の記号であるリュウの優しく寂しい響き、これらはあくまでも平行線を保ちます。彼らが二面性を持たない以上、これは正しいと思います。これに対して、ピン、ポン、パンの声は絡み合い、もつれ合い、何とも賑やかです。プッチーニは概念としての主人公たちと現実の人間としてのピン、ポン、パンの性格を見事に音楽で描き分けているのです。そして、山場で重要な役割を果たすのはスケールの大きな合唱です。古今東西によく見られる謎かけ姫のおとぎ話が、単なるおとぎ話の域を突き抜けて「愛の勝利」という一つの明確な理想を描き出すことに成功したのは、要所要所で記号である主人公たちのシンプルな主張を大きく包み込みながらうねりをもたらす合唱の力でしょう。

 愛はオペラの大きな、そして第一のテーマです。ヴェルディの愛が、単なる男女の愛を超えて大きな世界観を持ったものに発展していったのに対し、プッチーニは、甘く華麗な「プッチーニ節」を駆使した市井の男と女の愛を描き続けました。「愛している」という言葉の対象が、ヴェルディの場合は時には国家や民族にまで広がりを見せ、美しいはずの愛が醜く歪む様を描いても見せ、また時には愛をきっぱりと排除して見せたのに対して、プッチーニの「愛している」は常に目の前にいる男あるいは女の耳に直接甘く囁かれるものでした。言ってみれば体温を持った甘い愛、その表現の達人であったプッチーニが、その愛を一つの概念として抽象化することで最高の高さにまで持ち上げようとしたのが、このトゥーランドットではないでしょうか。彼は間違いなく新しい領域に足を踏み入れていたのです。この後の新生プッチーニの作品を聴くことができたなら、そこにはどれほど豊かな愛があったのかしら、と思います。


 この作品、非常にポピュラーな割には決定打が出にくいように思います。何しろトゥーランドットにはヘビー級の声を要しますし、冷酷非情から愛に全身を委ねる女へ劇的な表現の変化が要求されます。カラフはリリカルな中にも力強い高音と英雄的な響きを要します。どちらも難しい役です。姫様はビルギット・ニルソンが当たりでしょうか。エヴァ・マルトン、ゲーナ・ディミトローヴァも迫力満点のパワフルな姫様です。モンセラト・カバリエはその非常に美しい声がかえって足かせになっているような気がします。カラフは、プラシド・ドミンゴでは高音がもの足りませんし、ホセ・カレーラスでは彼独特の「泣き」が弱さになってしまいます。ルチアーノ・パヴァロッティはスコンと抜けるような明るい高音が役に合いません(三大テノール全滅ですね)。少し古い録音ですが、フランコ・コレッリが一番でしょうか。ニコラ・マルティヌッチも地味ですが魅力的、姫様に押されっぱなしというのが逆に現代的な感じがします。

 こぼれ話を一つ、カラフが王子様をやっていたタタールですが、この言葉はモンゴル系遊牧民の総称です。最初にタタール人国家という名で呼ばれた国は8世紀前半の突厥(とっくつ)です。唐の時代になると韃靼(だったん)が登場します。やがて12世紀末に現れたモンゴルは東ヨーロッパまで進出しますが、この連中が何ともおっかなかったために、ヨーロッパの人たちは彼らの呼び名タタールとギリシア語のタルタロス(地獄)を合成してモンゴルをタルタルと呼びました。タルタルステーキ、タルタルソースのタルタルです。なんかみじん切り関係の響きです。よっぽど怖かったのでしょう。彼らタタールの先祖は紀元前3世紀の匈奴
、この末裔がヨーロッパに侵攻したフン族です。このフン族はライン川のほとりヴォルムスでゲルマンのブルグント王を倒しましたが、この故事が「ニーベルンゲンの歌」として伝えられました。そう、ワーグナーの「ジークフリート」のモデルはこのブルグント王なんです。ジークフリートを倒したのは、カラフのご先祖様だったんですね。地球は丸い・・・。



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